宇宙間ニート
猫も食わねえ。
空腹に苛まれて蒼く仄暗い冷蔵庫の中を覗き込んだ。唸るような機械音に、古びたタマネギと食べかけのチョコレート。
僕は食欲を失って、そっと扉を閉めた。機械音は続いている。カーテンを締め切った家の中は水の底か、あるいはここも冷蔵庫の中か。冷えた空気のせいか、停滞した時間のせいか。
今が何時なのかも確認しなかった。それどころか僕は、今日が何月の何日かも知ろうとしない。
猫がいなくなって数時間が経った。僕は彼女を、一体いつになったら探しに行くのだろうか。
世界は滅んでしまったけど、今日も天気だけは良好だった。人が消えたコンビニエンスストアを、誰の為でもないのに点滅し続ける信号機を、平等に照らしては沈んでいく。
あの日、唐突に死んでしまった全てを想う。
正確に表現するならば、誰の元にも死は訪れなかったのかもしれない。一段と暑い夏の日だった。目が覚めると人間だけが煙のように消え去って、僕はそんな世界を呆然と見下ろしたのだ。
核は爆発しなかった。太陽は落ちなかった。
空から大魔王がやって来ることも無かったし、未知の病気が世界的に流行することも。第三次世界大戦を待たずして、人類は消えてしまったのだ。
前日の夜は何事も無かった。世界は普通だった。もしかしたらその日の朝まで何もかも平穏で、何人もの人間が至る所で目玉焼きを作っていたのかもしれない。
不摂生な僕が目を覚ましたのは昼過ぎのことだから、いつ、何もかもが自分を取り残して消え去ったのかは分からないけど。
それでも人の姿だけが世界から失せて、僕は猫と取り残された。
人影が消え去った街並み。音のない道路、曇ったショーウィンドウ。
こんな世界で僕は、未だニートを続けている。
「何してるの? 突っ立ってさあ」
キッチンに立ち尽くしていた僕の耳に、囁くような声が届いた。またしてもそいつは現れて寂しそうに微笑んでみせる。
「猫……いなくなったんだけど」
「ううん、そう。どこいったんだろうね」
お前が盗んだんだろ、とは言わなかった。
彼女は僕の元カノだった。あんまりにも救いようのない僕に呆れて別れてしまったのは、もう数年も前のことになる。その時はまだ人類が存在していて、僕もニートじゃなかった。
今となっては良い思い出なんだけど、彼女に合鍵を返却させなかったのは大きな過ちだったと反省しなくちゃならない。
何故なら彼女が来る度に、僕の家のものがひとつ消えてしまうからだ。
家に金目のものは無い。むしろなけなしの金が記された通帳や、死んだ親から譲り受けた高い時計は手付かずだった。
ある時はお気に入りのマグカップ。
ある時はしゃもじ。
そしてある時は、テレビのリモコンだった。これには心の底から辟易した。
どうしてこうも、微妙に困るものばかり盗んで行くのだろう? 本人に問いかけたこともあるけれど、そいつは相変わらずこう言うのだ。
「そんなことより、もっと考えなきゃいけないことあるんじゃない?」
「とりあえずお前が盗んだものを返してくれるよう働きかけるのが先だろ」
「もっと別のこと考えなよ?」
確かにマグカップが無くなればテンションは下がるし、しゃもじが無ければごはんをスプーンで掬わなきゃいけない。テレビのリモコンについては……考えるのも嫌になる。
勿論、猫がいなければ寂しいわけで。
そんな、僕のニートな日常を構成する微妙なものたちを、彼女は盗んでいく。
「ねえ、盗んだものを返せ。そして帰れ」
「いい加減ニートなんてやめて、外に出たら?」
「話を聞けよ……」
彼女は僕の肩をぽんぽん叩くと、テーブルの上に惣菜の入ったビニール袋を置いた。ごはんにしようと言うのだ。
「どうせ朝ごはん食べてないんでしょ? 遅めだけど、流石に昼は抜いちゃダメ」
「……んー」
「お米ある? 炊いてる?」
「うーん」
のろのろと邪魔をする僕をリビングに追いやって、彼女は次々と惣菜を電子レンジに放り込む。
茶碗をふたつ、慣れた手つきで戸棚から出すのを、僕は為す術もなく見つめていた。低く唸る冷蔵庫の音が絶えず部屋を満たしているのに、彼女は忙しなく動き回るのだ。
「ああ……しゃもじ」
「無いよ」
「不便過ぎない? こんなんじゃ日本人として生活できないよ」
「スプーンを使え、スプーンを」
「このズボラなニート嫌だわ……」
盗んだのはどこのどいつだ。
結局彼女はスプーンで米をよそうと、それも電子レンジに入れた。少し微温いくらいになった惣菜が次々とテーブルに並ぶ。
食欲のない僕は、目の前に並んだ食べ物を無感情に眺めることしか出来ない。
「はい、いただきます」
「……いただきます」
いつもの食事だった。頼んじゃいないのに、僕なんて放っておけばいいのに。
「うまい?」
「うん……あのさぁ、お前」
「何よ、ほらこれも食いなよ。唐揚げめっちゃうまいよ」
「貰うわ、いやそうじゃなくて。お前この惣菜、一体どこで買ってくんのさ」
彼女が箸を止めて、そっと目を泳がせる。何も置かれていない卓の上の空白を撫でていく。
「みんないなくなったよ。この世界、もう空っぽだ」
「そうなのかもしれない。そうじゃないかもしれない」
ぶすり、と箸を鶏肉に突き立てて彼女は笑った。ほらうまいよ、食いなよと促す。
確かに肉はうまいけれど、何故か食欲は無い。世界は終わってしまったのに知らんぷりをして、彼女はのうのうと生きている。気にする人がいなくなったはずなのに未だニートを続けている、僕も他人のことは言えないけれど。
食事を終えたらビニール袋にゴミを纏めて、その後に彼女とじゃんけんをした。負けたら掃除機をかける約束をしてしまったので、やっぱり僕は敗北する。馬鹿みたいに右手でチョキを作ったまま、グーの彼女に頬を軽く殴られた。
諦めて掃除機をかける。
ソファに座った彼女はケラケラ笑っている。
世界は静まり返っているのに、僕の家は賑やかだ。
「ね、昨夜の話をしてよ」
「どんな?」
「何してたのさ」
「何にも。やることないし」
嘘つきだねぇ、と彼女。本当に何も触ってないし考えてなかったんだね? と念を押されて根負けする。
「昨夜も小説を書いてたんだ。ええと、犬の話」
「へぇ。どんな話?」
「うーん……犬が、地球を眺める話だ」
どこから? 月から?と食いついてくる。残念ながら犬は、どこかの星に降り立ったりはしなかった。
「宇宙から、だよ。そりゃ地球も月も宇宙の一部なんだけど、僕にとってのそれは何も無い空間のこと。地面も空気も何も無いところから地球を眺める話なんだ」
ロシアの犬でしょ、と彼女が笑った。全くその通り、彼はロシアで生まれて宇宙で死んだ。
僕の小説は、犬がロケットに詰め込まれるところから始まる。実際、そんなシーンから始めたらもう宇宙に行って死ぬくらいしか展開が残っていないので、変化に乏しいものになってしまう。
それでも僕は、地球にいる犬を書きたくなかったというだけ。
「へへ、つまんなそー」
「つまんないよ。でも書きたかったんだ。うちの猫を見てて思いついてさ」
昨夜はちゃんとそこにいた、僕の猫。
大袈裟に仰け反ると、どうして猫を見ながら犬の話を書くんだと驚かれた。
「魚を見ながら哺乳類の話を書こうとは思わないけどさ」
「だって犬と猫だよ? 全然違うじゃん」
「どちらもそこまで違わないよ。そもそも犬と猫を対極のものみたいに扱う世間一般の空気みたいなものが嫌いで……」
「あんたの猫、外に逃げたんだよ」
へらへら笑う彼女が、それを何でもないことのように告げる。
「……お前が盗んだんだろ」
「外に逃げたよ」
「お前が逃がしたんだ。それは盗んだのと同じだろ」
「飼い主は探しに行ってあげないといけないんじゃない?」
問いかける僕に答えてくれない。どれほど追い詰めようと、真剣であろうと関係がなかった。その口から核心的な内容が紡がれることは、僕が記憶する限りでは。
外を見る。いつしか暗くなり始めた世界はどうしてか明るい。誰もいないはずなのに、ひび割れたビルからホタルのような脆い灯りが漏れているのだ。
「あんたさ、病気なのよ」
「なんだって?」
「病気なのよ」
ぼうっと外を眺める彼女の瞳が、そんな曖昧な光を吸い込んでいる。電気もつけない真っ暗な部屋でそれだけが輝く。
耳が痛くなるような静寂。
「……健康だけど? 確かに食欲はないけどものは食うし、別にどこか痛いわけじゃない。生きる気力っつうか、やる気は無いけど生きてるしやることはやれるし。こんな状況でも趣味だけはやめれなかったりするんだ」
「それでも病気だよ、あんたはおかしい。普通じゃない。いつまでも放っておくわけにはいかないでしょ」
暫く言葉が思いつかなくて、やっとの事で「そうかな」と呟いた。代わりに、どうかな、なんて言ってしまえば彼女は酷く怒っただろう。
怒らなかった彼女は目を閉じた。何度か深呼吸を繰り返して、静かに頷く。そうだよ、と言葉を落とす。
「そうだよ。このままじゃいけないよ」
「でも……」
「当然のように受け取らないでよ。私がどうしてここに来るんだと思う? もう別れたのは何年も前だってのに、どうしてここまでするんだと思ってるの?」
それが分からないから、いつも不審に思っていたというのに。
お前が来てから、僕の家からものが消えるようになったんだ。どうしてリモコンが、しゃもじが、マグカップが盗まれるのか、理由と併せて知りたかった。
どうして猫が消えたのか、教えて欲しかった。
電気を付けず考え込む僕は一人だった。数時間前に帰ってしまったお節介な彼女のことを、纏まらない頭で考える。
このままじゃいけないなんて、漠然とし過ぎていた。
第一なにが病気だと思わせたのか分からなかった。理解できないなら危機感も生まれない、僕はまだ混乱したままだ。混乱するだけに留まっているのだ。
夜が深くなるにつれて、何も見えなくなっていく。これじゃあ歩くのも危ないと、やっと明かりをつけた。
目が痛くなるような眩しさに顔を歪めて、恐る恐る見渡した部屋はどうだろう、いつの間にここまで寂しい空間だったか。
「いつの間に……こんなに」
殺風景だったんだろう。
次の日、彼女は来ないだろう。
その次の日も来ない。僕には分かる。
別に待っているわけでもなかったし、僕は結構、もう自分が死んでもいいんじゃないかと思っているくらいの人間だ。ぬるく、不明瞭に生きることを諦めて、積極的に死のうとするよりかは生きることに消極的だった。
もう二度と会えないであろうと微かな予感を感じる。
夜空の星が一番輝く頃、彼女を思った僕は外を見た。
死んだ世界。人間だけが姿を消した世界。
このどこかに彼女がいるんだと思うと、全てに明かりが灯って見える。居るはずのない人の影が蠢いているように見える。
「僕は何もかも、あんまりに愚かなんだなぁ。どうしてこう愚かでいられるんだろう、どうして」
あんた病気だよ、と声が聞こえる。彼女は盗まれてしまった。
かつて付き合っていた男の堕落をどんな気持ちで見つめたんだろう。どんな気持ちで唐揚げを買ってきたんだろう。何もかも教えて欲しかったのに、全て手放してしまった。僕は愚かだ。人間の心は愚かだ。
ことの始まりは数年前、僕が珍しく風邪を引いて寝込んだ日から始まる。その日は友達と遊ぶ約束をしていて、翌日に仕事が入っていた。流行りの風邪に悩まされている場合じゃなかったのに、約束も仕事も断って眠り続けた。
前日は彼女と別れ話をした。それが祟ったのかどうかは分からない。あんなに酷く熱に浮かされて寝込んだのは久しぶりだったのだ。それでも買い込んだスポーツドリンクと、レトルトの粥を啜っているうちに落ち着いて、夜には寝転んだまま本を読むことができるようになった。
まだ小説を書けるくらいじゃなかったけど、安定していた。暇を持て余した僕は暗闇の中でスマートフォンを手にして、SNSの波を漂う。
誰も彼もがいつも通り、気懈い夜を過ごしていた。何一つ変化なんてなかった。
約束を断った友人が、僕の名前を伏せて愚痴を言っていた。それだけ。
彼女のアイコンが、僕の家に置いていた彼女のマグカップから、見覚えのない観葉植物に変わっていた。
それだけ。何も変わりのない夜だった。
それからどれだけ経ったか忘れるくらいのある日、僕が目を覚ますと世界は死んでいた。それを無感動に見下ろして、ああ、どうせ外に出やしないんだから構わないやと思ったのだ。興味もなかったものだから。
外の気温が分からなくて、適当にジャケットを羽織った。僕は酷い顔をしていると思う。青ざめた、目の落窪んだ男が焦って外へ飛び出す。ひび割れたアパートの階段を転がり落ちるように、やっと世界へ出るのだ。
この地球には誰もいない。
物音はこの無様な足音だけ。走ることしか出来ない。それもすぐに息を切らせて、のろのろと歩くことしか。
彼女が来てから、部屋にある色んなものが消えていった。僕はてっきり彼女が盗んでいるもんだと思っていたけれど、とんだ間違いだった。失礼な話だった。
世界はひとりでに死んだりしない。世界を消したのは僕だ。
マグカップを、しゃもじを、リモコンを消したのも僕だ。興味を失ったものから順に、僕の前から消えていく。人間の脳は恐ろしく単純で絶対的だから。
本当はどこかにあるはずだ。ベッドの下かもしれない。滅多に開かないタンスの奥かもしれない。僕は彼女のことばかり気にかけて、全て忘れてしまったのだ。
じゃあ、猫は?
「あんたの猫、外に逃げたんだよ」
そんな言葉が蘇る。僕の猫は消えた。リモコンや世界と同じように無くなってしまったけれど、故に僕は取り戻さなくちゃならない。
そうすれば彼女が帰ってくる気がした。全部僕が見えなくしたものなのだから、ひとつずつ取り戻せるはずだ。
取り戻さなくちゃならない。
猫の名前を呟く。塀の影に、植え込みの中に影がちらつく気がするは全て幻だった。
死んだ国道を渡るため、信号が変わるのを待つ。
誰もいない歩道を、まるで誰かを避けるようにジグザグに走る。
酸素の足りない身体の内側から吐き気が迫り上がるのをなんとか飲み下して、がむしゃらに。
住宅街を抜けて小高い丘のある公園に出た。いつか彼女と僕は、手を繋いでここへ来たのかもしれない。何もかも忘れてしまった。僕は一人、夜の最中に猫を探している。
さびれて土の溜まった土管の中に煌めくような光を見た。割れたガラスの反射光に見えて、僕は思わず足を止める。
猫の名前を呼ぶ。
のろのろと、汚れた生き物が顔を覗かせた。土に塗れているくせに、まんまるの目を輝かせてこちらを仰ぎ見るそいつは、間違えるはずもなく僕の猫だった。
「……は、なんで、なんで逃げたんだ。おまえは」
僕が興味を失ったなんて、猫なんかには分からないだろうに。
服に泥が付くのも構わずに、大人しい獣を抱え上げる。もう二度と逃げないように、見失わないように。僕に盗まれてしまわぬよう。
夜空が白み始めているのを、何か大切なものを見過ごしてしまった物悲しさと共に見送る。昼も夜も、大切な事象を何一つ目に収めぬまま生きてきてしまった。
全ての上辺だけをなぞる指が、誰かを捉えることもなく過ぎていく。
触れず、離れることも近付くことも出来ずに、ただ主観を灰色に枯れさせるたり甦ったりを繰り返しながら、夜と昼を駆け抜けていった。
部屋に帰ると、猫を洗う。どうしてか洗面台の下の戸棚を開いた僕は、そこに失くしていたマグカップを見つけた。
リモコンはテレビの横にある隙間に落っこちていた。
しゃもじは、菜箸やお玉に埋もれるようにしてそこにあった。探せば見つかったはずなのに、どうして盗まれただなんて思い込んだのだろう。彼女はきっと、それらが何処にあるのかを知っていた。
やっぱり核心的なことには言葉を及ばせず何も言わず、謂れのない糾弾すら笑って受け流して、スプーンでご飯をよそう彼女の姿はそこにない。
猫は何事も無かったかのように欠伸をしているけれど、彼女は帰ってこないのだ。無くして初めて気付くなんて生温いことを、もう二度と口に出来ないだろう。
離れゆく星は戻らない。
唸る冷蔵庫の音を掻き消したくて窓を開け放てば、もう朝が来ている。車の行き交う音と、遠くの道を歩く人の群れにぞっとして、僕はただ、もう二度と帰らない人を想って泣いた。