いつか、乙女になる日を
大学生になって、はや2年。
国立の、しかも念願だった女子大学のギリシャ語学科に入学できた私は、高校からの友人とは違った、人間関係の広がりを楽しみながら、また同時に恐れながら、勉学と実家の手伝いとの両立に勤しんでいる。
「はぁ……やっと終わった。クリスマスイヴなのに、どうして古典ギリシャ語読解の課題がでるのよ!」
ただでさえ難しいのに!!
と、思わずどん!!と机を叩いてしまい、周囲にいた大学附属図書館を利用している人たちを驚かせてしまった。
小さくなりながら、スマホのアラームがヴヴヴヴ……と振動しているのに気づいた。
「あ!もうこんな時間!詩音さんとの約束に送れちゃう!!」
じろ……
周囲の視線がいたい。同じく、こんな日に課題提出に追われている人たちの痛々しい視線と、それとは別の、なんだか暗い怨念めいた視線が私を突き刺す。
「あ……ご、ごめんなさい……え、えへへへ……お、お先に失礼します……」
最後の言葉が一言余計だったと気づいたのは彼女たちの目が完全に怒りモードになっているのに気づいてからだった。
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12月24日。クリスマス。英語表記ではChristmas。X'masとも書くけど、実際はギリシャ語の "Χριστος(Christos)"の頭文字Xをとったものだとも言われているらしい。サンタクロースの由来は、聖ニコラス(St. Nicholas)。
授業で教授が言っていた、そんなことを頭の中で反芻しながら詩音さんとも待ち合わせ場所に行こうとしたら
「朱希ちゃん!」
「……!詩音さん!!ど、どうして……?待ち合わせ場所はここじゃ……」
長身におしゃれなコートにストールを羽織った詩音さん。
街灯に照らされたその綺麗で流れるような黒髪を、今日はハーフアップにしている。
本当は私の授業が終わるほうが早いはずだったから、詩音さんの職場の近くで待ち合わせだった。
でも課題に追われて約束の時間になっても、まだ自分の大学の図書館にいた私……。
罪悪感を感じながらも、詩音さんの優しい笑顔が、それを全部打ち消してくれたみたいだった。
「ごめんなさい詩音さん……本当は私が詩音さんのところに行くはずだったのに……」
「気にしないの。誰にだって予測不能な出来事はあるし、それを処理する必要があるでしょう?たまたまそれが今日は朱希ちゃんだっただけだし、そんなことで怒るわけないよ。ね?」
「……うん……」
「ふふ、そうそう。朱希ちゃんには笑顔が似合うんだから」
やっぱり詩音さんは優しい。どこまでも。
私を、私という異分子を、認めてくれている。
―高校を卒業したら、GID(Gender Identity Disorder;性別違和)の治療を始めたい―
そう両親と詩音さんに打ち明けた時、みんな、ぎゅっと私を抱きしめてくれた。
ずっとずっと、長い時間私たちは抱きしめあっていた。
そこからは、いろいろなことが動き始めた。
まずは専門医を見つけるところからはじめたが、そこからもすごく長かった。
正式に診断書が出たのもつい昨年のことだ。
それから、やっと……やっと、ホルモン治療が開始された。
長い、長い年月をかけて、やがてはSRS(Sex Reassignment Surgery;性別適合手術)を受けるんだ。
つらいダイレーションにも耐えてみせる。だって、それが本当の私だったはずだから。
SRSの世界最先端技術を有する国、タイ。
その最も有名なクリニックであっても、死亡同意書に署名を書かなければならないというのを、主治医から聞いた。
恐ろしかった。でも……でも、この肉体のまま、ずっとずっと生きていく苦痛と比べると、手術への恐怖は和らいだ。
それに、詩音さんがいつもいつも、ホルモン治療をする私を支えてくれて、精神的に不安定な時期が増えてきたにもかかわらず、ずっと私のそばに居続けてくれた。
もう、感謝しかない。
「ねぇ詩音さん」
「んー?どうしたの、私の朱希ちゃん」
駅の近くの陸橋の、一番高い地点で、詩音さんを呼び止めた。
橋の下では、いくつもの電車が走っている。
「……私を、あの時助けてくれて、ありがとう。本当の私を、受け入れてくれてありがとう。仕事で忙しいのに、ずっとずっとSRSのことも調べてくれて、危険性もわかった上で、それでも応援してくれて、ありがとう。私、詩音さんがいなかったら、きっとあの時、海の底に沈んでた……」
まっすぐ、詩音さんの方を向くことはできなかった。ただただ、私の思いを吐き出した。
「私は、男に生まれて。でもこの名前の通り、私は自分のことが女の子だとしか思えなくて。たくさんいじめられて、不登校になった時期もあった。何よりも、声変わりして、体毛が濃くなって、大きくなるこの股間が憎らしかった。私は、『そっち側』だったはずなのに。本当は、私はそっちなのに。でも違う。鏡に映る私は、骨格も何もかもただの男。声変わりだけはあまり低くならなかったけど、それでも、どんなに髪を伸ばしても、女の子らしくしていても、裸になった私は、ただの一人の男でしかなくて……呪わしかった。もう、本当にどうでも良かった。その時に私の心をすくい上げてくれたのが……あなたなの、詩音さん」
詩音さんが、私を後ろからギュッと抱きしめてくれる。嗚咽で、声にならない声で訴える私を、じっと、じっと聞き入ってくれていた。
「私、詩音さんとなら……どこへでも行ける。手術も、怖くない。ダイレーションの痛さも乗り越えてみせる。SRSを乗り越えられて、改名手続きして、戸籍上の性別の変更ができて……私は、やっと私に戻れる。詩音さんの側に、立てるんだって……それが、とてもうれしくて、うれしくて……」
ふと、私を抱きしめる詩音さんの手が一瞬だけ緩んだかと思うと、詩音さんが、私に、ある物を通した。
すごく、自然に。
聖夜のイルミネーションに照らされて光る、指輪。
それが、私の左手の薬指に収められていた。
「……!!!」
ばっと詩音さんを振り返った。
彼女も、泣いていた。でも……とびっきりの、笑顔だった。今までで、一番きれいな笑顔だと思った。
「朱希ちゃん。あなたの人生、私にちょうだい?」
「……!!!で、でも……え、SRS受けて、こ、戸籍も変わったら……」
「関係ないよ、そんなこと。社会が認めなくても、私はあなたの一生をもらうわ。朱希ちゃんにも、私の残りの一生をあげる」
こんなのって、いいんだろうか。
男に生まれて、ずっと自分が嫌いだった。
でも。
でも……詩音さんに出会って、ちょっとずつ自分のことを、好きになれていった。
「詩音さん……こ、こんな夢みたいなことって……」
「……答えは?」
詩音さんの、その言葉への返事をする時間も惜しくて。
私は背の高い彼女の首に両腕をまわし、彼女に口づけをした。
Fin
お久しぶりです、桜宮です。
なかなか執筆ができませんでしたが、朱希にきもちをのせることができてよかったです。