3-4
昼には暗すぎる、白き世界。
ユメリアという街の半分以上をしめる無法地帯の中にあって、それは治外法権とも呼べる程に、不安定な安定が微妙なバランスと保っていた。いつかはまた壊されるのだろう、平穏無事な日常。滞りありながらも中立を維持し続けようと頑張っている世界の中で、いわゆる病院と呼ばれる傷付き倒れし者達が集う場所には、例え彼らの間にどんな確執や人間関係があろうと、そこで新たな怪我人を生み出す事は決して許されない。
街の一角にある、どこからどうみてもそうとは見えない、汚れた狭い路地の奥ではどこにでもありそうな何でもない建物。それが、《コールド・アイ》という名を付けられた、この街一番の闇病院だった。
狭い裏路地の中にあって、やや小さめの敷地に立つ建物は、恐ろしく小さな入り口を、一つだけ携えている。四階建ての木造建築に、無理矢理白の漆喰を綺麗に塗り上げられてはいる様だが、しかし無惨にもそれを主に血の色と汚れの混沌色とで凹凸を作り上げられているのは残念だと言う他に無いだろう。皮肉にもそれを照らし上げる灯りがほとんど無いのが幸いだ。しかし周囲にはがらくたとゴミが散乱し、とてもそこが病院だとは思わせない。夜中ならば誰も近づかない様な闇の吹き溜まりに、そこは埋もれている。
そんな中を、場違いとも思われる美女が、ゴミをかわしつつその場へ歩を進めていた。その手は、いったいどこから調達してきたのか、色とりどりの大量の錠剤が入り交じれている透明の袋を抱え込んでいる。膨らんだ二つの谷間、胸の棚と両腕で作り上げた支えの上にあって、それは彼女の歩みの振動にあわせてジャラジャラと音を響かせ、静けさに包まれるべき世界を我が物顔に闊歩行く。お世辞にも巧いとは言えない、むしろ耳を閉ざしたくなる様な鼻歌交じりに進むその彼女の歩みが一瞬立ち止まったそこは、到底、腰をかがめる事無しでは通る事は出来ない暗闇へ続く入り口だ。ドアがついていた形跡はあるのだが、今は無い。しかし彼女は、躊躇う事無くその入り口に吸い込まれていく。身体を折り、半分近くも身長を縮めながら、狭い入り口の隙間が彼女の傍らを後ろに通り過ぎて行った。その手に自分の胴体の半分以上の容積を持つ錠剤袋があったとしても、その動作に無理はない。するりと抜けた彼女は、廃屋の暗闇としか思えない通路を迷う事無く突き進んでいく。その先に何かがあると知っているかの様だ。
やがて、外を照らしていた僅かな灯火の光よりは明るい輝きが、僅かな隙間から零れ訪れる。
それを遮っている壁に取り付けられた取っ手を、彼女はゆっくりと引いていった。
「あんたか……」
2mは裕に超える巨躯が、ゆっくりと蠢く。声は重圧に響き、しかし不快は感じさせない。侵入者の姿が見知った者だと知って、声の主は薄暗く照らされた闇の中で警戒をやや薄めた。だが、油断は全く解かれない。
「はぁい。早速来たのね。そんなにあの子の事が心配? 見かけによらず、意外と人付き合いを大切にするのね」
「ああ」
女性の軽い挨拶に即答は避け、短く応えた男、ベオルブがそこを訪れるのは、これで五回目だ。
一度目は、三日前の今日。此処を訪れた理由は、この場所が病院である事を語れば、言うまでも無いだろう。二度目は、その次の日だ。彼自身も傷を負っていたので、嫌がるのを捕まえて初日に手当をして貰ったのだが、既にその時には傷の姿は包帯の下からはほとんど消え去り、その痕跡らしき変色した部分が残っていただけだった。三度目の訪問となる昨日には、その前日の期待を裏切らず、既に傷は完治し、その片鱗さえ影も形も失われてしまう。それからほぼ一日過ぎた今日が四度目の訪問。
最初の訪問は除くとして、後の三回に共通した目的、赤の他人である正体不明の連れの様子を見に来てから、約三時ほど過ぎた今が五度目の訪問だ。
少し前に外出した彼女が、錠剤ショッピングのついでに彼へと向けて流した情報は、すぐさま裏世界の生きる者達でしか知らない筈のかなり奇異な情報伝達手段を用いて至る所へとばらまかれた。その情報がいったい何を意味するのかは、基本的に知る術は存在しない。流す方も、流される情報も、幾重にも暗号化され変質し、それどころか時には情報そのものが歪められる事もある。確実な手段としては決してありえない、特質化されすぎた、今はもう使われていない情報伝達手段。
「思い出すのに、苦労したぜ」
面白半分にわざとその情報伝達手段を用いた彼女へと向けられた笑みに、それまでベオルブを相手していた受付の少女がぎょっとした顔をする。
「それで、アティシア。あいつは?」
「寝起きの悪い坊やは、暫く拷問牢獄送りにしてあげたわよ」
こっちよ、と言わんばかりに巨躯の横を狭い部屋にも関わらず難無く通り過ぎた先に進み始めたアティシアと呼ばれた女性に、ベオルブの巨体が続く。その筋肉に覆われた巨躯に遮られてしまい、帰ってきたばかりのこの病院の主治医であるアティシアに、何かを言おうとした少女の口が、結局その言葉を呑み込む。タイミングを逸してしまった少女は、しかしわざわざそこから出てアティシアを追って伝える事はしない。大した内容ではないから別に問題ないな、という様な投げやり的な表情がそこにはあった。
その少女、心に知らずと、頼もしいボディーガードを後ろに引き連れたアティシアの剥き出しの両足がゆっくりと階段を上り始める。その彼女に続いてベオルグは追うが、その表情は謎解きに苦闘していた。
そのベオルブがその答えを見つけるより先に、アティシアが後ろを振り返る。
「それと、いつも言ってるでしょ。ティニーって呼んでって。次間違えたら、実験体処理室に放り込むから」
今度はベオルブがぎょっとした様に顔を強ばらせる。
二人が今登っている階段の中腹の壁に、何故か取り付けられているドアには、《第八実験体処理室》と書かれたプレートがかかっていた。その奥からは、とても普通の世界にはあるまじきねちねちとした奇妙な音が、苛細にその何かを伝えている。実験体という言葉も恐ろしいが、その後に続いている処理室という凍れる響きには、何とも縁を持ちたいとは思わないだろう。陰鬱な闇の締める世界にあって、やはりこの病院も例外では無い様だ。
果たしてそれが効果的な脅しとして功をそうしたのかは分からないが、とりあえずベオルブの心には、今は逆らうのはよそう、という従僕に似た理性感情が芽生えていた。
「貴方が連れてきた彼、ようやく目を覚ましてくれたのは良いんだけど、いきなり暴れたのよね」
内容に含まれた迷惑には意識せず、事実だけが楽しそうに言葉にされる。
「……何となく予想はしていたが、やはりそういうタイプの奴だったか。損害はどれぐらいになる?」
「ざっと見積もって、たぶん魂八つ分かしら? 手当するのも面倒だったし、此処での暗黙のルールもあったから、全部自然死という片付けたわ。実験体が増えて大助かりだった、というのが唯一のメリットかしら」
怖い事に、それも言葉そのままの意味が籠もっている様だった。ベオルブはそれについて考える事に放棄を決め込む。こめかみに募る痛みを受け止めつつ、その顔に浮かぶのは、他人を装うとする事に対する困惑の強ばみだ。
ベオルブは聞かなかった事にして、アティシアの後ろ姿をただ黙々と追う。
「半壊した部屋の後片付けはまだだから、後でリリーちゃんを手伝ってあげてね」
それが受付をしていた細い腕と脚をした少女の名前だという事に気付いて、ベオルブは己の未来を悟っただろう。ほとんど労働力としては役に立たない少女の代わりに、汗水流して一生懸命働いている自分の姿を。
嘆息は一瞬で終わらせ、その軽くて柔らかな口調で伝えられた命令に、金を払うよりはまぁ良いかとベオルブは納得する。
その沈黙に固めた筈の唇を割って出た呟きが、静かにベオルブの鼓膜だけをうつ。それが自分でも新鮮だと思う程にすがすがしい悪態だった事に、さしものベオルブもつい醜悪な笑みを口元に零しまう。
勿論、その呟きも笑みも、前を行くアティシアには悟られる事は無かった。
「だけど、そんな身の程知らずな悪戯っ子は、放し飼いにはしておけないわよね。四肢の関節を全て外して、屋上でたむろしている生意気な糞餓鬼共……じゃなかった。屋上で遊んでいた子供達の中に放り込んであげたわ。今頃、パワフルでエネルギッシュな若い彼らの玩具になっているんじゃないかしら?」
一瞬、アティシアの本性の一端を垣間見た様な気もするが、ベオルブはここでも敢えて聞かなかった不利を決め込んで、言葉の本質のみを拝聴した。要は、目覚めたばかりのあの男は、絡んできた可哀相なゴロつき共をボコボコにし、それをした彼にアティシアは関節外しの刑を施し、ほぼ動けなくなった彼を、もう一つの罰として、子供達の遊び相手にさせた。ただそれだけの事である。
「まぁ、一件落着で収まっているなら、それで良いか」
ベオルブは、問題ないなと小さく頷いていた。
如何にしたら、これほどまでに複雑な迷路を建物内に造れるものなのか。
ベオルブとアティシアが、ようやく牢獄と表現された子供達が戯れる屋上へ到着したのは、たっぷりと時間を掛けて、この辺り一帯の建物内を走る通路と階段のその全てを通り尽くしたと言わんばかりの疲労度に襲われた頃だった。
五歩も進まない内に途切れ曲がる直線路が際限なく続いているかと思えば、上がったばかりにも関わらず下りる羽目になるという矛盾した階段路の昇降運動を繰り返し
、分岐点の一方の通路を選ぶと部屋の中を突っ切り新たなる開拓道へと入る。その間ずっと続く、信憑性のあるアティシアの実験小話を裏付けるかの様に、時折《第?実験体処理室》と書かれたプレートをぶら下げる、奇妙な場所に作られた何かの入り口。その奥からは、どれも不愉快な悲鳴の様な呻き声の様な言葉らしき音が聞こえていた。それも、全て質の異なった音だ。その《実験体処理室》の最も大きな数字で《五十三》という事は、本当にその数だけ何かの実験に使用した実験体の《処理室》が存在するのだろうか。その数字が《ゴミ》とも読めるという事に、ベオルブは踏み入れてはいけない世界と関わってしまったという悪夢に苛まれる。
その悪夢を消し去るかの様に、まるで慈愛に満ちた輝きがベオルブの身を突然に温かく包みあげた。眩しいばかりの陽光に、ベオルブの瞳が細まる。傍らでは、ほんの少しばかり先にそこへと出ていたアティシアが、懐かしげな顔をして、その二つ瞳を右手でかばっている。そこに大量の錠剤が入っていた袋は無い。いつの間にか、忽然と姿を消していた。だが、あの忌まわしき部屋に比べると些細な事だ。ベオルブは少し難しい顔つきをするが、すぐに緩める。
「此処だけは、まるで天の園の様な場所だな。下に比べてだが」
暗い場所から突然に明るい場所に出たので、ベオルブの瞳には周囲がまだぼやけて見える。だがその回復の間も惜しんでしまうぐらいに、心に癒しを受けたベオルブの口は、思わず言葉を滑らしていた。
「そう? 私には、地獄の園の様に思えるんだけど……」
ベオルブが口走った意外な言葉に、険しげに歪められたアティシアの瞳が睨みを含む。下手をすれば殺意さえも混じりかねない険悪な双眸だ。
「その割には気持ちよさそうな顔をしていたな。何をそんなに嫌う。此処はそんなに忌み嫌う様な場所か? 見て見ろ、あの楽しそうに遊ぶ子供達の、屈託の無い銃粋な笑顔を」
言って、先程から鼓膜を震わせていた溢れんばかりの笑い声を発している方角へとベオルブは指と視線を向けた。
途端、その双眸が子供達を捉えると、何度か瞬きする。言葉を発した手前、羞恥と畏怖を覚えつつもどこか遠くへと旅していた意識が、それを明確に認知すると、ピンと伸ばしていた腕が、思い出したように重くなった。
ベオルブは、後悔した声で、呟く。
「俺が悪かった。言い直そう。此処は、地獄だな……」
「そうでしょ?」
嬉しそうに微笑み、アティシアは手にしていたナイフをゆっくりと胸元へと再び隠し始める。それでいったい何をしようとしたのかは、恐らく新しい実験材料の確保を行おうとしたという事で間違いないだろう。それが出来なかった事に対して、笑みが嬉しそうだったのは、同じ意見がもてた事に関する純粋な気持ちとみていい。そう思うのが安全だ。
その二人が素直に認めた、地獄の風景。
それは、地上世界の様に血と肉の朱色が支配する様な、どす黒い世界ではなかった。例えるなら、アティシアが拷問牢獄と表現した様に、一方向的な仕打ちに閉ざされた監獄。血の惨劇は伴わないが、しかし肉体と精神の両方を痛めつける、心身攻撃だけが常に繰り返されている。個々の攻撃はかなり弱いものだったが、しかしその数が半端では無く、そして飽きられる事無く長時間に渡って多種多様に見舞われるのは、十分に拷問と言って差し支え無いだろう。
「次はアッちゃんとミッチーの番だよ」
「え~。あたし、腕を捻るよりもトランポリンがしたーい。お医者さんごっこ、飽きたー」
「それよりも、やっぱサンドバックやろうぜ。な、絶対面白いって」
明らかに間違った言葉の使い方をしながら、しかし彼らはその言葉に見合った行動を疑問を感じる事無く、積極的に行っていた。アッちゃんとミッチーと呼ばれた二人の女の子は、結局両方を行う事を選んだ様で、器用にも男の腕を両手で掴んで捻りつつ男のお腹を上をポンポンと飛び跳ね始める。その合間をぬって、繰り出されるパンチとキックの応酬がサンドバックとなった男の身を襲う。主に殴りやすい頬と、蹴りやすい太股と脹ら脛、背中、腰が集中的に狙われ、時折大振りの一撃が見舞われる。
「あ、おい、貴様。そこ踏むな。痛ぇだろ。髪も引っ張るんじゃねぇ。殺すぞ、おい。聞いてんのか。っていうか、聞けって、おい。ああ、そんな下手くそな殴り方じゃ拳がいかれるぞ。殴るならもっと腰を入れて真っ直ぐ撃て。固い所も狙うな。石ぐらい砕ける様になってからにしろ。ワヒャヒャヒャヒャッ。ちょっ、くすぐるのは反則だって。指折りも禁止だ。言ってる側から折るな! とりあえず、ちゃんと元に戻せよ。だから、俺の名前はリーヴァンスだって、さっきからずっと言ってるだろ。いい加減覚えろよ。長くて言いにくいなら、リーで良いよ。それより、御前! いつまで物欲しそうな目で俺の首筋を……」
その子供達の尋問と拷問に逐一応えているのは、律儀というかただ馬鹿なだけなのか。
ベオルブは嘆息混じりに、偶然にもリーヴァンスと自己紹介した彼の方へと足を運ぶ。質問の一つをする必要が無くなったとしても、積み上げられている質問は幾らでもある。素直にその全ての質問にリーヴァンスが応えてくれるかは分からないが、何もしないよりはマシだと考えたのだろう。
だが、その足が唐突にとまる。
そして、まるで嫌なものを見てしまったかの様に、ベオルブの顔が不愉快に歪められた。
「どういたしましたか? もしや、彼女の事を御存知で?」
そこに問い掛けられた、老人の聖職者を思わせる静謐を持つ響き。
振り返り瞳に収めた男の姿は、予想通りに黒の礼拝服に身を包んだ牧師だった。その手には聖書なのだろう、しかしタイトルは書かれていない、少し薄汚れた茶色の本を握っている。病院の屋上に牧師とは、縁起が悪いにも程があるかもしれない。
「彼女はつい三日前に私に押しつけられた"はぐれ児"でして。何でも鬼の様な巨人に捨てられて途方に暮れていた所を、街の門を守っている警備の人が保護したそうです。そのまま放っておく事も出来ないので、この街で親のいない子供達の世話をしている私に、いつもの様に押しつけていきましたよ。迷惑極まりないですね」
聖職者にはあるまじき言葉を彼は涼しげに言う。その顔は笑ってはいるが、目には怒りを覚えている様だった。
つられて、アティシアも何故か同じように笑っている。目に怒りを浮かべて、だが。
「あ、バルキリー。何処行ってたの。おいで」
呼ばれて、俺は大急ぎで彼女の元へと戻った。
柔らかな腕で抱き上げる心地よさと、その後にやってきた頬ずりの気持ちよさに、俺の身体が喜びを訴える。
それまで俺がいる事すら気付いていなかったベオルブの肩の堅さとは段違いだ。
「ベルはいらない。とりあえず、消えて」
「どうやらお知り合いの様で。迷惑料を請求させて頂いて良いですかな?」
裏の世界の聖職者は、やはり裏の世界らしく汚れている様だ。
胸元で持っていた本の向こう側に隠していたナイフを陽光に少し輝かせて、威嚇する。丁度、彼の位置は子供達からは見えない方へと向いていた。素直にベオルブが従えばこの日常は変わらないだろう。
「拳で良いなら幾らでも払ってやれるんだがな……ティニー、素材がもう少し欲しくないか? 遠慮する事無いぜ。あんたへの迷惑料代わりに、少しだけ労働意欲が出てきたからな」
威嚇に対してキッパリと脅し返して、ベオルブは聖職者の顔を被った男を簡単に押し黙らせた。たかが数十センチの刃渡りしかないナイフでは、全身筋肉鎧に覆われたベオルブを脅すにはあまりにもちゃちすぎる。それ以前に、ベオルブの放つ気迫に屈しただけだとは思うが。
「殺るなら壊さないでよ。新鮮な方が美味しいんだからね」
アティシアの言葉にぎょっとした男は思わず持っていた本を取り落とそうになった。いったい彼女との間に何年の突き合いがあったのかは知らないが、あっさりと裏切られた事に驚きを隠せないらしい。
子供嫌いの彼女が経営する病院の屋上で、世話している子供達を野放しにして嫌がらせをしているという事実に、彼は全く気が付いていなかった様だ。腐った世界に住む者として、その脳味噌が腐っているのは当然か。
男は裏切られたという自分本位の見当違いの結論に行き着き、そして諦めた様にナイフを懐に隠し始める。
「悪魔はいつも私を御見放しになられる。それとも、神に祝福された子供達の前だからなのか……不本意です」
そして、いつでも自分を殺せる準備をしていたベオルブに背を向けて、何処へともなく進み始めた。子供達という存在を後ろ盾にした姑息で汚い手だが、その本質は事の成功よりも失敗時の逃走手段の意味合いが強い様だ。まだ脳味噌は腐りきっていないらしい。
男の姿が完全に消え去ってから、ベオルブはようやく身体に溜めていた力を解放した。
「珍しいわね。レーゼルが危険を犯してまで子供達の前で面をめくるのは。貴方、いったい何者?」
「少なくとも、今はただの旅人だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「本当に?」
初めてベオルブに興味を持ったかの様に、アティシアの双眸がぎらつく。それがとても危険な意味を持っているのは、薄々ベオルブも感づいている彼女の趣味が何か、という事を考えれば一目瞭然だ。
手振りだけで、そうだ、という意味を伝えて、ベオルブはアティシアから視線を外した。
その瞳が、血を吸われているリーヴァンスの姿を捉えたのは、すぐの事である。




