01 可愛い名前がいいなぁ
──もうダメだ……。
そう思った瞬間、その人は現れた。
親はいない。
兄弟姉妹もいない。
気が付けば一人、ゴミ溜めのような裏路地で、いつもお腹を空かせていた。周りは同じような人ばかり。大人も子供も誰も彼もが飢えていた。顔見知りはいるが仲間はいない。
王都は「美の都」と呼ばれている。
煌びやかな場所は金持ちの場所。たくさんの食べ物も金持ちの物。綺麗なものはみんな金持ちの物。きらきら光る綺麗な石も、色とりどりの綺麗な服も、透明で澄んだ綺麗な水も、掃き清められた綺麗な道も、綺麗な物はその全てが金持ちの物だった。
雨水をすすり、草を食べ、その根も食べる。ゴミを漁ることが出来るのは力ある大人だけ。力ない者は簡単に排除され、ゴミにすら有り付けない。
それでもなんとか生きてきた。
偶然王都の側の森の中で、根元に大きなうろを持つ、大きな大きな木を見付けたのが幸いした。それまで強い獣が住んでいたようで、うろの中にはその獣の毛がたくさん落ちていた。その匂いが残っているからか獣に襲われることもない。この辺りには魔物もいない。
そこで一人、木の実や草を食べ、朝露をかき集め、その命を繋いできた。
そして、ギルドに登録できる十二歳まで、なんとか生き延びることが出来た。
ギルドでは依頼を受け、それを達成することで報酬が貰える。薬草の採取から、獣を狩ること、魔物を狩ること、商人の護衛や貴族の護衛、街の中の雑用から貴族たちの雑用まで、あらゆる依頼がある。依頼内容によって報酬が変わり、依頼の達成具合によって星が貰える。その星の大きさ、数によって報酬や受けられる依頼内容が変わる。報酬のいい貴族の雑用などは星の数が多くないと受けられない。
ギルドには、年齢や性別などを確認出来る、丸く平たい透明な石がある。
おそらく十二歳になっただろうと思われる年にギルドに登録に行ったら、まだ十一歳と半分しか生きてないと、丸い石に手を乗せただけで分かった。あと一年の半分生きないとギルドに登録出来ないと知って、絶望した。もう木のうろに体が入らなくなってきている。
「この薬草知ってる?」
ギルドの受付の綺麗なお姉さんに話しかけられ、絶望からゆっくり目をそらし、差し出された草を見る。木のうろの近くに生えている草だった。いつもその根まで食べている。
頷くとお姉さんも頷いた。
「ならこのくらいの大きさのこれを、根を傷つけないように丁寧に引き抜いて、十個ひと組にして持っておいで。私が買い取ってあげるから」
──いいのかな。
思わず首をかしげる。
「そのくらいはね」
そう言ってお姉さんは笑った。人に親切にしてもらうのも、笑いかけられたのも、それが初めてだった。
毎日薬草を摘んでギルドに持って行くと、代わりに黒パンがふたつ買えるほどの小銭が渡される。
時々受付のお姉さんがお菓子や飴をくれることもあった。初めて食べた飴の甘さに、びっくりして吐き出してしまい、拾って食べようとしたら、お姉さんが笑いながらもうひとつくれた。落とした飴はこっそりポケットに入れ、付いたゴミをツバと一緒に吐き出しながら後で食べた。それは体に染み渡るような甘美だった。
木のうろに体が入らなくなったところで、他に行く当てもなく、結局うろの前で夜を過ごす。大きな木の根元は雨をしのげる。嵐の夜は悲惨だが、それもあと半年の辛抱だと思えば耐えられた。
そうして半年が過ぎ、ようやくギルドに登録できる年になり、依頼を受けることが出来るようになった。驚いたことにそれまで摘んでいた薬草の依頼料は、お姉さんがくれた小銭そのままの額だった。その全てが渡されていたと知り、初めて人に本当の意味で感謝した。
「いいのよ。こういう事は何も私だけがやっているわけじゃないわ。あなたも大人になったら、生きようとしている子を助けてあげて頂戴」
今まで摘んでいた薬草以外にも、小さな獣を狩ったり、見つけるのが難しい薬草を探したりするうちに、なんとかギルドの宿泊所に泊まれるだけの稼ぎになった。
ギルドに登録して三年。
結局うろの前の住処を離れること無く、その周りに簡単な柵を作り、やはり簡単な屋根を掛けて生きていた。
ギルドには大部屋が男女別に安価で解放され、そこで寝袋などを使って宿泊することが出来る。
寝袋は持ってない。床の上にそのまま寝転がる。そこは雨風を凌げるというだけでとても贅沢な場所だった。虫に悩まされることもない。初めて屋根の付いた建物で眠ることが出来、しかも安い宿泊代を払うと水や湯を無料で使える。初めて綺麗な水を飲め、綺麗な湯を使うことも出来た。
翌朝、温かい湯で体を拭いたとき、擦った肌からぼろぼろと何かが落ちて驚いた。受付のお姉さんに泣きそうになりながらそれを見せたら、その日の帰りに笑いながら彼女の家の風呂に誘ってくれ、丸洗いされた。初めて石鹸といういい匂いの泡で体を擦られ、何度も何度も湯を掛けながら擦られていくうちに、自分の肌が白くなっていくことに驚いた。ごわごわだった髪がさらさらになり、初めてその髪が薄い茶色だと知った。
「綺麗な髪の色ね。もう少し薄ければ貴族様の様よ。もしかしてあなたには貴族様の血が入っているのかしら?」
初めて触れる柔らかい布で、お姉さんが丁寧に髪を乾かしてくれ、寝間着まで貸してくれた。こんなに着心地のいい服は初めてだった。その手触りをしつこく楽しんでいたら、お姉さんに笑われた。
「今日は泊まっていけばいいわ」
そう言って、客間に泊めてくれ、初めて寝台で寝た。そこはあまりに柔らかでなかなか寝付けなかったはずなのに、翌朝お姉さんに起こされて、初めて熟睡していたことに気付いた。初めて一度も目が覚めずに朝まで眠れた。
「うちの寝台なんてお貴族様のベッドに比べたら岩のように硬いけど、よく眠れたようでよかったわ」
そう言ってお姉さんは笑うが、岩はもっとずっと硬いし痛い。
お姉さんは「少し大きいだろうけど」と自分の着なくなった洋服や靴までくれた。今まで着ていた服を洗おうとしたら、破けてぼろぼろになってしまったのだと謝られた。貰った服の方が上等で、破けてくれてよかったと思っていると、どうやら考えを読まれたようで、また笑われた。
お姉さんの旦那さんと一緒に朝食までご馳走になり、お姉さんと一緒にギルドに向かい、依頼に出掛けた。
そして、初めて魔物に襲われた。
街が時々魔物に襲われたり、ギルドには魔物を狩る人もいたが、今まで襲われたことはなかった。それがいかに幸運なことだったかが、襲われてみて初めて分かる。
いつもより少しだけ森の奥に入ったら、見たこともないほど大きな魔物に出会した。一目散に逃げたものの、あっという間に追いつかれてしまい、何かに躓いて転んだところで振り返り、今にも飛びかかろうとしているほんの数歩先にいる魔物をぼんやりと眺めた。
──昨日はいいことがあくさんあった。生まれて初めてのいいことがたくさんあった。いいことがあれば悪いことがある。そう誰かが言ってた。お姉さんにちゃんとありがとうって言えなかった。
唸り声をあげた真っ暗な大きな塊が目の前に迫ってきた。
──もうダメだ……。
そう思った瞬間、その人は現れた。
「よっ! っと」
そう軽く、本当に軽く、その人がその一言を呟いたら、魔物の首がはね飛ばされていた。吹き上がる魔物のどす黒い血が目の前に迫るも、透明な膜のようなものが張られているかのように、手前でその血が止まり、どろりと粘りを持って滴り落ちていく。
「あっ、あっ、ああ……」
うわごとのように繰り返されるその声が遠くに聞こえ、そこでふつりと記憶が途絶えた。
日が瞼に当たり、眩しくて目が覚めた。
「目が覚めた?」
慌てて声の方を向くと、若い男の人がいた。お貴族様だろうか、見たこともないほどの綺麗な格好をしている。慌てて体を起こすも体に何かが纏わり付いて上手くいかない。お貴族様に関わると平民の命なんて簡単に無くなる。
「大丈夫。何もしない。怪しい者でもない。昨日助けたの覚えてる?」
そう言われてよく見れば、確かに昨日魔獣から助けてくれた人だ。
「君、丸一日寝てたんだよ。あまりにも起きないからどうしようかと思ってたところだったんだけど、うん、起きてよかった」
その人にうーんと伸びをしながら言われ、丸一日も寝ていたことを初めて知った。
見れば、寝袋のようなものに寝かされている。見たことも無いような上等な寝袋は、昨日のお姉さんの家の寝台より遙かに柔らかくふわふわだ。昨日お姉さんが言っていたお貴族様のベッドとやらはこれだろうか。
のそのそと寝袋から這い出るように起き出すと、何故かあれだけ森の中を走り回ったはずなのに、寝袋から出したその服も腕も足も綺麗だった。まるでお姉さんの家でお風呂に入った直後のように。あったはずの擦り傷まで無くなっている。
脇に揃えて置かれた貰ったばかりの靴は、もっとくたびれていたはずだ。首をかしげながらも靴を履く。
「俺の名前はランドルフ。君は?」
──五文字だ!
五文字は貴族だ。しかも上流貴族か王族の名前だ。どうしようすればいいのかが分からず狼狽える。素早くはっきり答えないと。彼らの機嫌を損ねただけで殺される。
「ぁぅ、あの、ぁ……、名前、ない、です」
「は? 名前が無いの?」
その人は、驚いたようにも、呆れたようにも見えた。怒っているわけでは無さそうだ。
「ここでは名前が無いのが普通なの?」
おかしなことを聞く。名前が無いのは平民の中でも貧しいものや、裏路地で生きるようなうらぶれた者だけだ。貴族ではないのだろうか。ゆるゆると首を横に振れば、「なるほど」と呟きが返ってきた。
「名前、なくてもいいの?」
再びゆるゆると首を横に振ると、「そうだよな」とまた呟かれた。名前がなくてもいいなどと思っている名前なしの人はいないだろう。誰だって名前は欲しい。
「俺が付けてもいい?」
思わず目を瞠る。
──名前を付けて貰える? 名前が貰える?
「うーん。君さ、女の子だよね」
その言葉に驚く。何故分かったのだろうか。
ギルドのお姉さんはあの丸い石に示された「女」という表示に、心底驚いていた。それを知ったからこそ、色々手を貸してもくれたし、今まで通り女だと気付かれないようにと言われていた。それが身を守ることになるということは、裏路地で十分すぎるほどに理解出来ていた。
「うーん、可愛い名前がいいなぁ。そうだなぁ……。アレクシアはどう?」
この人は何を言っているのだろうか。思わず顔をしかめる。どこからどう見てもただの平民に五文字の名前など。
「あれ? 気に入らない?」
「ぅ、ぁの、平民だから……」
「ん? 平民だと何?」
「ぇと、ぅ、平民の名前は、二文字だから……」
「ふーん。アレクシア自体は気に入らない?」
大急ぎで首を横に振る。
──綺麗な名前……。
「じゃ、アレクシアで。みんなの前ではシアってことにすればいいよ」
──いいのかな。
それはすごく綺麗な名前だった。なんだかすっかりアレクシアになったかのような気になる。黙っていれば、この人がいいって言うなら、シアってことにしておけば、いいのだろうか。
そっと目の前の人を窺うと、柔らかく笑っていた。そんなに柔らかに笑う人を初めて見た。そんなに柔らかな笑顔を向けられたのは初めてだ。何故か心がふわっとした。
そして、それまで何者でもなかった者が、アレクシアという五文字の名を持つ者になったと、心の奥で理解した。何かが確実に変わったのに、何も変わっていない不思議な感覚だった。
「よし。ひとまず移動しよっか。あっ、その前に飯か」
ランドルフという五文字の名前を持つ人が、ごそごそと鞄を漁ると、白パンに色とりどりの具が挟まれた物が出てきた。それを「はい」っと無造作に渡される。
──白パンだ。初めて見た。白パンだよね、これ。すごくいい匂い。
「遠慮なくどうぞ。はい、飲み物はこれね。おかわりもあるからたくさん食べて飲んで」
恐る恐る口に入れると、今までに食べたことのないような味がした。一気に口の中にツバが溢れた。
「おいしい?」
こくこくと頷けば、その人は満足そうな顔で笑った。
あっという間にへろりと平らげると、もうひとつ渡された。それも夢中になってぺろりと平らげると、更にもうひとつ渡された。
「ほら、そんなに急いで食べなくてもいいから。喉に詰まらせないように、これも飲んで」
言われるがまま手渡されたものにそっと口を付けると、甘酸っぱい匂いと共に今まで飲んだことも無い味が口に広がる。得も言われぬ天上の味に思わず夢中になって、ごくごくと喉を鳴らして飲み干せば、「もう一杯飲む?」と言って、答えも聞かずにカップにおかわりを注がれた。今度は味わうようにこくりこくりとゆっくり飲む。まるで体に染み渡るようだ。
「どうした? なんか味変だった? おいしくなかった?」
気付かないうちに泣いていたようだ。天上の飲み物を持つ手に雫が落ち、ようやく泣いていることに気付いた。
「大丈夫?」
とても心配そうな顔をされた。
──そんな顔、初めてされた。
「おいしくて……」
「……感動して泣いちゃった?」
頷けば、安心したようにその人は声を上げて笑った。
天上の飲み物はオレンジジュースだと教えられる。オレンジという果実を搾ったもの。白パンに具が挟まったものはサンドイッチ。正しくはパニーノだと言われたが、その違いは分からない。
「よし、じゃあ、シアの家まで送るよ」
寝袋を丸めて鞄に入れながら、当たり前のように言われた。
どう考えても寝袋が入るような大きさの鞄じゃないのに、するっと寝袋が鞄に入っていく。それを見ていて、言われたことへの反応が遅れた。
──シアの家? 家って、あの木のうろが家なのかな。
「ここは昨日魔物? がいた場所よりも少し南に移動してるんだけど、帰る方向分かる?」
ふるふると首を横に振る。あの魔物と出会した後、どの方向に逃げたのかも分からない。
「じゃあ、空から行くか」
その人の言葉が終わらないうちに、いきなり目の前に魔物が現れた。
「ひっ……」
「あ、大丈夫。翼は魔物じゃないし」
「あんな低俗な奴らと一緒にしないでよ」
──魔物が喋った!
「魔物じゃないからね。シア。大丈夫だから。落ち着いて」
肩を掴まれ、横を向かされると、目の前に男の人の顔があった。
「ひえっ」
「あぁ、ごめん、顔近かった? そこまで仰け反られるとちょっと凹むんだけど……」
──目が空と同じ色。
なんだかよく分からないうちに、魔物じゃないけど魔物みたいなものの背中に乗せられ、すぐ後ろに五文字の名を持つ人が跨がり、その近さにおののいているうちに、その魔物みたいなものがいきなり飛び立った。
「ふぎゃーーーーーーーーー!」
「あはははははは……」
喉の奥から迸る叫び声と、その後ろから聞こえる笑い声が、静かな森に響き渡った。