3-5
ベオルブがネイの身体をリーヴァンスから引き剥がすのがもう少し遅れていれば、リーヴァンスは再び昏倒する運命にあっただろう。
それが起こる事を予期していたのか、意外と早くに動いたベオルブの拳がネイの身体を撃つのに、そう時間は掛からなかった。
「ちょっ……」
瞳に映すにはあまりに行動が速すぎたのだろう、巨体から繰り出された驚異が、何の妨害も受ける事無くネイの頭部へと吸い込まれてからたっぷりと時間が経ってから、アティシアの口からようやく言葉がこぼれ落ちた。その間にネイの小柄な身体は、頭から地面に激しく衝突し、破壊の風穴を屋上の床に生んでいる。弾力性の無かった堅い床にぶつかり、一度だけバウンドしたネイは、そのままピクリとも動かずに横たわる。
「気にするな。ただの教育だ」
その言葉だけを、ベオルブはアティシアに伝える。その後の言葉は無い。
その場にいた子供達も、アティシアも、一体何が起こっているのか全く理解出来ていなかった。ただ伝えられた"教育"という暴力は、殺戮行為にしか映っていない。今まで一緒に遊んでいた友達が、突然に目の前に現れた巨人によって殴り殺され、今も目の前に佇んでいる現実を、子供達はどうしていいのやら全く解らない様だ。動く事も忘れ、ただただ呆気に支配されている。
「おい、じじい」
その沈黙を破ったのは、全くその暴挙に動じる事が無かったリーヴァンスだ。
四肢は相変わらず関節が外されている為に、重力に引かれてだらんとしていたが、その双眸は面白い物を見付けたという感情に溺れつつある。ネイによって噛まれた首元の二つの穴からはゆっくりと赤い血が湧き出て、白の包帯をじわじわと染めていた。だが、それに苦痛を覚えている様な感じはない。むしろそれが心地よいかの様に、笑みを浮かべていた。
その頭部が、弾かれた様に横へと移動する。
ネイを襲った一撃に比べるとかなり軽いものだったが、回避を行わなかったリーヴァンスの身体はまともにその威力を身に受け、側転する。関節の外れた手足がぶらぶらと舞い地を何度か叩くが、一向にリーヴァンスは痛みを覚えていない様に見える。かなり不気味な光景だ。その不気味な身体をそれまで玩具として扱っていた子供達でさえ、緊張の糸が切れたのか泣き始めている。
「俺はじじいと呼ばれる程、年を取っているつもりは無い。目が腐っているのか?」
「腐ってねぇよ。これでも目はかなり良い方なんだ。それよりも、やるなら俺が相手してやるぜ。暫く寝てたんで、身体がなまっちまって仕方がねぇんだ。そんなか弱いお嬢さんよりは、あんたを楽しませてあげれると思うぜ」
リーヴァンスが咽に通した言葉に、ベオルブが値踏みする様にリーヴァンスの身体を嘗める様に見つめる。相変わらず外されたままの四肢の関節は元通りになる様な素振りはなく、好き勝手な方向に曲がっている。右腕の肘だけは固定の為にギブスと包帯に覆われて直線を保っていたが、治療前の状態をベオルブは知っているので、まだ使い物にならない事は明白だ。唯一自由がきくのは首の巡りだけで、戦闘能力はほぼ皆無に等しいだろう。
そんな状態であるにも関わらず、瞳に映すだけでも筋骨隆々の巨体がかなりの力を秘めているベオルブに喧嘩を売るのは、誰が見ても自殺行為だ。それでなくても、先に繰り出した一撃の速度を見れば、ベオルブの巨躯が見た目のはったりだけではなく、技術的にもかなりの戦闘能力を有している事は疑い様が無い。
他人事なのか、アティシアが胸に十字を切っていた。
「おい、綺麗なお姉さん。俺の手足を元に戻してくれないか? これじゃあちょっと動きにくいんだ」
「……なんだ、それで闘ってくれるんじゃないのね。がっかり」
そうは言うが、その顔はとても嬉しそうだった。
いったい何処でその女性に対する礼儀作法を叩き込まれたのかは分からないが、リーヴァンスが発した声色には嘘偽りは感じられない。本気か冗談なのか、と聞かれれば本気だと判断せざるを得ないだろう。それが適切な言葉とは言い難いが、少なくともアティシアには最上の効果をもたらしてくれた様だ。
心の中を跳ねる喜びを押さえきれずに顔に零したまま、アティシアの手がリーヴァンスの身体に触れる。
瞬間、まるで焼ける石にでも触ってしまったかの様に、アティシアの手がそこから逃げ出した。
「どうしたんだ? 早くしてくれよ。俺っち、早く闘いたくてうずうずしてるんだ」
呆然と自分の手を見つめるアティシアを、リーヴァンスの声が性急を訴える。その瞳はベオルブの姿だけを映していた。檻に入れられ鎖に繋がれた虎の様に、その戒めさえなければ今にも飛び掛かっていきそうな双眸のぎらつきを向け、ただその時だけをひたすらに待っている。口調からは落ち着きが感じられたが、しかし実際にはリーヴァンスから雄々しき闘気が漲っている事にアティシアは気付いた様だ。
もう一度、アティシアの腕がリーヴァンスの四肢へと向かう。一度目とは違い、今度は逃げ出す事無く滑らかに動く。見た目にはただ関節部に触っただけにしか見えなかった。だがリーヴァンスの四肢関節はそれだけで繋がり、機能を取り戻していく。技術が極まれば神業のごときに見えるのだろうか。
その身体が再びリーヴァンスの元から突然に逃げ出す。
リーヴァンスは四肢の関節が全て繋がったのを確認した瞬間、まだ頸部に手を当てていたアティシアを強引に押しのけベオルブへと間合いを詰める。
先制は、それを待っていたベオルブの迎撃打。待ちきれない高揚に笑みを浮かべ嬉しげに、戦闘の渇きを訴える様に喉を鳴らしたリーヴァンスの胴が衝撃に揺れる。撃ち込まれた剛拳は、しかし腹部に吸い込まれる寸前に交差された腕によって防御される。だが奥へと突き抜けたダメージは確実にリーヴァンスの内蔵を振るわせた。しかし苦痛の余韻に浸る時間はリーヴァンスに無い。リーヴァンスはふわりと横手へと流れる様に移動し、そして唐突に激流へと変わる。ベオルブは後方に飛んだが、リーヴァンスはそれに抱きつく様に間合いを殺す。そして二人の身体が折り重なった時には、ベオルブとリーヴァンスの攻撃は互いの肉体を捉えている。ベオルブは脇腹を、リーヴァンスは頬に攻撃を受けた。弾き飛ばされたのは、体重の軽いリーヴァンスだ。ベオルブはその場に耐え、少し後ずさりをしたに過ぎない。それを軽々と零へとかえし、ベオルブがリーヴァンスを追う。器用にリーヴァンスは空中で姿勢を制御し、体勢を立て直す。そこへ繰り出された膝に手を当てていなし、お返しとばかりにその膝を踏み台にして肘を顎へと撃ち込む。食らった後で頭突きでその肘を打ち返したベオルブの側頭部を今度はリーヴァンスの右足による蹴りが襲うが、冷静にそれを左腕でガードして威力を殺す。だがそれは次の一撃の為の布石であり、瞬時に受け止められた右足を支点に回転して回し蹴りを放つ。相殺出来ず、今度はベオルブが弾き飛ばされる番だった。巨体が地を離れ水平やや上気味に上昇を開始する。だが描く放物線は巨体の御陰か、その最高点はすぐに訪れた。リーヴァンスが肉薄する前にベオルブの足が地の感触を取り戻す。頑丈に造られていなかったのか、着地した地面がひび割れていた。
リーヴァンスはさらに、一回転を加えて脚撃を回して撃ち込む。巨体がぐらつき、地面が悲鳴を上げる。会心の笑みを浮かべたのは、しかしベオルブだ。すかさず掴んだリーヴァンスの脚を手に、軽く跳躍したかと思えば凄まじい腕力でリーヴァンスの身体をひび割れた地面へと叩き付ける。凄まじい轟音に彩られてリーヴァンスの顔が歪む。流石に今度のは効いたのか、喉の奥が言葉に出来ない悲鳴を上げていた。笑んだ顔がようやく苦痛を思い出し、双眸を血走りに開かせる。
だが、リーヴァンスの身体は意に反して、素早く空いていた脚でベオルブの手首を蹴り付け解放を求める。その急襲に回避が間に合わず、ベオルブの手首の骨が砕け散る。動脈と静脈の両方を突き破った骨に、鮮血がリーヴァンスの身の上に舞う。取り落とされたリーヴァンスは、そのまま屋上の床に空けられた穴の闇に吸い込まれ、そして消えていった。
だが、それに見とれているベオルブではない。
待ち受ける、横殴りの拳撃。
床の下より叩き付けてくる、強烈な脚撃。
拳が振り抜かれ、リーヴァンスの胸を深々と強襲した。だが一瞬遅かった為に、瓦礫と共に垂直に蹴り上げてきたリーヴァンスの驚異的な速度を伴った脚力に、ベオルブの胴が縦線に引き裂かれる。それでもベオルブは痛みを堪え、拳ごとリーヴァンスを再度地面へと無理矢理に叩き付ける。しかし脆くなった床は易々と崩壊し、衝撃を崩壊へと逃がしてしまう。自らも闇に誘われる様に、リーヴァンスと共にベオルブの巨体が落下していった。
忘れられていた悲鳴が、今ようやくに階下より伝えられる。二人の身体に呑み込まれ押しつぶされた者の最後の遺言なのだろう。
構わず、二人が暗闇の中で打ち合う空間の鳴動が、恐ろしい勢いで伝えられてくる。
その衝撃に耐えきれなかった床は次々とひびの侵蝕を広げ瓦解していく。それまで傍観する事しか出来なかった子供達も、我先にと四方八方の何処かへと散っていった。何処が一番安全なのか等という事には気が付かないらしい。見かねたアティシアが急いで安全圏らしき場所まで彼等を誘導する。その中にネイの姿があった事には気付いていない。
激しい攻防が繰り広げられているのだろう衝撃音が、突然に切れる。それが意味しているのが、果たして勝敗が決したという事なのか、確認は出来ない。
答えは、隣の建物の崩壊で知らされた。
路地を介して存在した廃墟。誰かが住み着いてはいるだろうが、この《コールド・アイ》という闇病院の様に明確な誰かが使用している訳ではない。所有者不明、居住者不明の放置された廃墟が突然に崩れ始める事など、別に大した事ではない。爆弾か何かを使用してそこにいた者達を一層するという行為など、それほど珍しくはないのがこの世界の有り様だ。
だが、それがたった二人の闘いによって引き起こされた事象であれば、話は別だった。
建物を支えていた支柱をやられたのか、奮迅を上げて崩壊する廃墟の中で、幾つもの衝撃が風を引き起こし、誇りを周囲へとまき散らす。すぐに二人の姿はそこから現れる。全身を血に彩り、しかし闘気は全く衰えてはいない。だが、その中に殺気というものが感じられなかった。闘う事に酔っている。
打ち出された拳を掴み殺し、その腕に沿ってリーヴァンスの蹴りが繰り出される。胸板に食い込んだ脚撃に、ベオルブの口が耐えきれずに食いしばる歯の隙間から血をまき散らす。構わず、捕まれた拳を開いてリーヴァンスの肩を掴み、強引に下方へと引きずり下ろした。そこへもう片方の腕により拳撃の猛攻。拳を伝う肉を打ち付ける感触に高揚しているのか、その口元は横に裂け笑みを吹き出している。普段は冷静を取り繕おうとしている様だが、やはりベオルブは内なる喜びを隠しきるには性格が向いていない。暗殺者タイプではなく、戦闘タイプの素体として創り出されたのだから仕方の無い事だ。
次々と送り込まれる剛拳の連撃に、リーヴァンスの身体が悲鳴を上げ瓦礫の中へと埋もれていく。一撃放たれるごとに鮮血がほとばしりベオルブの腕を更に紅く染め上げていた。その腕が、繰り出したと同時に突然に何かに引っ張られて、ベオルブの顔が地面に突き刺さる。と思った瞬間、その頭が今度は逆方向に急速に加速した。その眼前を追って、リーヴァンスの後頭部が瓦礫山の中より現れる。ベオルブの単純めいた拳撃の嵐を読み切り、それを逆手に取って頭突きをかました様だ。ついで、下から突き上げるアッパーがベオルブの顎を捉える。その急激な上昇加速でリーヴァンスの側から離れる前に、半回転したリーヴァンスの強襲回し脚りが腹部を襲った。その凄まじき衝撃に、周囲の瓦礫が破砕する。耳障りな破砕音は、しかし追撃を行わなかった為に、やがてすぐに零へと収束していった。
その顔が、突然にこちらへ向く。その双眸は、見えない筈の俺がいる一点のみを映していた。
ありえない。俺の存在に気が付いている筈がない。姿も、音も、気配すら完全に消している筈の俺を、ただの戦闘馬鹿が感知出来る筈がない。
その意に反して、リーヴァンスの左腕に力が込められる。
距離を無視し、空を裂いて俺の身を襲ったのは、ストレートに俺の方へと振り抜いた拳撃によって生まれた拳風だった。
咄嗟に身を捌いて、俺はそれから逃れる。
だが漏れ出た気配は、観察していた二人が察するには十分だった様だ。
背中から衝突し破壊した壁の残骸から出てきたばかりのベオルブの双眸と、子供達に混じって戦闘を観戦していたネイの視線が俺の所で交差する。
何故リーヴァンスには俺の存在が分かったのか。
理由無き失態に舌打ちし、俺はやむなく仕込んでいた保険を起動させた。




