雨の日の違反者
これは、あるベテラン警察官から聞いた話だ。
2026年の4月。自転車の「青切符」制度が始まり、現場の警察官たちも雨の日の取り締まりにピリピリしていた頃だったという。
ザーザーと冷たい雨が打ち付ける夕暮れ時。
彼が交差点に立っていると、車道の端をバシャバシャと豪快に水しぶきを上げて向かってくる一台の自転車があった。
「ピピィーッ!! そこの自転車、止まりなさい!」
彼は迷わず笛を吹いた。遠目から見ても明らかな「傘さし運転」だったからだ。
キキッ、と見事なブレーキングで、その少女は彼の目の前に止まった。
「君、4月からルールが変わったの知ってるよね? 傘さし運転は違反、青切符の対象だよ。片手運転は危ないし……」
そこまで言いかけて、彼は息を呑んだ。
少女の体勢が、物理的におかしかったのだ。
右手の肘で傘のビニールを強引に内から支え、左手は傘の柄と自転車の左グリップを同時にガッチリと握り込んでいる。そして右の手のひらは、しっかりと右側のブレーキを握っていた。
「……おまわりさん。私が何の法律に違反していると言うのでしょうか?」
ずぶ濡れの前髪の奥から、まばたき一つしないうつろな瞳が彼を見上げた。
「い、いや、だから傘をさしての運転は、都道府県公安委員会の規定で……」
「『傘をさし、物を担ぎ、物を持つ等視野を妨げ、又は安定を失うおそれのある方法で運転しないこと』ですね」
少女は抑揚のない、まるで機械のような声で条文をそらんじた。
「私は見ての通り、両手でしっかりと左右のハンドルとブレーキを保持しています。 左手は傘の柄を『添えている』だけ。右肘による空力制御で傘は完全に固定されており、車両の安定は一切失っていません。視界もクリアです。違反の要件は満たしていません」
「いや、しかし……その体勢は無理があるだろ! 万が一の時に……」
「万が一?」
少女がふふっ、と笑った。その瞬間、ぞわりと警察官の背筋に冷たいものが走った。
よく見ると、彼女の右肘の関節が、人間のそれとは全く違う方向に曲がっていた。
さらに、あれほどバシャバシャと跳ね上げていたはずの深い水たまりの泥水は、彼女の白いソックスにも、自転車のフレームにも、ただの一滴も付着していなかったのだ。
「『両手でハンドルを持っていれば安全』。それが、ルールですよね?」
圧倒的な論理(?)と、目の前の異常な光景に、ベテラン警察官は一言も発することができなかった。
「……反則金の切符、切らないのでしたら。急いでいますので」
チリン、と冷たいベルの音を一つ鳴らし、少女は再びペダルを漕ぎ出した。
バシャッ、バシャッ!
激しい水しぶきの音だけを残して、彼女はあり得ないフォームのまま、雨の闇の向こうへと風のように消えていったという。
果たして彼女は、ルールの網の目を掻い潜る天才だったのか、それとも……。
激しい水しぶきの音だけを残して、あり得ないフォームのまま雨の闇の向こうへと走り去っていく少女の背中。
ベテラン警察官は、恐怖で全身を縛り付けられたように、その場に立ち尽くしていた。
曲がってはいけない方向に曲がった肘。泥水が一切つかない車体。
あれはこの世のモノではない。見てはいけないモノを見てしまった。
彼の耳には、去り際の「チリン」という冷たいベルの音がいつまでも残響していた。
チリン。
「……ん?」
恐怖のどん底に沈みかけていた彼の脳裏に、数十年の交番勤務で培われた交通法規の知識が、一筋の光のように走った。
(いや、待てよ。今の『チリン』……危険を防止するためやむを得ない状況じゃなかったよな?)
(周りに歩行者はいなかった。車も来ていない。去り際の捨て台詞的な、ただの挨拶のチリン……つまり……)
「道路交通法第54条第2項、警音器使用制限違反……ッ!!」
人間離れした関節。不気味なオーラ。彼女が怪異であることは間違いない。
しかし、そんなオカルト現象よりも、目の前で堂々と行われた**「不必要なベルのポロロン」**が、交通警察官としての彼のプライドに火をつけたのだ。
怪異に対する恐怖など、一瞬で吹き飛んだ。
「ピピィィィィーーーッ!!!」
雨の交差点に、先ほどよりもさらに大きく、怒りと職務への使命感に満ちた警笛が鳴り響く。
「待てコラー!! そこの不気味な関節の自転車!! 今の『チリン』は完全にアウトだ!!」
彼は防水仕様の青切符の束を引っ張り出し、猛ダッシュで水たまりを蹴立てて怪異を追いかけ始めた。
「危険防止以外のベル使用は原則禁止! 傘の理屈は一旦認めてやる! だがベルはダメだ! 幽霊だろうが妖怪だろうが、日本の公道を走るなら道交法を守れェェ!!」
前方をドヤ顔で走っていたはずの少女が、ギクッと肩を揺らしたのが見えた。
まさか完璧な論理武装で恐怖のドン底に突き落とした直後に、あんな初歩的な凡ミスで猛追されるとは思ってもみなかったのだろう。振り向いた彼女のうつろな瞳には、明らかな「焦り」が浮かんでいた。
「反則金切らせろォォ!!」
「チ、チリンチリンチリンチリン!!(※訳:来ないで!)」
「待てコラー!! 警音器使用制限違反だ!!」
怒り心頭のベテラン警察官は、交差点の脇に停めてあったミニパトに飛び乗るや否や、赤色灯を回してサイレンを鳴らした。相手がこの世のモノであろうとなかろうと、公道で違反をしたからには逃がすわけにはいかない。
ウゥゥゥーーーッ!!
突然背後から鳴り響いた本物のサイレンに、前方を逃走していた少女(怪異)は明らかにパニックに陥った。うつろだった瞳は見開き、人間離れした関節のまま、シャカシャカシャカシャカ!とものすごい回転数でペダルを漕ぎまくる。
しかし、ここは雨の降る車道。
そして彼女の乗っている自転車は、ごく普通のシティサイクルだった。
「チリンチリンチリン!!(※訳:来ないでってば!)」
「止まりなさーーい!!」
焦りがピークに達したその時。
雨水をたっぷり吸って滑りやすくなったプラスチックのペダルが、ついに牙を剥いた。
ツルッ!!
思い切り踏み込んだ右足が、無情にもペダルから滑り落ちた。
その瞬間、彼女が保っていた「右肘で傘を押さえ、左手で柄とハンドルを握る」という、あの奇跡のような空力バランスが完全に崩壊したのだ。
両手が完全に塞がっているため、受け身を取ることすらできない。
「あッ」
怪異らしからぬ間抜けな声を漏らし、彼女は自転車ごと車道のど真ん中へと派手に投げ出された。
ガシャンッ!!という金属音とともに、濡れたアスファルトに無防備に叩きつけられる。
「イタタタ……」
呻きながら顔を上げようとした彼女の視界が、背後から迫る強烈な光で真っ白に染まった。
猛追撃をかけていたミニパトのヘッドライトである。
「うおぉぉお!? しまった、ブレーキが……!!」
車内で警察官が絶叫する。
雨で濡れた路面。ハイドロプレーニング現象。パニックによるブレーキの遅れ。
交通安全の教本に載っているような「悪い条件」が見事に重なり、パトカーのタイヤは無情にもロックして滑っていく。
法を説くはずの警察官の車が、車道に倒れ込んだ違反者(幽霊)に向かって一直線に突っ込んでいく。
ドンッ!!!!
鈍く、重い衝撃音が、雨の夜の交差点に響き渡った。
――数秒の、死んだような沈黙。
雨音だけが、ザーザーと無情に降り注いでいる。
「えっ……嘘だろ、勘弁してくれ…………や、やってしまった……!」
警察官はガタガタと震えながら、真っ青な顔で車のドアを開けた。いくら相手が怪異とはいえ、公道でひき殺してしまっては免職どころの騒ぎではない。
恐る恐る、バンパーの下を覗き込む。
しかし、そこに少女の姿はなかった。
ひしゃげた自転車と、真っ二つに折れたビニール傘だけが転がっている。
「おいおい…消えた……? 助かったのか……?」
へたり込みそうになった彼が安堵の息を吐きかけた、その時だった。
コンコン。
運転席側の窓ガラスを、外から叩く音がした。
ビクッとして振り向くと、そこには。
雨に濡れたガラスの向こう側に、首が「人間とは違う方向」に曲がったあの少女が立っていた。
彼女は先ほど見せたうつろな瞳ではなく、明確な怒りを宿した目で警察官を睨みつけ、ゆっくりと口を開いた。
「……道路交通法第70条、安全運転義務違反。さらに前方不注意による過失運転致傷……ですね?」
「ヒィッ……!!」
「おまわりさん。……切符、切らせていただきますね?」
少女の手には、どこから取り出したのか、真っ赤な血で染まった「赤切符」が握られていたという。
2026年、春。
ルールの厳格化は、怪異にとってすら容赦のないものだった。
雨の夜の車道で、青切符を振りかざして自転車の幽霊を全力疾走で追い回す警察官の姿が、近隣住民の間で新たな「本当にあった怖い話」として語り継がれるようになるのは、また別のお話である。




