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夏だ!海だ!地引網だ!

 さて、この時代各集落の人員はそんな多くはない。


 前に隣の集落に女を取り戻しに言った時の人数は15人だったくらいだからな……。


 そんな感じだから今まで大掛かりな漁などを行うときは隣の集落と共同で行うことも多かった。


 しかし、今では女も魚を取る手伝いができるようになったので無理に共同で行う必要もなくなった。


 で、日が暮れた今、俺たちは竪穴式住居を砂浜の上の土がある部分に作っていた。


 通年で使える製塩のための竈をもたせた、製塩所兼漁網などの収納場所として使う予定の大型竪穴式住居なのだが、夏場は漁の合間の休憩所としても使う予定だ。


「おーし、はしらたてろー」


「わかったー」


「後は屋根に萱をかけてくだけだな」


「やっと出来上がるか」


 まあ、この時代の人間は皆力があるとは言え、穴をほったりするのはけっこう大変だったりするから結構時間はかかったが、ようやく完成しそうだ。


 そしてそれが完成した翌日、俺達に集落は皆で海に来ていた。


 ちなみに夏の服装は男は褌に似た下着のみか、その上に長く編んだ麻布の真ん中に頭を通せる穴を開けたものを貫頭衣のようにかぶって腰で紐で縛っただけのものだ。


 女は其れにプラスして乳袋をつけているがな。


「暑いときは、水に入るのが一番だ、ひゃっほー」


 そう言いながら海に走って飛びこむとイアンパヌも続いてきた。


「そうね、冷たくて気持ちいい」


 俺達は適当な波打ち際を泳ぎながら食べられる貝を探したりしていた。


 乳飲み子が居るものも子供を抱えてきて、子供を住居の中で交代してあやしたりしている。


 育児というのはストレスが溜まるが自分のこともは自分だけで育てるというような考えはこの時代はなく、母乳が出る人間で代わる代わる乳児をあやしてるから母親の精神的な負担は割と小さいと思う。


 歩ける程度の子供は波打ち際で波に向かって走っていってひっくり返りながら笑い転げたり、もう少し大きくなった子供は泳ぎ方を習ったりしながら皆で海水浴を楽しんでいる。


 外海だと離岸流なども危険だが、湾内で潮で流されたりする危険もそれほどでもない。


 むしろ水産食料は俺達にとって無くてはならないものだから、ある程度は早めに水になれて貰う必要もあるわけさ。


 やがて、地引網を載せた丸木舟を沖合まで漕いでゆき、沖で網を投げ込んだことを確認したら網が引ける人間みんなで網をひきはじめた。


「よーし、頑張って引っ張れよー」


「よっしゃー」


「あーい」


 そうやって大人も子供も混じって地引網を引いて来ると、魚が網にたくさん入っていた。


 網目はわざと荒くして小魚はあまり取れないようにして大きな魚だけ取るようにするのは、釣りなどのときと同じでキス、アジ、サバ、ブリ、クロダイなどがたくさんとれたぜ。


「大漁大漁、みんな分けても十分な量だな」


 他にも素潜りで海中の貝や海藻取ってきたりしながら食べられるものを皆で集めて、ハラが減ったら皆でそれらを焼いたり煮たりして食べる。


 味付けは相変わらず海水を天然の調味料として魚を木の串に刺して焼くか、適当にさばいて土器にぶち込んで煮るかしか無いのがあれだけどな。


 天ぷらやフライが懐かしいぜ。


 まあこの時代には揚げることができるだけの油脂の確保はほぼ無理だけどな。


 しかしまあ、この海のずっと向こうの南から先祖がやってきたというのも考えてみれば不思議では在る。


 ちなみにこの日本列島にいつから人間が居るかということなのだが、今のところ確実なのは11万年ほど前の遺跡が残っているのは確からしい。


 11万年というとホモ・サピエンスがたどり着くのは難しいだろうから18万年前から13万年前くらいのリス氷期にデニソワ人の一部が日本に渡ってきていた可能性は高いだろうな。


 この頃はマンモスやナウマンゾウ、オオツノジカのような比較的動きが遅い巨大な哺乳類もまだいたはずだから食料もなんとかなっただろう。


 その後13万年前の最初期にアフリカを出たホモ・サピエンスは10万年ほど前には中国にはたどり着いていたが、海を渡ることは恐らくできなかっただろう。


 この頃は暖かかったからな。


 その後日本の遺跡が多く残り始めるのが4万年ほど前からでこの頃には毛皮を身につけるというデニソワ人の風習を真似た人間が冬の間に凍りついた樺太や対馬の海峡をマンモスやナウマンゾウ、オオツノジカなどを追って日本へ渡ってきたようだ、これが一番最初の現在の日本人の直接の祖先になった可能性が高い。


 ただし港川人みなとがわじん山下洞人やましたどうじんなど沖縄あたりに住んでいた人間は、こういった北方由来の狩猟民族とは骨格などが違っており、オーストラリアの先住民族アボリジニが6万年ほど前にスンダランドからサフルランドに渡ろうとしたが海流に流されて運良く沖縄にたどり着いたのかもしれない。


 この時彼等が先に日本にたどり着いていたデニソワ人と出会ったかどうかは分からないが人口密度的には出会わなかった可能性のほうが高そうだ。


 だが、狩猟に向いた黒曜石などの採取ができる場所は火山の近い場所と限られていたので、その時に入り交じったかもしれない可能性はあるな。


 日本人はネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子が濃く残っているらしいのはそういった理由からじゃないのかな?


 その後1万7千年ほど前にスンダランドが沈んだ時にオーストロネシア系の人間が焼き畑の知識や作物の種や種芋を持って日本にやってきて、先住狩猟民族と入り混じって縄文人になった。


 その後、中国大陸で殷が滅ぶとその時に大陸から渡ってきた集団が最初の弥生系文化集団で、その後、春秋戦国時代滅ぼされた呉越の人間が大陸から逃げ出して日本へやってきたりもしたらしい。

 春秋戦国の時代では北方では鉄を溶かす技術も有ったが、南方では熱した鉄を叩いて鍛える技術しかなかった。


 だからその後もずっと日本では高炉のようなものは作られず、たたら吹きによって熱した鉄をひたすら叩いて折り曲げる製法だったわけだ。


 九州には水田に向かない土地が多かったので彼等が一番最初に根を張ったのは四国、その次が九州北部や中国地方だったようだ。


 ま、所有と戦争という概念を大陸から来た弥生人が持ち込んだせいでその後争いが増えていくのは残念だがな。


 こんな風に日本という土地はあちこちから来たいろんな人間が混じった土地だってことだが、一番古い時代からアフリカを脱出した人間が遺伝子的に残ってるのは珍しいらしいな。


 まあ、それは島だったからで大陸から渡ってきた弥生人なども縄文から住んでいた先住民族とはある程度住み分けをしていたから彼等を滅ぼすようなことはできずに、混血していった結果らしいけど。

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