コスプレイヤーのお姉さん
空が茜色に染まる土曜の午後、佐藤奏、三十二歳は目の下に隈を作りながらも必死に機械を動かしていた。
カタカタと音を立てるそれはパソコンのキーボードではなく家庭用ミシンで、近くのテーブルには四本針のロックミシンも設置してある。アイロンや乱雑に置かれた型紙、布の端切れが床に散らばり足の踏み場もない程で、何も知らない人から見れば泥棒が入ったのかと疑われるほどだろう。
ここ数日残業続きで手をつけられなかった作業だが今日までに終わさなければならない事で、金曜の夜から徹夜をして手を動かしている。席を立つ時は尿意を感じる時のみで、殆ど食事という食事はとってはいない。腹がグーグーと空腹の音をあげるが構ってなどいられず、手元にあるチョコやら煎餅を齧りながら睡魔に襲われる目を擦る。動くミシンの側を良く見てみればブラックコーヒーの缶がゴロゴロと転がっており、胃炎にならないか心配になる程だ。
そんな苦悩をしても尚、完成させなくてはならないものは其処にある。どんな思いをしても苦労をしても、空腹や睡魔に苛まれようがリミットはあり、残る時間はあと30分。
それまでにこの”〜君に捧げる愛の歌〜”のメインヒロイン、”東堂めぐみ”の衣装を完成させなければならないのだ。
アイドル衣装を模したヒラヒラの衣装に小さな星型のアクセサリー、髪留めにも虹色に輝くバレッタ。今の所衣装以外の小物の準備はすべて終了しており、残るは本体衣装のみ。
ブーツカバーやセットしたウィッグは既に別の鞄にしまってあり、本当に残るのはこの衣装のみ。
だぁぁぁあと、奇声を上げながら最後の青いレースを縫い付けあたりが暗くなる直前にラストスパートをかけた。彼女の住んでいるのは集合住宅、所謂アパートであり遅くの時間までミシンを踏むことは出来ないのある。そのために設けられたタイムリミット、その時間ギリギリでようやく”東堂めぐみ”の衣装は出来上がったのだ。
「でぎだぁぁぁぁあ! 我ながら最高傑作ぅぅう!」
両手でその衣装を持ち上げうっとりと見つめ、安心して安物のソファーになだれ込む。今日までに出来上がらなければ明日のイベントに間に合わないどころか、如何して約束を破ったのだと怒鳴られるところだった。
ふぅとひと息つきキッチンへ向かい電気ケトルでお湯を沸かし、マグカップにルイボスティーを入れその場に腰を上げ降ろした。
直ぐにでも布団に入って眠りたい。
それが率直な楓の気持ちだ。しかしながら直ぐに寝ることは出来ない。
今日この後、ここに待ち人が来る予定なのだ。
彼女がウトウトと舟を漕ぎ出した時、来客を告げるチャイムは鳴り響いた。
ピンポーンなるチャイムの音に身体が反応し、台所下の収納棚に頭をぶつけるもその頭を抑えながら楓は玄関に向かう。
数度と鳴り響くチャイムにハイハイと声をかけながら玄関の扉を開けると其処には一人の男が立っており、奏を鋭い眼差しで見ていた。
男は二十前半で赤に近い髪、チャラチャラとした服装にガムをクチャクチャと噛んでいる。身長は奏より10センチ程高い。顔は整っているが、その眉間には三本の皺が刻まれていた。
「待ってたよ、智紀くん」
「ーーおう」
彼の名前は東堂智紀。チャラチャラとした厳つい顔の男だが、これでも奏の義弟である。
楓と智紀の出会いは今から十年ほど前にさかのぼる。
楓が二十二、智紀が十四の時に互いの親が再婚した時からの付き合いだ。
当時から楓は地味子と呼ばれほど地味で、営業でも事務でもない、酷い言葉で底辺とも言われてしまう工場に勤めていた。楓自体は好きな事をやっているのだからと気にしてはいなかったが智紀はそうではなかったらしく、新しく出来た姉に対して恥ずかしいやら底辺やら地味やらと酷い言葉を浴びせ、その存在すら無視することも少なくはなかったのだ。
かといって楓はそれを怒りはしないで思春期にいきなり家族が増えりゃ仕方ないと気に留めることなく、頭を下げる義母にも大丈夫だからと気にしないでいいとフォローをしていた。
そんなすれ違う生活の中、二人が仲良くなれるきっかけは両親の旅行が出かけたある日の事、洗濯物を義弟の部屋に届けた時に楓は知ってしまったのだ。智紀のベッド下に何やら薄い本が隠れて隠れていた事を。
勝手に盗み見てしまうのは申し訳ないと思ったがその好奇心には勝てず、そっとその本を手にとってしまった。
そしてその時ばったりと、運悪く、智紀が帰宅した。
慌てて同じ場所に隠すも階段を上がって来る足音と、出口を塞がれてしまう緊張感。窓から逃げようにも此処は二階で、足をかける場所もなく、楓は腹をくくった。
「ーー何してんだよ、人の部屋で」
「あぁー、……洗濯物を届けに?」
プチッと何かが切れた音とともに出てけと智紀に鞄で殴られるが、此処は姉として言っておかなければならないと歯を食いしばりその鞄を顔面に受け、苦笑いで智紀の方に手を置いた。
「BLもGLも読んでも良いけど、十八禁はまだダメだと思う」
さっと青ざめる智紀に大人になってからにしようねと諭し、から笑いをしながら部屋を出て、奏はため息をついた。
何せ義理の弟が、オタクだったのだ。十八禁を読んでしまうような、コスプレ雑誌を読んでしまうような、自分と同じ様な、オタクだったのだ、ため息だってつきたくなる。
見かけはリア充な中学生なのに、中身は自分と同じだなんて誰が想像しよう。
後ろの扉の向こうで項垂れる超えが聞こえて来るような気がするが、今はそれを無視しようと奏は自室に向かったのだ。
それから両親が旅行から帰ってきて数週間が過ぎた頃、奏はいきなり智紀に俗に言う壁ドンをされたのである。
ギリギリと歯を鳴らし、人を殺さんばかりに睨みつけて来る智紀に冷や汗をかきながらもどうしたと声をかければ、ちょっと面を貸せと不良のような事を言われ、ひきづられ智紀に自室に足を踏み入れた。
先日と違い小綺麗にされた部屋の床に正座し、弟である智紀は自身のベッドに座る。まるで立場が逆ではないかと思うが、見た目の強弱ではあっているのかもしれない。
「何か、ようかな? 智紀くん」
オドオドとヒヤヒヤと伺いをたてるも彼は眉間にしわを寄せたままで一向に口を開かず、奏はため息を一つこぼした。
用がないなら出て行くよと声をかけると、顔に似合わないか細い声で智紀は奏に声をかけかける。その声は何処か不安そうで、奏の中に秘めたる母性本能をくすぐる。
「母さんに、言ってない?」
「ーー薄い本のこと?」
例の本のことかと問いかければ智紀はびくりと肩を揺らし、瞳をキョロキョロと動かす。その姿に悪いと思ってるなら買うんじゃないと怒るようにいえば、先ほどとは違う意味で眉間に皺がよる。
「ーーお前は、気持ち悪くねぇの? 俺、その、オ、タクみてぇ、だし」
「それを言ったら私もオタクだ、気にしなくて良いよ。 ただ、年令誤魔化して買うのは駄目。 なんかあったら親に迷惑かけるんだから気をつけないとね?」
奏だって智紀の年令の頃誤魔化して同人誌を買ってみようとも思ったが、万が一父にバレ、趣味自体を禁止されてしまうのが怖かった。そしてもしその趣味の所為で父に嫌われたり迷惑をかけるのはもっと嫌だった。
だから智紀がその行為をしていることに若干の嫌悪感はある。だからと言って怒鳴り散らすのもよくないし、認めるのも良くない。故に自分で判断する事を奏は智紀に求めた。
「それと、嫌だろうとけど”姉さん”か名前で呼んでくれないかな? 子供同士が仲良く出来ないと親が悲しむでしょ? 姉だと認めなくて良いからさ」
実際奏の職業を馬鹿にする人間なんて巨万といる。製造業だの工場だの、作業服を着てる人間は底辺だと言われる事だって多々ある。だからと言って兄弟でそれをされると拒絶されている感じが直に伝わってとても嫌な気分さえなった。だからせめて態度には出さないで欲しいと楓は智紀に言い聞かせた。
「ーー”姉さん”もオタクなの?」
「そ、だから無闇矢鱈に親にバラす事はしないよ」
敵じゃないと言い聞かせるようにオーバーリアクション気味に頷き、だから心配はするなと智紀の頭をなで、引きつった笑みを浮かべた。
智紀はそんな奏に微妙な表情を見せるも分かったと頷き、その日を境に二人の距離は縮まったのだ。
そして月日は流れ、冒頭に戻る。
奏と智紀はぎこちないながらも共通の趣味を通して兄弟としての絆を深め、一人暮らしをする姉の元に泊まるまでの関係なったのだ。
いちおう忠告はしておくが、そこにやましい関係はない。純粋に智紀は奏を姉として慕っているし、奏も良き理解者として義弟に接している。
ただ一つ問題があるとしたら、そこにとある関係性が別に出来ていると言う事だろうか。
「ねぇねぇ、見てよこれ。 私、凄く頑張ったと思うの! ねぇ! どう!?」
寝る暇を惜しんで作った衣装を片手にくるりと回り、隈の出来た目を歪めてにししと笑う。他者から見れば気持ち悪い事この上ないが、この兄弟に限ってそれはない。
「いいんじゃねぇ? っか、ここんとこのレース、安物じゃねぇだろ」
「わかるー? ケミカルレースつけちゃった!」
奏は奮発したんだよと笑い、いきなりバタンとソファーに倒れ込んだ。その様子に智紀は呆れながらも嬉しそうに笑い、いつも有難うと頭をかいた。
そう、この衣装。着用するのは奏ではない。
このチャラ男のヤンキー擬きの智紀が着る衣装なのだ。
智紀がコスプレにハマったのは彼が高校生の時、文化祭で女装をさせられたことから始まる。女装なんて、とイヤイヤ衣装を着せられていたが、メイクをしウィッグをつけた自分の姿に感動し、大好きなキャラに俺でもなれると思いついてしまったのだ。
しかし当時の彼はバイトなんてしていなく、同人誌などはお小遣いとお年玉を工面して買っていた。故にコスプレ衣装を用意するお金ない。
だからだろうか、年上の、理解のある姉に相談してみたのだ。
『コスプレがしてみたい』と。
奏は奏で顔の整ったぎこちない弟がコスプレをしたいと言った日にゃ両手を挙げて喜び、何とか工面しようと意気込んだ。丁度いいことに奏の産みの母は洋裁を得意としてた人で、幼いことからみっちりとしごかれたいた経験が活かされた。
彼女も腐ってもオタク、ウキウキと衣装製作に励み、智紀に好きな男の子キャラをやってもらいたかったと言う汚い理由もあり、彼の望むキャラの衣装をせっせと作り上げた。
一方で智紀がコスプレしたいのはことごとく女キャラで残念に思ったのも事実もある。
つまりはこの兄弟、互いに好き勝手に生きているだけなのである。
姉は姉で弟の可愛い女装姿をニヤニヤとみつめ、弟は弟で可愛い女の子になりきる。
人気キャラより好きなキャラ。コスしたい派と衣装作りたい派の互いの利害が一致したオタク兄弟なのだ。
「明日のイベントの写真、ちゃんとみせてねぇ」
「わーってる」
ベッドの上に奏をゴロンと寝転がし、智紀はクローゼットからもう一組の布団を取り出し、自分の寝床を確保するして智紀は思った。
俺は恵まれている、と。
両親には気があう兄弟と思われているし、一応二十歳を過ぎた時に智紀自身がオタクだと言い切ってある。
拒絶されるかと思っていたが、好きなものを好きと言えるのは素晴らしいよと、両親はその趣味を認めてくれてた。
だからこそこの相互関係は続いているのだ。拒絶されていたら父親の方にはいい顔されなかったかもしない故に。
「おやすみ、姉さん」
血の繋がらない弟のために睡眠時間を割いてくれた姉に感謝して、智紀はそのゆっくりと寝室の扉を閉めた。
翌る日の朝、奏が目覚めた頃には目覚めた頃には智紀の姿はなく、代わりにスマホには大量の画像が送られてきていた。
「相変わらず、私の義弟は可愛い」
女としての自信をなくしつつも、可愛い弟のために姉はまたフリフリの衣装作りに励むのである。