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断絶の霧

作者: KONOSUKE
掲載日:2026/04/03

朝6時半。濃い霧の東の空に霞む太陽が、嫌になるほどはっきりして見えた朝。私は寝巻きから着替えると歯を磨き、一刻も早い出発を試みた。初夏の蒸し暑さと、春の余韻を残すかのような涼しさが、私の意識をいやに明瞭にする。あまりに現実がはっきりしていて、つい10分前との対比が激しくて、私は淹れたてのコーヒーを啜る前から冷や汗をかいていた。

その「10分前」が、どうしても思い出せなかった。

いや、正確には思い出せるのだ。断片的に。断続的に。しかし、それらはどれも現実の連続として繋がらない。まるで、別々の夢を無理やり貼り合わせたような、不快な違和感だけが残っている。

玄関のドアノブに手をかけたとき、ふと指先が震えていることに気づいた。理由は分かっている。だが、それを言葉にすると何かが決定的に壊れる気がして、私は敢えて考えないようにした。

外に出ると、霧は思った以上に濃かった。住宅街の輪郭が曖昧に滲み、音が吸い込まれるように静かだ。遠くで犬が一度だけ吠えたが、それもすぐに消えた。

「……ここ、こんなに静かだったか?」

独り言が、やけに重く響いた。

私は駅へ向かって歩き出した。いつもの通学路。見慣れたはずの景色。しかし、どこかがおかしい。電柱の位置、塀の高さ、植え込みの形。どれも微妙に、ほんの数センチずれているような気がする。

そして何より、人がいない。

この時間なら、通学途中の学生や通勤の会社員が何人かはいるはずだ。それなのに、誰ともすれ違わない。

「……寝坊、じゃないよな」

腕時計は6時38分を指していた。正常だ。むしろ、いつもより少し早いくらいだ。

駅前に着いた。自動改札は動いている。電光掲示板も、時刻表通りに表示されている。だが、やはり人はいない。構内は、まるで閉館後のように静まり返っていた。

改札を抜ける。足音がやけに響く。

ホームに降りると、ちょうど電車が滑り込んできた。ブレーキ音だけが、妙に現実的だった。

ドアが開く。

私は躊躇なく乗り込んだ。

車内は空っぽだった。

「……まあ、そうだよな」

苦笑いすら出なかった。予想通りすぎて、感情が追いつかない。

発車のベルが鳴り、電車はゆっくりと動き出した。

窓の外を眺める。霧は相変わらず濃いが、時折その隙間から見える街並みは、やはりどこか歪んでいる。建物の高さが揃いすぎていたり、看板の文字が微妙に崩れていたりする。

私は目を閉じた。

思い出せ。

10分前に何があった?

──目を覚ましたとき、部屋の天井が違っていた。

──いや、それは違う。天井は同じだった。だが、光の入り方が違っていた。

──いや、違う。もっと根本的な何かが。

頭の中で、記憶が何度も書き換えられる。

そのとき、車内アナウンスが流れた。

「次は——」

音が途切れた。

ノイズだけが残る。

「——は——」

聞き取れない。

その瞬間、車内の照明が一瞬だけ明滅した。

そして、私は気づいた。

自分以外の「誰か」が、向かいの座席に座っていることに。

いつからそこにいたのか分からない。気配もなかった。ただ、気づいたときにはそこにいた。

制服姿の少年だった。年齢は私と同じくらい。顔立ちははっきり見えるのに、印象が残らない。不思議な存在感の薄さ。

彼は、こちらを見て微笑んだ。

「やっと気づいた?」

声は、やけに鮮明だった。

「……誰だ、お前」

「君と同じだよ」

「答えになってない」

「そうかな」

彼は首を傾げた。その仕草すら、どこか作り物じみている。

私は立ち上がろうとしたが、体が動かなかった。まるで、見えない何かに縛られているように。

「無理だよ。まだ順番じゃないから」

「順番?」

「そう。君が“理解する”順番」

意味が分からない。だが、なぜかその言葉は否定できなかった。

電車はトンネルに入った。窓の外が真っ暗になる。

その闇の中で、彼の顔だけが妙に浮かび上がって見えた。

「ねえ、君。さっきの“10分前”、ちゃんと思い出せてる?」

心臓が強く脈打った。

「……思い出せない」

「うん、知ってる」

彼はあっさりと頷いた。

「だって、あれは“君の記憶”じゃないから」

その言葉と同時に、頭の中に映像が流れ込んできた。

朝ではない。夜だ。

部屋の中。机に突っ伏している自分。

スマートフォンの画面が光っている。

メッセージ。

『これで最後にしよう』

送信ボタン。

押したのは、私だ。

「……これは」

「見覚えあるでしょ」

彼の声が、やけに近くで響く。

「君が“終わらせた”瞬間だよ」

喉が乾く。

「終わらせた……?」

「世界を」

電車がトンネルを抜けた。

光が差し込む。

だが、その光は朝のものではなかった。どこか白く、無機質で、温度がない。

外の景色は、完全に変わっていた。

建物はなく、地平線のような平面が広がっているだけだった。

「ここは……」

「境目だよ」

少年は立ち上がった。

「現実と、君が作ったものの」

私は何も言えなかった。

理解したくなかった。

「人はね、耐えられなくなると、自分で世界を作るんだよ」

彼はゆっくりと歩いてくる。

「都合のいいように。痛くないように。忘れられるように」

一歩。

「君もそうした」

二歩。

「でもね——」

彼は、私の目の前で立ち止まった。

「完全には消せなかった」

その瞬間、全てが繋がった。

あの違和感。

誰もいない街。

歪んだ景色。

断片的な記憶。

「……俺は」

「うん」

「逃げたのか」

「そうだね」

否定はなかった。

ただ、事実だけがそこにあった。

私は俯いた。

どうしようもなく、情けなくて、吐き気がした。

「でも、大丈夫だよ」

少年の声が、少しだけ柔らかくなった。

「君はちゃんとここまで来た」

「ここまで……?」

「思い出すところまで」

彼は、窓の外を指差した。

そこには、ぼんやりと元の街の輪郭が戻り始めていた。

「戻るのか」

「うん」

「全部……?」

「全部は無理かな」

彼は少し考えてから言った。

「でも、十分だよ」

電車が減速する。

見えない駅に、到着しようとしている。

「じゃあ、そろそろ時間だ」

ドアが開く音がした。

「待て」

私は思わず声を上げた。

「お前は何なんだ」

彼は振り返った。

そして、少しだけ困ったように笑った。

「君だよ」

その答えは、最初と同じだった。

だが今度は、理解できた。

彼は、私が捨てきれなかった部分。

忘れきれなかった記憶。

あるいは——後悔。

「大丈夫。明日の朝には世界は元通りさ。少なくとも、君の記憶の中での話だけどね。」

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