生徒が逃亡した(後編)
時計を見る。
授業時間は残り五分。
「今日はこれで終わりだ! 悪いが先生は用事があるんで、席をはずす!」
俺は講師控え室に戻って、ミクニの手書き原稿を見た。
盛り上がるシーンなど、何度も消しゴムで消したらしく、ほとんど黒ずんでいるところまであった。
「やっぱ、そういうことか」
俺は原稿と生徒の住所録を持って飛び出した。
家に行っても入れてもらえるかわからないし、できればその前に決着をつけたい。
事態はたいしたことじゃない。だからこそ、長引かせて化膿するようなことは勘弁だ。今日の問題は今日のうちにすべて終わらせてやる。
俺の願いはかなった。
学校近くの大通りの噴水広場でミクニは腰かけていた。
おそらく教室に戻るかどうか悩んだ末に、ここに落ち着いたんだろう。
しょぼくれていると、小さい体が余計に小さく見える。
またうつむいていたから、逃げられないようにまずは声もかけずに距離を詰めた。
「そんなに遠くに行ってなくてよかった」
ミクニは、はっとして頭を上げた。
「な、何の用ですう……。ミクニが怒ったからといって、感想を撤回するだなんてことをしたらもっと怒るですう……。それじゃ、さらに侮辱されたのと同じですう……」
「撤回なんてするわけないだろ。だって、お前もあの原稿はダメだって感じてたんだから。同調して文句言われる筋合いはない」
「なっ……ミ、ミクニは真剣にあの原稿に……」
「――取り組んだからこそダメな部分もわかってたよな。お前がすぐに怒ったってことは図星だった証拠だ。予期せぬ評価なら怒りより悲しみが先に来る」
「うっ……」
それ以上、ミクニの言葉は出てこない。
正解だったわけだ。
あの原稿は俺がダメ出ししたところほど、何度も修正されていた。
つまり、ミクニも思うようにいってないことは感じていたのだ。自信だってなかったのだ。
それでももしかしたら意外とよくできてるんじゃないか、そんな淡い期待を胸に俺に持ちこんできた。結果は、まさしくその点を指摘される結果になった。
誰に見せても恥ずかしくないとまでは言いきれないものを出して後悔した。
なら、事態はさして深刻じゃない。
「ミクニ、恥ずかしいか?」
「あったりまえですう!」
ミクニは俺の胸をどんどんと叩いた。
「自分の気持ちがお前なんかに見透かされてるんですう! お前よりも自分自身に腹が立つですう!」
そう。ミクニは俺に怒ったんじゃなくて、自分に怒ったんだ。
下手な小説を書いた自分に。
あるいは下手な小説と感じたのが自分の杞憂ではないかという甘えに。
ミクニは自分を天才だと思いあがるような非常識人じゃない。
もっと、地に足のついた真面目な生徒だ。
「だったら、誰にも読ませずに永久に未発表にしとくか? 絶対に恥をかかずにすむぞ」
ミクニは俺の脇腹をつねってきた。
待て待て! それ、意外と痛いからやめてくれ!
「舐めんなです! それじゃ、お前の教室に通ってる意味もないですう! ミクニは小説家になって親に楽をさせてやりたいんですう!」
「じゃあ、傷つくしかないだろ!」
お返しとばかりに頭頂部を右手でぐりぐりとしてやる。傷つけ。
「うわ、痛いですう! 体罰に訴える暴力教師ですう!」
「お前が先につねったんだろ。まっ、とにかく――」
ぐりぐりが嫌なのはわかるので、すぐにやめた。
「プロになりたかったら、どんどん恥をかくつもりでいろ。で、逃げるのもやめろ。プロになってひどい評価が来たら、この世界のどこに逃げるんだ?」
ミクニは何も言い返さなかったが、代わりに小さな嗚咽のようなものが漏れ聞こえてきた。
泣きそうだけど、俺のまん前では泣きたくないってことか。
ガラス製のハートを持ってるなら、小説家になるのは、はっきり言って無理だ。世界中の人間が花丸をくれる小説なんて、逆に気持ち悪い。洗脳の魔法でもかかってるに違いない。
我慢――あまりにも地味な方法でしか、傷つくことに耐える手立てはない。
「お前に何を言われたってたいしてこたえないから、お前になら恥をかいてもいいですう……」
「だったら、これからも恥をかきに来い。たくさん恥をかいた奴はそれだけ強い」
地面が水に濡れたほうが締まるようなもので、デビュー前に苦い思いをしてる奴ほどしぶとい。
「ほら、受け取れ。お前の原稿だ」
原稿を差し出すと、ミクニはひったくるようにして、それをとった。
それからとくに消し汚れで黒さの目立つクライマックスのシーンをじっと見つめた。
「どうしたら、上手くなれるですかあ……?」
「たくさん練習しろ」
「精神論じゃなく、たとえばこの原稿ならどうすればいいか教えるのですう……」
これは補習が必要だな。
「わかった。これから時間あるか?」
「あるですけど……」
やりにくそうにミクニは目をそらした。それから、小声で――
「おなかがすいたですう……」
そういや、お昼時だった。言われて、俺も腹が減ってるのを思い出した。
「よし、喫茶店にでも入ろう。クラーケン焼きの時のお返しだ」
ミクニが遠慮なく高いメニューを頼んだので、けっこう出費がかさみました。
ダッシュエックス文庫で本になっているのはここまでですが、ここから先も連載は続きます!




