幸か不幸か
「起きてください。起きてください」
ベッドの掛け布団の上から、声の主は僕の肩を揺する。
振動と声に促され、渋々ながら僕は瞼を開いた。
「やっと目覚められましたか」
聞き覚えのない女性の声が、ベッドの傍らで聞こえる。
だが辺りは暗くて何も見えない。
とりあえず私は上半身を起こして、無造作に頭を掻く。
カーテンの隙間からは、明かりは漏れていない。
一体今は何時だ。
夜も明けぬ時間に病人を起こすとは、非常識な看護婦もいたものだ。
「そろそろお話させて頂いてもよろしいでしょうか」
声の調子に申し訳ないといった感情は含まれていない。
失礼な看護婦だと胸中に思った。まだ頭がぼうっとする。
私が口を閉ざして黙っていると、彼女は急かすように二度、三度同じ質問を繰り返す。
どうやら彼女はさっさと話に移りたいらしい。
でも話すより前に、部屋の電気くらい付けたらどうだ。
この病室は個室。
他の患者の迷惑になる事もない。
あなただって、夜中に病室に忍び込んで、わざわざ乳繰り合いに来たわけではないのだろう。
「その前に入口の側にある蛍光灯のスイッチを入れて頂けませんか」
「これは、申し訳ございません」
すぐさま看護婦はぱちんと指を鳴らす。
すると暗闇を室内から追い出す様に、蛍光灯の電灯が燈る。
「どうもまだ現世の習慣には疎い者で。申し訳ありません」
照れたように微笑む頭蓋骨。
「それではこれから私の仕事を説明させて頂きますね」
これは随分と手の込んだ夢だ。
なんせ目の前にいる彼女は、漆黒のローブを纏った人体骨格。
背には仰々しい大鎌。
可愛らしい声とは裏腹に、禍々(まがまが)しい佇まいである。
「初めはみなさん同じ顔をされるんですよ」
見慣れた光景だとでも言うように、死神は明朗に話す。
「それじゃあ、まずこの書類に目を通して頂いてよろしいですか」
死神は何もない空間から、A4の書類を一枚とボールペンを取り出す。
ボールペンには愛らしい死神のストラップが付いている。
「ちょっと待ってくれ、事態が呑み込めない」
「はて、それはどういう意味でしょう」
死神は困惑した声音で聞き返す。
「これは夢じゃないのか」
「はい」
「それでは私は死んだのか」
「いえ、まだ死んでおりません。これから死んで頂くのです」
これから死んで頂く? つまり、まだ余命は残されているという事か。
「私はまだ死にたくはないのだが……」
「それは困りましたねぇ。あなたの余命は後一か月ほど残っているのですが、これ以上生きていても、誰の人生にも影響を与えないのです」
「そうなのか」
事実そうかもしれないが、はっきりと言わないで欲しい。
「はい。ですから残りの寿命を売ってしまった方が、地獄での刑期を一万年ほど短縮できるのです。いかがなさいますか」
しばしの間考える。
後一ケ月待てば満開の桜を肴に格別に美味い酒が飲める。
しかし一万年の刑期短縮も魅力的である。
「ちなみに地獄で桜は見られるのか」
「もちろん見られます。更に今なら、楊貴妃顔負けの美女との酒の席もご用意いたします」
「本当か」
「はい。死神特権様々です。ではこちらにサインを」
私は期待に胸を膨らませ、ろくに内容も読まずに署名の欄に名前を記入した。
「契約成立です」
死神は大鎌を私に振り下ろした。
魂が身体から分離し、導かれるように光に吸い込まれていく。
気が付いた時には、長蛇の列に並んで、閻魔様の判決を待っていた。
下された判決は衆合地獄行きの刑。
私は現在、地獄で絶賛服役中である。最近は美女の尻を追いかけて、剣山を上り下りする毎日。
桜の雨は降らないが、自分の血の雨は毎日のように降る。しかし血桜の中、美女を追いかけるのも中々乙なものである。
それと地獄に来てから分かった事なのだが、地獄界隈で「余命詐欺」という悪質な犯罪が流行っているようだ。
今朝の「めざめても地獄TV」で紹介されていた。私は騙されて地獄に来てしまった訳だ。
だが今の生活も悪くないと思っている今日この頃である。