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俺は少々、驚いていた。
既に十度も太陽が天を巡り行き落ちようとしているのに、リーヴァンスとベオルブの二人が何の動きも見せていないからだ。
ベオルブの方は兎も角として、リーヴァンスは必ず強硬手段に訴えて牢屋から抜け出そうとするに違いないと踏んでいた。あの単純明快な戦闘馬鹿という言葉が似合いそうな、無駄に血気の多い若造が鬼神のごとく力任せに誰彼構わず殺しながら地下から這い出てくる様子を今か今かと心待ちにして、その脱出経路で待ち伏せを掛けていたのだが、どうやら俺の賭は敗北に終わりそうだ。だからと言って別に悔しい訳ではない。むしろ、有り難いくらいだろう。もしかすると、これから旅を共にするだろう彼が無駄に死人を製造して俺達に迷惑を掛けてくれなかった事に感謝するくらいだ。
俺の中での評価は、ざっとそんなものだ。
だが、それが却って心配になってきた。
このまま放置しておくと、俺が想像していた惨劇を遙かに上回るとんでもない事態――それこそ人類が憂慮する様な、取り返しのつかない暴挙に出るかも知れない。今でさえ、フェブリゾの軍隊がこの地を支配せんと進軍してきているという情報が街のあちこちで飛び交っている状態だ。それに伴いアリティアも軍を派遣しているだろう。十中八苦、この街が戦場と化すのは時間の問題だった。そんな中に血に飢えた凶暴な猛獣を解き放っては、いくら棺桶があっても足りない。
無用な害が出る前に、面倒だが、ここは一度俺自信の目で様子を見に行ってみた方が良いだろう。
そう結論を下した俺は、俺の御主人様であるネイに許可を貰って、散歩ついでにリーヴァンスの所へ向かった。
ちなみに、ベオルブ無き後、ネイは街の飲食店で何故か看板娘となって働いている。
《神の剣を持つ国》アリティア共和国と《神の領土すら侵略しようとする国》フェブリゾ皇国の国境に位置するユメリアの街。アリティアが統治しているこの街の地下にある、今も昔も入牢希望者の絶えない倉庫を改造した牢屋にリーヴァンスとベオルブは幽閉されている。街の警官が警備しているが、俺にとっては何ら障害には値しない。
誰に気付かれる事もなく、俺は悠々自適に石畳の通路を闊歩していった。
その俺の視界の中に、およそこの場には不似合いな少女の姿が入る。ふと足を止めて、俺はゆっくりとこちらへと近づいてくる彼女の姿を観察した。一瞬、ネイかとも思ったが、着ている服があまりにも質素で、髪も伸び放題に長かったので、すぐに彼女では無いと悟る。
年の頃は、ネイよりも数歳上、身長もネイより幾分か高い様だった。ボロ切れの布をただ巻いただけの様に見える服は所々乱れて彼女の肌を露出させているが、肝心な所はしっかり隠されている。だが見ようによっては十分に異姓の瞳を刺激する姿だ。付け加えて顔は悪くないと言う事と、この街の治安は最低で、此処が外界とは隔離されている施設だと言う事を入れれば、彼女の運命は残酷な迄に墜ちているのだろう。彼女の瞳の色が、それを如実に語っている様だった。
囚人への配膳を終えたばかりなのか、それとも奉仕という名の虐待を受けたばかりなのか定かでは無かったが、彼女は一歩一歩ゆっくりとした歩調で通路をただ突き進んでいく。光源と光源の距離がかなり離れており、蝋燭の輝きも仄かで小さなものだったので、薄暗い通路の一角を支配していた影に身を潜めていた俺を、彼女は気付く事無く通過していく。確か、その先には牢番達の詰め所があった筈だ。
彼女の人生に幸があらん事を願ってから、俺は振り返る事無く先を急ぐ事にした。
俺が訪れた時、ベオルブは植え付けの寝台に座禅して黙祷していた。相変わらずに、いったいどういう性格をしているのか掴み辛い行動原理の中で何を見いだしたのか、その彼の前には手付かずの食事が熱を失っている。此処までの道中に他の咎人がいなかった事から、どうやら少女はただ配膳を行っていただけの様だ。
何となく安堵して、俺はほっと肩を撫で下ろす。
だが、遅れて香った卑しき異臭に、思わずベオルブの顔を凝視してしまう。まさかとは思うが、この座禅は軽い運動後の骨休みではあるまいか。いや、それは無いだろう。
そう言い聞かせて、俺はベオルブの名誉の為に異臭の発臭源を先に探る事にした。
結果は――ただこの牢屋に染みついた歴史の闇という事で解決する。
その歴史にベオルブの名が刻まれていない事もついでに俺は祈った。
「何しに来た」
ベオルブは目を開きもせずに、十日も幽閉されて不機嫌な顔が板に付いてしまったかの様な真面目腐った顔で言った。
その質問に対して、人の言葉を発する事が出来ない俺が答えれる訳がないだろうに。脳味噌も腐ってしまったのだろうか。
「用が無いならネイの所に帰れ。俺は色々と考える事が多いんだ。人生についてとかな」
半ば言葉を無視して、俺は鉄格子の隙間を抜けて食事を取り始める。言う迄も無い、ベオルブに配給されたものだ。冷めたスープをチロチロと嘗め、硬いパンに囓りつき、一時の食を堪能する。予想通り、此処の食事は恐ろしく不味かった。これが少女が調理したものでない事を、祈りの項目に追加する。
その俺の行動に腹が立ったのか、ベオルブは面倒臭そうに座禅を崩して、俺から食事を取り返す。そんな事をしなくても、親指程度の大きさでしか無い俺の腹に収まる量はたかが知れているのだから、無視して良いだろうに。それとも、俺との関節キッスが嫌だったのだろうか。
目の前で俺を見下ろしている巨体に一言嫌みの文句を言って、俺は踵を返す。どうやらベオルブは元気にしている様だ。例のズィーベンとか言う謎の男に襲われた様子も無い。拷問を受けている様にも思えない。日々をそれなりに楽しく過ごしている様だった。
ベオルブならばリーヴァンスの様に暴れるという事も無いだろう。
少々期待外れではあったが、ついでの様子見がてら来ただけなので、特に俺は何をするまでもなく、その場を後にしようとした。
「――あいつなら、いないぞ」
その俺の足を、ベオルブの発した言葉が止める。
俺の聞き間違いだろうか。よりにもよって、何の破壊ももたらさない間に、リーヴァンスが此処からいなくなったというのは、天変地異の前触れだろうか。それとも、早々に処刑されてしまったという事なのか。いや、それこそあり得ない。そんな事をしようとすれば、間違いなく俺の期待していた――言い直そう。俺が予想していた出来事が起こっている筈だ。あれをそう簡単に殺せる筈がない。
俺は振り返って、視線でベオルブに質問を投げかけた。
「やっぱりあいつの事が気になって来たみたいだな。ネイの差し金か?」
俺は苦笑したが、この大きさだ、どうせ見えはしないだろう。俺の杞憂はベオルブの杞憂でもある様だ。これが笑って済ませられる程度であれば、俺も彼もこれほど悩みはしない。先にベオルブが答えた"色々考える事"とは、間違いなくリーヴァンスの事だと俺は解釈した。
想定しうる危機は回避するに限る――どうやら俺達は同じ部類に分けられる行動理念を持っている様だ。
とはいえ、俺のそれは繊細で綿密であるに対して、ベオルブのそれは大雑把で適当という風ではあったが。
「……まぁ良い。どうせ御前に教えたって何の役にも立たないとは思うが、知っている奴が他にいないよりはマシか」
何がいったいマシになるのかと言えば、言った本人の自己満足以外には無いだろう。勿論、それだけで済ませる程、俺は無力では無い。それに気付いていないこの巨人は、俺よりも遙かに知能が劣っていると言わざると得ないだろう。いや、この際だ。断定しておくか。
この男もリーヴァンスとほぼ同レベルの戦闘馬鹿だ。違うのは、自分に正直か、無い脳味噌で無駄に考えて自己満足しているかである。どちらが前者でどちらが後者かは、言わずとも知れよう。後者が此処にいる戦闘馬鹿だ。
「このユメリアは、アリティア共和国とフェブリゾ皇国の間に位置している。戦略的にも重要な場所に位置している為、両国間の争いは絶えない。中原のほとんどを制した好戦的な侵略国であるフェブリゾ皇国にとっては、この大陸最後の強大国であるアリティア共和国は皇国最大の恐怖であり、最大の敵でもある。そのフェブリゾ皇国が、再びこの地へと進軍を開始したそうだ」
ここまでは、俺も既に知っている事である。わざわざ説明してくれなくても良いのだが、ベオルブは俺がその事を知らないと思っているのだろう。例え身体が小さくとも、俺の中にはベオルブとは比べものになら無い程の知識が継承されている。そこから生み出される高等な知能と経験は、完全には引き出す事は出来ないが、少なくとも人並みよりもずっと優れている筈だ。だが、身体が身体だけに、それを知る者は同じ眷族の血を引く者達にしか分からない。人の言葉を発する事の出来る声帯があればいくらでも証明してみせるのだが、それは肉体構造の特質上、成人したとしても無理だろう。その事が少し恨めしい。
生欠伸をして、俺は今までの部分を左耳から右耳に通過させていた。
「だが、アリティアの軍隊は無能な皇太子の命令で、一時本国へと召還されこの地を留守にしている。情報を聞きつけて急遽踵をとって返したが、どうやらそれは少し間に合わないかも知れないらしい」
つまり、そこで白羽の矢が立ったのが、自分達の強さをアピールしていたかの様に散々暴れまくったあげく、流石に街の治安部隊を相手に戦闘を繰り広げる訳にはいかず、あっさりと捕まったベオルブとリーヴァンスの二人という事か。このまま牢屋に入れられていればいつになったら娑婆へ出られるか分からない二人に、罪を不問にする代わりに皇国を少しばかり足止めする為の時間稼ぎをして欲しいという裏取引を持ちかけてきた。まぁ、そんな所だろう。
事実、ベオルブが次に発した言葉は多少の違いはあれ、ほぼ同じ様な内容だった。
だが、少し考えればそれがあまりにもリスクの大きい取引だという事が分かるだろう。何せ、強大な軍事国家である皇国の精鋭部隊である侵攻軍を相手にしろと言っているのだ。しかも二人でである。無謀もいいところだ。
ベオルブが此処にいるという事は、当然その取引を――恐らく脅迫紛いであったとは思うが――拒否したという事か。
「……だが、あいつはどうしようも無く馬鹿だったという事だ」
俺の心の声に付け加えたかの様に、ベオルブは明後日の方向を見て言った。
「絶望した人生を送っている少女――毎日、飯を持ってきてくれる悲しい目をした女を、此処から解放して自由にして欲しい――たったそれだけの理由で、あいつはその取引に合意したんだ」
俺は絶句していた。
いったいどれほど馬鹿で惚けているのか。胡乱気な顔で言うベオルブも、流石にこれ程馬鹿な奴だとは思わなかった様だ。いや、本当に純粋で自分に正直な馬鹿だったという事か。戦闘に対する欲と、目の前にいた少女の悲しみを取り除いてあげたい気持ち。後者は定かでは無いが、前者は否定すべき材料は無い。
「まったく、馬鹿げているな。理解しがたい奴だ」
俺はそれ以上、何も聞かずに、牢屋から出た。
そう言えば、自己紹介がまだだったな。
俺の名はバルキリー・ドラウス。
人々から恐れられる異形の者共の一欠片、B級眷族魔者ファバルー。僅か半月前にこの世に生を受け、それからすぐに一族を束ねる先代が死した事により、次代である俺がその全てを継承した。故に、身体はまだ赤ん坊でも、この脳には幾百年の時を過ごした知識と経験が詰まっている。
俺は牢屋から出て少し歩いたところで、気が付いた。
遠くの方から、遠ざかっていく微かな足音が響いていた事に……。




