無限食べ放題の罠
路地裏の奥深く、甘く焦げた脂の匂いと、魅惑的なスパイスの香りが漂うその店には、看板がない。
ただ、食通たちの間で密かに囁かれる都市伝説がある。
「その店に一度足を踏み入れれば、この世のものとは思えない極上の肉料理を、一生分食べることができる」——と。
仕事のストレスと空腹に苛まれていたサラリーマンの男は、ふらりとその匂いに誘われ、古びた木の扉を開けた。
店内は薄暗く、どこか湿気を帯びていたが、目の前のテーブルにはすでに湯気を立てる山盛りの料理が並べられていた。艶やかなローストポーク、肉汁が溢れるハンバーグ、とろけるような角煮。
「いらっしゃいませ。当店は『強制的・全自動食べ放題』となっております。心ゆくまで、お腹いっぱいにお召し上がりください」
顔の半分を影に隠したギャルソンが、慇懃に一礼する。
男は狂ったように肉に貪りついた。美味い。美味すぎる。これまで食べてきたどんな肉よりも甘く、柔らかく、脳髄を痺れさせるような多幸感があった。
しかし、異変はすぐに起きた。
限界まで胃袋が膨れ上がり、「もう食べられない、お会計を」と席を立とうとした瞬間。
ガチャンッ!!
座っていた椅子の手すりから金属の拘束具が飛び出し、男の手首と足首をテーブルに固く縛り付けたのだ。
「な、なんだこれ!? 外せ!」
「お客様、まだ『お腹いっぱい』ではないようですね。当店は、お客様が完全に満ち足りるまで、サービスを終了いたしません」
ギャルソンが指を鳴らすと、厨房から次々と新しい肉料理が運ばれてくる。
男は口を閉ざして拒むが、機械のジョウゴが無理やり口をこじ開けられ、熱々の肉塊が喉の奥へと流し込まれた。
「やめっ……ぐぇっ、あがっ……!」
嘔吐することすら許されない。胃壁が限界を超えて悲鳴を上げ、皮膚がパンパンに張り詰める。それでも、強制的な給餌は止まらない。
一日、二日……いや、もっと長い時間が経ったのだろうか。絶え間なく口に詰め込まれる極上の肉は、いつしか男の理性と人間性を溶かしていった。
「ぶひっ……あぁっ、にく、もっと……」
抗っていたはずの男の口から、豚の鳴き声のような奇声が漏れ始める。
男の皮膚はピンク色に変色し、手足の指は融合して硬い蹄へと変わっていた。張り裂けそうなほど肥大化した腹はテーブルに乗り上げ、顔の骨格は醜く前に突き出し、立派な豚の鼻を形成している。
考えることをやめた。ただ目の前の肉を咀嚼し、飲み込むだけの肉塊。
男はすでに、自分の名前すら忘れていた。
そしてーー。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
裏路地のレストランの扉が開き、一人の男——山田が夜の街に放り出された。
数日間の『強制食べ放題』により、彼の体は醜く肥え太り、皮膚は脂でテカテカと光っていたが、まだ完全に「豚」にはなりきっていなかった。人間の理性が、首の皮一枚で繋がっている状態だ。
よろけながら実家にたどり着いた山田を見て、母親は悲鳴を上げた。
「あなた、数日間もどこに……! 一体どうしたの、その姿は!」
しかし、山田は虚ろな目で宙を見つめ、ガタガタと震えるばかりだった。
心配した母親が、彼の好物だった「肉じゃが」や「ハンバーグ」を作って食べさせようとしても、山田は一口食べた瞬間に顔をしかめ、嘔吐してしまった。
『違う……こんなパサパサのゴミ、食えたもんじゃない……。あの、甘くて、とろけるような……極上の脂……ッ』
山田の脳髄は、すでにあのレストランで強制的に詰め込まれた「究極の肉」の味に完全に支配されていた。
市販の肉など、もはや泥か段ボールを噛んでいるようにしか感じられない。深刻な禁断症状だった。夜な夜な山田は自室で頭を抱え、脂汗を流し、「肉……にく……」とうわ言のように呟きながら、自分の腕を噛みちぎりそうなほどの衝動と戦っていた。
その異様な様子を見て、両親は完全に誤解していた。
「……お父さん。あの子、きっと職場のストレスで、心を深く病んでしまったのよ」
「あぁ。食べ物も喉を通らず、夜中もうなされている。……もしかしたら、思い詰めて、ひとおもいに『楽になりたい』と考えているんじゃないか……?」
息子が自殺してしまうかもしれない。
両親は家中の刃物やロープを隠し、腫れ物に触るように山田を見守った。まさか息子が、**「食べ放題の店に戻りたくて発狂しかけている」**などとは、夢にも思わずに。
そして、限界の夜は訪れた。
『ブヒッ……あぁっ、もう、ダメだ……。お腹が空いた。あの肉をお腹いっぱい食べたい……豚になってもいい、だから……ッ!』
深夜。完全に理性のタガが外れた山田は、よだれを垂らしながら、裸足のまま窓から外へ飛び出した。
翌朝、もぬけの殻になった部屋と、開け放たれた窓を見た両親は、その場に泣き崩れた。
「あぁ……あの子、ついに思い詰めて……遠くへ……」
両親の頭の中には、冷たい海や、暗い森へ向かう息子の悲しい後ろ姿が浮かんでいた。
——しかし、現実の山田は猛ダッシュ(豚のような小走り)で歓楽街を駆け抜け、あの裏路地へと一直線に向かっていた。
バンッ!!
「ハァッ、ハァッ……! 頼む、入れてくれ! 肉を……俺に肉を食わせてくれえええッ!!」
開店前のレストランの扉を乱暴に叩き開けた山田は、そのまま床に這いつくばり、店長の足元にすがりついた。もはや人間の尊厳など欠片もない。ただ食欲の奴隷と化した、哀れな生き物だった。
「おや、山田様。……もうよろしいのですか?」
「いい! なんでもいい! 俺を拘束して、口に肉をねじ込んでくれ! お願いだ、俺を豚にしてくれえええッ!!ブヒィィィッ!!」
自ら進んで拘束椅子へと這い上がり、よだれまみれの口を大きく開けて懇願する山田。
「さあ、山田様。当店自慢のフルコースを、あなたが『完全な豚肉』になるまで、たっぷりとご堪能ください——」
ガチャンッ!! と、男の腕に冷たい金属の拘束具がはめられる。
すると、山田の座っていたテーブルごと床がゆっくりと沈み始めた。地下へと続く隠しエレベーターだ。
たどり着いた先は、むせ返るような脂の匂いと、異常な熱気に包まれた巨大な大空間——**『特上熟成ルーム(飼育場)』**だった。
そこには、山田と同じように拘束され、天井から伸びたチューブから延々と肉を流し込まれている「醜く肥え太った豚(元・人間)たち」がズラリと並んでいた。
「ブヒッ……あぁっ、幸せだ……」
「もっと……もっと脂を……!」
異様な光景に山田が圧倒されていると、隣の拘束台から、聞き覚えのある声がした。
「……山田? お前、山田か?」
「え……?」
山田が横を向くと、そこには首の肉が何重にも垂れ下がり、原形をとどめていないほど太った巨大な肉塊がいた。しかし、その目元には見覚えがあった。
「さ、佐藤……!? お前、半年前に行方不明になったって……ずっとこんな所に!?」
「あぁ。俺も最初は逃げようとしたさ。でも、ここの肉を食っちまったら、もう元の世界には戻れねぇよ」
親友の佐藤は、豚の鼻をフガフガと鳴らしながら、恍惚とした笑みを浮かべていた。
「俺さ、もうすぐなんだ」
「え?」
「この『熟成ルーム』はな、右から順番に【出荷】されていくんだよ。ほら、俺の席、一番右端だろ? ついに俺の肉が、最高のローストポークとして、上のお客様たちに提供されるんだ。……最高の名誉だろ?」
佐藤の言葉に、山田の背筋に一瞬だけ、人間としての「恐怖」が走った。
ここは地獄だ。友人は狂っている。このままいけば、自分もあんな風に屠殺され、誰かの胃袋に収まるのだ。逃げなきゃ。今すぐ、ここから——。
「——はい、佐藤様。見事な霜降りですね。仕上がり確認、完了いたしました」
ギャルソンの冷たい声が響いた。
天井からフックが降りてきて、佐藤の拘束台ごと宙へと吊り上げる。
「やった……! ブヒィィィッ! ついに俺が、極上のお肉になるんだ! 山田、お前もいっぱい食べて、立派な豚肉になれよぉぉぉッ!」
「さ、佐藤ぉぉぉっ!!」
歓喜の豚の鳴き声を上げながら、奥の解体室へと消えていく親友。
直後、グチャリ、という鈍い音とともに、佐藤の声が途絶えた。
山田は人間としての恐怖に震え上がった。
しかし——無慈悲にも、山田の頭上から「機械のジョウゴ」が降りてきて、彼の口を強制的にこじ開けた。
ドパァッ、と。佐藤が絶賛していた『究極の肉』と、甘い脂が喉の奥へと流し込まれる。
「あ、がっ……いや、食いたく……ッ……あ……あぁっ……」
脳髄を突き抜ける、強烈な多幸感。
たった一口で、恐怖も、親友が解体された悲しみも、すべてが快楽の濁流に飲み込まれて溶けていく。
「ぶ、ブヒィィィッ……。 うまい……もっと、もっと俺を太らせてくれぇぇッ!」
もう、どうでもいい。早く俺も、佐藤みたいに立派なお肉になって、解体されたい。
完全に狂気に染まった山田の隣の席に、カランコロン、と。
また一人、新しい客を乗せたテーブルが降りてくるのだった。
その姿を見下ろしながら、店長はギャルソンに向かって、満足げに微笑んだ。
「見ろ。やはり『放牧』で適度に運動させ、空腹のストレスを与えた豚肉は、肉質が一段と引き締まる。それに、これなら警察も『ノイローゼによる失踪(自殺)』として処理してくれる」
「さすがは店長。究極のサステナブル経営ですね」
「さあ、山田様。当店自慢のフルコースを、あなたが『完全な豚肉』になるまで、たっぷりとご堪能ください——」
「……はい。見事な霜降りですね。仕上がり確認、完了いたしました」
ギャルソンの冷たい声が響く。
男——いや、丸々と太り、よだれを垂らす**「極上の豚」**は、拘束具ごと天井のフックに吊るし上げられた。
ブヒィィィッ!と短く鳴いた豚の首に、冷たい鉄の刃が当てられる。
「本日のディナーも、素晴らしい『お肉』が提供できそうです」
ギャルソンが血まみれの刃を拭きながら厨房へ消えていくと同時。
カランコロン、と。
また店の扉が開く音がした。
「すいません、ここは……食べ放題の店だって聞いたんですけど?」
空腹を抱えた新しい客が、魅惑的な肉の匂いに誘われて、ふらりと席に座る。
そして数十分後。彼が美味しそうに頬張る『極上のローストポーク』が、数分前までここで泣き叫んでいた、あの男の肉であることなど、知る由もない。
男たちの歓喜の鳴き声と、脂の焼ける甘い匂いが、今日も路地裏の奥でひっそりと溶け合っていた。




