十八話
そして、マックスが室内に戻っていくとすぐに、俺の隣に永佳が上品に座り始める。
「わー、綺麗だねー。東京だと、全然星見えないんだよ?」
永佳は先ほど俺がそうしていたように顔を夜空に向け、その煌びやかな輝きに驚嘆の声を上げる。
永佳のそれは問いかけなのか独り言なのかいまいち判断できずに、俺はそうか、とだけ相槌をうつ。
俺たちの間には沈黙が流れる。
そもそも今こうして永佳が話を掛けてきたが、永佳は青い池の件で不機嫌になっていたはずで俺の隣に座って夜空を鑑賞する必要なんてないはずだ。
「どうかしたのか?」
「別に。宴会に戻ってもまたスケベそうな顔した先輩が飲ませてこようとするし、まだ寝る気にもなれないから、暇つぶし」
永佳は夜空から目を落とし、両手の人差し指同士を突っつく様に指遊びをし始める。
きっと、永佳は俺に何かを言いたいんだと思う。
俺は鈍感だとか敏感だとかないけど、なんとなく何人かの女性と付き合っていたわけだし、永佳とも小さいときはずっと一緒にいたわけだからその絶妙な仕草の一つで何をしたいのかを想像することくらいはできる。
「困ってることがあるなら何でも言ってくれよ。俺とお前の仲だろ?」
「はは……、ほんと、灯貴って変わったね」
永佳は俺の方を見上げ、少し苦笑いするように俺に笑顔を向けてくる。
俺は別に何かを変えたつもりはない。
そもそも、俺は大きな変化を好んだりしないのだから。
強いて言うなら、これまでの経験から自然とそうなってしまっただけなのだろう。
それをいうなら、俺にとっての永佳の方がよっぽど別人に近い。
「永佳には言われたくないな。永佳、昔は俺の後ろにずっとついてきて、怖いことがあったり、悲しいことがあったりしたらすぐ俺の後ろでびくびく泣いてただろ?」
「あぁ……、そりゃだって、こうなるしかないじゃん。今のあたしを作ってるのは……、あの時……。ううん、やっぱりなんでもない。ごめんね、今日は不機嫌そうにして」
最近の永佳にしては妙にしおらしく、どこか自分に自信を持っていなさそうな、それこそ昔の永佳が頭によぎる。
「いや、それはいいんだ。っていうか、その件に関しては俺がもっと胡桃にキツく言わなきゃならなかったろうし、胡桃自身も俺の気持ちをまったく考えてくれないのが原因だしな。俺から呼んでおいてあぁだから、永佳が不機嫌になることは何も悪くないだろ」
俺がそういうと永佳は両足をパタパタと振りはじめ、ちょっと不服そうな顔をする。
「あーあ、灯貴は本当に変わったなぁ。昔はそんな器用にフォローしてくれなかったじゃん。どちらかと言えば態度で示すというか、行動で示すというか。そうやって、色んな女にそういうことしてるんでしょ」
……まぁ、そうなんだけどさ。
でも、永佳にそれを咎められる筋合いもない。
わけわからない悪行に加担して勝手にどっかに行ったと思ったら、いつの間にかアイドルになってみんなから注目を浴びて。そして、急に帰ってきたらまったくあの時の永佳をどこにも残していないのだから。
それでも、俺は今あの一連の出来事で永佳にひどいことを言ったという自覚はあるし、それを謝ってあの日の俺の気持ちを叶えてやりたいって思っている。
少し酔いはさめてきたし、ここだ、ここで言おう。
たまたまだが、ちょうどバッグごと持ってきたおかげであのラブレターを持っているわけだし。
ここで言わなきゃきっと俺はずっとこのままずるずると永佳との日々を過ごしてしまう、そんな気がする。
「まぁ、俺がいろんな女の子と付き合うようになったきっかけは永佳でもあるんだけどな」
「……は?」
俺はバッグからあの手紙を取りだし、永佳に渡す。
永佳は顔に?マークを書いているかのように、きょとんとしながらそのくしゃくしゃの手紙を受け取る。
「なに、これ?」
「覚えてないのか? それは、お前が俺に書いただろ?」
俺がそう説明しても、永佳は何のことだかさっぱりというような表情を浮かべる。
「見てもいい?」
永佳の問いに対して、俺はうなずく。
俺は過去の永佳を咎めるつもりはまったくない。むしろ、それこそが若気の至りというやつだろう。
誰だって、特に何の疑問もなくいじめに加担した経験もあるだろうし、逆になんの非もないのにいじめられた経験があってもおかしくない。
それを今更俺が咎めたところで、その事実が清算されるわけではないのだし。
永佳がその手紙を開くまでの間に少し緊張感を覚え、外は肌寒いのにじんわりと背筋の辺りに汗が浮かんでくる。
永佳は手紙を開き、そのたった一文を読む。
「……こんなの書いた記憶ないよ、あたし」
「うそだ、だってその字」
と俺が否定しようとすると、永佳も驚愕に満ちた顔をしている。
「うん、あたしの小さい時の字にそっくり……。これいつもらったの?」
「具体的な日にちは覚えてないけど、小五の夏休み前の終業式の日だ。これもらってすぐに永佳は俺に何も言わずに引っ越ししただろ?」
「……じゃあ、絶対にあたしの記憶違いとかではなくて、これはあたしが書いて渡したものじゃないわ」
十年も経っているから、俺もその記憶はかなりおぼろげだ。でも、ここまで断定できる理由があるのか?
だって、字は永佳が書いた字そのものなんだぞ。
永佳はその事実を伝えてくると、俺に手紙を突き返してくる。
「そもそもあたしが引っ越したのはその日だもん。家に帰って、どうしても引っ越しのことを伝えられなくてごめんね、って電話したのに灯貴が家にいないからって」
……そりゃそうだ。俺はそのまま放課後すぐ家には帰らず、小学校近くの三角公園に行ったんだから。
「まてまて、それじゃあ、永佳が書いてないって断定できないだろ? その日、三角公園に実際にいたのは俺のクラスのいじめられっ子の女の子だった。その子が好きでもない俺に無理やり告白させてフラれるのをクラスで笑いものにしてやろうって魂胆で仕掛けたんだ」
「……もしかして、灯貴。それで?」
「そう、永佳がそのいじめに加担してたんじゃないかって」
俺の疑いを永佳にぶちまけて、その上で怒ってひどいことを言ったと改めて謝るんだ。
意を決して息を吸い言葉をつづけようとすると、永佳は大きなため息をついて俺の目をじっとりした目で見てくる。
「はぁ……。それで、あれか……。ってか、あたしがそんなことするわけないじゃん! いじめられてた子ってあの子だよね? えっと、こども英会話教室で一緒だった」
「名前は覚えてないけど。お前、怒ってたじゃん……」
「確かに、あんたのクラスでいじめられてた……えーっと」
永佳は自分とは別のクラスではあるが、こども英会話教室で一緒だったその女の子の名前を思い出そうと必死に考え初め思い出そうと努め始める。
俺は正直まったく思い出せないのだが……。
俺もそんな永佳を見て思い出そうと努めてみるが、それよりも先に永佳はハッとした顔をする。
「そう! 確かアキちゃんだ!」
んん……、確かにそんな名前だった気もする。
しかし、どうだったか……。
「確かにそのアキちゃんがいじめられてた場面に遭遇して助けた的な話を聞いたあの時は妬いたけど、そんなんでいじめに加担するわけないじゃない。そのくらい信じてよ、ずっと一緒にいたんだからさ」
……確かにそりゃそうだ。そもそもあの時の永佳がいじめに加担できるようなメンタルを持ち合わせているとは今にして思えば、まったく思えない。
あの時の冷静じゃなかった俺が手紙の字だけでそう判断したのであって、永佳と話さなくたってそんなこと考えられたはずだった。
「じゃあ、俺は完全にすべて勘違いした上で……、永佳にキレたのか……。え、じゃあ、今までのこの気持ちはいったい何だったんだ……」
「それはこっちのセリフよ……。あたしの十年なんだったのいったい……」
永佳は心底呆れた様な声色でそうつぶやき、俺から視線を外す。
気になったのは永佳の十年という言葉だが、俺はそれよりもやはり言わなければならない。
「ずっと勘違いしてただけじゃなくて、俺、永佳に謝らなきゃいけないってずっと思ってた。あの時、永佳が俺に電話してきたときに本当にひどいことを言ってしまった。本当にごめん」
「ほんとだよ……。今ここで謝られたからって、そんなにすぐにはあの時の悲しい気持ちを消化しきれない……」
永佳の声は少しだけ震え、今にも涙をこぼしてしまうんじゃないかと俺は慌てそうになる。
俺の気も知らぬまま、少しの間永佳は何も話さず、黙って地面を見つめる。
だが、突然、
「あああああ、はぁあああ!!!」
という悲鳴にも似た声を上げた後、永佳は大声で笑い始める。
俺はその永佳の奇行を、目を丸くして見ているしかできない。
「はぁ……。なんか、色々馬鹿らしくなっちゃった。さっき言いかけた事いうよ。あたしがここまで変わったのは、灯貴が……、トモくんが、何も言わないで引っ越したのを怒ったからだと思ってた。だから、あたしは、わたしは変わろうって思った。もし、本当にトモくんがずっとわたしに会ってくれないのだとしたら、トモくんに甘えなくても強くならなきゃって思った。そして、だんだん自分に自信を持てるようになってきたとき、トモくんを見返すんだって思ってアイドルを始めた。もし、それでトモくんが後悔してあたしに近づいてきても一蹴してやるんだって、そう思ってた。だから、わたしはあたしになって、今があるの」
一気にまくしたてる様に永佳は永佳が変わった理由を語った。
つまり、俺が、あの時勘違いした俺自身が永佳を変えてしまった、ということになる。
俺は永佳には変わらないでいてほしかった、でも俺自身がそのきっかけを与えてしまったんだ。
いや、別にだからどうというわけではない。それにそんな話なら、この十年いったい何だったんだっていう言葉と特に相関性を感じられない。
自分のやってきたことに意味を見いだせないってことはないだろう。実際にアイドルとして成功し、今もモデルを続けているのだから。
永佳の思惑の通り、後は俺が近づいている現状を蹴飛ばせば、永佳の十年降り積もった恨みを晴らせる。し、俺はそのことを伝えることにする。告白するわけではないが。
今となっては、永佳の言い分を鵜呑みにするのであれば、もう俺はフラれることはわかりきった。今すぐに告白する意味はない。
「それで、俺が今こうして近づいてきてるわけだから、一蹴すれば永佳の気持ちも少しは晴れるわけだ」
「……思ってたって言ったじゃん。もういいよ、そんなのどうでもいい。だって、お互い勘違いしてそうやっていろいろため込んできてたわけじゃん。きっかけはトモくん……、灯貴のせいであっても」
「それってどういう?」
俺は永佳の言いたい事をいまいちつかめず、少し混乱している。
だが、そんな俺に対して永佳は俺から遠い方の腕、左手を永佳自身の身体越しに伸ばしてくる。
「だから、これでもう恨みっこなし。お互いの勘違いだったんだからお互い様だよ。だから、これで完全にあの日のことも、今日のことも含めて、仲直り」
その言葉を聞き、俺は俺も自分の左手を永佳に差出、握手をする。
付き合ってほしい、なんてとてもじゃないが言える状況じゃなくなったが、俺がくすぶっていた謝りたいという気持ちは何とか果たすことが出来た。
一緒に暮らし始めて、特に険悪だとか気まずいとかのそういうのもなかったけど、心の片隅にあったわだかまりはお互い晴れた、ということだろうか。
永佳は俺から手を放すと、ベンチの上で突然体育座りし始める。
そして、ひざの上に腕を置き、口元をその腕で隠す。
「あーあ、こんなんだったらあの時諦めないで、何回も電話しておくんだったな……」
と永佳はぼそっとつぶやく。
「なんだ、そりゃ。結果的にアイドルとして、モデルとして人気が出て活躍できてるんだからいいじゃんか」
「はは……、まぁ、そうだといいんだけどね」
永佳はそういいながら腕に当ててた口元をより下げて、腕に額を乗せ、顔全体を自分の身体の中に隠してしまう。
「永佳?」
さすがに夜も深くなり、眠くなってきたのだろうか。
このまま外にいても風邪をひくだけだし、永佳に部屋に戻るように促そうと、決めた矢先だ。
永佳はそのままの態勢で顔だけを俺の方に向ける。
「ねぇ、トモくん……?」
「さっきから、昔みたいな呼び方に変わってきてるぞ、どうした?」
「うっさい」
と永佳は今の永佳らしく俺を一蹴し、再び顔をうずめてしまう。
それから少しの時間が流れ、もう一度永佳は同じように顔だけこちらに向けてきて、息を吸う。
「……ねぇ、トモくん。わたしたち、付き合っちゃおうか」
…………は?
え?
まって、どういうこと。
全然、永佳の思ってることが読めない。
その言葉を頭が理解する頃には突然心臓がバクバクと警鐘を鳴らし始める。
そ、そんなのイエスに決まってる。
俺はそう、口を開こうとすると、永佳は三度顔をうずめる。
なんだ、寝ぼけてるのか?
と思ってると、永佳はだんだんと震えはじめる。
そして、くすくすという声が聞こえてきて、終いには永佳は大笑いをし始める。
永佳は顔を上げて、目に涙を浮かべながら大笑いしているのがわかる。
「っておい!!」
「ひっひひ。はー! あー、笑いすぎて涙出てきちゃった。冗談だよ、冗談」
永佳は体育座りの態勢をやめ、足をバタバタと地面に打ち付けながらさらに笑いをこらえきれなくなっていた。
……ひでぇ、俺の恋心も知らずに。こんな業の深いことが出来るのか、こいつは。と若干引き気味に思っていると、
「あーあ、少し酔ってるのかなぁ」
永佳は笑いを抑え、そういいながら立ち上がる。
「でも、灯貴は今のあたしが本気でこういったら、どうしたい?」
永佳は立ち上がり、俺に顔を見せまいとしているのか背を向け、夜空を見上げる。
その質問は……、なんなんだよ、まったく本当に酔っぱらってるのか?
酔っぱらってるならその答えはノーだ。本気で言ってるならもちろんイエスだ。
だが、俺もそれについて今は本気で言及することなんてできない。
自分の今下すその判断が、酔っぱらっているからなのか、そうじゃなくてもそうなのかはっきりとわからないからだ。
確かにはっきりと永佳と付き合うという目標を立てたが、今それを酒の勢いで達成しようとするのはだめだ。しっかりと段階を踏んで、永佳とお互いに両想いだと確信してからでもいいはずだ。
そのため、今回は答えもせずお茶を濁すことにする。
「……酔っ払いはさっさと寝るんだな」
「ちぇ、それくらい答えてくれたっていいんだよ? まぁ、言いたくないんならいいけどさ」
永佳はそういうとすぐにわざとらしくあくびをする。
「もう、寝るね? 風邪引きそうだし。おやすみ」
それから永佳は俺に一度もその顔を見せることはせず、建物の中へと戻って行ってしまった。