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泥の底で息を止める

作者: アク
掲載日:2026/11/05

教室の天井は、いつからあんなに白っぽく乾いてしまったのだろう。


三時間目の数学の授業、チョークが黒板を叩く乾いた音が、綿を幾重にも詰めた耳の奥で、まるで遠くの工事現場のように響いていた。


「ここ、次のテストに出るからな」


サイズの合わないだらしないスーツを着た担任の声が、水槽の分厚いガラスを一枚挟んだ向こう側から届く。


私は隣の席の女子がノートに走らせるシャープペンシルの軽やかな軌跡を見つめながら、ただ制服の布地を爪先で冷たく押し込んでいた。


息を吸うのも、瞬きをするのも、すべてが底なしの泥をかき分けるような途方もない手間に思える。


世界はいつでも鮮やかに回っているというのに、いつの間に、私はこんな場所へ迷い込んでしまったのだろう。


やがて午前が終わると、待ちに待ったお昼休み——のはずだった。


机の上に広げた母親手製のお弁当箱には、卵焼きとウインナー、昨晩の残りの唐揚げが綺麗に収まっている。


しかし、白米の粒が一つひとつ、人工的なプラスチックの破片のように冷ややかに光って見えた。


箸を持つ右腕は鉛を流し込んだように重く、一粒口に運んでみたところで、味も匂いもせず、ただ乾いた砂を噛んでいるような虚無だけが喉の奥に残る。


「ねえ、昨日さ、あのドラマ観た?」


「観た観た! やばかったよねー」


斜め前で、いつものグループが華やかな笑い声を響かせながらお弁当を広げている。


その楽しげな輪のすぐ隣に在りながら、私だけがまったく異なる気圧の、重力の低い星に投げ出されているようだった。


そのとき、教室の前の扉のあたりで、鈍い音がした。


「お前な、また提出物出してねぇだろ! いつまでそんな調子でやってんだ!」


若い体育教師の鋭い怒鳴り声が、教室の空気を一瞬で凍りつかせた。


見れば、クラスメイトの男子が机の横に立たされ、顔を真っ赤にして俯いている。


周囲の生徒たちが一斉に視線をそらし、ぴりぴりとした緊張感が蔓延する。


普段の私であれば、同じように息を潜め、怯えたような空気をまとってその場をやり過ごしたはずだった。


しかし今の私には、その怒号すらも、ガラスの向こうのテレビ画面が勝手に発しているノイズにしか聞こえなかった。


怒られて、顔を紅潮させ、命の熱量を燃え上がらせているその男子の背中さえ、遠い劇場の見世物のようにひどく現実感がない。


怒る教師も、怯える級友も、全員が生者たちの劇の登場人物であり、私だけが観客席のさらに外側、誰の目にも留まらない冷たい通路に放置されていた。


手元の冷たさに耐えかねて、制服のポケットからスマホを取り出した。


画面を適当にスワイプした瞬間、ホーム画面の隅に小さく表示された「思い出のアルバム」という文字列が、不意に視界を刺した。


——『1年前の今日』。


そこに写っていたのは、満開の桜の下で、今よりもいくらか血色のいい頬をして、友人と笑いながらアイスクリームを分け合っている、見覚えのある少女だった。


画面のなかの彼女と、今、机の前で辛うじて鉛色の呼吸をしている私は、本当に同じ個体なのだろうか。


その写真があまりにも鮮烈で、まるで他人の秘密の私小説を覗き見しているような気恥ずかしさと、どうしようもない断絶が胸の底に沈んでいく。


「……ねえ、大丈夫? 顔、真っ青だよ」 


隣の席の女子が、ふと心配そうにこちらを覗き込んだ。


その澄んだ瞳のなかに、私の輪郭はどこかぼんやりと、歪んだ水面に映る影のように頼りなく揺れていた。


私は引きつりそうになる頬の筋肉をどうにか持ち上げた。


「ううん、ちょっと寝不足なだけ。平気だよ」


いつ覚えたのかもわからない定型文を紡ぎ出す。


その声は自分のものではないみたいに乾いていて、教室の満ち足りたざわめきの中に、音もなく溶けて消えていった。


午後をどうやり過ごしたのか、記憶の輪郭はひどく曖昧だった。


終礼のチャイムが鳴り、生徒たちが「どこ行く?」「カラオケ寄る?」と楽しげに話していく。


私はそんな波から完全に切り離されたまま、ただ地面から二センチほど浮き上がったような足取りで、教室の隅に座り続けていた。


誰も私に声をかけない。


いや、かけられていたのかもしれないけれど、その音はすべて綿菓子のように空気に溶けて、輪郭を失っていた。


下校のピークが過ぎた頃を見計らい、私はようやく席を立った。


教室を出て、二階から一階へ降りる階段の踊り場で、ふと足が止まる。


西日を吸い込んだ窓ガラスの向こうで、校庭のトラックを陸上部の生徒たちが駆けていくのが見えた。


砂塵を巻き込み、荒い息を吐きながら、ただひたすら前に進むその姿。


遠くで顧問の笛の音が乾いた音を響かせている。


かつては、あの走る背中を見て「眩しいな」と感じたり、自分も汗を流すことの意味を疑ったりしなかったはずだった。


しかし今の私には、彼らが走る世界と、私がいるこの場所の間には、決して破ることのでえない透明なアクリル板が何枚も何枚も挟まっているように思えた。


彼らは生きている。


ちゃんと熱を持って、重力に従って、明日へ向かって走っている。


それに引き換え、私の身体はどうだろう。


血は巡っているはずなのに、指の先から少しずつ透明なガラス細工に変わって、いつかこの冷たい階段の上で、粉々に砕け散ってしまっても誰も気づかないのではないか。


そんな空恐ろしいほどの軽さが、胸の真ん中にぽっかりと穴をあけていた。


「……何やってるの、こんなところで」


ふいに背後からかけられた声に、心臓が痛いほど跳ね上がった。


振り返ると、今日の帰り当番だったクラスメイトの女子が、箒を片手に不思議そうにこちらを見つめていた。


その表情には悪気のかけらもなく、ただ純粋な疑問の色が浮かんでいる。


私は喉の奥から、乾いた砂を絞り出すように声を張り上げた。


「うううん、ちょっと、忘れ物思い出して……」


嘘をつくための微笑みを作りながら、自分の顔がどんなふうに歪んでいるのか、もはや自分でも分からなかった。


「そっか。気をつけて帰ってね」


彼女はそれ以上踏み込んでくることもなく、軽い足取りで職員室の方へ戻っていき、やがてパタパタと上履きの音が遠ざかっていった。


取り残された踊り場には、長い夕日の影だけが取り残されていた。


私は階段の手すりにそっと指先を触れる。


ひんやりとした鉄の感触だけが、かろうじて私がまだこの世界に存在していることを証明している。


カバンを強く握りしめ、一歩、また一歩と、底なしの泥のような階段を下に降りていく。


明日になれば、またあの白っぽい教室に行かなければならないのだろうか。


答えの出ない問いを心の奥底に沈めながら、私は夕闇に染まり始める校門へと、ただ透明な足取りで歩みを進めた。


校門を出る頃には、空の青さはすっかり溶け落ち、藍色のなかにどす黒い朱色がにじんでいた。


通学路を歩く高校生たちのグループが、スマホの画面を見せ合いながらキャッキャと笑い声を上げている。


その楽しげな気配が波紋のように広がり、私のすぐ脇をすり抜けていく。


彼らと私の間には、きっと何光年もの距離がある。


同じ制服を着て、同じ教科書をカバンに詰め込んでいるというのに、私たちはまったく別の物理法則で動いているみたいだった。


もしここで私が道端の植え込みに倒れ込んだとして、通り過ぎる人々はそれをどれくらい気にかけるだろう。


あるいは、そのまま透明な泡になって消えてしまったとしても、世界の速度は1ミリも狂うことなく、ただ平然と明日へ向かって回転し続けるのだろうか。


そんな冷徹な確信が、妙に心地よく、同時にたまらなく恐ろしかった。


自宅のマンションの扉を開けると、玄関には母親の脱いだヒールパンプスがぽつんと置かれていた。


「ただいま」と、かろうじて喉を震わせる。


リビングからはテレビのバラエティ番組の笑い声と、夕食のカレーの匂いが微かに漂ってきた。


「お帰り。今日遅かったじゃない。テスト前で残ってたの?」


キッチンから顔を出した母は、エプロンのポケットに手を突っ込みながらそう言った。


その瞳に映っている私は、きっと「少し疲れている普通の高校生」にしか見えていないのだろう。


母が見ている私と、内側で音を立てて崩れかけている私は、これほどまでに乖離しているというのに。


「ううん、ちょっとね。……疲れたから、先にお風呂入って寝るね」


「そう。無理しないで、ご飯は冷蔵庫に入れとくからね」


母のその日常的な優しさが、今の私にはむしろ、分厚いガラスの壁越しに鋭い小石を投げつけられるような、冷たい痛みを伴って胸を突いた。


これ以上言葉を重ねたら、声の代わりに別の何かが決壊してしまいそうで、私はそれ以上何も言わずに自分の部屋へと滑り込んだ。


電気をつけないまま、制服のブレザーを脱ぎ捨て、ベッドの上に力なく倒れ込む。


窓の隙間から吹き込む夜風が、カーテンを白く揺らしていた。


枕元に放り投げたスマホが、暗闇の中で一度だけ不気味に青く光ったが、それを確かめる気力など一ミリも残っていなかった。


画面を開けばまた「明日」の予定や、誰かの他愛のない日常が私をこの世界に引き戻そうとする。


それが耐え難く恐ろしくて、ただ両手で自分の肩を強く抱きしめた。


天井の木目が、薄明かりの中で禍々しく波打っているように見える。


涙は出ない。


悲しいという感情すら、どこか底の見えない霧の向こうへ沈んでしまっている。


ただ、胸の真ん中にぽっかりと開いた穴から、冷たい夜の空気がスースーと通り抜けていく。


(このまま、朝が来なければいいのに)


それはもはや願いですらなかった。


重心を失った思考が、ただ重力に逆らうことをやめて放り出されただけの、死んだ言葉だった。


それでも、心臓だけが生々しく、うるさいほどに規則正しく脈を打っている。


終わり方を知らない生命の鼓動を背負いながら、私は透明な水底のような夜のなかで、限界ギリギリの輪郭を抱え、ただ目を閉じた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます

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