第二話 起の舞-2-
自分が認知した世界に訝しげな表情を見せるも、一旦家の中に入って弓を手に取ってきた詩来は、縁側から地面へと飛び降りた。そのまま、躊躇いもなく暗き森の中へと足を踏み入れる。
今宵は満月。闇に慣れてしまった目には充分な光源だった。森の入り口付近の木陰に身を隠し、迫り来る二つの足音が近付いてくるのを息を殺して待つ。
一つは、獣のもの。そして、もう一つは人間のそれだ。
誰かが、追われている。
こんな夜中に森に入る馬鹿はどんな奴だと思いながらも、詩来は矢をつがえる。
木の幹に背を預けながら盗み見た先で、追われている人間は既に視認出来る程の距離にいた。全力疾走する青年を追うのは、獰猛な猪だ。大きな口腔から覗く鋭い二本の牙は、脆い人間の身体など簡単に引き千切ってしまうことだろう。
忌々しげに舌打ちをした詩来は、迫りくる獣の脳天に狙いを定めて弦を引き絞る。馬手を離せば空を斬る音が耳元を掠め、高速で飛来した矢は追われている者の頬すれすれの所を通り過ぎ、猪の額に見事に突き刺さった。
矢先に塗られた毒は即効性で、動きを止めた巨大な猪の命すら数秒で奪ってしまう。数回痙攣した巨体は、瞼が閉じられると同時に地響きを伴って大地へと沈んだ。
目先の危機が完全に去った事を確認し、詩来は木陰から猪に追われていた青年の動向を注意深く観察する。
命の危険が消え失せたことに安堵したのか腰を抜かした青年は、自分を救った一本の矢を射た者を見つけようと薄暗い森の中を四方八方見回している。それは傍から見ると何とも滑稽な様子で、まるで子猫がじゃれているような姿に、詩来の警戒は些か薄まった。
少しでも不審な行動に出たら即座に射るつもりでいた、弓につがえたままだった毒矢を詩来は背負った筒の中に戻す。かくれんぼは終わりにして、未だ地面に尻餅をついている青年の背後へと回った。




