八話
「あれ、玲司? 珍しいわね、いつもより来るのが少しだけ遅い」
萌え萌えワンダーマートに着いた斎藤を迎えたのはこのコンビニの店長。その容姿は幾らか斎藤よりか大人びている。年齢不詳の彼女の名は天凱伊織という。後ろに一つに束ねた髪を揺らしながら、物珍しそうな顔を斎藤に向けた。
「別に遅刻したわけじゃない。俺にも色々と用事があるんだ。構わないだろう」
「そんなこと言わなくていいじゃない。少し驚いただけだってば。いつもは陽も沈む前から来てくれるのに、今日はもう沈みかかってる。いやまあ、あんたのシフトは夜からなんだけど」
萌え萌えワンダーマートは慢性的な人手不足に陥っている。それはシン・秋葉原の、決して治安が良いとは言えない場所に店を構えているせいだ。若者は集まるが、だからこそ起きる問題は絶えずある。
斎藤の腕っ節が広まり、かつてよりは収まりつつはあるが、それでもそれ故に発生する問題も相まって、やはり治安は良いものにはならない。
バイトは凄まじい勢いで入れ替わる。店長である天凱とバイトだけで回しているここでは、治安の影響はもろに運営に関わるのだ。
斎藤の存在はこのコンビニの救世主たり得た。自ら進んで時間外に勤める彼は、天凱にとってありがたい。
それもこれも、彼という人間を偶然拾ったからだと考えると、自分の運も捨てたもんじゃないと思えるのだった。
「あ、そうだ。そういえばさ、あの彼女、まだ続けてくれるみたいよ」
「それは良かった。これ以上人が抜けると二十四時間開いているのが辛くなる。抜けた穴は俺が入れば良いとはいえ、埋まっているに越したことはない。……この調子だと難しそうだが」
あの彼女、とはつい先日この店を、というよりかは斎藤を狙って男が襲撃して来た時に斎藤と共にいた少女のことだ。すぐに斎藤の手によって無力化されたが、それでも短い時間は命の危険に晒されている。
それで辞めてしまう場合が多かった。今まで何人もそれでバイトを辞めている。このコンビニのバイトの入れ替わりが激しい最大の理由だ。とは言っても、出て行くだけで一向に入っては来ない。
その意味ではその少女は強い女だった。堪えていないわけではないだろう。それでも続けるという選択肢を選んだその少女を有り難く思った。できればこのままどうか辞めないで欲しいと斎藤は願った。
だがそれも叶わないだろう。この萌え萌えワンダーマート、店を開いてからおおよそ六年の月日が経っているが、一年もった人間は斎藤を除いていなかった。
「ま、しょうがないよ。こんなとこだし。でもまあ、あんたがいてくれるから、私はいいかな」
笑顔で天凱はそう言った。妖艶な響きも、甘い感情もない純粋な喜を表す笑みに斎藤はつられて口角を上げた。
「いつまで経っても変わらないなお前も。歳に合わないというか……」
「ちょっとぉ! どういう意味よそれ。どう見てもピチピチの十八歳だってーの!」
「古いぞ、それ」
「ムググぅ、だったらなんて言えばいいのよ!」
「ピチピチなんだろ。自分の肌に合った言葉は自然と身につくはずだ」
何も言い返せなくて、天凱は斎藤を睨みつけた。このままいくと給料も下げられてしまいそうだ。そう感じた彼はこれから数十分もかけて彼女を宥める仕事に入るがその間にも客は来ていて、別のバイトがその割りを食うのだ。バイトの入れ替わりが激しい理由はここにもあった。
例えば人間の大半が、どうやって歩いているのかを知らないのに当たり前のように日常にそれを織り交ぜるが如く、知識と行動が必ずしも結びついているわけではない。知らないことだってできるし、できることを知らないこともある。
異能とは総じてそのような存在だった。誰も何がどのように作用してその現象が確立するのかは知らない。けれどできる。
魂に刻まれた異能は、手足を動かすように自然とそれを可能にした。
時計塔で一人、少女は思うのだ。この異能はあるべくしてあったのだと。それがどんな理由でどういう理屈で、どのように使えるようになったのかは知る余地もないが、間違いなく何度生まれ変わってもこの異能は私のものだったと少女は確信する。
運命だった。砂浜で一つ砂粒を拾うがごとく偶然に授かったようなものではなく、初めから色付けされたそれは、私が拾うためにそこにあったのだ。と、いつでもそう感じる。
指の先から肘ほどの大きさのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。今からイライラを取り除く。もう飽き飽きしていた。この世界であって、私のものでない部分に少女は嫌気がさす。今日の騒ぎは多くある引き金の一つであって、たまたま少女の機嫌が良くない時に引かれただけだ。爆発は時間の問題だった。
「始めましょう」と少女は小さく、他はその人形の耳にしか入らないような声でそう呟いた。
いやらしく彼女はその唇を釣り上げた。背徳的な色気が、漏れ出す。見た目に似合わない、危険な香りを少女は発していた。人を惹きつける香りだ。でもそれは決して良いものではない。
薔薇は触れる者を棘で傷つける。美しさに惹かれた愚か者への罰を与える。では少女は、何を与えるのか。
棘で刺す。なんて、そんな子供らしい。
甘えたもので許すつもりはなかった。そもそも少女は許しを求めているのではなかった。
綺麗な満月が光一つない零番地区を明るく照らした。少女の号令からそう間も置かず、シン・秋葉原の街中で悲鳴が木霊した。
どこの場所でかは少女は知り得ない。ただ荒らせという指令のみを受け取った『彼』が好きなように荒らしてくれるだろう。まずはこれでいい。本当の始まりはここ、零番地区にて開かれる。
「ふふっ、楽しみ。誰が一番最初に私の元に辿り着くのかしら。恐らくは騎士団だとは思うけれど」
歪んだ笑みを隠さない。これは一歩なのだ。シン・秋葉原をこの手で奪い取る最初の一歩。まずは主力をホームで潰して、そこから悲鳴をバックグランドに少しづつ制圧していく。そしてシン・秋葉原を手中に収める。
「本当に、楽しみね」
少女は一人ではなかった。いつでも側にぬいぐるみがいた。
寂しくはなかった。いつでも側にぬいぐるみがいた。
悲しくはなかった。いつでも側にぬいぐるみがいた。
これからも、ぬいぐるみが側にいてくれればよかった。
ぬいぐるみだけが側にいてくれればよかった。
街で暴れ散らかしている大きな影。その化け物が毛糸で出来ていることに皆が気づいたのはすぐのことだった。
ぬいぐるみだった。まごう事なきぬいぐるみだった。何処からどう見てもそれは熊の形を模したぬいぐるみで、その大きさ以外、そうでない部分はなかった。ただそれは動いていた。ぬいぐるみがひとりでに動くだけでも恐怖ものだが、それに加えて街のあらゆるものを破壊し始めたのでは、叫びをあげて逃げ回るより他はなかった。
崩れる。ビルが、店が、家が、そのぬいぐるみの動く後には瓦礫しか残らない。死人がまだ出ていないだけでも奇跡だった。
一人の男が果敢に挑んだ。異能を持つ男である。その右手を振りかざして、その手の中に小さな光の矢を生んだ。鉄板すらも撃ち抜く高エネルギー体である。ただそれがどのような原理で生み出されるのかも、どういったエネルギーなのかもわからない。それが異能であり、わからなくても使えるのが異能であった。
ただとにかく速度が遅い。その光の矢が生み出されて、それから熊のぬいぐるみの元へと至るまでにおよそ数十秒以上の時を要した。そう離れていない距離である。
そもそもぬいぐるみの目の前に立ち塞がり、意気有り気に発した異能だ。それで拍子抜けするような低速でそれが移動し出したのだから、周りの目はなんだこいつはというものに変わる。いざ我が、と出てきた時のような期待感は薄れ、人々は命知らずと遠巻きに見つめるのみだった。
だが避けることもなしに、ぬいぐるみにそれは当たった。
鉄板を容易く撃ち抜くはずのそれは、少しの焦げ目をつけただけで消えて無くなる。男は泣いた。人々はあぁ、と声を漏らした。
「どいてくれ」と男の後ろで声がした。
一つ反応遅れて、気が抜けたような「え?」という声を出す男を、ぐい、と手で横に追いやると、何処か店の制服に身を包んだ男が姿を見せた。よく見ると胸元には『萌え萌えワンダーマート』という刺繍がしてあった。縫った者が不器用なのか、微妙にほつれてはいるが。
誰かが声をあげた。
「聞いたことあるぜ。萌え萌えナンチャラとかいう店の話だ。どうやら馬鹿みたいにやばい男がいるってやつ」
「やばいって、どんな風によ」
「詳しくは知らねえ。だが、俺の知り合いの連れの親戚が言ってたんだけどよ。シン・秋葉原最強って話だぜ。最強のバイトリーダーって名前は聞いたことぐらいあんだろ」
「聞いたことはあるけど。出鱈目みたいなものじゃないの? あんたの話も胡散臭いし」
「バカ言え。俺はだなぁ、昔っから……」
などと、話がずれ始めたところでその会話から意識を離した人々はそのコンビニ制服を纏った男を見た。
妙なオーラを感じさせる男である。そこにいるだけなのに、圧倒されるような威圧感が人々を襲った。人々の中には正確にその男のことを知っている者もいた。彼の名は、闇に暮らすものほど詳しい。最強のバイトリーダーとは、彼自身が流した名前でなく、必ず他の誰かがつけたのだからあるのだ。
男、斎藤玲司は、怒っていた。それもそうだ。守るべき街を壊されたのがどうしようもなく腹立たしい。それも萌え萌えワンダーマートの近くも近くで。自然と平時より握る拳に力が入るものだ。
ぬいぐるみは殺気を感じ取ったのか、第一に優先すべき目標を斎藤へと変えた。
五メートルもある巨体を動かして、押し潰さんと上から殴りかかった。
身体に似合わず俊敏な動作だ。その毛糸で包まれた狂気の一撃は、斎藤へ直撃した。