位置について、用意
走り方を忘れた。
歩き方を忘れた。
立ち方を忘れた。
昨日の夜何食べたかを忘れた。
大学で誰と話していたかを忘れた。
屋上を吹き抜ける風の冷たさを忘れた。
陸上競技場のトラックの蹴り心地を忘れた。
姉の背中の温かさを忘れた。
生まれて初めて目にしたものを忘れた。
今、掌に在るものは、此処に在るべきものなのだろうか。
大切にしたかったものは、全てこの中にあるのだろうか。
足りない。
何が足りないかはわからない。思い出せない。
けれども、満たされていないことはわかる。
同時に、それらが二度と取り戻せるものではないこともわかる。
なぜ君を愛していて、なぜ君が大切で、なぜ君を守りたくて、なぜ君の側にいたいのか。
そんな理由は僕の心にはとっくにない。
穴だらけの花瓶のように、注がれていく記憶は手当り次第穴から吹き出してどこかへ消えてしまう。
底の方を濡らしているものが何なのか、それは僕にもわからない。
特に理由のない涙だろうか。
忘れたくない。
忘れたくないものがたくさんある。
たくさん、たくさん、たくさん、たくさん。
それでも、いつかは、消える。
この夜の刹那的な絶望なんて、夢の扉を開けばひと晩で忘れてしまう。
孤独は底知れぬほど深く暗く恐ろしく、そしてほんのり温かい。
寂しくて、寂しくて、寂しくて、そして安心するのだ。
冷え切った肌が人の肌で火傷を負うこともなく、
飲み込んだ言葉でお腹が満たされて、
目を覚まして泣き出した僕は、少しの間宙を見つめてから、また深い眠りへと落ちていくのだ。