FILE.1 小説部員・青野優紀
「そこで、このグローバル化が進む世界でもって、みなさんの一層の活躍を願うとともに……」
場所はとある都内にある私立学校の体育館。紅白の幕が三方を囲み、唯一幕がかかっていないところ――体育館の舞台では、校旗などが柔らかい照明を浴びている。そして、同じく照明を浴びて肌を若干テカらせている初老の男性が、舞台の中央で話をしていた。
現在執り行われているのは、とある高校――いや、別に伏せる事柄でもないから言っておこう――北次学園の入学式である。そして、壇上で先ほどから話をしているのが北次学園の学校長だ。
さて、いきなり出てきた北次学園に、読者の皆様もさぞかし困惑していることであろう。だけれども、ひとまず安心していただきたい。いったい北次学園がどのようなところであるかということについても少しだけだが触れておこうと思う。
北次学園は、まもなく創立100周年を迎えるとかなんとか噂されている、由緒正しい男女共学の私立学校である。校名の由来は良く分からないが、北○○次(○には漢字が入る)という人物が学校建設に関わったからだとか、はたまた○北次○(○にはやっぱり漢字が入る)という人物が非常に教育熱心であったことにあやかったからだとか、はたまた創立当時の学長が南○○後だか○南後○(○には言わずもがなだが漢字が入る)だかいう名前の人物と非常に仲が悪く、彼の名前に入っている漢字の対義語になりそうな字をチョイスして適当に並べたら北次になったからだとか、とにかくいろいろ言われているが、その信憑性は定かではない。というか、どの説も俄かには信じがたい眉唾モノである。おおかた馬鹿な学園生か噂話好きの保護者かが流したデマであろう(特に3つめの説などまったくもって信じるに足らない話である)。
北次学園は――「学園」という表記からも察せられたかもしれないが――私立の学校にはさほど珍しくもないであろう中高一貫の学校で、中学から入った生徒は6年間、それとは別に高校から入った生徒は3年間、この学園で過ごす。中学は一学年に200名ほど、高校はその倍の400名ほどが在籍しているので、全部で1800名ほどの生徒が学園にいることになるだろうか。
続いて、読者の皆さんの興味がありそうな――というか、小学生、あるいは中学生の子供を持つ親御さんの興味がありそうな話題である、進学実績およびカリキュラムについてお話ししよう。と、その前に、少しだけ断っておく。私は北次学園の回し者では決してないので、これからこの学園にとって不利なことになりそうな内容を平気で述べるだろう。ここには私の主観が大いに入っていることを、あらかじめご理解の上、今後の志望校選定の参考にでもなんなりとしていただきたい。
では、北次学園の進学実績について発表させていただこう――と思ったのだが、良く考えたらそんなものは学校が発表しているもの(おそらく偽装ではないだろう)をご自分で調べていただければ良いか。先ほど校長が話したように、現在のグローバルな世界において、興味のある学校の進学実績を調べることなど、いとも容易いことであろう。ただまあ、一つだけ言っておくならば、大学進学を志す生徒のうち半数ほどは予備校に進学しているということだろうか。もっとも、これは私の主観の入った情報であるため、どこまで鵜呑みにするかは読者のあなた次第である。
次に北次学園のカリキュラムについてお話ししよう――と思ったのだが、やはりこちらも学校が公表している情報をご自分で調べていただくのが早いだろうと思われる。もし何かご不明な点があったのなら、その時はなんなりとお答えしようと思う。先ほど申したように私は学園の回し者ではないので、答えにくい質問など一切ない。なので、どんなことでも――たとえば、どの教師の授業が眠りやすいのだとか、そういう質問にも、喜んでお答えしよう。
さてさて、手短に記すつもりであった北次学園に関する話だが、思いの外長くなってしまった。その割に内容はさして無かったような気もするが、とりあえず以上の情報を頭に入れていただければ十分であろう。
話を入学式に戻す。先ほどから続いている学校長の式辞は、体感時間で10分ほどは経っているであろう現在もとどまるところを知らず、むしろ話に拍車がかかって白熱していくところであった。校長は拳を握りしめ、やれ日本の未来を担う人材になれだの社会に出て恥ずかしくない人間になれだの、熱く語っている。
そんな校長の熱意に、大半の生徒は面倒臭そうにしながらも目を開いて応えているのだが、そんな新高校1年生の中に1人、堂々と目をつむっている男子がいた。
その男子は、身長が170センチメートルくらいで、黒い髪の毛を校則に引っ掛からない程度に切り揃えている(前髪や耳まわりの毛などの長さがいちいち校則で指定されているのだ)。顔立ちは別段良くも悪くもなく──というか瞑目しているのでいまいち判りづらいというのが事実である──、見た目はその辺を探せばどこにでもいそうな、男子高校生である。最近の物書き、とりわけネット小説家を名乗る者たちは、「平凡」という言葉を好む傾向があるように思われるため、そしてそういう場合は大抵平均以上のルックス(そもそも顔立ちなど個人の価値観の問題であると思われるのだが)であるため、「また平凡かよ」と嫌な気分を抱いた読者のかたも中には居ることだろう。しかし、安心してほしい。この生徒、見た目だけならリアルな男子高校生とまったくと言ってよいほど大差はないのだから。
さて、その「見た目は平凡な」男子高校生は、先ほどから欠伸をかみ殺したり、はたまた堂々と欠伸をしたり、「眠たい」アピールをしていた。しかしとうとう耐え切れず、眠りに落ちてしまったようだ。
彼だのなんだのと呼ぶのはまどろっこしいので、名前を発表させていただく。というか、発表しない限りこの物語は一向に進展を見せないだろう。彼の名は、青野優紀。北次学園の中入生であり、小説部という得体のしれない弱小文化部(後述)の部員であり、同時に高校生探偵である――早い話が、この物語の主人公である。
◇
学校長の長時間にわたる式辞が終了し、校歌を歌い(ちなみに歌詞を知っている中入生とまったく知らない高入生が混在していてなかなか混沌とした校歌斉唱であった)、その他もろもろの式次第をすべて終わらせ、かれこれ1時間は経ったであろう後、新高校生たちはようやく入学式という束縛から解放された。この間に体調不良を訴えた生徒が一人もいなかったのは、なかなか奇跡であろう。
しかし、入学式が終わったから直ぐに帰宅できるかというと、実はそうではない。生徒たちはこのあと1時間にわたるLHRという名の授業を受けなければならないのだ。入学式の日に行われるLHRのなかでやることといえば、手紙の配布と担任からの挨拶くらいなのであるが、学校長や、――先ほど紹介し忘れたが――PTA会長に理事長、来賓代表など、とにかくいろいろな人の話を一度に聞かされてきた生徒たちにとって、担任からの話などでさらに1時間拘束されるということは中々に苦痛なものなのである。
「えーっと、まあ、今年1年、どうぞ、よろしく、ね、お願いします」
癖のある区切り方で、青野のクラスの担任を務める男性教師が自己紹介を締めくくった。生徒たちはパチパチと拍手を送っていたが、おそらくこの拍手にはようやく話が終わったことへの嬉しさも含まれていることだろう。プリントの配布もすべて済んでおり、担任の挨拶が終われば帰れることだろうと思っていたからだ。だが、その喜びは担任の「えー、じゃあ、次に、副担任の……」という言葉ですべて壊された。
そうしてどんよりとした空気になった教室の中で、青野はやっぱり眠りこけていた。
◇
「なに、これ……」
それから少し経ったのち、暖かい日差しが差し込む小さな部屋で、一人の女子生徒が呟いた。部屋の床に敷かれた茣蓙の上は、一面文庫本だらけ――それも、全部推理小説だ。その部屋の隅っこで、のんびりと寝そべりながら本を読んでいる男子高校生――青野がいた。
「青野君……」
「あれ? 美月、いたの?」
拳を握りしめる美月――小林美月に向かって、青野は能天気に顔を上げた。美月は青野と同じ高校1年生で、なおかつ小説部の部員である。背は160センチメートルとまあ平均的で、少し茶色がかった髪をボブカットにしている。
美月は眉をハの字にさせて、「いたの、じゃないわよ! またこんなに散らかして……ちゃんと片付けてよねっ」
「はいはい」
嫌々と返事をする青野に、今度は嘆息がもれた。
「まったくもう……。いつもそんか空返事ばっかりして、結局全然片付けないんだから……」
「おや、ご名答。どんな推理したの?」
何気なく発せられた青野の返答に、美月の表情が凍りついた。漫画なんかだと、おそらく「ぶちっ」という擬音を使って表現されていることだろう。とにかく、彼女が青野に対し怒りの感情を抱いたことは事実である。
「いい加減にしなさい!!」
「うわあ、びっくりしたぁ……」
大袈裟な反応をみせた青野だったが、美月の剣幕にたじろいだのか、背中を丸めながら散らばった本を片付け始めた。
「ほら、それはそっちの本棚に入れる! こっちのは向こう!」
「……なんで片付けの内容までいちいち指図されなきゃいけないのさ」
「青野君が片付けないからでしょ!!」
青野が申し立てたささやかな不服を、美月は一蹴した。青野は嘆息すると、片付けを続ける。
すると突然、部室のドアが開き、「こんちわーっす!」と女子生徒の声が響いた。青野と美月はそちらを見やる。明朗そうな女子生徒が、すました様子で立っていた。その後ろには、男子生徒と女子生徒が1人ずつ――つまり、全部で3人の人間が部室にやってきたことになる。
「あれあれ、青野君が片付けなんて珍しいね」とドアを開けた生徒。
「おおかた小林さんに強制されてるんでしょ」こちらは前髪の長い男子生徒だ。
「ほら、見なさいよ、あの面倒臭そうな表情」少し大人びた感じのするもうひとりの女子生徒は、青野の顔を指さしてさも面白そうに笑みを浮かべた。
「人の不幸を喜ばないでくださいよ」
「別に片付けることは不幸じゃないでしょ」
むしろみんな幸せになるじゃない、と美月に言われて、青野はため息を吐いた。
「でもみんな一緒に来るなんて珍しいね、柚希」
美月は先ほど快活な挨拶をして部室に入ってきた女子生徒――木島柚希に話しかけた。彼女は青野たちと同じ高校1年生で、背の丈は美月より少し高い。肩甲骨あたりまである髪を後ろで一つに束ねている――こういうのを、一般的にポニーテールといったか。
「うん」柚希は頷く。「昇降口のところで大山先輩と久田先輩が喋ってたから、私も合流したんだ」
「久田先輩と仮入部の話をしてたんだよ」
男子生徒――大山朝洋が、柚希の話に補足した。大山は、身長は170センチとちょっとで、黒縁の眼鏡をかけている、高校2年生だ。眼鏡には前髪がかかっており、年頃の中高生なんかが言うところの“陰キャ”らしい、すなわち陰気なキャラクターっぽい容貌だが、髪の毛の色が茶けているため、みようによっては“陽キャ”、つまりは陽気なキャラクターに見えないこともない。では彼の中身はどうなのかというと、読書好きな男子高校生である。
「そうそう、今年中学生の部員を入れないと、部員が高校生だけになっちゃうからね。でもあなたたち――特に青野君だけど、大して危機感抱いてないでしょ」
「そりゃあ、別に後輩が増えようと増えまいとどうでもいいですし」
「そういう態度が良くないのよ!」
最後に、現在青野をしかりつけている、大人びた女子生徒、久田風美――北次学園の高校3年生だ――を紹介しよう。彼女こそが我らが小説部の部長であり、なおかつ3年前に小説部を復活させた張本人である。
いや、その前に小説部の説明をしなければならない。先ほど「(後述)」などと書いて読者の皆さんを焦らしてしまったのだから、やはりきちんとここで解説しなければならないだろう。
小説部とは、その名の通り、小説を読むことをメインに活動している部活である。基本的に部室――これは北次学園の部室棟という、部室が集められた専用の建物に収容されている――で活動しており、部室にある本棚は文庫本などでみっちりと埋め尽くされている。
さて、その文庫本のタイトルを見てみると、特に読書好きな人だったりすると、あることに気が付くはずだ。例えば「緋色の研究」、例えば「Xの悲劇」、例えば「十角館の殺人」、「獄門島」、「モルグ街の殺人」――ここまでくればわかるだろう。これらの共通点、それは「すべて推理小説である」ということだ。この小説部、「小説」という幅広い、抽象的な言葉を部の名前にぶら下げておきながら、なんとその実態はただの「推理小説部」だったのである! そういえば先ほど青野が読み散らかしていたのは全て推理小説であったと触れたような気がするが、その何十、何百倍もの推理小説が、部室の本棚の中に収められていると考えると、なかなか圧巻である。
しかしよく考えてみると「推理小説部」なんて部活もなかなか無さそうなもので、小説絡みなら「文芸部」、推理小説絡みなら「探偵部」などと相場が決まっているように思われる。「ただの」などと言っておきながら、実は意外と希少なのかもしれない。
そんな小説部、現在の部員数は高校1年生が3人、2年生と3年生が1人ずつと、計5名のみで細々と活動している。北次学園では、5名以上で活動している団体が部活動と認められ、4名以下では「同好会」となる。つまり、小説部はあと1人部員がいなくなれば同好会に格下げされてしまうというギリギリのところで活動しているのである(ちなみに同好会は部費を大幅減額されてしまう、などといったなかなか酷い扱いを受ける)。先ほどから風美が青野をしかりつけていたのは、そのような状況からの焦りもあったようだ。
「でも考えてみてくださいよ。後輩なんかが入ってきたらこの部室の人口密度が増えるでしょう? そうすると僕がこう寝そべって快適に読書をすることができなくなるじゃないですか! これは大問題ですよ!!」
青野はごろんと部室の茣蓙の上に寝そべると、そのまま先ほどまで片付けていた本のなかから一冊手に取って、のんびりと読み始めた。
「あのねえ……」風美は呆れた顔で、「部員がいなくなったら、そもそもこの部室もなくなっちゃうの! 人口密度もクソもないでしょう!!」
「それに! どさくさに紛れて片づけをやめるんじゃない!!」
「うわっ、怖い怖い……」
風美と美月は、眉を逆八の字にさせて、青野に声を張り上げた。
「そこの本は本棚のこっちにしまう! それはそこ、ちゃんと並べて本棚に片付けなさい!!」
「おお、見てるこっちも怖くなってきたなぁ。さ、青野君、お掃除頑張ってね!!」
柚希は青野に励ましの言葉をおくると、そのまま何事もなかったかのように部室を抜け出そうとした。それを、目ざとく美月が捕まえる。
「そういえば……このまえの部活のとき、柚希も青野君と同じくらい読み散らかしてたよね……?」
「な、なんのことだか、わーからないなー!」彼女は表情を強張らせ、白々しく笑って見せる。
「さあ、掃除しようね!」
美月の有無を言わせない一声で、柚希は「ひゃい」と声をあげて茣蓙に崩れ落ちた。
「怖い……小林さんを敵に回さないように、とりあえず部室は汚さないようにしよう……。
さあ、久田先輩、僕たちは部活動紹介と仮入部の話を進めるとしましょうか」
「そうね。じゃあ、ここは邪魔だろうから、私たちは食堂にでも行って話し合いをしているわ。掃除が終わったら呼びに来て頂戴」
「ああ、そしたら私もそっちの話し合いに……」
「掃除が先でしょ、柚希ちゃん」
「そんなぁ……」
嘆く柚希に、青野は満面の笑みで「ようこそ掃除ぱーくへ!」と意味の分からない言葉を投げかけた。
そんな彼らを背に、大山と風美は部室を出て行ったのであった。
◇
「それじゃあ、部活動紹介と仮入部は今日立てた計画通りに進めていきましょう。各々が部員確保に向けて準備するように! それでは、今日の部活を終わります」
「ありがとーございましたー」
それから30分ほど――時刻は12時。青野と柚希による部室掃除は意外にもスムーズに進み、その間に大山と風美は新入生確保策を練り終えたようだった。風美の終礼に、部員たちは――主に青野は、やる気のない礼をして、この日の部活は無事に終了した。
「じゃあ、部室の鍵は私が返してくるから、さっさと帰った帰った」
「ほいほい」
風美に促されて、部員たちは部室を出た。
「あ、そうだ、青野君」
そそくさと帰宅しようとする青野に、美月が声を掛ける。
「うん? 掃除はもう充分でしょ?」
「いや、そうじゃなくて。――ちょっと相談したいことがあるんだけど」
*
「で、相談したいことって?」
青野は手を組んで、目の前の美月に問いかけた。
青野と美月は部室の前で柚希達と別れて、北次学園の食堂の、長テーブルの端っこを陣取って、向かい合わせに座っていた。年度の初めは午前で学校が終わることが多いため、食堂はそれなりに盛況なようである。美月は周りをキョロキョロとみながら声をひそめて話し出した。
「うん、ちょっと気になることがあったんだ。――その前に、青野君は何か食べなくていいの?」
「うん?」青野は首を傾げる。
「だからさ、せっかくお昼時に食堂来たのに、何も食べないのかなーって」
美月の前には、きつねうどんののったトレーがあるのに対し、青野の前は水の入ったコップだけである。水は無料でサービスされているので、青野は食堂に対し一銭も支払っていないようだ。
「いや、どうせすぐ帰れるかなーって思ったから、食事は家でしようかと」
「まだ話も聞いていないよね……」美月は呆れ顔に。
「じゃあ、とりあえず話そうか。食べながらでいい?」
青野は頷く。
「えーっとね……気になることっていうのが、私の住んでいるマンションの、1階のとある住人のことなんだけどね」
「誰じゃそりゃ」
「染井さん」
「名前言われても分からないって……」
青野のツッコミに、美月はそれもそうかと思った。
「えーっと、半年前にうちのマンションに越してきた、区役所に勤めている若い女性なんだけど……その染井さんが最近おかしいのよね」
「おかしいって、具体的にどんなふうに?」
青野は首を傾げて問う。美月は、先ほど話し始めるときにしたように、あたりを少し見回して、声をひそめて答えた。
「1か月半前くらいからなんだけどね、突然洗濯物が外に干されなくなったの」
「…………は?」
「だから、洗濯物が……」
「いや、そうじゃなくて、それだけ!?」
あまりにくだらなさそうだと思ったのか、青野は拍子抜けした声をあげた。その反応が予想外だったのか、美月は少し不機嫌そうに首を横に振る。
「他にもあるよ。洗濯物が干されなくなったのと同じくらいから、染井さんの部屋にサングラスにマスク姿の怪しい人物が出入りするようになったの。私も洗濯物だけだと特に何も思わないけど、同じ時期に変な人が出入りを始めたらおかしいと思うでしょ? それに、同じ1か月半くらい前から染井さんの姿もめっきり見かけなくなったし……」
「はあ……」
青野は、あからさまに落胆した様子でため息をもらした。
「そんな残念そうな顔になるの!?」
「あー、まあ、その、単純すぎたというか、聞いただけですぐに検討はついたし……」
「ふーん。……え!?」驚く美月。間髪いれずに、青野は話を続ける。
「なんなら、これからマンション行って、本人に確かめてもいいよ? たぶんあってると思うし……」
「え、え、ええ!? それは私の家に来るってこと!?」
「そっちには微塵も興味ないわ」
「あ、そう……」
青野にあっさりと切り捨てられて、美月はなんとも言えぬ心持になる。
「とりあえず、そのうどん早く食べちゃったら? 麺がのびるし、こっちも待ってるんだけど」
「あ、ごめん」
美月は慌てて、白い麺をすすった。そして、口をもぐもぐとさせながら、はたと何かに気が付いたような態度をみせると、麺を飲み込んで、口を開く。
「そういえば直接本人に――って言ってたけど、それなら時間かかるんじゃない? やっぱりお昼食べなくていいの?」
心配する美月に、青野は笑みを浮かべて答えた。
「うん。どうせすぐに片が付くだろうからね」
◇
地下鉄の駅を出て、青野と美月は大通りを並んで歩く。時刻はまもなく13時になるところだった。
「ねえ」
美月が隣に声をかける。彼らは大通りから脇道にそれて、さらに進んでいた。
「わかったって言ってたけど、本当にわかったの? 本当の本当?」
「本当だよ。嘘つく必要ないじゃん」
念をおす美月に、青野は素っ気ない態度でこたえる。
「それはそうだけど……。あ、ほら、そこだよ」
美月が指さした先には、4階建てのマンションがひっそりとそびえていた。
「目の前にあるのがエントランスで、それとは別に裏口があるんだ。そっちには駐車場と駐輪場があってね」
「ふーん、鍵がないとマンション自体に入れない構造なんだね」
温かみのある明かりに照らされたエントランスには、自動ドアがついていた。もちろん、前に立ったら勝手に開くわけではなく、きちんとドアの前にあるインターホン付の機械に鍵を差し込むか、インターホンで住人に連絡を取り、中から開けてもらわねばならない。もっとも、昨今のセキュリティ強化のためか、最近建てられたマンションにはよく見られる設備であるので、読者の皆さんもご存知のことだろう。
「そういえば、問題の洗濯物はどこから見えたの?」
「ああ、それなら、染井さんの部屋が一階にあるって話したよね? 彼女の部屋のベランダが、裏口側にある駐車場からよく見えるからだよ。自転車使う時とかに、何気なく目に入ってくるからね」
言いながら、美月はカバンの中から鍵を取り出して、それを鍵穴に差し込んだ。ウイーン、という音を立てて、ドアが開く。
「さ、早く入って。ドア閉まっちゃうから」
美月に急かされて、青野はドアをくぐった。
「そういえばさ、染井さん――だったかな。彼女は役所に勤めているって話だけど、1時じゃ家にいないんじゃないの?」
「それは確かに」
しばらくの間、静寂が2人の間を流れた。
「来た意味ないじゃん」と青野。
「自分が来るって言ったんでしょうが。あと、ドアから少し離れようよ。さっきからずっと開いたり閉まったりしていて、なんか可哀そうだよ」
電気代の無駄だし、と美月は呟いた。彼らは自動ドアの前に立っていたので、ドアが閉まろうとして、2人に反応して開き、また閉まろうとして……というのを数回繰り返していたのだ。ドアについては、当然ながら、外からは鍵を使って入らないといけないが、出るときは何の変哲もない自動ドアと特に変わらないものである。
「ちゃんと気づいて教えてくれればよかったのに……」
「そこのところもちゃんと考えがあるのかなって思って黙っていたのよ」
青野はあからさまにがっかりした様子で――いや、そもそもここに来る時からあまり嬉しそうにはしていなかったので、大して変わらないかもしれない。
「あーあ、興醒めだわぁ。帰ろ帰ろ」
青野はつまらなさそうに言うと、くるりと体の向きを変えて、今入ってきた自動ドアに向かった。ドアがゆっくりと開く。
どんよりとしたオーラを流しながら、そこを出ようとしたその時だった。不意に、青野の背後に何かがぶつかり、青野は勢いよくエントランスの床──大理石のような素材でできている──にダイブした。
「あ、青野君!? 大丈夫!?」
美月が駆け寄ると、青野は顔を起こして前を見た。そこには、セーター姿の人物が、一目散にマンションを抜け出し、走り去っていくのが見えた。
「な、なんなんだあいつ……」
かなり驚いたのか、青野は怒るでもなく、転んだまま前を見つめたままだ。
「なんか、前に私が見た人と同じような感じだったよ。マスクとサングラスを着けていたし……」
「え、それ本当?」
青野は体を起こすと、制服の腹側を手で払いながら尋ねた。
「う、うん。いきなりのことだから正確には断定できないけど……うわぁっ!!」
青野にいきなり肩を掴まれて、美月は思わず声をあげた。
「な、なに……?」
「染井さんの部屋って、確か一階だったよね?」
「う、うん、そうだけど……」
「一階のどこの部屋? 早く案内して欲しいんだけど」
「え、ええ!?」
美月は突然の要求に戸惑いながらも、もう一度鍵を取り出した。青野が突き飛ばされた時に、ドアの外に出てしまったため、またもドアを開けなければいけなくなったからだ。
「でも、いきなりなんで……」
鍵穴に鍵を入れながら、美月は疑問の声を発した。
「さっきの不審な人物、かなり焦った様子で走っていったよね?」
「うん」美月は相槌を入れる。2人は、染井の部屋を目指して歩き始めた。
「ここのマンションの床、材質は良く分からないけど、石みたいなやつで出来ていて、かなり固いんだ。こんな床を走ったら当然足音が響く。にも関わらず、さっき僕たちが話している間、その人物が接近してくるのに気付かなかったということは、僕たちからかなり近いところから走り出したということ。つまり、一階のどこかからあの人物はやってきたことになるんだ」
「階段だと足音がしちゃうから、ってことね。でも、エレベーターを使った可能性もあるんじゃない?」
歩きながら、美月は視界に入ったエレベーターを指さす。青野は、それをゆっくりと首をふって否定した。
「それはないよ。あの人、僕とぶつかったのに謝りもしなかったし、『大丈夫ですか』の一言もなかった。それほどまでに急いでいた人が、わざわざエレベーターなんか使うかな。このマンションは4階建てだし、急いで階段を駆け下りればエレベーターを使うよりも早く下まで来ることができるはずだよ。だったら、とても急いでいる人ならなおさら、エレベーターを使わないで階段を使うって。エレベーターが来るのを待ったり、中で下に着くのを待ったりで、イライラしたくないからね」
「なるほど……でも、なんであの人が急いでいて、青野君にぶつかったからって、染井さんの部屋に行かなきゃいけないの? 行ったとしてもどうせ居ないだろうって話だったのに」
「僕にぶつかったやつが急いでいて、なおかつ一階から来たということは、染井さんの部屋から出てきたからではないかと疑うべきだ。詳細は後で話すけど、どうやら僕は重大な勘違いをしていたみたいなんだ……。最初は大したことないと思っていたんだけど、どうやら美月の『怪しい』っていう読みは正しかったかもしれないね」
青野は話しながら、マンションの1番端にある部屋の前で立ち止まった。案内していた美月が立ち止まったからだ。
「ここが染井さんの部屋だよ」
美月がドアを指さすと、青野は頷いて、まずインターホンを鳴らした。数秒あけてからもう一度鳴らすが、反応はない。
続いて、青野はドアをノックするが、やはり返事はなかった。そして、今度はドアノブに手をかけた。
「え、青野君、何してるの!?」
「開いてる……」
驚く美月をよそに、青野はドアノブをひねって、声をもらした。慎重な面持ちで、彼はそのままドアを開け放つ。
「ちょっと、勝手にそんなことしたら――ひっ!」
美月が引きつったような声をあげた。彼女の視線の先には、廊下に仰向けに横たわっている女性の姿があった。青野は冷静に部屋の中に入ると、靴を脱いで上がりこむ。
5歩程度歩くと、そこに横たわっていた体の前にしゃがみ込んだ。彼女はスーツを着ていて、また、マスクを口からおろして顎にかけている格好だった。
「ね、ねえ、どうなってるの……」
恐る恐る声をかける美月に、青野は首をふって見せた。
「だめだ。まだ温かいけど、息はないよ」
脈をとっていた手を下して、青野は再び倒れている彼女を見下ろした。
その女性は、頭から血を流し、息もなく目を見開いていたのだった。
次回、単純に終わるかと思われた事件は思わぬ展開になって……。
FILE.2 青野優紀の誤算
Next hint
・マスク
*改稿の記録*
2019/5/19 ルビを修正
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