EX#01
「退屈なものね。そうは思わない?」
絶世の美女とも、魅惑の妖女とも言える女性が語りかけた相手には、既に意識は無かった。いや、意識はおろかその命すらもうこの世のものではないのだろう。右腕を肩先から失い三本となった手足を力無くぶらさげ、口から流れ落ちる唾液の混じる血の液を少しも見つめる様子はない。ただ空虚になった瞳で血の滴りゆく下方を見続け、風穴の空いた胸を吹き抜ける風により奇妙な音を奏でているだけだった。
「あら、貴方ももうお休みなの? 詰まらないわね」
女性は、その男の首を空中で鷲掴みにして艶めかしい視線を男に投げかける。その瞳の色に、男に対する興味を誘う彩りはない。冷たい瞳で、まるで退屈な日常に欠伸を噛もうとかという熱の無い色で、自分がそうした男の末路を見ているだけ。
壊れた玩具は捨てるに限る。
男の首に食い込んだ血色の長くて鋭い爪がゆっくりと肉の中からその姿を表す。
瞬間、男の身体が当然の様に下方へと加速していく。だが、その先に大地と呼べる場所は存在しない。暗闇のみがその世界の360度の彼方全てを支配していた。
その暗闇の向こう側へと男の身体は延々と加速を続け、そしてとうとう男は女性の瞳からは見えなくなる。
「次は、誰が私の暇を潰してくれるのかしら?」
空間の鳴動。
女性の四方八方上空下空が、突如として現れた数百もの者達によって埋め尽くされた。それは人の形をした存在であったり、動物の様な姿をした者であったり、いったい何なのであろうか分からない異形の存在であったり。
招かれざる多種多様の敵達の招来は、ほんの一瞬の間で完結した。
その全ての者が、女性に敵意を抱いて放つ。
だがそれに女性は全く臆した様子は無い。むしろ、芸がないと詰まらなそうに彼等を見ている様だった。
異形の一体が咆哮をあげる。
女性の右腕がしなやかにゆっくりと持ち上げられた。身につけている衣服はほとんど局部を隠しているだけにすぎないので、その腕の全体は露出している。細く綺麗な彩りを見せる肌は、見ているだけで男の欲情を簡単に誘うだろう。
その艶めかしい動きを見せた腕が、しゅるしゅると伸びてきた胸元の衣服に覆われる。黒い艶に支配された右腕は、露出していた肌の全てがそれによって隠され、そして闇の中へと徐々に指先より掻き消えていく。
次の瞬間、血飛沫をあげて苦鳴したのは、先ほど咆哮をした異形の者だった。
「汚い声で鳴かないでくださらない? 耳障りなの」
空間を渡った女性の右腕が、異形の者の胸らしき場所から何かを掴んでゆっくりと現れる。脈打つそれは、盛大に血を吹き出しながらその者の身体を血の色に染めていく。
その事実に気付き、苦鳴の咆哮より一刹那の時をおいて周囲の者が振り返った刹那。
そこには無い筈の移動した女性の右腕は、それを握り潰した。
中に入っていた液体が圧力に負け一気に飛び出し、血の雨のまき散らす。だがそれでは終わらず、手刀の形へと変わった手は、上方へと鋭く走り、その後に斜め下方へと走り異形の身体を斬り裂く。
絶命させた異形の者に、だがしかし女性の瞳はやはり変わらず退屈そうな瞳を浮かべていた。耳へとかかっていた長い髪の毛をいつの間にか彼女の元へと帰っていた右腕でかきあげ、重力など彼女にとっては無に等しいのか、腰を曲げて椅子にもたれかかる様に空中で何かに座り、足を組む。そして左肘を空間につき、さも玉座に座っているかの様に目の前の敵達の姿を眺め始める。
「これが二分された冥界の、私達と敵対する勢力の精鋭だっていうのだから、詰まらないわね。お父様は何故、ずっと静観しているのかしら? その気になれば、腕を一振りするだけで彼等を一掃する事が出来るのでしょう?」
「それは買いかぶりというものです、イヴお嬢様」
見えない玉座の横に、スッと闇の中から老人が辞儀をした姿勢で浮かび上がる。
「如何にジェーダス様とて、兄である冥王スヴァルトを相手に、腕の一降りでどうこう出来る程、お強い訳ではありません。例え『ヘブンズ・オーブ』を手にしたとしても、多くの犠牲と代償無しには冥王スヴァルトを撃つのは難しいかと……」
老人の言葉に、イヴと呼ばれた女性はそれまでで一番熱を帯びた瞳で老人の姿を横目で見た。その顔には、多少の驚きが浮かび上がっている。
「――それは初耳ね。これは単なる兄弟喧嘩だったの? 娘の私まで巻き込んで、いい迷惑だわ。よくお姉さま方は我慢していられるわね」
「この事を話したのは、イヴお嬢様が初めてでございます。ですので、レダお嬢様もアーヴお嬢様も、ヴァイオラお嬢様もこの事はお知りになっていない筈でございます。お嬢様方は皆、血族や戦っておられる相手の事など、微塵も気にしようとはしてくれませんので」
自分が多少、無礼な口をきいているという事を自覚しているのか、老人はより深く辞儀をしてイヴにその言葉を伝えた。
「まぁ、そうね。私達にとって、他人の事などどうでも良いのだから。だって、私達にとっては今という自由な暇を潰す事の方が、とっても大事な事なの。寿命が無いっていうのも、問題よね」
聞く者が聞けば羨ましい限りだが、イヴにとっては本当に切実な問題なのだろう。無限に時間があるという事は、言い換えれば、何をしても飽きる事には困らないという事なのだから。
「でも、それとあの人達が弱いのとは、全く関係が無いわ。せめて私を満足させてくれる王子様ぐらい出てきてくれないかしら?」
「お戯れを。冥王スヴァルトの子息が戦場に出てこられては、お嬢様では満足する暇も無く一瞬で滅ぼされてしまわれるでしょう」
その事すらもイヴにとっては初耳だったのか、イヴはようやく自らの身を投じている戦いに興味を持ち始めた様だった。
「それは心外ね。私はそんなに弱いかしら?」
だがその興味よりも先に、目の前の老人の言葉に抱いた不愉快な感情が先に前に出る。
僅かな熱みを帯びた瞳が老人の姿を再び映した瞬間、凶悪な攻撃力を持った空間の歪みが老人の身を襲う。それは一刹那の間に、老人の全身を包み込み、不可思議な力によって歪ませられその命を奪おうとする。
だが、イヴの放った歪曲攻撃は、老人の残像を襲ったに過ぎなかった。空間を渡る事が日常茶飯事の冥界において、ただの空間歪曲から身を回避する事はそれほど難しい事ではない。
イヴの左横に現れた時と同様にして、今度は右横に音も無く辞儀をして老人は再び浮かび上がる。そして何事も無かったかの様に落ち着いた様子で顔を上げて、イヴの姿をその時初めて視界に収めた。
「イヴお嬢様が冥王スヴァルトが治める冥界の精鋭である彼等を全くよせつけない様に、その子息であらせられるブランとイヴお嬢様との間にもそれに近いだけの力の差があると見て間違いないでしょう。元々ジェーダス様と冥王スヴァルトとでは、兄である冥王スヴァルトの方が力が強うございます。その上、ジェーダス様はイヴお嬢様等、四人の娘に血を分けた事に対して、冥王スヴァルトはたった一人、ブランだけを生み出した。その為、イヴお嬢様とブランとの力の差は、ありたい体にいえば四倍以上の開きがあるという事になります。吸収する事により力をあげる事は可能でも、成長する事の出来ない我等にとって、この差はそう簡単に覆される事はないでしょう」
「あら、そうなの」
三度目の驚きは、新鮮というには程遠く、それは彼女等を取り巻く痺れを切らし始めた数百の者達の、戦闘開始の合図には十分な理由となった。
「今日は疲れる日ね……」
物理的な移動ではなく、空間的な移動手段を以てして冥界の眷属等が空間跳躍を開始する。次々と歪みを生じさせその場から消えていく彼等が次の瞬間に現れるのは、標的であるイヴとその傍らに辞儀する老人のすぐ側。一刹那の間に居場所を変え、その手に持つランスやソード、人体の一部である触手等が次々と二人の命を奪わんと突き向かった。
数十にも及ぶ鋭い先端が、イヴの身体をあらゆる方向から刺し貫く。苦も無く胸を貫くランスの先端、腰より斜め上へと心の臓を狙い突き入ったソードの切っ先、思わずしゃぶりつきたくなるような魅惑の太股へと侵入を果たした数十の触手。そして、放った瞬間に空間を跳躍して飛来し眉間の急所をとらえた射矢の一撃。
美貌を汚すには申し分ない程の殺戮劇の結果がそこには存在した。
だが、まさに彼等が仕留めたと思った刹那。
まるで何事も無かったかの様に、数本もの攻撃に刺し貫かれたイヴの顔に、うっすらとした微笑が彼等を嘲笑うかの様に静かに浮かんだ。
イヴの身体に直接攻撃を加えた数十の眷属達の背中に戦慄が走る。
しかし、彼等がそれを感じた時には、既に遅かった。
「消えなさい」
たった一言の死の宣告が、何事も無く全く別の場所に同じ体勢で空間に座していたイヴの艶めかしい唇より告げられる。その顔には、偽物のイヴが浮かべた微笑みというものは浮かんでいない。
刹那、先ほど老人の身を襲った空間の歪みとは比べようもない程の無慈悲で強大な空間歪曲が、数十の敵に囲まれ刺し貫かれたイヴの中心より発生した。一滴の血も流さなかったイヴの身体は瞬時に歪みの漆黒の中に掻き消える。
次にその歪みの渦が飲み干していったのは、当然の事ながら間近にいた冥界の眷属達だ。
最も接近してソードの鍔元までイヴの身体を刺し貫いていたコウモリの羽を生やした貴族風の男は、死を恐怖する暇すら無く歪みに捕らわれ、僅かに舞った血の紅き彩りと共に闇の空間へと誘われた。
イヴの手首を掴んで爪を食い込ませ今にも喉元へと噛み付こうとしていた野獣の娘は、咄嗟にその場から離れようとしたが、間に合う筈も無く、その可愛い顔をまず歪みに捕らわれ滅失。遅れて胸、腹部、股下へと歪みの先端が食らい、僅かに歪みの渦の端を血の色で染めていく。だがそれも一瞬の事で、瞬きする暇すら無く、毛皮に覆われた乙女の肉体の全ては、血の一滴も毛の一本も残さずに貪欲な歪によって浸食されつくした。
延ばした触手を食われながらも空間を跳躍して逃れようとした異形の怪物は、自らが生じさせた空間の歪みが漆黒の渦を呼び込む事になり、他の者達よりも残酷な末路を辿る羽目になった。空間が安定していない場所での空間跳躍の行使は、自殺に等しい。自らの身を空間跳躍の歪みに同調させる事が出来なかった怪物は、身体の中から歪みにゆっくりと食われ緑色をした血を激しく辺りに飛沫かせる。その血飛沫も、自らが発生させた空間の歪みの引力によってすぐに来た道を帰っていく。液体と肉と歪みの、なんだかよく分からない存在へと変貌した異形の怪物は、より異形な姿となった後でやってきた死の渦にようやく命を奪われ、その醜い姿を永遠のこの世から消し去った。
まるで小型のブラックホールの様な、しかしブラックホールよりも残酷なやり方で次々と命を奪っていくイヴの放った一撃に、難を逃れた冥界の貴族達の瞳が釘付けとなる。先陣に参加していれば、自らもその運命の一途を辿っていただろうという事に。
「見ているだけでは詰まらないでしょう? 遠慮なさらずに、あの方達と一緒に戯れてきても良いのよ。それとも、遊びに行く勇気が無いのかしら。でしたら、私が手を貸してあげましょう」
見つめられた若い貴族の一人の顔が強ばる。恐怖と拒絶と辞退の意を込めた言葉をその口より零そうとしたが、声にならない様だった。
優しく微笑んで、イヴの右腕がゆっくりと持ち上がる。そして胸元の衣服がしゅるしゅるとその腕を包み込んだ時、それは掻き消え、見つめた男の背中へと移動していた。
そして、その背を軽くトンッと押す。
男は必死に空間跳躍をしようとしていたが、何か不可思議の力が働いているのか、男が跳躍する事は出来なかった。その合間にも、イヴの一押しで僅かな加速を得た男の身体は、ゆっくりとした速度で死の世界へと近づいていく。何とかして引き返そうとはするが、やはり何かに捕らえられているかの様に、男が望んだ力は微塵も発生する事はしなかった。
空間を轟かせる程の絶叫の悲鳴があがる。徐々に骨と肉と血を貪り食らわれ、しかしすぐには死ぬ事の出来ない過酷な運命が男の身に襲いかかっていた。歪みによる殺傷は、物理的な様でそれとは違う。例え腕を歪みに捕らわれていたとしても、それは失ったという訳ではなく、ただ世界が歪んでいる為にそう見えるだけである。しかしそれに耐えられる程に、肉と骨と血は強い関係で結ばれている訳ではない。長時間、空間の歪みに浸されれば、当然その関係を断絶させられ、失うのとほぼ同程度の状況へと変化する。違うのは、完全に関係を絶たれるまでの時間が長く、そしてその間ずっと痛みは脳へと伝えられるという事である。勿論、先に頭の部分が歪みにとらわれ食われてしまえばその限りでは無いが、不幸な事に、暗黒の歪みの中へと身を投じさせられた男は足先より死の空間へと入っていった為に、最悪の悲劇を味わう羽目になっていた。
ようやく男の悲鳴が消えたのは、最初の悲鳴が上がってから、ゆうに百の時を数えるだけの時間が経った頃。その時には、悪魔の様な惨劇を呼んだ漆黒の歪曲は、ようやく食事を終えて眠りにつこうとしていた。
空間が安定し、闇が消えた時、全てを食らわれる事の無かった男の残骸が、落下を許され、無限に続く空間の向こうへと加速を開始する。
「次は誰が鳴いてくれるのかしら? 出来れば、もっと優雅な旋律で鳴いてくれる事を期待しているわ。貴方なんて、どう?」
イヴに視線をぶつけられた美男子の紳士は、顔を蒼白にして脂汗を流しながらも、なんとか平静を保とうと無情を装い、応えを返さなかった。
「そう……残念ね。でも、美しい声で鳴いてくれるのは、昔から可愛いくて小さな獣と相場が決まっていたわね。貴方の方が適任ね」
そう言われて見つめられた耳と尻尾を生やした十代そこそこに見える獣の少女の顔が凍る。まるで邪眼をかけられたかの様に、ふらふらと彷徨っていた尻尾すら突然に静止し、その瞳がみるみるうちに恐怖に彩られる。
「この私の戦場に出てくるからには、さぞ名の通った名門貴族の娘なんでしょうね。貴方の見掛けに騙されて泣かされた男はどのぐらいいるのかしら? でも、安心して。私は外見や年齢でその人の力を判断する様な事はしないの」
まるでその若さを嫉んでいるかの様にイヴは薄く笑って、少女を手招きした。
そのしぐさに、突然に少女の衣服の前の部分が激しく契れ飛ぶ。総毛立つ産毛に覆われたまだ未発達の胸があらわに姿を現し、男達の注意を僅かに奪う。だが、その膨らみからは先ほどのショックで傷付けられたのか、血がじわじわと体毛に滲み始めていた。それを、少女は隠そうとはしない。いや、恐怖にとらわれて羞恥という感情が沸いてこないのだろう。イヴの瞳にとらわれて瞳を外す事の出来ない彼女は、もしかするとその現実すら認識していないのかもしれない。
「男を楽しませるには、まだ膨らみがたりないわね。それとも、そういう趣味の男の方にあわせて、わざと成長させていないのかしら? その耳と尻尾も、もしかしてその趣向の為の飾り?」
イヴの手がパチンと鳴いて音を奏でる。
刹那、今度は少女の耳と尻尾から綺麗な紅い血が瞬間的に渋いた。
「あら、本物なの。御免なさいね、自慢の耳と尻尾を傷つけてしまって。お詫びと言ってはなんだけど、男の目を引くコツを貴方に教えてあげるわ」
ごくり、という鍔を飲む音が幾つか、男達の喉から鳴り漏れる。
「――その前に、汚らわしい男の方には退場して貰おうかしら」
イヴの瞳に、まるで醜悪な物を見たかの様な不快な色が彩った。
その言葉を認識する事が、果たして彼に出来たのだろうか。彼等の跳躍の速度とは桁違いな刹那の間に瞬間移動したイヴの腕が、男の頭部を吹き飛ばす。その汚物は瞬時に歪みの中へと掻き消え、血の一滴すらもその場を汚す事が出来なかった。間髪いれず蹴りの一閃が下から上へと首を失った男の胴体を鋭く両断する。その二つに分かれた身体に、手に生み出した歪みの玉を投げつけ、イヴはその男を完全に虚空へと消滅させた。
まさに一瞬。
その一瞬を認識した時、異形の怪物の胸からは艶のある漆黒に包まれた腕が心の臓を貫いていた。まだ失われていない時間制限のある命の合間に、驚いて胸から生えた腕を瞳に入れた時、その歪な頭部が激しく吹き飛ぶ。置き土産に胸から生えた腕が歪みの玉を残し、イヴは次の標的へと向かった。
獣の咆哮が攻撃と共に繰り出される。この中ではかなりの実力者なのだろう。イヴの動きに最も早く反応したのが彼だった。三人目の男の命を奪った所で空間を跳躍し送り込んだ脚撃がイヴの身を襲う。その一撃を軽く手でいなし、イヴは男に目がけて実空間を経由させて歪みの玉を放った。それを食らう筈もなく、野獣の形相で男は空間を跳躍して躱す。次に現れた時、彼はイヴの背後から爪を走らせていた。その鋭い刃が、イヴの髪の毛によって前進を止められる。かなりの攻撃力を有しているかと思われる一撃が、細い髪の毛によって完全に静止させられた事に男の相貌が驚きに見開く。だが驚きに意識を支配されない。相手が冥王ジェーダスの娘なのだから、それぐらいの驚愕には十分に予想出来る事だからだ。先程までの惨劇も、それに手を貸しているのだろう。
男は再び空間を跳躍して、次の攻撃を仕掛ける。置き土産にイヴと同じ様に歪みの玉をその場に残すが、それは髪の毛一本の刺突によってあっけなく砕かれた。そしてその髪の毛の何本かが、空間を跳躍して獣人を追う。死角の背後や目と鼻の先などから次々と襲ってくるそれらを、獣の姿をした男は見掛け通りの素早い身のこなしで躱していく。だがそれは全て間一髪だった。その毛等を何とかしようと攻撃を加えるが、ほとんど効果が無い。
彼ほどの実力者であっても、冥王ジェーダスの娘四姉妹の中で一番弱い筈の末妹であるイヴとはこれだけの実力差があるのかと、邪眼に捕らわれ戦場に見捨てられた獣の少女がますます恐怖の色に支配されていた。
「もう少し待ってて頂戴ね、私の可愛い子猫ちゃん。すぐに片して、貴方の相手をたっぷりとしてあげるから」
少女は必死でその場から逃げようとするが、動く事はおろか、瞳を閉じて目の前の惨劇から目を背ける事すら出来なかった。
息を合わせて一斉に触手を伸ばして攻撃を仕掛けてきた異形の軍団に、イヴは冷笑一つを浮かべて、その全てを悠々と躱す。触手と触手の間の隙間すら見つける事が困難な筈なのに、一つとしてイヴの身体を掠る事は出来なかった。だがそんな危険な回避方法を採らなくても、空間跳躍を跳躍する事で回避する事が可能だ。しかしイヴはそんな事はしない。それをした所で、それらが同じ様に空間跳躍して襲ってくる事が分かっているからである。とはいえ、空間跳躍の方が回避が楽だという事は言うまでもない。それをしないのは、何とかこの戦いを楽しもうとしているからなのだろう。
しかし一本も自らをとらえる事の出来ない触手に、イヴがそろそろ痺れを切らした様だ。
空間を跳躍して野獣の貴族を襲っていた髪の毛が、突然にその標的を変える。現れた時と同様に突如として空間の向こう側へと消えていった髪の毛は、次の瞬間には空間を跳躍して襲ってきた触手等の一つ一つに真正面からぶつかり、その先端へと突き入っていった。細い糸の様な、しかし野獣貴族の爪撃を退けた堅い髪の毛は、易々と触手の体内へと侵入し、そしてその中心を突き進む。それは空間が切れている部分まで到達しても、正確にその先に続いている触手の元へと空間跳躍し、本体への道のりをただひたすらに向かう。異物の混入に気付いた異形の者共は、それから逃れようと空間跳躍をして回避行動を開始した。
だが、それは誤った選択肢だった。
例え空間を跳躍しようとも、本体と触手とが繋がっていては、イヴの髪の毛はその道筋を辿ってくる。ここでの正解は、触手を切り離す事である。
幾人かの怪物はその事に気付き、血が渋く事も厭わずに躊躇無く全ての触手を切り離した。
だがそうしなかった者の末路は、言うまでもなく死以外の何事でも無い。体内へと侵入した触手は、肉体内を凄まじい勢いで縦横無尽に探索していく。その傷害となる内蔵や骨の壁などお構いなしに突き破り、そのことごとくは何十回も同じ様な場所を行き来した髪の毛によって、粉微塵と化す程に砕かれた。しかし、そのドロドロと化した肉と血と骨の液体は、異形の者共の体外にはほとんど流出していない。出るべき穴を空けられていないからだ。
見た目にはほとんど変わらない姿だったが、しかし異形の怪物達のほとんどの命は、その時既に失われていた。いったい誰が殺されたのか分からない程に、ほぼ完全な形を残したままで。
だが、彼等は元々イヴの目を潤す事の出来る様な姿をしている訳ではない。
探索を終了し、イヴの元へと全ての髪の毛が戻ってきた後、イヴはパチンと指を鳴らした。
その響きがその場にいる全ての者の耳の中へと入り、そして虚空の彼方へ消えた頃。
屍となった異形の者共が次々と爆発していった。
「たまには花火も風流で良いわね。ちょっと面倒だけど、醜い彼等を最後ぐらいは美しい華として咲かせてあげないと、彼等も浮かばれないわよね。私って、なんて優しいのかしら」
その言葉が、イヴの姉達よりも、という意味を持っている事に気付けたのは、彼女に仕えている老人だけだっただろう。
だが、老人は既にこの場には存在しない。ここはイヴの戦場であって、現役を引退した彼程度がどうこう出来る程に易しい相手がいる訳ではないからだ。あの少女を相手にしても、老人には経験を総動員しても勝てるかどうか怪しいぐらいだろう。故に、老人は早々に彼方の安全な場所へと跳躍し、静観を決め込んでいた。先に現れたのは、単なる定期的な様子見でしかない。
「よくも我等が同胞を!」
野獣の戦士が咆哮をあげて再びイヴに襲いかかる。
「お友達を失うのが嫌なら、此処に来なければ良い事でしょう?」
男の怒りに、逆にイヴの心は冷めたのか、瞳に熱を無くす。
背後からの挟撃と、空間を跳躍して前方から襲ってきた拳に、イヴは空間を跳ぶ事で躱す。それを追って男の拳もまた跳ぶ。本体は実世界を経由して、高速にイヴへと飛び向かった。
「我が土地を力ずくで奪っておきながら、良く言えたものだな小娘! 我が父、我が母、我が妻、そして我が臣民――貴様が道楽で奪った者の痛み、貴様にも存分に味合わせてくれる!」
「あら、此処は貴方の土地だったの。御免なさいね、貴方もあの方達との舞踏会に入れてあげなくて。でも、決して貴方を故意に仲間外れにした訳ではないのよ。間が悪かったと言うのかしらね」
獰猛に攻撃を仕掛ける男に、イヴは優雅に舞って言葉を返す。その合間に残っている戦士達の命をゆっくりと屠りながら、その屍を男へと投げつける。明らかに馬鹿にしているイヴの態度に、男はますます血を頭に昇らせ、投げつけられる同胞兼部下を邪魔だと言わんばかりに殴って粉砕していく。中にはまだ生きていた者もいたが、もう男にはそれに気付くだけの冷静さは残っていない様だ。
そして、次の一言が、彼の怒りを最頂点へと誘った。
「――もしかして、この娘は血の繋がった貴方の可愛い肉奴隷なのかしら?」
それまでで一番楽しそうな笑みを浮かべて、イヴは自分が捕らえた獣少女の唇を奪った。
涙に濡れた少女の瞳から輝きの色がゆっくりと消えていく。
「貴様ぁ!」
凄まじい怒轟が吹き荒れる。
手加減抜きの、自らが傷付く事すらも厭わない空間歪曲攻撃が世界を襲い始めた。破滅にも等しい歪みの嵐が容赦なくその場にいる全ての者を無差別に攻撃し、その命を死神に献上していく。既に二十をきっていた戦士達だったが、その数は瞬く間に零へと近づいていった。
だが、ただ二人、その影響から逃れていた者がいた。
「フフッ……気に入ったわ。この子、貴方の代わりに私が存分に可愛がってあげる」
イヴと、そのイヴに守られていた少女である。
野獣の貴族の放った自滅覚悟の暴走すら、彼女にはそよ風が吹く程度にしか感じていない様だった。
「リリア……」
自らをも襲った歪みにその身を浸食され、逃れる事の出来ない運命に捕らわれ命が尽きる時、男は最後にそっと血の分けた娘の名を呼んだ。
そして、その呟きと共に男は歪みの彼方へと完全に掻き消えていった。
後に残ったのは、二人だけの静寂――。
刹那。
「!」
衝撃がイヴの身を激しく襲った。
背後の死角からの挟撃に、イヴがこの戦場で初めて悲鳴を零し、苦痛に顔を歪ませる。その胸に抱いていた少女を巻き添えにして吹き飛ばされたイヴの身体は、望まない加速を得て前方へと数十メートルの距離を強制移動させられた。その道中に、既にこの世からは消えてしまった男が最後に放った広範囲無差別攻撃の一端に触れてしまい、その艶めかしい肢体から数滴の紅い血が辺りに渋き散る。
ようやく制動し、振り返ったイヴは、少し荒くなった息で辺りを見回した。その身を後ろから少し強く抱きしめられた少女の瞳も、辺りの空間を流離う。少女に自由は戻っていたが、それを認識していたのは無意識の領域内で動いていた尻尾だけだった。
「どこに……行ったの?」
イヴの顔に緊張が走る。
気配も察知出来ず、不意をつかれたとはいえ避ける事すら出来なかった何者かの攻撃に、さしものイヴも相手がただの眷属だとは思えなかったのだ。もしかすると、さっき知ったばかりのブランという冥王スヴァルトの子息かもしれない。だが、もしそうならば、老人の話が正しければ先の一撃で自分は死していてもおかしくはない筈である。
「姿を現しなさい! ――それとも、不意をつく真似をしなければ、私に一撃も与えられない臆病な方なのかしら?」
イヴの挑発に、しかし応えは返ってこなかった。
「あ……」
放漫な胸に包み込まれた少女の声が静かに漏れる。
ようやく自分が少女を抱いていた事に気付いたかの様に、イヴは瞳を少女の方へと向けた。
その瞳と少女の瞳とが交差する。だがすぐには一点で混じ合わない。
少女の瞳は、イヴの瞳を超えて上方へとを向けられていた。
首を巡らせて、イヴのその咆哮へと視線を走らせる。
「――落ちてるの?」
この世界は無限に続く空間が広がっている。だが、重力の方向は常に一方へと向いていた。その先には大地があるわけでもないのだが、しかし何故かは知らないが重力の咎はその方向へと働いている。冥界を二分して支配する冥王スヴァルトと冥王ジェーダスが、その強大なる力で以てして空間座標を分かり易くする為に、半永久的にその力を行使しているとも、未だ発見されない冥界の秘宝『エズカレイルの碑石』に秘められし魔力の影響だとも言われているが、真実は今も闇の向こう側だった。
イヴが少女を抱いたまま掻き消える。
次に現れた時、イヴと少女の身体は落ち行く者の少しばかり先で離れていた。
突然の完全なる自由に、少女がどうして良いか分からずオロオロしはじめる。
それを横目で薄く笑いながら、イヴは落ちてきた男の身体を受け止めた。
「ボロボロね……まるで枯れた花園に沸く寄生虫みたい」
血と泥にまみれた筋肉質の男を見て、イヴが率直な意見を漏らす。特に右腕が酷い有様だった。指は折れ拳は潰れ、肘は契れかけ肩は反対方向へと曲がっている。全身の付けられた刃傷と思われる裂傷も多く、流しただろう血の量は半端じゃ無く多いだろう事は用意に見てとれた。
だが驚くべきは、それでもまだ生命の鼓動は事切れていないという事である。
死してもおかしくないその姿を見て、イヴの興味が怪しく男に向かう。
「これは珍しい。地上界の人間ですな」
周囲の安全も良くなり、危険要素がほとんど無くなったと踏んだのだろう、老人が再び音もなく闇の中からスッと現れた。
「地上界?」
少女の事などすっかり忘れて、イヴが聞き返す。
気絶した男の顔へと自分の顔を近づけ、イヴは男を観察し始めた。
「はい。こことは別の世界、成長する者達が住む大地ある世界です。どうやらこの者、その地上界から迷い込んできた様ですな。恐らく、未熟な者が使った転移魔法が失敗したのでしょう。滅多にありませんが、たまにこういう事があると聞き及んでいます」
男の姿をまじまじと見つめながら、しかし少女を警戒しつつ老人は言う。
「成長する人達が住む、地上界――面白そうな場所ね」
「先に行っておきますが、我等冥界の住人が何の制約も受けずに地上界へと降りる事は不可能でございます」
イヴの含みある笑みに気付き、老人が先手に釘を刺す。
「その男は早々に地上界へと送り返す事が得策かと思います。ここで屠って捨てても構いませんが、どうかその娘の様に飼われる事だけはお考えにならないようお願い致します」
老人の言葉は、しかしイヴの耳には届いていないのか、イヴは男を観察しながら何かを考えている様子だった。
「――貴方に出来る?」
暫くの時をおいて、イヴが口に出した言葉はそれだけだった。
「残念ながら、私目にはその様な力はございません。ですが、イヴお嬢様でしたら必ずやお出来になられる筈でございます」
「そう――面倒だけど、しょうがないわね。でも、私は地上界の場所を知らないの。まずは探す所からしないといけないわね。ホント、今日は疲れる日ね」
溜息を一つ、婉然と吐いて、イヴは逆様の男の足首を掴んだまま、瞳を閉じて集中し始めた。
その無防備となったイヴの姿に、少女の瞳にチャンスとばかりに熱が灯り始める。
「老いて現役を退いたとはいえ、この老骨、まだまだ若い者には負けませんぞ」
瞬時に少女の背後へと周った老人の手が少女の背中にあてがわれる。
少女はハッとして、ゆっくりと背後を振り返り始めた。老人に少女を殺す気が無い事が分かっていたから取れた行動である。だが、もしここで少女がイヴを殺りに動いたら、老人は躊躇無くその手を血で汚す事も厭わないだろう。
微妙に保たれた生死と復習の好機との運命ラインに、少女の心が不安定に揺れ動く。
「――見つけたわ。不愉快な気を持つ方々に常に見守られ、悪しき方々に虎視眈々と狙われている、弱い方々が住む変な世界が」
ゆっくりと瞳を開きながら、イヴは疲れた様に言った。
「表現の仕方に違いはありますが、私がジェーダス様より聞いた事がある地上界とだいたい類似しております。恐らく、イヴお嬢様が感じられたその世界が、地上界だとみて間違いないでしょう」
イヴの怒りを買うのが恐ろしいのか、老人は早々に少女の背後から手を退かせ、再びイヴの傍らへと位置を移動させた。
緊張と好機から解放された少女の顔に複雑な表情が生まれる。
その二人に、イヴは全く気にする様子無く、男の身体を正常位置へと変える。
そして男の口を上へと向け、男を掴んでいる方ではない空いている腕の親指を歯で傷つけ、そこから流れた血の一滴を男の喉へと垂らした。
「イヴ様!」
老人が驚いて叫ぶが、時既に遅く、男の喉へと落ちた血はそのまま男の体内へと流れ落ちていった後だった。
「――帰りなさい、貴方のいるべき世界へ。そして、私を存分に楽しませてちょうだい。その為に、私の力をほんの少しだけ分けてあげる。その力を何の為に使うかは、貴方の自由。世界を統べる為に使っても構わない――殺戮を楽しむ為に使っても良いわ」
老人の静止の言葉も虚しく、男の身体はイヴの作り出した空間跳躍の渦に巻き込まれ、冥界よりその姿を消していく。現れた時とは反対に、ゆっくりとしたスピードで――老人が妨害の為に行使する力を遮りながら、イヴはその男を地上界へと送り返していった。
「ただ、その代償に貴方は止むことのない苦痛に縛られるかもしれないけど、そんなものは貴方が得た力に比べれば大した事は無いわ。だって、苦痛は魔法でいくらでも忘れてしまう事は出来るけど、力はそう簡単には手に入らないのだから」
小煩い老人を指鳴りの一つで黙らせながら、イヴは届かない言葉を静かに呟く。
その様子を、少女はただただ見ているだけしか出来なかった。
苦鳴と共に闇の渦へと屠られていった老人には、もうその言葉の続きを聞く事は出来ない。
「また、逢いましょう。私の王子様――」
イヴが漏らした不適な笑みは、暫く消える事は無かった。




