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意識を失っているズタボロの男と相棒のネイ、そしてそのネイの頭の上に乗っかっているB級眷族魔者ファバルーの赤ん坊の、二人と一匹の荷物を連れてベオルブが街に到着したのは、既に紅に染まる感麗極まる空の景色が鬱そうと茂る木々の向こう側で彼らの瞳に触れる事無く終わりを告げてから、更に暫くの時が経った頃だった。
いつもであればベオルブの巨大な肉体からは恐ろしく鈍速に感じられるネイの歩行速度に合わせている為に、通常の彼の歩行速度よりも三倍程度の時間を浪費して同じだけの距離を進むのだが、今回に限り一見するだけで分かる程に重傷を負った男という厄介者を連れていたので、ベオルブはその男を肩に担ぐだけでなくネイの身体も小脇に抱え、早足で森の中を突き進んだ。
通常の二倍以上の速度で、ネイの歩速から計算すると約7.6倍ものスピードで一気に森から抜け出したのは今から約四分の一時前。それから行き交う人々の足によって踏み固められ作られた街道を道なりに進み、流石にその時間帯になると道行く人はほとんどいなかった為に前進の障害となる人々の壁に煩わされる事も無く、闇夜の暗き世界から抜け出した。この間、魔者と出会わなかったのは、一重にこの辺りの治安が良かった事と、同時に幸運だったのだろう。
昼間に出会う魔者とは違い、夜の世界を徘徊する魔者は一般に昼間のそれよりも上級な眷族が多く、そして暗闇の中で活動をする事を得意としていない人族は必然的に苦戦を強いられる。それが数で襲ってきた場合であれば、出会った時からずっと戦闘不能状態に陥っている捨ててしまいたくなる様な荷物である男の身を守りながら闘うのは、尚更不利だろう。
そんな面倒な事に巻き込まれる事無く、もとから次の目的地として定めていたアリティア共和国とフェブリゾ皇国の国境に位置するユメリアの街の門を、そこを守る門番に二言三言を投げかけ強引に入り込んだベオルブは、そこにネイという置き土産の時間稼ぎを捨て去って、裏路地へと入っていった。
門番に投げつけられる様に捨てられたネイは、しかしそれまでぐっすりと寝むっていたので、ぶつかる瞬間までの事の一切を知らない。
目覚めてすぐ、その眼前にぶくぶくに太った肉圧の高い不細工な顔が広がっていた事に驚いて、ネイが悲鳴を上げた。
同時に翻った手の平が男の頬をとらえる。
赤い手形を残して男が無様に叩き飛ばされる。咄嗟のネイの本気の平手打ちを、ネイをぶつけられた事により顔をのけぞらせていた為に、まともにその一撃を受ける事にならなかったのは男にとって幸運だっただろう。同時に脂肪度の高い肉厚の鎧のお陰でもあった様ではあるが。
だが彼の不幸はそれでは終わらない。
ネイの悲鳴を聞いて、何事かと一斉に振り向いた通行人達の視線が、それを物語っていた。
彼らにしても、事の全容を知っている訳では無いのだ。
単純に考えて、醜悪な肉の固まりである万年門番詰め男が、幼気な少女を捕まえて遂に犯罪の領域へと足を踏み入れたというのが、その場にいる者達のほとんどの総意見だっただろう。
そういう目で見つめられ始めた被害者である男と共に、まだ新米であったもう一人の門番も、そこに自分も加えられるという事に恐怖し、部外者を装い始めている。いや、事の真相をだいたい知っているにも関わらず、彼の瞳は断罪者の位置へと移動しつつあった。
そんな予想通りの展開に付け加えてネイによって新たなアレンジがされた事件が起こっている事を微妙に心の中で笑みしながら、事の張本人であり、いつのまにか誰からも忘れ去られつつある確信犯のベオルブは、街灯もまばらな裏路地の階段を足音を殺して早足に上りきる。
その足並みのテンポは、森を出る前から一向に変わっていない。常人ならば噴き出る筈の速度で進んでいるにも関わらず、その身体は乾いており汗はかいていなかった。ただし、その身体から放たれる異臭は思わず鼻を押さえたくなる程に醜悪だ。血と汗の入り交じった乾いた衣服からは、それが混合され生成された変態や魔者が好む特有の香りだけではなく、魔者独特の臭いが微かに混じっている。
だが、ほぼ無いに等しいぐらいに薄い魔者の香臭は別として、紅き液体の血臭と男臭い汗のブレンドは、ろくに治安も保たれていない無法地区たる裏路地には珍しくもない。むしろ、ベオルブが発する香りの方が新鮮で香しいと思う程だった。
「《神の剣を持つ国》と《神の領土すら侵略しようとする国》の境に位置する街としては、これが普通という事か」
道行く道の至る所に転がっている、元は人の姿をしていたのだろう幾つもの死骸を視界の端に入れながら、ベオルブが訝しげに毒吐く。そこにまだ名前も知らない肩に担いだ青年を投げ捨てたとしても、全く違和感も無く溶け込んでしまうだろう。
しかし流石にこれだけの時間が経っても生きているという強靱な生命力を持った男を見捨てる等という事には、罪悪感が働いてベオルブにそれをさせていなかった。
それがいったい何度目の誘惑になるのか、ベオルブの頭の中を再び過ぎった時、ようやく彼の瞳の中に生きた人間の姿が映される。
裏の世界たる路地に入ってまだほとんど時間が流れていないが、しかしベオルブが踏歩した距離はかなりになる。その間に死した屍は例外として、誰にも遭遇する事が無かった方が驚きなのだが、そんな事はベオルブにとってはどうでも良い事だった。
直線ではあるがやや上りとなっている遙か先の頂上で向かい合って何やら言葉を交わしている二人の男の姿を認めて、ベオルブは僅かにだがその歩速を上げる。
その歩みに音は無かったが、しかしベオルブの接近と共に空気が張りつめ始めた事に気が付いて、二人がその理由を求めて視線を向ける。
それだけで、二人がただのちんぴらではなく、自分に驚異を与えるだけの存在である事をベオルブは察した。
そして、二人の視線がベオルブの姿をとらえた瞬間、その顔が僅かに変形する。偶然という予期していなかった出来事に驚いている表情だ。
道の中央で悠然として佇んでいた、年上の女性からは好まれそうなやや童顔で少年風の姿形を持った中性的な青年は、その黒瞳とは対称的な白銀の短き髪と同じ色をした剥き出しの刃、細身の剣を両腰から地面に垂直にぶらさげている。それに白の戦闘装束で身体全身を包み込ませ、薄暗い夜であるにも関わらず、その浮き立つ色を伴った男はまるで存在感が無い。にも関わらず、ベオルブの注意を先に奪ったのは彼だった。
その彼の向かいにいた、壁に背を預ける形でもたれかかっている、もう一人の青年。やや攻撃的な顔立ちを翡翠の瞳が輝き煽り、無作法に飛び散っている髪型もあったものではない黒髪がよりそれをかき立てていた。その肢体にべっとりと付着する紅の絵の具は、一時以上前に買ったものではない。つい最近購入したばかりの、殺戮という名を持った金銭のやり取りだ。滴り落ち小さな血溜まりを作ったその上で僅かな街灯の光に反射して仄かに煌めく鋭い凶器がそれを物語っている。
一瞬でこの後の未来を苦も無く予想したベオルブの身体に緊張が走る。
そのベオルブの視界の中で、死刑執行の任を今し方終えたばかりの男の瞳が、ゆっくりと細められた。
ベオルブの巨体には悲しくも短い距離だと現実を突きつけられた直線水平距離が終わりを迎える。敷き詰められた四角いレンガの網模様が角度を変え、その反対側の角度変更点である男二人がいる場所までの距離は、ベオルブの歩幅にして約7歩。その間に横道への通路はなく、ただ血と泥とその他諸々の落書きよって埋められた見るも無惨な壁が立ちはだかっていた。ベオルブが軽く一撃でも加えれば簡単に崩壊しそうだが、それをすれば崩壊した壁の上から次々と瓦礫が降ってきて、狭い道を簡単に覆い尽くしてしまうだろう。まだ何事も起こってはいないが、無い横道を作り反れると同時に本道が無くなるのは逃走としては意外と有効な手かもしれない。
勿論、ベオルブがそれをする訳がなく、またその必要も無いので、それまでこの辺りに起こっていた事件に比べれば些細な事は、結局そこでは起こされなかった。
覚悟を決めたベオルブの歩みは全く衰える事はなく、むしろ速くなっている。
それを悟ったべっとりと血のりを全身に付けた男が、その強面に笑みを浮かべ、そして左手に持った凶器を強く握りしめる。
状況にして、その男達が引き起こした惨殺事件に運悪く遭遇してしまったベオルブという目撃者を、翡翠に煌めく双眸に映した死刑執行人が消し去ろうとした。
そういう意味で勝手に納得した男の姿が、ベオルブの瞳の中でその行動を開始する。
不条理な目的だったが、行動へと移した男の繰り出した刃が容赦無くベオルブを襲ったのは、次の瞬間、事実へと変わる。
最短距離で突き出された刃の切っ先に対して、ベオルブは咄嗟に左に身を捌く。その拍子に何故か身体が軽くなった様な、奇妙な感覚がベオルブの身を襲う。訝しげながらも忘れ、残虐さを秘めた薄笑いが眼前を通過する前に横へと薙られたのは刃では無く手套。思っていたよりも早かったそれに、胸板を横一文字に斬り裂かれながらも繰り出した拳の応酬が、男の米神にヒットし、そのまま男を拳ごと壁へと叩きつけた。勢いに負け、大気を鈍く震わせながら壁が瓦壊する。その上から降ってきた崩落石が身を打ちダメージを受けるよりも早くに翻った脚をベオルブは冷静に受け止め、掴んで今度は反対側の壁へと男をぶつける。バラバラと破砕した壁が男の身体を呑み込む。その奥の死角から壁の残骸を貫き通して銀の点が生まれるが、それもベオルブをとらえる事は出来なかった。
「思っていた以上だ。嬉しいぜ」
瓦礫の城で無い王座を暖めた男の瞳がベオルブと交差する。
僅かな合間を使用して発せられた言葉の意味する所を今は無視して、ベオルブの拳が空を裂き衝撃を生む。だがその時には既に男の姿は突き出された凶器と共にそこには無く、真横からの連続する矢継ぎ早の驚異がベオルブへと襲いかかる。粉塵へと変えた破片へと自ら突っ込みそれから逃れようとするが、男の攻撃速度は余裕でそれを上回っていた。銀閃の嵐は致命傷にはならなかったが、確実にベオルブの肉体を斬り刻む。傷の谷間から血が飛び散り、みるみるうちに衣服を染め上げていく。
その仕打ちに熱く応えて、ベオルブの咆哮が闇を震わせる。
弾丸へと変わった一撃が男の身を求めて線を引く。男は打ち落とそうと腕を薙ぐが、巨躯から生み出された破壊のエネルギーを僅かに軌道を変えただけで男の身体に食らいつく。だが寸前に後方へと跳躍した男は、当たり所も良かったのか、肩の鋼鉄具を失いながらも威力をほぼ殺す事に成功し、にたりと笑みを広げる。
だが、ベオルブの一撃を身に受けた余波は、それほど軽視出来るものではなかった。
殺しきれなかったエネルギーの奔流は男の後退に加速を加え、その身を背後の木ダンスへと打ち据える。ベオルブと同様に鍛え上げられた筋肉の鎧で守られた身体が、それによってダメージを受ける事は無かったが、そこに若干の隙を男に与えてしまう。
鮮血が、右方に向けて一気に加速した。
追い打ちに繰り出された拳による、その衝撃波だ。
男の右胴へと食い込んだ拳撃は、肋骨を数本へし折り臓器の幾つかを破壊する。反動でくの字に折れ曲がる男の瞳には、しかし笑みは消えていない。その手に握った剣の刃は、自らを襲ったベオルブの左手首を貫いていたからだ。それは、血の滴りによってその刀身に模様を描いている。
手入れをされる事が無かった刃は、それまで殺してきた者達の血の色に完全に染め上げられ、その刀身の紅黒く鈍い輝きを誇っている様だった。
忌むべき呪われた刃の色に、ベオルブが苛つきの舌打ちをする。
それは、決してその剣によって殺された者達に対する感情の表れではない。
自らもそれを持つだけの資格を持っている事に対する葛藤と、それなしには生きていく事が出来ない身体にされた為に必然的にそれを行わなければならない運命を定められた一人の少女を嘆いての事である。
ベオルブはかなり不機嫌になり、強引に左腕の先にのしかかっている荷物を、手首に突き刺さった剣の事を無視して振り抜いた。
縦筋に斬り進んだ刃に続いて、血飛沫の噴水が舞い、室内の壁をも外壁と同じ様に筆を入れられる。声にならない気勢を吐いたベオルブは、その直後、床を蹴り男を追う。狭い屋内でベオルブが到達するよりも一瞬早く、壁へと叩きつけられた男は、砕け散った壁の一部を掴み取り瞬時に投擲する。ほぼ零距離で飛来した障害物を認めてベオルブは肉体をよじらせる。薄く顔の面を切り裂いた刹那後に、それは衝突する相手をようやく見つけ、その先へと貫通した。直撃すればただでは済まなかっただろう。
その恐ろしい威力に何ら臆する事無く、ベオルブの腕が再びそれをしようとしていた腕の肘を掴む。掴むと同時にその部分をまずは潰そうとするが、しかし男はそれを許さないと動く。蹴り上げた左脚はベオルブの腕の肘関節に命中し、反対方向へと折り曲げる。バキッという音を響かせると共に、その折れた肘骨の先が外部へと露出するが、構わずベオルブは掌を閉じていた。
ほぼ同時刻に、お互いの腕の一本を肘から先で使い物にならなくさせた二人の瞳が真正面に初めてぶつかり合う。
それも一瞬の事で、次の刹那には、二人は脳へと伝えられる激痛の抗議に顔を苦痛に歪ませたまま、殺意の籠もった必殺を繰り出す。
大砲のごとき轟きと空気に亀裂を入れる鳴動が重なり合い、それは二人の身をそれぞれに襲う。ベオルブの拳は、肉体そのものを破壊する力を秘め、内側より目標を爆砕する。だがそれを相殺する程の特性を持っていたのか、男が繰り出した掌打によって受け止められたベオルブの拳は、何をも爆砕する事無くその威力を零へと遂にかえらせた。
しかしそれに驚愕の表情を浮かべたのは、ベオルブだけだった。
「俺に勝てる気がしなくなったら遠慮なく言ってくれよ。その時は遠慮なくいたぶり殺してやるからな」
嘲笑うかの様な瞳で、その顔には似合わない汚い笑顔を男はベオルブに向ける。
言葉は一言もかえさず、ベオルブが右に動く。肘からぶら下がった右手を気遣っての事だ。左半身をやや敵側へと傾けて左腕を防御に構える。手首からざっくりと縦に細くて長い大きな空洞を作ってはいたが、使えない右腕ほどではない。
その未だに血を排出する左腕を襲ったのは、頭部を狙った男の上段蹴りだ。持っていた武器は掌打を放つ際に手より放れて地に落ち、崩壊した壁の慣れの果てに埋もれている。だが鋭い凶器は男が履いていたブーツの爪先からも飛び出していた。さっきまではなかったものだ。その脚撃をやり過ごしたベオルブが、それまでの攻撃的な態度とはうって変わって、冷静に男の動きを観察し、物静かにゆっくりと男に接近する。そのベオルブに何かの危険を察知をしたのか、男はそれをさせまいと繰り出した脚撃を焦るように返す。攻撃能力、防御能力共に格段に落ちた右からの踵蹴りを地面に伏せてかわし、ベオルブはそのまま脚払いを放つ。進行には邪魔な瓦礫をものともせず地面すれすれを迫り来た巨大な脚に、男は舌打ちして垂直に跳躍する。
だが瞬間、軌道を変え上昇を介したベオルブの脚撃が男の顎を砕いていた。のけぞり、血の混じった唾液を口内より迸しらせ、男の身が天井へと衝突する。横の広さだけではなく上の高さも拡張させた個室が、その衝撃に激震していた。
「戦闘スタイルを簡単に変えられるのか。甘く見過ぎていたな。非礼を詫びよう。ここからは全力だ。運命を受け入れて、死ね」
「御前がな」
上昇の最高点へと達したところで突然にそこから消え去った男の気配が、壊していない壁の向こうから殺気を伴って送り込まれる。
それがいったいどうやって行われたのかは、この際関係ない。その事実を受け入れ、勝つ為の策を如何に早く考え実行し成功させるか。それが最も重要な事だ。
その策を先に考えつき先手に取ったのは男の方だった。
幾つもの細い針が高速で壁から放たれ、ベオルブを目指す。急所を狙っていたその全てをベオルブは手套で叩き落とし、お返しとばかりに拾った瓦礫の石を投げつける。石というには大きすぎるベオルブの頭部以上はあるそれは、同じ材質で出来た部屋と部屋とを分けていた壁に大きな穴を作りだした。だがその空洞の先に見えるのは、ただの闇。
そして生じたのは、上方からの下降脚だ。
まるで初めからそこから消え去ってはいないと言わんばかりに、タイミング良くベオルブの首筋を撃つ。よろめき慌てて、そこから逃れ様としたベオルブの右肩に、更に連撃が加えられる。その四撃目を横っ飛びにかわしたベオルブの身を追い、男の腕が弧を描いた。
二本目の線がベオルブの胸板に生まれる。
飛沫いた血の一部を顔面に浴び、舌なめずりで味わいつつ、男が不適に笑む。
それに応えて、ベオルブの顔にも笑みが浮かび、そして霞む。
移動に伴う地響きは、六つ。
巨躯の身から驚異的な威力を繰り出され受け止めた地面が足跡を残して陥没する。と同時に、その周囲に飛び粉する破壊された地面の残骸の軌跡は、綺麗な三日月円を作りだしていた。
その終点である背後より、左肩やや下辺りから右脇腹へと向けて撃ち下ろされた拳に、男の身体が軸の安定しない奇妙な回転を開始する。男の視界の中で世界が廻るが、構わずその回転力を利用してトドメをさしに向かってきた拳を蹴り飛ばす。それで安定を取り戻した男は、しかし脚が床に着く事よりも攻撃を優先させる。頭部の破壊を狙った一撃をベオルブは左手で防御し、その脚を掴み再度霞み消える。
直線に五歩の足跡を生ませた時、男の身体はもとは道であった筈の瓦解した建物が降り積もった瓦礫の山に叩きつけられていた。
常人なら、間違いなく即死だ。
男の喉が苦鳴を上げる。
だが男の爛々と輝く翡翠の双眸には、禍々しい殺意の彩りは全く失われていない。
その意志を証明するかの様に、掴んでいない方の脚が鋭くベオルブの胸へと突き刺さる。僅かに心臓をそれたブーツの先に輝いている短き刃は、更に天へと向け加速し、後ろへ回避行動を取ったベオルブの顎を二つに分けた。
胸からだけでなく、今度は顎からも斬り傷による線を生ませ、ベオルブの体内を巡っていた紅い血がポタポタと滴り落ちていく。
そこでようやく距離を取った二人の間に、静寂の時が生まれた。
互いに殺意の混じった視線で睨め付け、薄暗い路地の気圧を錯覚に高める。
だが……
「驚いたな。君達は何の言葉も交わす事なく、いきなり殺し合いを始める仲なのかい?」
その場には場違いな程に落ち着き払った、艶のある澄んだ声は、白い腕の形を取って現れた。ほっそりとした指先が二人の間に飛び散っていた視線の火花を和らげにそっと押さえ、優しく引き契る。その行為に奪われた視線の先には、一見しただけでは男性か女性か判断がつけそうにない全身白ずくめの人影が立っていた。
男は忌々しげに、ベオルブは怪訝な顔をして、二人の間に割って入ったその存在を今度は睨み付ける。
「生憎と、こいつと俺は初対面だ。殺す理由なんて、ついさっきまでは無かったな」
「本当にそうなのかい?」
その存在が今まで殺し合っていた男と最初にいた青年だとようやく分かった彼の唇が紡いだ優雅な響きに、ベオルブの顔はいよいよ険しくなって、不愉快を浮かべてしまった。彼は特に不快に感じた様子もなく、穏やかな、しかし能面にも見える表情でベオルブを見つめる。その黒瞳の奥に潜む空虚には、得体の知れない力を感じ取っていた。
「この街で彼を知らないなんて、君は、外から来た人間なんだね」
「ああ、そうだ」
青年の口が奏でた言葉に誘われて、ついうっかり本当の事を喋ってしまった事に、ベオルブがしまったと言わんばかりに、更に顔を歪ませる。その真実を口にするしないだけでも、人はそこから多くの情報を手に入れる事が出来、それはベオルブの利益として返ってくるとは限らない。むしろ、ベオルブが置かれている境遇から考えれば、損害として、彼と彼が連れているネイの身を危険にさらしてしまう可能性の方が遙かに高かった。
だが口走ってしまった事は仕方がない。ベオルブは嘆息して、その過ちを素直に受け入れた。
「彼はそう言っているけど、君の方はどうなんだろうね。彼を殺す理由を本当に持っていないのかい?」
まるで本当に男がベオルブを殺す理由を持っているかの様に、最後の言葉を殊更強調して、逆説的に問いかけた青年の瞳が、翡翠の双眸を捕獲する。
そして、その青年に最も相応しくない感情の籠もった笑みが、かすかにこぼれ落ちた。
男は、そんな青年の心に興味が無いのか、すぐにやる気無く視線をそらせる。
「……そういえば、ねぇな。何で俺達殺し合ってたんだ?」
そして問いかける様に向けられた、それまでの殺意が嘘だったかの様な瞳に、ベオルブの頬がピクリと蠢いた。同時に、ベオルブの心の中で、目の前の男を殺す理由が一つ追加させる。
「という訳なんだが、どうだい? もう少し、二人で仲良く遊びたいのならば、僕は別に止める気は無いよ。でも、君が落とした彼の事を考えると、それはどうかと思うなぁ。この辺りにとってはごくありふれたゴミだけど、少なくとも君にとってはゴミじゃないんだろ? 僕は、止める事をお勧めするね」
青年は、砕けた瓦礫の上に横たわっている男に目を向けた。その眼差しは興味ある玩具に出会ったかの様に憂いに満ち、まるでベオルブがそこに捨てていくならば自分が貰っていこうかと考えている様だ。
すっかり頭の仲から忘れ去っていた荷物、男を視界に認めて、ベオルブはそれを思い出した事に後悔する。
「欲しけりゃあんたにくれてやっても良いんだが……」
そこで、ベオルブは言葉を中断させた。
紅と闇とが混ざり合った崩壊した裏路地には、既に二人の姿は無かった。独り言となったベオルブの言葉を嘲笑うかの様に吹き付ける風が、瓦礫の間に幾つも出来た空洞を通り、人あらざるものの声をただあげている。語る相手を失ったベオルブの唇は、その虚しさに襲われながらゆっくりと閉ざされていった。問いかける様な視線を、いつまでも倒れたままの男に向けるが、それすらも虚しく感じたのか、すぐに歩みを始める。
『……本当に、そうなのかな?』
そんな呟きが、聞こえた気がした。




