お風呂の怪異
表素太と双子の兄、元太は、引き取られた親戚の家の古びたお風呂に浸かっていた。
換気のために少しだけ開けられた窓からは、冷たい夜風が入り込んでくる。
日常的に暴力を振るっていた父と、それに耐え忍び、決して笑うことのなかった母。数ヶ月前の交通事故で両親が亡くなり、二人はようやくその恐怖から解放されたのだ。
温かいお湯に浸かり、これまでの緊張の糸が途切れたのか、浴槽の縁に座っていた素太はカクン、カクンと居眠りを始めてしまった。
どれくらい経っただろうか。
ズブッ……と顔がお湯に浸かりそうになった瞬間、素太はハッと目を覚ました。
「おっと……やべぇ。わりぃ元太、寝落ちしてたわ。起こしてくれてサンキュ」
素太は顔の雫を拭いながら、のんきに笑って隣の兄に礼を言った。
しかし、元太からの返事はない。
ふと見ると、元太は湯船の端に張り付くように身を縮め、換気のために少しだけ開いた窓の隙間を凝視したまま、ガチガチと歯の根を鳴らして震えていた。その顔は血の気が完全に失せ、まるで死人のように青白い。
「……元太? おい、どうしたんだよ。顔色、すげぇ悪いぞ」
素太は慌てて兄の肩を揺さぶった。
「のぼせたのか? 具合悪いなら早く上がろうぜ。ほら、手ェ貸すから」
無邪気に、そして心底自分のことを心配して覗き込んでくる弟の顔を見て、元太はビクッと肩を揺らし、ハッと我に返った。そして、必死に引きつる頬を動かして、ぎこちない笑顔を作った。
「あ、ああ……ごめん。ちょっと眩暈がしただけだ。上がろうか」
絶対に、素太には言えない。
元太は、弟の背中を追いかけて風呂場を出ながら、心の中で強く誓った。
素太が居眠りをしていたあの時。
窓の隙間から細い腕がヌルリと伸びてきて、素太の頭を力一杯、お湯の底へ沈めようと押し付けていたことなど。
そして、その隙間の向こうからこちらを覗き込んでいたのが――生前、父に殴られている時も、俺たちを庇っている時も、ただの一度だって笑ったことのなかった母だったなんて。
口が裂けんばかりの、これまで見たこともないような満面の笑みを浮かべた母だったなんて。
「おい元太、ちゃんと身体拭けよー」
「……ああ、わかってるよ」
優しい弟を怖がらせるわけにはいかない。
元太は一人、その底知れぬ狂気と秘密を抱え込むしかなかった。
「具合悪いなら早く上がろうぜ。ほら」
無邪気に覗き込んでくる素太の顔を見て、元太は必死にぎこちない笑顔を作った。
「あ、ああ……ごめん。上がろう」
素太が先に立ち上がり、浴室の扉を脱衣所の方へ開けて出て行く。
元太はその後ろに続き、自分も脱衣所へ出ようと扉に手をかけた、その時だった。
―ドン!
浴室の内側から、扉を何かが激しく叩くような音が響いた。
二人は咄嗟に振り返り、浴室の扉を見る。
「……うわ、びっくりした。風か?」
素太は驚きつつも、のんきに笑った。浴室の扉がほんの数センチ、隙間を開けて止まっている。お風呂場の湿った空気と脱衣所の冷たい空気の温度差(気圧差)で、扉が開いただけだと、素太は思ったのだ。
だが、元太には違って見えた。
その数センチの扉の隙間に、白く濁った、ありえないほど細長い指が数本、ズルリと外(脱衣所)の方へ差し込まれているのが。
そして、隙間に隣接したすりガラスの部分。
そこには、顔をぐしゃりと押し付けるようにして、窓の外の裏路地よりも深い、何やらドス黒い泥や煤のようなものにまみれた『母』の顔がが、元太を睨みつけていた。
ドス黒く濡れた髪の隙間から、ギョロリと動いた母の眼球が、元太を真っ直ぐに捕らえる。
口が裂けんばかりの、これまで見たこともないような満面の笑みを浮かべて。
元太は悲鳴を噛み殺し、素太を先に脱衣所の奥へ突き飛ばした。とにかくここから出なければ。狙われているのは素太だ。絶対に、俺が守らなきゃいけない。
「元太、どうし……」
「黙れ! 走るぞ!」
慌てて脱衣所の、家の中へ通じる扉を、元太が乱暴に引き開ける。
「……えっ」
元太は絶句した。
扉を開けた先には、いつもの廊下も、リビングの明かりも見えなかった。
まるで、厚手の暗幕を張ったような、光を一切通さない完全な『闇』が、そこに口を開けていたのだ。
「……な、なんだこれ……」
元太がその異常な光景に立ちすくんでいた、その時。
背後にいた素太が、不安げな声を上げた。
「……どうしよう、お兄ちゃん」
その声は、間違いなく、いつもの優しい素太の声だった。
「光が、全部消えちゃった……」
元太は、恐怖に震えながら、弟の方へとゆっくり振り返った。
「素太……っ!」
元太が目にしたもの。
そこには、素太の身体があった。
だが、その首から上だけが――
風呂場の窓の外で見た、あの泥まみれの、濡れた髪の、『母』の顔になっていたのだ。
母の顔をした素太が、口が裂けんばかりの、これまで見たこともないような満面の笑みを浮かべて、元太を真っ直ぐに見つめていた。
「どうしよう……お兄ちゃん」
母の顔をした素太が、満面の笑みでそう呟いた直後だった。
「どうしよう……お兄ちゃん」
背後、開けっ放しの浴室の方から、水音を立てて『別の素太』が這い出してきた。
「どうしよう……お兄ちゃん」
今度は横、蓋の開いた洗濯機の中から、ありえない関節の曲がり方で『さらに別の素太』がぬるりと這い出してくる。
右からも、左からも、そして目の前の暗幕のような闇の中からも。
「どうしよう……お兄ちゃん」
「どうしよう……お兄ちゃん」
「どうしよう……お兄ちゃん」
わらわらと、無数の『弟』たちが狭い脱衣所を埋め尽くしていく。
いくら不遇な環境で育ち、可愛い弟をこの世の何よりも愛してやまないブラコン兄貴の元太であっても、これには流石に耐えられる限度というものがあった。
(あ、これ、俺……終わったわ)
完全に許容量を超えた恐怖と狂気により、元太の意識が限界を迎え、プツリと白く遠のきかけたその瞬間――。
すぐ真横。
元太の首筋に氷のように冷たい息がかかり、そっと、耳元で愛らしい弟の声が囁いた。
「バイバイ、お兄ちゃん」
その言葉を最後に、元太の意識は深い闇へと真っ逆さまに落ちていった。
*
「……元太〜? まだお風呂〜?」
ハッと、元太は目を覚ました。
顔にお湯がかかり、思わずむせる。どうやら、湯船に浸かったまま居眠りをしてしまっていたようだ。
「……あ、やべ。寝てた」
ドアの向こうから聞こえる、優しいお母さん――秋喜の声。
元太は顔の雫を拭いながら、ふうっと息を吐き出してのんきに笑った。
(このお家のお風呂は一人ではいるには広くて、いつもついつい長湯してしまう笑)
「ごめーん! 今あがるー!」
元太は明るい声で返事をすると、ざばりと湯船から立ち上がった。
脱衣所へ向かうため、曇った鏡の前を通り過ぎる。
(この家には俺しかいないから、がんばってお母さんを助けていかないとな♪)
そう決意を新たにして微笑む元太の記憶には、「素太」という弟の存在も、父親から受けた凄惨な暴力の日々も、もう微塵も残っていなかった。
*
――同じ頃。
その脱衣所の鏡の、向こう側の世界。
「……素太〜? まだお風呂か〜?」
ハッと、素太は目を覚ました。
顔にお湯がかかり、思わずむせる。どうやら、湯船に浸かったまま居眠りをしてしまっていたようだ。
「……あ、やべ。寝てた」
ドアの向こうから聞こえる、優しいお父さんの声。
素太は顔の雫を拭いながら、ふうっと息を吐き出してのんきに笑った。
(このお家のお風呂は一人ではいるには広くて、いつもついつい長湯してしまう笑)
「ごめーん! 今あがるー!」
素太は明るい声で返事をすると、ざばりと湯船から立ち上がった。
脱衣所へ向かうため、曇った鏡の前を通り過ぎる。
(この家には俺しかいないから、がんばってお父さんを助けていかないとな♪)
そう決意を新たにして微笑む素太の記憶には、「元太」という兄の存在も、母親が浮かべたあの狂気の笑顔も、もう微塵も残っていなかった。
水滴の滴る鏡を隔てて。
一人っ子だと思い込み、それぞれが親と幸せに暮らす、偽りのハッピーエンド。
二つの世界が交わることは、もう二度とない――。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
元太と素太、二人は別々の世界で「一人っ子」として幸せに暮らしています。
でもね、彼らは双子なんです。
だから、お風呂の鏡の前に立った時だけは、実はお互いに会えているんですよ。
まぁ、本人は「鏡に映った自分」だと思い込んでいるから、目の前にいるのが違う存在だとは気づいていませんけどね?
さて。
今夜、あなたがお風呂に入った時。
あなたが見ている鏡の「わたし」は、本当に「あなた」ですか?
(少しでも怖いと思ったら、下の【☆☆☆☆☆】にどんなホラーワードが入るのかこそっと教えてください♪よろしくお願いします♪ちなみにわたしは【つまみぐい】だと見ました♪)




