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You Can’t Catch Me!!

作者: 小日向 皐

You can‘t catch me



 じめじめとした六月の空気。

体にまとわりつくような蒸し暑さとけだるさに、動く気も失せる。寝ぼけた目で黒板を見ても、わけの分からない言葉が並んでいるのみだ。

 ずっと寝ていた必修の講義は、もう理解できない範囲まで進んでいた。今からでも遅くはない。そうは思っていても、どうしても動こうという気になれなかった。大学の講義はこの六月の空気と同じだ。だるくて、なんとなく気分が沈んで、そして最高につまらない。その悪循環が延々と続く。




 「ちょっと君、そこの箇所読み上げて」突然、教授が自分を指さした。眠りかけていた頭が一気に混乱する。


「早く読みあげてくれるかな?」そんな様子を教授は気づいており、少々苛立った声で言った。


「あ、えっと…。どこを読めばいいんですか?」起動して間もない頭では上手くこの状況が飲み込めない。


「ええっ? 勘弁してくれよ」教授は、あからさまに不機嫌な目線を浩一に向けると、すぐに視線を移した。それから別の生徒を指さして浩一に読ませようとした教科書の一節を改めて読みあげさせた。浩一は申し訳なさそうにうつむいていたが、またすぐに眠りに落ちた。


 鳴り響くチャイムが授業の終了を告げると、静かだった教室が一気に騒がしくなった。浩一はのろのろと起き出すと、雑談に耽る同学部生を少しだけ見て教室を出た。そして大学を後にした。これから後の授業では出席を取らない、それを知ってしまうと、自然とそれからの授業に出る気は無くなってしまっていた。






(おい、せっかく外に出てんだし、何かやろうぜ)


大通りを寝ぼけたように歩く頭の中で、奴の声が響いた。それ自体が堪らなく不快だったが、田舎から、進学の為に上京してきた自分にはたった一人の話し相手だった。もっとも、相手の姿は自分にしか見えないので自分一人が喋っているという、傍から見れば奇妙でしかない会話になるのだが。


(いい加減つまらないとか、だるいとか思うのをやめろよ。それを聞いているこっちまで気分が悪くなるんだよ)


「うるせえ、知るか」


思わず口から出た大きな声に、前を歩いていた中学生と思われる集団が振り返る。慌てて携帯を取り出して耳に当てたが、もう遅かったようだ。中学生たちの目に映る自分は、いきなり怒鳴りだすイカれた奴といった所だろう。


(そんなにむきになるなよ。俺がお前に憑依してやってんのは、とても光栄なことなんだぜ)


「俺にはいい迷惑だ。さっさと成仏してくれないか」


(俺は天使や聖霊に属するからな、霊魂や餓鬼のたぐいではないから、成仏という単語は適切ではない)


「なんで、その天使や聖霊が俺に憑依するんだよ」


(だから、単なる偶然だって言ってんだろうが。しばらくは離れられない。なに、たった一年俺を憑依させてくれればそれでいいんだよ)



「まだ、あと11か月の間違いだ」浩一はそう小さく言った。



耳に当てている携帯は、最近は奴との会話のカモフラージュ以外には使っていない。田舎にいたころはあんなに憧れた一人暮らしの大学生活は、ほんの2か月の内につまらない環境になってしまっていた。


出遅れたという思いは強かったが、今さらどうにもならなかった。新歓にも出ず、合宿も風邪で休んでしまうと、五月を過ぎたあたりから教室は楽しそうな話し声が聞こえ始め、もともと社交的でない自分が溶け込むのは難しくなっていった。どうにかして変わりたいと思うも、毎日のようにパソコンでネット。外出は授業時のみ。巷で囁かれるひきこもりまで、あと少しという所まで来ていた。


(お前さ、自分が大学で一人ぼっちだからって、他人を羨むなよ。そんなことしたって、自分がもっとみじめになるだけだぞ)


「うるせえ」


その言葉しか言うことが出来なかった。

事実。大学では友達と呼べる人間はいなかった。ノートを借りる程度の関係も築けず、つまらない講義にも出なければならない。それも、深夜までのネットで講義中は睡眠という有様だ。情けない。この言葉が今の自分にはぴったりだろう。そんな状態を奴、堕天使ベリアルがつまらなく思うのは無理もない事だとも思う。







---ベリアル。その堕天使の名を、浩一は憑依された翌日に知った。---







もっとも、神や天使といった極めて非現実的なものの存在について浩一はほとんど興味がなかったが、ベリアルが面倒くさそうに説明する神が支配する天界は、とても新鮮に聞こえた。


 ベリアル曰く、「天界は、常に神の優位性を保つために敵を作り続ける、つまらない世界」らしい。


力を持つ天使や聖霊は片っ端から堕天使や悪魔に「格下げ」され、天界からは追放される。天界の平和の為に軍団を差し向けられることもしょっちゅうで、天界の下の世界はかなり殺伐とした世界らしい。ベリアルが人間界に堕ちたのも、天界の差し金らしいという事だった。


(つまり、平和の名前を騙った全面戦争さ。俺たち堕天使も死にたくないから戦う。その行為が天界の奴らの中では反逆という言葉に書きかえられる。そうやって消された堕天使、悪魔は数知れず。そんな奴らを人間界の大多数が信じているんだ。おかしな話だよな)


ベリアルは、そう微笑を含みながら言っていた。



(天界の目的は、俺や他の力を持った堕天使を消すことだ。人間界に堕ちたら、制約で一年は元の世界には戻れない。俺が堕ちた所にたまたまお前が寝ていた。お前に憑依したのはそれだけの理由だ)


気の毒な話ではある。だが、どうしても浩一はベリアルに対してめんどうだという気持ちは拭えなかった。






(おい、お前)


家に帰って、パソコンに手を伸ばそうとすると、急にベリアルの声が響いた。家に入るとすぐにベリアルは姿を現す。といっても、自分にしか見えていないのだが。


「いい加減名前ぐらい覚えろ。俺の名前は浩一だ」


(じゃあ、浩一)


「何だよ」


(お前、欲望だけは強いよな)


「はあ?」

いきなり何を言い出したのかと、浩一は焦った。電源を入れようとしていた手が止まる。


(つまりな、夜な夜な湧き上がってくるお前の性欲が、俺には迷惑だっていう事だよ。パソコン画面見ながら汚ぇモン握りしめてんのは、哀しさ以外の何者でもないぜ)



「それだけじゃ、俺が性欲におぼれているかどうかの証明にはならないだろうが。そもそもそんなことは大きな問題じゃないだろ」


こんなにも下らない事で見栄を張ろうとしている自分が情けない。人と話す事までもが面倒くさくなっている自分に彼女など居る訳もない。しかし、一念発起して何か行動を起こそうという決断も出来ずにいた。




(拘ってんのは、お前だろうが)


ベリアルの言葉がやけに腹立たしく感じられた。自分で掘った墓穴ではあるが、それだけに後悔も大きい。



「だから何だよ」

浩一はまた大声を出していた。劣等感に打ちひしがれている以上、この苛立ちは自身に向かっているものである。



(俺がまだ天界にいた頃、上級天使と一発やった事がある。天使なんて、一見白い肌に純情そうな顔をしていても、あの聖衣をはぎ取っちまえばみんな一緒さ)



「・・・・・・・・・・・・・・・」

ベリアルの自慢に付き合う気など、初めはなかったが、理解を遥かに凌ぐ話の内容に興味が出てき始めてもいた。



(それから、俺が天界を追放されて堕ちた世界はまさに欲望の塊だった。こっちの言葉だと、酒池肉林が最も当てはまるかな。そこにいたサキュバスたちとの交わりは凄いなんてものじゃない。それこそ魂を絞りとられるような激しさだったぜ)




「魂ねぇ・・・」今一つ理解出来ないまま浩一は呟いた。



(奴らの常套手段さ。肉の交わりから意識の交わりへ、そして最後には存在ごと消えてなくなる。奴らはそうやって弱い聖霊や霊体を食って生きてんのさ)



ベリアルのいた世界が、少なくとも地上よりも荒んだ世界であることは確かだろう。そのような酒池肉林が日常的に行われているという事を、たとえば神学者などは絶対に認めようとしないに違いない。




「で、俺にこんな話をして何がしたいんだ」

浩一は、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲んだ。少し喉が渇いていた。



(少し、お前に提案がしたい)ベリアルの口調が急に変わった。


「何だよ」


(お前は一体何のために生きているんだ?)


「え?」危うく手にしていたミネラルウォーターを落としそうになった。




(俺には天界をぶっ壊すっていう目的がある。消された仲間の仇を討たないと気が済まん。お前にはどんな目的がある?生きて何を成すつもりだ?)



「特にないよ。今は、どうしていいか分からないのが正直な感想」浩一はそっけなく言った。



(まあ、そんなものだとは思っていたけどな)ベリアルは少し笑って言った。



「どうしてわかる?」



(俺はお前と意識と神経を共有している。つまり、そういうことだ)



「何それ、お前と意識の共有だって? 最悪だよ」



(俺もだよ)ベリアルはぼそっとそう言うと、また表情を変えた。この堕天使は本当に何を考えているのか分からない。



(じゃあ本題だ。浩一、サキュバスや堕天使、この世に数多存在する妖怪を抱きたいか?)


「えっ」


(抱きたいか、と俺は聞いた。どうだ?)


「そりゃまあ、お前の話を聞いてから興味はあるけどさ」突然の提案に戸惑う。


(決まりだな、浩一)ベリアルは笑って言った。ベリアルは続けた。



(地上に堕とされた堕天使や聖霊は、実は相当数存在している。天界との永い戦争を考えれば別に珍しい事じゃない。堕ちた奴らは、生き延びるためにたいてい地上で人の命を食って力を蓄えてまた元の世界へ戻っていく。それは歴史を見ても分かるだろう。中国では数々の王朝の崩国、日本じゃ応仁の乱、ヨーロッパだと神を謳った十字軍さ。日本じゃ妖怪変化とか呼ばれていたみたいだがな)




「ちょっと待てよ」浩一は動揺を隠せなかった。

ベリアルはとんでもない事を口にしている。人間は堕天使や聖霊の食糧だと、冗談じゃない。



「ベリアル。堕天使っていうのは、人間の死には拘らないのか?」



(なぜ拘る必要がある? 生き残るためには食わなきゃならない。お前ら人間も同じだろう)



「・・・」浩一は上手く考えがまとまらなかった。食物連鎖の最上位に位置する人間。それを食料とするさらに上位の堕天使、聖霊。いわば人間が捕食されるという存在だという事を知った瞬間だった。



「おい」浩一はベリアルの方を睨みつけて言った。


「お前も俺を食うのか?」


(なぜそれを聞く?)ベリアルは笑っている。その笑みが今は不快だ。


「答えろ」


(食うと答えたら?)


「意地でもお前と戦ってやる」


(安心しろよ)ベリアルは浩一の方を見ながら言った。


(俺は、宿主を喰うほど俺は理性を失っちゃいない。それに、人間を食う堕天使や聖霊は元下級天使だ。俺から人間を手にかける事はないと断言してもいい)


「信用できない」


(まぁ、いきなり信用しろというのも無理な話か。お前の不信感も拭いきれていないようだしな)


意識の共有という事は、全ての思考が伝わっていると考えるべきだろう。そして、ベリアルの余裕のある態度に、浩一は怒りがこみあげていた。ベリアルに向けている怒りは堕天使そのものに向けられているものでもある。



(その、人の命を食らうサキュバスや妖怪が、お前のいる街にいるとしたらどうだ?)






「・・・・・・・・・・」





(俺が言うんだから間違いないぜ浩一。しかも、かなりの上玉だ)






「・・・・・・・・・・」








(どうした? はっきりしたらどうだ。お前ら人間の、ちっぽけな自尊心が邪魔するか?)




「うるせーよ」




(どうなんだ。人間の力でそいつらとヤれるんだぜ)






「・・・・・・・・・乗ったよ」



浩一は小さな声で言った。動き出す理由は不順であることに違いはないが、浩一には、良く分からない期待感が湧き上がってきていた。






 浩一の住むこの区内で、半年の間に27人の人間が失踪している。


もちろん失踪という事自体今の経済状況を考えれば決して珍しい事ではないし、消えなければならない理由も分からなくもない。

しかし、失踪者の全員が男性でそのほとんどが浩一の大学の関係者だと言う事を知ってしまうと、多少なりとも考える余地が出てくる。そして、何より特筆すべきは教授が失踪した事だろう。



 豪田政俊。一昨年に教授職に就任したばかりの男だ。

年齢は教授陣の中では41と若い方の部類に属する。経営学部のビジネス学科の教授。

その豪田が、四月からの新学期が始まるとすぐに消えた。所帯持ちにも関わらず自宅に連絡もせず、当然大学にも出勤しなかった。豪田の持つ携帯も失踪を境に繋がらなくなり、豪田は行方不明という扱いになった。


 新学期早々に教授が失踪したとあって、豪田の属していた経営学部は相当揉めたらしいが、今では滞りなく通常に授業を進めているらしい。当然失踪の波紋は大学全体に広がり、それに伴う新聞、テレビ等の報道により大学の評判は下がった。これが、浩一が知りうる失踪の情報だった。もちろん大学内ではこの話はタブーになっているので、あくまでも報道に沿った情報収集だった事は仕方がない。




(この状況から、考えられる事は二つある。一つは豪田が金銭や女での問題を抱えて自主的に失踪した場合。もう一つはこの大学に居やがるサキュバスか妖怪の類いに消されたか)



「某北の国に拉致されたっていうのも捨てがたいぜ」冗談交じりに浩一は言ってみた。



(いや、それは無いだろう。あの国の国際的な立場とその暴走性を考えても、拉致問題が日本以外にも広まった現代で、わざわざ日本人を連れ去る事は考えにくいな。それとも、他のアジア諸国の犯行だと言うのか? まともな頭を持っているなら、そんな愚行はやらん)



「そうすか」


浩一は、頭に響く声に相槌をした。適当に話を持っていこうとしたらこのコメントだ、人間の世界を何も知らない堕天使が一カ月で日本社会を知り国際情勢を知り、言語に関しては浩一の持つ英語とフランス語の教科書を読んだだけでマスターすると、英語社会に迎合する日本人はクズだと切って捨てた。まさしく、ベリアルの学習能力は人知を超えていた。



(もう一つの豪田の金銭、女性問題についてだが、女性問題は分からんが豪田に借金はないらしいな。豪田の遺族に請求書が来たという話は聞かない)



「後は女性問題か、豪田は学生に手を出すような奴なのかな」



(さあな、仮に手を出したとしても自分が失踪する所まで行くか? 適当に強請られて大金払っておしまいだろ。裁判の話も金の流れも出てこないってことは、その線は薄いか)



「なあベリアル、一つ提案なんだけど、お前も元天使なら人の心とかを読めるんじゃないのか?それで当時の豪田の心を覗けば良いじゃん」



(そんな事が出来たら、俺は神にだってなれたかもな)



ベリアルの言葉をそのまま解釈するなら、天使には人の心を覗く事が出来ないと浩一は推測した。



(それに、人の心なんて見たくもないさ)



「どうして?」



(解かれる事を望まない秘密もあるって事だと、エドガー・アラン・ポーも作品の中で言ってる)



「意味分かんねーよ」



(全ては、神のみぞ知るのさ)ぼそっとベリアルが言った気がした。
















 (少し休むぞ)そう言って、ベリアルは近くに見えた喫茶店を指で示した。


時計は一時を指している。久しぶりの晴天で少しは湿り気も晴れるかと思いきや、相反するような蒸し暑さに浩一も同意した。


 いかにも喫茶店という門構えのこの店は「ケニヤン」という名前らしい。ドアを開けて、横にあった雑誌を適当に掴み、一番端のカウンター席に腰かけた。店内には、マスターと思しき老人が一人いるだけで、客は自分だけのようだった。メニュー表の一番目立つ所に書いてあった「ケニヤンティー」を無難に選択すると、マスターは愛想よく注文に答えてくれた。


 「学生さんかい?」マスターが話しかけてきた。


「えっ、あ、うーんと・・、一応この近くの大学です・・」


何度も噛みながら、たどたどしくうけ答えをした。生身の人間との久しぶりの「会話」だ。



「どっから通ってるんだ?」



そんな浩一の精神状態を知る由もなく、マスターは話しかけてくる。



「あ・・。一応ここから地下鉄ですぐの所にアパート借りてます・・」



「そしたら一人暮らしか、地元はどこだい?」



「えっと・・、長崎の佐世保っていう田舎です・・」



頭の笑い声が一層強くなった気がした。




「ふーん、そうか。東京の生活は色々大変だろ。宗教の勧誘なんかには気をつけろよ」



「えっと・・。すいません」


浩一がそう答えた途端に、頭の声が大爆笑を始めた。ちくしょうとは思ったが、事実なので否定はできない。



(早速、お前の性格見抜かれていやがるな)



「うるせえバカ」


頭の中でそう怒鳴っていると、マスターからケニヤンティーを渡された。



「ありがとうございます」

とっさの事で声が裏返った。




「まあ、ウチのメニューを全制覇するぐらいの常連になってくれよ。もしかしたら出会いもあるかも知れないぞ」



「はい・・」



なんてことない会話のはずなのにも関わらず、浩一の頭は緊張しきっていた。マスターの言うように、喫茶店での出会いがあるかは分からないが、他人と話せた事は少し嬉しかった。渡されたケニヤンティーを飲み干すと、浩一はそのあとろくに話もせずにケニヤンを後にした。









 (気がついた事がある)ベリアルが言った。



「何だ」



(さっき寄ったあの店で、ふっと雌の匂いがした。発情臭とは違う、雄を誘惑する妖艶な香りだ。間違いなく、俺のターゲットはあの場所で男を漁っていやがったな)



「いきなりビンゴかよ、それで、それからの足取りはつかめるのか?」



(いや、そこまでは分からん。だが、あの喫茶店を奴が利用していた事は分かるさ)



ベリアルの勘を信じるならば、大学の関係者を次々に腹上死させた性豪は、喫茶店で男漁りをしていたことになる。なんとも羨ましい話ではあるが、浩一としては死ぬのは避けつつ、そのサキュバスか妖怪とセックスしたかった。もちろんベリアルがいれば安心だろうと高をくくっている。



「そしたら、俺がケニヤンに張り込むよ。もしかしたら尻尾を掴めるかも知れないんだろ」大した手がかりも見つからないだろうと思い、浩一はそう提案した。



(ここまで騒ぎが大きくなった時点で、奴がまだ同じ場所を使う可能性は低いが、やってみる価値はありそうだな)



ベリアルが同意してくれた事が、浩一にはなんとなく嬉しかった。



(そうだ、質問がある)

ベリアルが立ち止った。止まったところでそのアクションは浩一にしか見えていないわけだが。



(浩一、死んだ豪田の遺族とは連絡取れるか?)



「学部も違う俺が知っているとでも思うのか」



(なら、豪田の受け持っていたゼミ生を当たるぞ。俺は少しでも手がかりを探す、お前はその調査が全部済んだ後で、あの喫茶店に張り込め)



「良いけどさ、どうやって接触すんの?」



(お前の会話の構成能力には、端から期待してねえよ。少しの間、体を借りるぞ)ベリアルは浩一の方に向き直って言った。



「えっ?」


浩一がそう言った直後、ベリアルは右手を大きく上げ浩一の体に向けた。太い指が何度か一定の間隔で動き、その度に浩一の体は少しずつベリアルに引き寄せられていた。



  ベリアルが何か呟いている。近くにいるはずなのに声はなぜか遠く聞こえた。察するところ、体を借りる呪文らしい。

ベリアルの髪が一気に揺れて広がった。その瞬間、浩一は自分がベリアルと同化しかかっている事に気がついた。浩一の体から浩一自身が抜け出ている。ベリアルと接触寸前という所まで来た時、一気に視界が白くなった。















-------------------------------------------------------------------












 飛びこんだ真っ白な世界は、次第にその白さが薄まり、何もない透明な空間が目の前に広がった。無重力空間にいるようなふわふわとした感覚がする。


どこかで爆発音のような音が響いていたが、不思議な事に危険は感じなかった。目をじっと凝らすと紫色の空が何度かチカチカと光り、その少しあとに大きな音が続いた。



荒廃した大地に巨大な穴が、まるで月面のクレーターのようにぽっかりといくつも空いている。浩一は、自分がはるか上空からゆっくりと下りてきている事をぼんやりと悟った。確か、自分はベリアルと同化したらしいのだが、どうしてこの場所にいるのか良く分からなかった。



遠くから、かすかに耳についていた爆発音は、次第にその大きさを増している。この上空のすぐ近くで何かしらの戦闘が行われているようだった。



 更に上空から、何かが勢いよく飛んできていた。凄まじい音を立てて地上へと進んでいく。全身を白く彩った巨大な機体だ。それは一気に爆発音のする場所を目指しているようだった。


浩一は、その場所へ目を向けた。黒い人のようなものが白い何かと戦っていた。それは、巨大な爪をすばやく動かしながら次々と群がる白い何かを引き裂いていた。浩一はなおも近づく。向こうへ近付きたいと思うだけですぐに体がそちらへ向いた。周囲には自分の姿が見つかるかもしれない距離まで来ているのに、一向に自分に気がつく様子がない。それが不思議ではあったが、気にせず近づいた。




 距離を詰めてみると、戦闘の様子が良く見えた。黒く見えたのは大きな翼だ。真っ黒な八枚の翼が大きく動く。その翼が揺れるたびに白い羽は地面に落ちていった。黒い何かはなおも執拗に白い羽を狙っている。



 これは何の戦いなのだろうかと浩一は思った。次々に倒されている人型の何かには、白い羽が生えている。はっきりそうだと言い切れる保証はないが、神話や伝説を信じるのならば、これらは「天使」と呼ばれる種族なのであろうと浩一は推測した。そして、天使たちは今のこの状況では複数で戦っているにも関わらず、黒い何かに対して防戦一方といったところだろうか。


それと同時に、その天使を巨大な爪で引き裂いている黒い何かは一体誰なんだという事にもなる。空が暗くて良く見えない。もっと近づく。あと少しで戦闘の全貌が見えるといった所で、浩一のすぐ真横を先ほどの真っ白な機体が突っ込んできた。機体はまっすぐに黒い何かに向かっている。




「危ない!」


浩一がそう叫ぶと同時に機体は激突していた。一瞬周りが明るくなり、続けて凄まじい爆発音が鳴り響く。爆風に飲み込まれたと思い体を丸めたが、浩一に一切のダメージは無かった。




「どういう事だよ、これ」浩一は、そう呟いた。



今は砂煙が舞い上がっている為に判別が出来ないが、白い機体はそれまで戦っていた天使たちを巻き込んで爆発した。いわば、白い機体に道連れにされたのだ。それほどまでに戦っていた黒い何かは、強大な存在だったのだろうか。




 砂煙がまだ視界を遮っている。しかし、すぐ近くに黒い何かは確実に生存していた。その気配が、浩一には恐怖心が湧き上がるほど感じられた。

来る・・。浩一はそう確信した。僅かに晴れた視界が一気に濁る。獣の咆哮に似た声が響き渡ると、黒い何かは一直線に白い機体が突っ込んできた方向を目指して飛びだした。









つまり、浩一のいる方向である。

黒い翼が目に広がる。その姿は、血に塗れたベリアルそのものだった。

ベリアルの体と接触しようとした瞬間、また視界が白くなった。












--------------------------------------------------------------------















(起きろ、浩一)

その声に誘われるままに浩一は目を開けた。目の前には白くて透明な世界が、ではなく、いつもの自宅の天井だった。




(やっと起きやがったな)ベリアルの口調は、浩一の事を心配しているようだった。



「そりゃあ、白い機体に正面衝突されても生きてる不死身みたいにはいかないよ」



(お前・・・。見たのか、あれを?)

ベリアルは少し動揺しているようだった。



「うん。天使は憎いのか?」浩一はそう尋ねた。



(同化するとな、その影響で同化した相手の記憶が写りこむ事がある。今回のもその類いだろうから、気にするなよ)



「誤魔化すなよ」



(・・・)ベリアルは答えない。



「もう一度聞く、堕天使って事は、元々お前は天使だったって事だろ。なぜ、昔の仲間と戦えるんだ?」



(俺も、好きで戦ってんじゃない。前に話した通りだ。これ以上は聞くな)



「でも」



(聖書でも読んでろ。知識がついたら話してやらん事もない)そう言い残して、ベリアルの声は消えた。








 それから、ベリアルとの会話は大学内にいるとされるサキュバスとの話だけになった。その話だけならベリアルも会話に乗ってきたし、割と応答にも答えた。


会話が少し脱線して、ベリアルの過去を話させようとすると、相変わらずベリアルは不機嫌になってぶっきらぼうな対応をした。それはまるで子供が拗ねているような対応だったので、浩一も面白がってわざとベリアルをからかったりもした。友情と言い切るには時期尚早ではあったが、ベリアルとケニヤンのマスターとは冗談も交えたまともな会話が出来るようになっていた。



 喫茶店に通い詰めるようになると、ただネットと惰眠で過ごしていた廃人生活からは考えられなかった浩一の内面も、少しずつ変わり始めていた。



他人に対する興味が、性欲以外の所で現れ始めていた。特に顕著になったのは、喫茶店「ケニヤン」に訪れる人間の多様性を分析し出した事である。大学の近くに店を構えているからして、いかにも学生ばかりなのかと思いきや、サラリーマンが外回りをサボるのに使ったり、企業の社長がマスター相手に延々と苦労話をするのをのんびり聞いたり、元陸軍の同窓会があったりと、喫茶店一つとっても多様な人間で溢れていた。



肝心のサキュバスとの遭遇は無かったが、なんでもやってみるものだな、と浩一は思った。




 豪田の死の真相についても、主にベリアルが深いところまで手繰り寄せていた。



(いいか、豪田の死の原因はこれだ)そう言って、ベリアルが手に入れたと語った小さな石を指さして言った。



「只の石じゃん、これ」さされた石を手にとって、石をまじまじと見ながら浩一は言った。



(これは殺生石だ、お前には分からんだろうが、滲み出てくる霊気の量が凄まじい。恐らく、これを手に入れたから豪田は消された。他の学生も理由は同じだろう)



「ちょっと待てよ、これが教授が死んだ原因だって?なんでそんな物騒なものが俺の家にあるんだよ」



(持ってきたんだよ、俺がお前の体で)ベリアルはさらっと言った。



「どこから?」


(豪田の遺族の家からちょっと、な)



「ちょっと、じゃねぇよ。犯罪だろこれは」浩一は一気に動揺した。



(大丈夫だ、そんなに気にすんなよ。大事の前の小事だ)


「そういう問題じゃない。そんな危険な物を持ってたら危ないだろ」死にたくないからだ、という思いを浩一は飲み込んで言った。




(相変わらずの臆病者だな、お前は)半ば呆れたようにベリアルは言った。そう言えば、思った事も全てベリアルに筒抜けだったという事を忘れていた。



(いいか、浩一。虎穴に入らずんば何とやらだ。俺たちは今、豪田の家族から手に入れた殺生石を持っている。これは奴を釣る良い餌になる、後は俺たちが奴を捕まえる手段を考えれば良いだけさ)


「そんな事言ったって」


(お前は奴を抱く事を考えてれば良いんだよ。人間が敵うとは思わんからな)



「ああ、そうですか」なんだか嫌になって、適当に返事をした。こんな自分本位の奴が天界の重要人物だというのが信じられない。




「しかし、怖いよな。大学にいるサキュバスだか妖怪は・・」

ひとり言のように浩一は呟いた。




ベリアルに体を貸してから、否応なしにベリアルの思念が流れてくるようになった。それは、ほとんどが断片的な知識であったり言語だったりではあったが、たとえば2人が同じものを見たときなどでは、受け取る情報の度合いが明らかに違っていた。そうした情報が一気に浩一の頭に流れ込んでくるので、いつかベリアルに洗脳されるのではないかという不安も出てきていた。


もっとも、大学の課題に関して言えばこれほど役に立つ頭脳は無かったが。




(別に、特別怖がる必要はないさ。おしとやかな白雪姫も、王子と結婚した後には母親に焼けた鉄の靴を履かせて死ぬまで踊らせたんだ。そんな話が童話として残ってる人間こそが俺には恐ろしく感じるけどな)



「・・・そうかよ」

まただ、浩一はそう思った。ベリアルはいつも浩一のはるか先にいる。傍に見える黙ったままのベリアルが一体何を考えているのかは、浩一に見当がつくはずもなかった。とにかく今は殺生石を得た。プロジェクトは一応の前進を見せてきた。














 手に入れた殺生石を、アクセサリーショップに出向いて派手なネックレスに仕立て、それを首にぶら下げて、繁華街や駅前等人通りが多い所を優先的にリストアップして歩き回った。


そうした「おとり捜査」を行っていると、三日目にはその「女」から近付いてきた。



狙っていた獲物は、思っていたよりもあっさりとかかった。




女は長い髪で二重の眼、細い腰に白い指先。そして極めつけには露出度の高い服装だった。日ごろ、鬱憤と性欲ばかり溜まっている学生が、これには釘づけにならざるを得ない。頭では危険は感知しているが、性欲がそれ以上に勝っていた。女は気さくに話しかけてくると、浩一の服のセンスを笑顔で褒め、容姿や身につけているもの等多岐にわたって褒めちぎった後に、殺生石をしっかりと捉えた後、奪おうとはせずに立ち去った。



「やっぱり、あれなのかな」ぼんやりと浩一は言った。女の顔が、対して記憶力が良い方ではない浩一の記憶にしっかりと焼き付いている。目を閉じれば、すぐにでも女の笑顔が鮮明に蘇った。



(違いないな。現にお前の心は奴の虜だ、さっそく殺生石を狙ってきたな)ベリアルの言葉を認識するのに浩一には少し時間が掛った。



(完璧にやられたな、お前)ベリアルはそう言って高らかに笑いだした。



「そんな事言っても、俺は」



(確かに子どもには刺激が強いかな。それで、そのままじゃ奴の思う壺だ)

「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」



(奴の眼を見るな、奴は眼から幻覚を送り込む。失踪した教授みたいになりたくなければ、それだけは守れ)



「うん」半ば夢心地になりながら浩一は言った。その後ベリアルが何か言っていたが、浩一には聞き取れなかった。





 それから、浩一はひたすらに夜の街を歩く事を続けた。もう一度あの女に会えるかも知れない。そう思ってしまうと、何故だか行動せずにはいられなかった。


ベリアルとは毎日会話を続けてはいたが、内容のある会話をしていたかと言えばそうではなかった。浩一の脳裏にはあの女の貌がちらついて、ベリアルと深い会話をさせまいとしているかのようだった。そういった時は、ベリアルは自分から姿を消した。ベリアルの説明に拠れば、人間に「感知」出来ないように自分を変化させているらしかった。しかし、今はそんなことはどうでもいい事に違いなかった。






 「あなたの方から誘って来るなんて意外ね。私から誘おうかと思ってたのに」女はそう言って足を組み替えた。



ちらりと見えた女の白い太ももに眼が移る。浩一は何度か咳払いをして、目線を自分のコーヒーに戻した。



「いや、何か話しかけなきゃいけない気がしてさ」



「あら、それってどんな意味かしら?」女はクスリと笑ってカフェラテを飲んだ。

女の首が動くたびに、イヤリングが小さく揺れる。その一挙一動が浩一の興奮を司る神経に小刻みな刺激を与えていた。女の声も、興奮の助長に何かしらの作用をもたらしているようだ。



「まあ良いわ。あなたの話はじっくり聞かせてもらうから。ここを出たらクラブでも行こうかしら」



「ええ」浩一はそう答えてぐっとコーヒーを飲みほした。





 浩一にとって、クラブで踊る事も、浴びるように酒を飲む事も、カラオケで歌い続ける事も新鮮な体験だった。騒音のようにスピーカーから流れ出る音楽に、女は華麗に身をくねらせて踊っていた。眼が合うと、女は浩一に笑顔で手を差し伸べた。その手に導かれて浩一も踊り、女も合わせるように浩一に続いた。何曲かぶっ通しで踊った後、女はいくつかドリンクを注文して、浩一を手近なソファに誘った。



「ねえ、お酒は飲めるの?」女は額に微かな汗を滲ませて言った。


浩一は首を横に振った。実家にいるころにこっそりと飲んだ事はあるが、ほとんど下戸に近い。家では飲んだ事も無かった。



「そしたら、いろんな味を覚えないとね」女は手早く運ばれた瓶を開けて、コップに注いだ。


「乾杯」女は耳元でそう小さく呟いて、グラスをカチンと合わせた。女の汗の匂いなのか、引き込まれるような香りに少し頭がぼーっとする。その後も何曲か踊ったが、浩一は女の顔ばかり眺めていた。



女はずっと浩一をリードしている。どういう訳か、浩一は上手く声が出せなかった。その代わりに、飲むペースだけが極端に上がっていった。



「もっと飲む? せっかくの機会だし、今は楽しみましょうよ」


女はそう言ってカクテルを注文した。女のグラスは既に空になっているようだった。




 ふと、この女の体を触ってみたいと浩一は思った。肩を抱いて、女の体を全身で感じてみたいと思った。しかし、そう妄想するだけで実行に移そうなどとは考えた事もない浩一には、自分の妄想の変質に戸惑っていた。アルコールのせいか、上手く考えがまとまらない。触るか、触らざるかの決断がずっと出来ずにいたのだ。



「どうしちゃったのよ? さっきからずっと私の方ばっかり見て」

そう女に言われて、浩一はハッと正気に戻った。肩を抱こうとした腕は、幸か不幸かまだ浩一の膝の上にあった。ひとまずはその事にホッとする。



「ごめん、ちょっと酔いが回ったみたい」

浩一はそう言ってソファにもたれかかった。目を閉じると、まだ淫らな妄想が頭を駆け巡っている。そうした思いを断ち切るように、浩一は大きくせき込んだ。




「大丈夫? 私が飲ませちゃったばっかりに・・」女は浩一の顔を覗き込んできた。

目がくらみそうなクラブのライトの中にいても、女の顔は綺麗だった。



「とにかく、ここを出ましょうよ」

女はそう言って、浩一の肩を担いでクラブを出た。



浩一は、女に肩を担がれながらぼんやりと歩いていた。頭がぼんやりとしたまま帰ってこない。自分が本当に歩いているのかも怪しい状態である。


(もう、どうなってもいいかな)浩一はそう思った。もしかしたらそう呟いていたのかもしれない。

のろのろと歩くたびに、指先に何かが当たっている事に気が付いた。顔を向けると、女の胸が歩くたびに上下しており、それが浩一の指に当たっている。

(柔らかいな、これ)またしても呟いていたのだろうか。雄の本能というべきなのか、指先はずっと女の胸に集中していた。




 女は浩一をカラオケボックスにつれて行ったようだ。ルームサービスの水を何杯か飲んだ後に、浩一はそう理解した。酔いも少し醒めてきたようで、ふらつく事無くトイレまで行けた。用を足しながら、先ほどのクラブで膨らんだ妄想が再び頭をもたげていた。


 胸に間接的に触れていた時、女は嫌がる素振りを見せてはいなかった。そればかりか、意図的に胸を押しつけていたかのようにも感じる。

(これは、直接触ってもいいのだろうか・・)指先を見つめながら、そんな考えが過る。そうだ、酔った勢いという事にすれば笑って済ませてもらえるかも知れないのだ。物事は経験が肝心である。そんな理由にもならない屁理屈をつけて、決断を急いだ。



 「何歌う? ないなら私から入れちゃうよ」

女はそう言って歌い出した。歌う姿も相変わらず魅了して止まない。女の横に座って相槌と手拍子を打ちながら、浩一は女に少しずつ近づいた。気付かない内に下半身は勃起寸前である。




 「あ、あの」歌い終わった直後に浩一はそう女に話しかけた。



「どうしたの?」女はそういって指で髪をかき分けた。



「まだ酔ってるみたいでさ、横になっても良いかな?」胸が別の理由でドキドキしている。脳内ではすでに性欲と理性がアルコールで混ざり合って自分でも良く分からなくなってきている。



「良いわよ。でもちょっとこの部屋じゃ狭いかしらね」



そうは言いながらも、女は席を詰めてなんとか横になれるスペースを作った。浩一はすぐに横になった。仰向けになった頭が、女の膝付近に僅かに触れていた。


「頭、載せていいかな?」



「えっ」女が言い切る前に、頭を女の膝の上に横たえた。恥ずかしさから目を瞑っていたが、顔からは照れ笑いがこぼれた。



「どうしたの、急に甘えんぼさんになっちゃったのかな?」女はそう笑って浩一の頭を何度か撫でた。鼓動が尋常ではない早さで動き出した事は言うまでもない。


「ねえ、あなたの名前は?」女はそう浩一に聞いてきた。



「浩一。あなたは?」


「そうね、私は」そこまで言って、なぜか女は答えようとはしなかった。

そのまま、長い時間が流れたような気がした。

何か言おうとした口を、女の熱い唇で塞がれた。そのまま舌が浩一の口に滑り込んでくる。動こうともがくが、覆うように重なった女の体をどける事は出来なかった。浩一は手を伸ばして女の胸を触った。服越しではあったが、柔らかい感触が手を包み込んだ。


「ん・・」

女は確かにそう喘いだようだった。口を塞いだままするすると服を脱ぐと、白い肌が姿を現した。下着を外し、ゆっくりと唇を離すと浩一を見ながら妖しく微笑んだ。その仕草が、視界いっぱいに女の身体が移りこんでいる状態の浩一の股間には刺激が強すぎるようだった。ズボンを下ろそうとするも、なぜか両手が動かなかった。立ち上がろうとしても、足が硬直したようになっていた。声も出ずに、女の唾液で濡れた口元だけが痙攣したように動いた。目も次第に霞み始めている。これは、明らかに興奮だけが原因ではないと浩一は感じた。しかし、肝心の身体も頭も動こうとはしなかった。朦朧としてきた頭に、女の声が響いた。




「あなたは大人しくしてたから、特別に生かしてあげる」

それだけ言って、女はまた笑った。一気に視界が暗くなり、体が締め付けられるような感覚が襲った。覚えていたのはそこまでだった。





















 ベリアルが言う事には、命の40%が失われた状態になった。という事らしかった。動けなかったのも、直前まで勃起していたのも、体が必死に護ろうとしていたからというのが真相らしい。首にかけていたネックレス風の殺生石も当然のように奪われ、浩一はまんまと女の策略に嵌ってしまったという格好になった。


「それで、俺はずっと寝てたのか」


(まあ、そういう事になるな)


「その、大学は、仕方ないか・・」

ひとり言のように浩一は呟いた。そういう人脈を作ってこなかった自分に問題があるのだと思い、口をつぐんだ。学生部に談判しにいった所で、正体不明の女に殺されそうになったと説明しても理解は得られないだろう。豪田教授の失踪と絡めて説明してみても、尚更事態は好転しないように思われる。



(今は休めよ、俺はてっきり本当に死んじまったのかと思ったぜ)



「俺が死んだらお前も道づれだよ」そう言って布団に潜り込んだ。目を閉じると絶え間なしに浮かんできた女の顔は、今ではほとんど薄れている。これも女の暗示が解けてきた証拠だろう。


(良くも悪くも、事態は進んだな。殺生石を手に入れた奴が次に何をやってくるかは想像つくさ。お前が寝てる間に、失踪事件が三件たて続けに起きた。被害者はみんな男だ)


「みんな狩られたのか」


(多分そんな所だろうな。殺生石という名の九尾の狐の変形を持ってるんだし、こんなのは朝飯前だろう)


「じゃあ、やっぱり」自分の行動の結果、更に人の命が奪われた事に浩一は気持ちが沈んだ。


(お前が気に病む事じゃないさ、奴はもうお前を警戒していない。これだけでも十分な進歩さ)慰めのつもりだろうか、しかし、それでもベリアルの気遣いが今は有り難かった。



「そうだな、ケニヤンでも行こうか」浩一はそう呟いた。

(おう)ベリアルは元気よく言った。









 4



 それから数週間は、出なかった授業の後始末に追われた。

風邪で寝込んでいたという事を話し、ノートを写させてくれないかと頼みこむと、何人かの学生は快く貸してくれた。断られる事も多々あり、その度に泣きだしそうになりながらも浩一は頭を下げていた。

手にしたノートを手早く写すと、課題のレポートに取りかかった。ネットに溢れる文章を多少改変して提出すればとも考えたが、どうにもその気になれずに自分で本を読んで取りかかった。次週に返却されたレポートにはしっかりと「C」がついていたが、なんとなく気分は良かった。七月に入り、テストの時期になると浩一は一通りの授業の内容を把握できるようになっていた。


「マスター、今回のテストはバッチリだよ」浩一はそう言ってケニヤンティーを飲んだ。


「そりゃあ、バイトもしないで勉強して、そうならなかったらおかしいだろうが」マスターは新聞を読みながら答えた。夏だと言うのに一向に増えない客足を嘆いているのか、語尾も少々刺々しい。


「それは、そうだけどさ」どうにも言いようがなく、浩一はまたケニヤンティーを飲む。確かに美味いが、350円は少々高いなと思う。


「所でよ、お前は夏休みどうするんだ?」


「まだ未定かな。そうか、もうすぐ夏休みなんだな」マスターに言われて、初めて浩一はそう思った。一人暮らしに、堕天使の憑依と妖狐退治の失敗。初めての事がたて続けに起きた事で、時間の流れを感じてこなかったという事かなと浩一は、と言うよりもベリアルの思念がそう分析していた。


「こっちでやり残した事もあるし、もう少し残ってるよ」それだけ言って浩一は店を出た。

向かう先は自宅である。






 「今、何人ぐらい殺された?」浩一はそう呟いた。


(俺たちが把握してる死者は9人)ベリアルがそっけなく言った。


「9人? そんなにいたっけ?」予備の為に携帯は耳に当てているが、直射日光で熱を持ち、更に浩一の汗が掛るという携帯にとって良好ではない状態にある。


(豪田と、豪田のやってたサークル、「化石研究会」のメンツが3人で、関係ない一般人が5人か。一応表沙汰にはなってはいるが、失踪事件で証拠がないと立件は難しいよな)



「じゃあ、どうなるんだよ」



(どうにもならん。日本に限らず、警察組織にとって妖怪退治は給料には含まれんだろう)



「でも、共通点とかはあるんだろう?」



(俺に聞くな、分かってるのは発端が殺生石で、それに関わった人間が殺されて、被害はじりじり拡大してるって事だけだ)



「被害者の名前は分かるか?」



(化石研究会のメンバーの、荒井遼、米倉啓吾、石田和幸の三人。教授の豪田政俊。後はサラリーマンの江藤正輝、三宅武雄、福田芳樹。最初の四人はともかく、後の三人は完全なとばっちりに近いだろうな。可哀そうに)そう言うベリアルの表情には、あまり気の毒だと思う感情が浮き出ていなかったので、果たして本気でそう思っているのかと考えたが、面倒になって深く考えるのを止めた。


(言い忘れていたんだが)いくらかもったいぶった言い方をして、ベリアルは浩一の方を見た。



「何だよ」



(昨夜未明に何かがあったみたいだ、今朝警官がこの辺で聞き込み調査をしていた。話だけは聞いていたが、新たな犠牲者かもしれんな)



「と言う事は、また失踪事件って事?」



(表向きは、って所だろうな。警察には犯人が誰で、どんな目的なのかも知る由もないだろう。つまり、真相は闇の中)



真相は闇の中。浩一はそう小さく言ってみた。闇はいつも側にある。そう考えると世の中には理屈だけでは説明のつかない事で満ちているんだなと、浩一は思った。考えてみれば、ベリアルの存在こそが世の中の不可思議の証明になっていて、人はそんな不可思議を時には崇拝し、畏れ、共存しながら生きてきたのだ。人の知能はその不可思議をどこまで解き明かせるのか、この妖怪退治が終わったらじっくり考えてみようと思った。



その「不可思議」を証明しているベリアルの状況説明は、とても的を射ている。



(新たに失踪した男だが、まだ詳しい事は分からん。推定に過ぎないが、警察の方もどうしていいか分からんだろう。続報が出ればいくらかは分かるが、待つ間にはまた犠牲者が出るんじゃないか)



ベリアルの言葉はいつも同じ調子で、相変わらず心境を理解しかねる。

「そうだな。俺たちに出来る事は早く奴を退治する事だもんな」



(ずいぶんと、物分かりがよろしいようで)ベリアルは笑いながら浩一の肩を小突いた。



「そもそもの発端はお前だぞ、ベリアル」



(俺たちは奴を狩るんだ。お前はそう思って動けばいい)ベリアルの口調は同じだ。


(ただ、詰めにはまだ早い。やるならまだピースが足りない、決定的な証拠を掴むぞ)

ベリアルは浩一より早く歩き出していた。嬉々とした表情が目についた。








 自宅で、今現在東京で起きている失踪事件を調べてみると、一年間で数百人の人間が失踪している事が分かった。介護疲れの失踪、借金苦での失踪、色々な理由で人は自分の姿をくらましているのだ。事件にならないような自殺も含めると、数はもっとあがる。単純に感じる事は、自殺も失踪に近いなという事だった。ただ、こちらの失踪はもう二度と会う事は出来ない。そんな失踪がこの世界には満ちていた。大学生という自分の置かれた状況では決して理解し得なかった現実を目の当たりにした事で、いかに自分が恵まれていたかということを思い知ったのだ。


(辛気臭いな、そういう感傷は好きじゃない)ベリアルが呟いた。


「そうかな、俺は今まで考えた事無かったよ」


(そんな事を知っても何にもならんぞ)


「でも、どうすればいいかの指針にはなってくれるだろ」


(どうだかね、少なくともお前はこの世じゃ勝ち組の部類には入るだろうな)


浩一は何と言ったら良いのか分からなくなって、考えるふりをした。



(考えたって埒あかんぞ。ずっと昔から、主の作品は平等ではないのさ)


「俺はキリスト教徒じゃないから、創造主のお話は聞きたくないかな」


(そう思う気持ちが、人の主体性を創る。そう言った意味ではお前は不完全な作品だな)


「完全だったらとっくに何か行動を起こしているだろうよ、堕天使さんの手を借りる必要も無くね」


(違いないな)そういってベリアルは笑いだした。笑う中でも浩一の回路にはベリアルの思考が流れ込んでくる。相変わらず理解は出来なかったが、ベリアルが本当におかしそうにしているのは理解できた。浩一を笑っているのではないという事も。



「そんなことはいいさ」浩一は言って続けた。


「前に言っていた、足りないピースはどうやって埋めるんだ?」


(現場を押さえる)ベリアルはさらっと言った。


「どうやって?」


(殺生石の匂いだ。夜になればなるほど濃密に匂うぞ)


「そういう事じゃなくて、そんなんで探せるのか?」


(そもそも死体が上がってないからな、やるなら現行犯しかない)


「なんだか警察みたいだな。それで?」


(とにかく、お前は現場を押さえて奴を脅迫するんだ。さすがに言い逃れは出来まい。すると、おそらく奴はお前を誘惑してくるだろう。お前は一度引っかかってるからな、奴は油断している)


「それで?」


(後はお前次第だ。奴は必ず股を開く。分かるな?)


「ああ」浩一は改めて目標を思い出した。未知の体験をする。これが、自分に課した目標だ。今はそれだけを考える。



「待つか、待たないか、選べ」浩一は自分に呟いた。


(俺は待たない)ベリアルがそう呟く。



「俺もだ」誰に向かって言っているんだと浩一は考えた。自分は明らかに自分へ言い聞かせている。このままでは終われないと心が叫んでいた。憂さ晴らし等ではなく本能がそう命じている気がした。女の事を考えると、否応なく興奮が抑えきれなくなっているのは秘密にしておこう。



(その心意気は立派だが、方法とかは考えているのか?)



「そのままそっくりお前のを採用」



(了解)ベリアルはそう言った。

























 「すいませんが、お話があるのですが」浩一は、ベリアルに教わった通りの対応を心掛けた。先ずは紳士に、それから欲を徐々に出せ。それが女を落とすテクニックらしい。現在の時間は午前二時。安いビジネスホテルの前の通りでは人はめったに見当たらない。何日か尾行と捜索を続け、女が男漁りに向かった帰りを狙った。



 「あら、あなたは?」

「少し向こうで話しませんか」女の次の声を遮って、浩一は言った。目線は少し上を見ろ。そういうベリアルのテクニックは有効に作用している。

 駅前の二十四時間営業のカフェで、浩一は女の顔を眺めた。相変わらずの美人である。前回、自分がこの美貌に釣られた事でひどい目にあったのは仕方のない事だと慰める事も出来たが、女は浩一を落としたその顔で、何人もの男を殺してきたのだ。そう思ってしまうと、どこか冷めた感情が浩一にはあった。


「突然の話で申し訳ないが」幾分もったいぶった言い方を浩一はした。

女の表情に変化はない。これから何を言われるかなど、想像のつきそうなものだが。



「あなたは法律を犯している。それも大量殺人だ」浩一はあえて重々しく言った。



「・・・」女の表情は相変わらずだ。



「僕の言った事が分かりますか?」浩一は再度女の目を見た。女の方も以前の浩一ではないと感じているようだった。幸いなことにベリアルの事は気付かれていない。いざとなれば手はある。



「私には覚えがないのですが、もしかしたら人違いではないですか」当然の反応だ。誰だって最初から自分が犯人だと名乗り出たりはしない。そうかい、と浩一は心の中で呟いた。


 「豪田政俊。この名前はご存知ですか?」



「始めて聞く名前です」



「ではあなたはどこで殺生石を?」



「殺生石?何ですかそれは?」



「魔力が詰まった石。石になっても人を殺し続けた、玉藻の前のなれの果てです。あなたはそれを持っている」



「私は知りませんし、どこにその証拠があるんですか?」



「知りたいですか?」浩一はそう言ってカバンからビデオテープを取りだした。それを見た途端、女の目が少し泳いだ。



「見て分かると思いますが、これはビデオテープです。カラオケボックスから借りてきました。僕も映像を確かめましたが、貴女は僕の首に掛っていた石を盗んだ。間違いないですか?」



「……」女が黙った。油断するな、とベリアルが囁いた。



「どうでしょうか、まだ証拠が足りませんかね」



「その映像が私である証拠がないわ」女はいくらか感情的になった言い方をした。それが演技なのか、それとも本気で焦っているのかはまだ判断が点かない。



「証拠ですか、そしたらこれはどうですか」浩一はそう言って、またカバンからあるものを取りだした。ガラスの瓶に入った少量の砂だった。何度か女の眼の前で振って見せる。



「なんて事無い只の砂のように見えますが、これは殺生石を砕いたものです。散らばっている分には、色も形も砂と大差ないでしょう。しかし、殺生石には極めて特別な反応をします」



浩一はそう言って瓶のふたを開けた。上出来だ浩一。ベリアルがそう言った。後は詰めだ。浩一はそう思った。ビデオはハッタリだったが、本物の殺生石の砂は効果が期待できる。



 散らばった砂は青白く光り出すと、女を中心にするように円を描きだした。そうしてより一層青く輝くと、すぐに光は消え、元に戻った。急にテーブルが光ったので何かの手品かと店員は思ったようだ。手品にしてはギャラリーは少ないほうだろう。浩一自身も初めて目にする超常現象ではあったが、冷静でいるように努めた。



「これはマジックでも何でもない、殺生石は生を吸って存在している。青白い光は魂のなれの果てって所ですかね」

女は答えずにいた。女にとっても初めて見る現象だったのであろうか。詰めだ。


「間違いなく、殺生石を持っているのはあなたです。そして、あなたは人間ではない」

それだけ言って、浩一は女の顔をじっと見た。目線はじっと女の目を捉え、逃さなかった。



長い沈黙が続いた。女は浩一を誘惑しているのだろうか、女の目を見ながら、浩一は違う事を考えながら意識を逸らした。先ずは主導権を握らなければならない。



 「確かに、私はあなたのような人間ではないわ」女は突然声を上げた。口調は穏やかではあったが、語尾が妙に刺々しい。


「私は長生きだし、あなたには出来ない事でも私には出来る。例えば、あなたをここで殺すことだってね」



「それは、殺人だ」



「それは人間に通用する法律でしょう。私は人間ではない、従って人間のルールは適応されないわ。私を裁くのは陰陽師かしらね」浩一の言葉を聞くとすぐに女は言った。まるで、そう考える事が当然と言うように女は言ってのけた。この女という言い方も、適切ではないのかも知れない。



「俺が裁こう」浩一はそう言って夜店で買った数珠を取りだした。それを捉えた女の眼は、驚愕したように瞬きを繰り返した。



「あなたは、陰陽師なの?」その問いには答えずに浩一は録音機を取りだして見せた。


「付いてこいよ、お前は逃げられやしない」















 よくここまで持ってきたな、とぼんやりと思った。人を何人も殺した妖怪を脅迫して、こうしてホテルへ連れ込んだ。最高の卒業式が出来そうだなという思いと、これからどうなるんだという不安が頭をよぎる。どっちにしてもこの股間の疼きをスッキリさせてからちゃんと考えようと強引に納得して、浩一は上着を脱いだ。行き先を告げると、女はあっさりとその要求を受け入れた。女の顔に安堵の表情が浮かんだのは言うまでもない。必ず浩一を殺せると踏んだようだ。浩一は、俺が殺されてたまるかといった、よく分からない自信に満ちている。


「脱げよ」そう浩一は言った。


女は何も言わずに着ている物を外していく。一度しかその肌を見ていないが、記憶がフラッシュバックするような刺激がある。たしかにとんでもない上玉かな。そう女の肌を見ながら唾を飲み込んだ。やはり自分も緊張している、女の香水の匂いに股間がビクビクと情けなく反応してしまっている。



「見たいの?」女はそう言った。


「お前の名前は?」それには答えずに浩一は言った。主導権は渡すまいと必死に理性を保っている。手にはずっと数珠を握ったままだ。



「人間の名前は永田響子。もうずっとこの名前で生活しているわ」


「今までどうやって生きてきた?」


「ずっと変わらない生活よ。水商売で夜はお察しの通り」


「何人殺した?」


「さぁ、覚えてないわ」


「そうか」そうは言ったものの、人の命を何とも思っていない女の対応にはやはり恐怖を感じていた。そして、2人(正確には3人)しかいない場所に来た途端に犯行を認め出した女の態度に、もう一度浩一は身震いした。


「それにしても意外ね、私を警察に突き出すと思ったのに」


「人間のルールは効かないんだろう。だったらこっちさ」浩一はズボンを下ろしていった。女は笑ったようだった。




 女が股間を弄った時に、浩一はあっという間に射精していた。全身の力ががくんと抜け、荒い息が後に続いた。額に汗がじっとりと浮かんだが、まだ硬度は保っていた。これで、童貞だと言う事はバレただろうなと、ぼんやりと浩一は思った。童貞の陰陽師。響子の認識はそういうところではないだろうか。




「まだ出し足りないの?」女は嬉しそうに笑う。悔しかったが、どうしようもなく興奮してしまっている状況では言い返す言葉もない。


「じゃあ、こういうのはどう」女は言うなり浩一の手を自身の胸にあてがった。もちろん直にである。



「触ってみたかったんでしょう?」女は笑っている。浩一の指は悔しい程に女の胸を揉みしだいており、それは簡単には止まりそうになかった。桜色の乳首を何度か摘み、その度に女は軽く声を上げる。畜生。浩一は呟いた。女のペースにまた乗せられている。



「甘えんぼさんはまだまだ甘え足りないのかな?」



女の声は浩一の心を揺さぶる。普段なら笑い飛ばせるセリフにも鼓動が高鳴り、呼吸は激しくなる。籠絡とはこういう意味なのだなと必死で考えるも、手遅れであったし、浩一はどうしようもなく未知の体験をしたかったのだ。

「入れたい」うわ言のように呟く。即席の陰陽師ではなく、男として浩一は女を抱いてみたかった。




「じゃあ、その手のものを外して」女はずっと浩一の目を見て言った。


女の瞳に吸い込まれるようにぼんやりと浩一は女を見つめた。永田響子。その名を聞くたびに、この女は人間であるという考えが浩一の脳を支配した。それまで神秘的な女というイメージであった物に名前が加わった事で、それは急に現実味を帯びている。永田響子は妖怪であるはずなのに、浩一は永田響子を永田響子として抱きたいと思った。それ自体がもう既に術中にあるのだが。それは今の浩一の精神状態では判別が点かない。



「うん」小さく言って浩一は数珠を外した。かたんと音を立てて数珠は床に落ちる。そのすぐ後に、浩一は自分から響子の唇を吸っていた。

何度もデイープキスを交わした後に、浩一は響子を見つめた。



「おいで、浩一」響子はにっこりと笑っていた。


 浩一が響子に覆いかぶさった時、響子は浩一の首筋に噛みついた。上あごに生えた尖った牙が、浩一の大動脈を捉えている事は明確であったし、興奮している事も考えれば、心臓は全身に血液を運んでいるので活発である予想も点いた。


入った瞬間の事を、浩一は良く覚えていない。あっという間の事だったし、体中が熱くなっていった事もあり判別が点かなかったのだ。加えて、逃げ出そうと言う算段も浩一には無かった。いくらでも逃げる可能性はあったのにも関わらず、こうしているのは普段の浩一の性格からいってもありえなかったが、人間とセックスしている、もしくは手を伸ばせばすぐにその欲求が叶えられるという状態において、判断が狂ったに違いない。


 腰を不器用に動かしながら、ぼんやりと俺は死ぬんだなと思う。牙からは媚薬のようなものが流れ込んでいるようだ。どうしてもセックスを体験してみたかった。その夢は叶えられた。響子の魅力に狂った事は認めよう。しかし、本当にこのまま死んでも良かったのか。少なくとも、今はイエスだ。そして、そのイエスは最期の意思決定になるに違いない。




 「宿主に死なれると、俺が困るんだよ」

そう浩一は言っていた。頭を一度大きく振ると、牙はすぐに離れた。



「何年生きてんだか知らんが、神は果たしてお前を妖怪として作ったのか?」

腰にぐっと力が入る。腰の動きも、さっきとは段違いに弾み強弱をつけた。



「あなたは?」腹の下で響子が悲鳴のような声を上げた。浩一の様子がおかしい事を察したのだ。



「俺は浩一さ、頭の中は違うがな。お前もそんなもんだろう」



「あなたは違うわ」永田響子は逃げようとして、何度か体を動かした。しかし、腰と足元をがっちりと浩一に押さえられ動けない。



「そうかね。俺にはお前が人間には見えないが」



浩一がそう言うと、響子は慌てて体を見まわした。その光景をニヤニヤしながら浩一は見ている。



「図星か。見たとこ狐だな」言うなり浩一は女の尻を撫でまわした。何かを掴んだのだろう。



「お、お前は・・?」響子の声が上ずっている。予期せぬ展開に戸惑っているようだ。



「俺は浩一だ。お前の想像とは別次元だがな」その声は明らかに浩一のものだった。








 違う。浩一はそう叫んだ。しかし、その声は誰にも聞こえないままに発せられた。浩一の眼下に広がるのは響子の裸体である。しかし、浩一は明らかに自身の欲求とは違う行動を取り、その事実に自分自身が驚愕している。考えられる可能性は、同じ場所にいたベリアルでしかない。乗っ取られたのだ。そう強く感じた。


 思えば、ベリアルの思考回路は到底自分の情報処理能力では追いつかない程のスピードと考察力がある。それらの知力をもってすれば、浩一の身体を乗っ取り、自在に操る事など簡単に思えた。体を上手く動かそうにも、動かすべき体が無い状態で、一体何をすればいいのか浩一には分からなくなっているのだ。お前は俺じゃない、こうする事がお前の目的かベリアル!そう大声で叫ぶ。しかし、それは音声としては現れない。姿も声も、全てがベリアルの元に動いていた。


 畜生。浩一は舌打ちをして手を動かそうとした。響子の胸に置かれた指を離す事を試みた。しかし、答えは出ている。手の感覚はあるのだが、いくら意識してみても手は動かず、指では相変わらず響子の乳房を揉み続けている。馬鹿野郎、そう呟いた。自分にはこの程度の事も予測できなかったのか。眼下に広がる光景をただ見ている事しか出来なかった。






 「狐なら狐らしく、毛皮にでもなるんだな」そう浩一の身体を司っているベリアルは言った。



「私が狐?」響子は答えた。額にはじっとりと汗が滲んでいた。緊張なのか、あるいは。



「お前は狐だろうな。この尻尾が証拠さ」そう言ってベリアルは響子の尻を掴んで、無理やりうつ伏せの体制にした。その尻には、確かに九本の尾があった。



「殺生石を孕んでようやく九尾になったのか。妖怪も生き残るのが辛い世の中なのかな」

ベリアルは笑って言った。その声に、響子は震えているようだ。



「私をどうするのが目的なの?」



「俺は楽しみたいのさ、宿主も同意見だろう。ただな」



そこでベリアルはニヤリと笑った。

「お前は大量の人間をそうやって殺してきたんだろう。俺としては人間が何人死のうが知った事じゃないが、宿主は許せないらしくてな」



「…」




「堕天使的なやり方で、処分させてもらうとしよう」そう言って、ベリアルは響子の下腹部に手を置いた。ベリアルの操る浩一は、笑っているように見えた。





 後はお前に返すぞ。ベリアルは確かに浩一にそう言った。その瞬間、ばっと視界が真っ白になった。これは、前に一度感じた事があるなと浩一は思った。そうだ、最初にベリアルに体を貸した時と同じだ。とすると、またベリアルの記憶の断片が見られるのだろうか。余り見たくはないなと浩一は思った。自身の身体も響子も見えず、ただ真っ白な世界が広がっていた。そして、ぼんやりと起き上がらなくてもよいかなと思っている自分に少しだけ嫌気がさした。







 獣の咆哮に鼓膜がこれでもかと震わせられて、浩一は真っ白な世界から帰還した。鼻からはむせかえるような獣の匂いが充満していた。女の姿はもう無く、響子がいたベッドの上には狐の毛のみが残っていた。







 (逃げるぞ浩一)頭の中でベリアルの声が響いた。



(さっさとしろ、早く逃げないと周りが起き出すぞ)その声に耳を傾けながら時計を見ると、五時を回っていた。早起きの人間ならもう起きている時間だろう。最も、ラブホテルにそんな人間はいないと考えても問題は無いと思われるが。



「分かったよ、うるさいな」そう言って、無理やり体を起こした。腰が痛い事と、膝に痣のようなものが付いていた。そして、今まで自分が全裸であった事に気が点いた。



「俺、何してた訳?」



(何やってたかは知ってるだろ。あいつは堕天使でもサキュバスでも無かったけどな)そう言うベリアルの口調はどこか残念そうだった。




















 また、怠惰な日々が過ぎていった。変わった事と言えば、暑くなった事で電気代がかさんだ事と、どうにか単位が取れそうな事ぐらいだろうか。暑いという理由は、引きこもるには最も適切な根拠になるだろう。季節が過ぎて冬になれば寒いという根拠も表れるが。


 何はともあれ夏休みだ。蝉の声を聞きながら、ぬるいアイスコーヒーを飲む。暑さは凄まじいが、何とか耐えなければ今月の電気料金がとんでもない事になってしまうのだ。ネットも夜までお預けではあるが、こんな夏の過ごし方も案外悪くは無いのかもしれない。


図書館から借りてきたキリスト教関係の本を読みながら、浩一はアイスコーヒーの残りを啜った。


(つまんねーな)ベリアルが退屈そうに言った。



「確かに、この本には堕天使は悪としか書かれていないな」



(そんな事じゃない、もっと大事な事さ)



「何だよ」



(お前はまた戻っちまったな、実行力があったのに)その言葉は刺を含んでいる事は間違いない。



「そうかな」



(怖かったか、やっぱり?)同情しているような口ぶりだ。本当にそう思っているのかは疑わしい。



「そうだね、それなりに生に執着はあるから」そう答えながら浩一は、あれからずっと抱えていた疑問を打ち明ける事にした。



「ベリアル」


(なんだ?)



「俺は脱童貞したのか? はっきり言ってよく覚えてない」


(解釈にもよるが、イエスだ)



「それはどういう意味だよ」



(あいつは妖狐だ。つまり妖怪でもあり狐でもある。一番簡単に考えるなら獣姦が最も適切な答えになるのかな)



「そうだな」口に出した事で気持ちが沈んだ。


天使や聖霊とのセックスを想定していただけにこの回答はショックが大きい。分かってはいたが、どうしようもなく落ち込んだ。



(どっちにしても得難い体験だろ、なあ)ベリアルは笑っている。今度は完全に小馬鹿にしているのを思念の行きかいで感じる。



「うるせえ。とっとと成仏しろよ」大声を上げて汗を拭った。暑さが増したようだ。



(ヒステリーは女に嫌われるぜ)

「そうかよ」ウンザリしてまた本を読みだした。神話は退屈だったが、宗教を広める手段としては有効なのかなと読みながら思う。神の名の元に異教徒を虐殺した原因の一つをこのなんて事無い退屈なストーリーが生み出していた事を思うと、人間はどうしようもないなと飛躍して考えてしまいそうになる。



(少しはちゃんと考えるじゃないか)ベリアルが話しかけてきた。



「別に、そう思っただけだ」



(そうかよ)答えもそっけない。何の為に話しかけてきたんだと思う。



(俺の目的も果たしてないし、お前も最高の女とやりたいだろ?)不意にベリアルが言った。



(またエスコートしてやるよ、妖怪は俺も御免だ)



「頼んでなくても、体を乗っ取りやがったくせに」



(俺が欲しかったのは、殺生石の力さ。もし奴が本物の九尾の狐だったら、俺は一発で力を取り戻せていたからな。だからちょっと体を借りたのさ。お前の目的なんかはおまけみたいなもんだ)



「俺を利用したのか」



(そんな所だ)悪びれもせずにベリアルは言った。


「それで、また俺を利用するのか?」


(性欲は、最も人を能動的にする神が与えし困難の一つさ。それが人間を不完全なままにさせる)


「だから俺が導いてやるってか。相変わらずの尊大さだな」


(だんだん俺の心が分かるようになってきたな、浩一)



「そういう事実を隠すために聖書があるんだよ」浩一はベッドに本を置くと、洗面台で顔を洗った。水はぬるいが気分はいくらかましになる。グラスに氷を入れると、二杯目のアイスコーヒーを注いだ。これを飲んだら出かけてみようかなという気分になった。




 カーテンを開けて空を見ると、外はいつの間にか夕暮れに変わり、蒸し暑さは少しずつ和らいできていた。赤く染まった雲がいくつも浮いていて、それが空に点々と広がっていた。

 何度も見た光景だったが、不思議と鮮明に映った。自信が出てきたのかもしれないと浩一は思った。動機はどうであれ、あれだけの体験をしたのだ。恐怖はあったが、もっといろんな事をやってみたいという欲も出ていた。とりあえず街へ出てみよう、酒を飲んでみるのも良いかもしれない。玄関先で靴を履きながら、俺は確かに変わったかもしれないなと、浩一はぼんやりと思った。



                       【完】

頭の中のものを煮詰めていたら生まれた作品です。

読んでいただいてありがとうございます。

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