断絶の霧
朝6時半。濃い霧の東の空に霞む太陽が、嫌になるほどはっきりして見えた朝。私は寝巻きから着替えると歯を磨き、一刻も早い出発を試みた。初夏の蒸し暑さと、春の余韻を残すかのような涼しさが、私の意識をいやに明瞭にする。あまりに現実がはっきりしていて、つい10分前との対比が激しくて、私は淹れたてのコーヒーを啜る前から冷や汗をかいていた。
その「10分前」が、どうしても思い出せなかった。
いや、正確には思い出せるのだ。断片的に。断続的に。しかし、それらはどれも現実の連続として繋がらない。まるで、別々の夢を無理やり貼り合わせたような、不快な違和感だけが残っている。
玄関のドアノブに手をかけたとき、ふと指先が震えていることに気づいた。理由は分かっている。だが、それを言葉にすると何かが決定的に壊れる気がして、私は敢えて考えないようにした。
外に出ると、霧は思った以上に濃かった。住宅街の輪郭が曖昧に滲み、音が吸い込まれるように静かだ。遠くで犬が一度だけ吠えたが、それもすぐに消えた。
「……ここ、こんなに静かだったか?」
独り言が、やけに重く響いた。
私は駅へ向かって歩き出した。いつもの通学路。見慣れたはずの景色。しかし、どこかがおかしい。電柱の位置、塀の高さ、植え込みの形。どれも微妙に、ほんの数センチずれているような気がする。
そして何より、人がいない。
この時間なら、通学途中の学生や通勤の会社員が何人かはいるはずだ。それなのに、誰ともすれ違わない。
「……寝坊、じゃないよな」
腕時計は6時38分を指していた。正常だ。むしろ、いつもより少し早いくらいだ。
駅前に着いた。自動改札は動いている。電光掲示板も、時刻表通りに表示されている。だが、やはり人はいない。構内は、まるで閉館後のように静まり返っていた。
改札を抜ける。足音がやけに響く。
ホームに降りると、ちょうど電車が滑り込んできた。ブレーキ音だけが、妙に現実的だった。
ドアが開く。
私は躊躇なく乗り込んだ。
車内は空っぽだった。
「……まあ、そうだよな」
苦笑いすら出なかった。予想通りすぎて、感情が追いつかない。
発車のベルが鳴り、電車はゆっくりと動き出した。
窓の外を眺める。霧は相変わらず濃いが、時折その隙間から見える街並みは、やはりどこか歪んでいる。建物の高さが揃いすぎていたり、看板の文字が微妙に崩れていたりする。
私は目を閉じた。
思い出せ。
10分前に何があった?
──目を覚ましたとき、部屋の天井が違っていた。
──いや、それは違う。天井は同じだった。だが、光の入り方が違っていた。
──いや、違う。もっと根本的な何かが。
頭の中で、記憶が何度も書き換えられる。
そのとき、車内アナウンスが流れた。
「次は——」
音が途切れた。
ノイズだけが残る。
「——は——」
聞き取れない。
その瞬間、車内の照明が一瞬だけ明滅した。
そして、私は気づいた。
自分以外の「誰か」が、向かいの座席に座っていることに。
いつからそこにいたのか分からない。気配もなかった。ただ、気づいたときにはそこにいた。
制服姿の少年だった。年齢は私と同じくらい。顔立ちははっきり見えるのに、印象が残らない。不思議な存在感の薄さ。
彼は、こちらを見て微笑んだ。
「やっと気づいた?」
声は、やけに鮮明だった。
「……誰だ、お前」
「君と同じだよ」
「答えになってない」
「そうかな」
彼は首を傾げた。その仕草すら、どこか作り物じみている。
私は立ち上がろうとしたが、体が動かなかった。まるで、見えない何かに縛られているように。
「無理だよ。まだ順番じゃないから」
「順番?」
「そう。君が“理解する”順番」
意味が分からない。だが、なぜかその言葉は否定できなかった。
電車はトンネルに入った。窓の外が真っ暗になる。
その闇の中で、彼の顔だけが妙に浮かび上がって見えた。
「ねえ、君。さっきの“10分前”、ちゃんと思い出せてる?」
心臓が強く脈打った。
「……思い出せない」
「うん、知ってる」
彼はあっさりと頷いた。
「だって、あれは“君の記憶”じゃないから」
その言葉と同時に、頭の中に映像が流れ込んできた。
朝ではない。夜だ。
部屋の中。机に突っ伏している自分。
スマートフォンの画面が光っている。
メッセージ。
『これで最後にしよう』
送信ボタン。
押したのは、私だ。
「……これは」
「見覚えあるでしょ」
彼の声が、やけに近くで響く。
「君が“終わらせた”瞬間だよ」
喉が乾く。
「終わらせた……?」
「世界を」
電車がトンネルを抜けた。
光が差し込む。
だが、その光は朝のものではなかった。どこか白く、無機質で、温度がない。
外の景色は、完全に変わっていた。
建物はなく、地平線のような平面が広がっているだけだった。
「ここは……」
「境目だよ」
少年は立ち上がった。
「現実と、君が作ったものの」
私は何も言えなかった。
理解したくなかった。
「人はね、耐えられなくなると、自分で世界を作るんだよ」
彼はゆっくりと歩いてくる。
「都合のいいように。痛くないように。忘れられるように」
一歩。
「君もそうした」
二歩。
「でもね——」
彼は、私の目の前で立ち止まった。
「完全には消せなかった」
その瞬間、全てが繋がった。
あの違和感。
誰もいない街。
歪んだ景色。
断片的な記憶。
「……俺は」
「うん」
「逃げたのか」
「そうだね」
否定はなかった。
ただ、事実だけがそこにあった。
私は俯いた。
どうしようもなく、情けなくて、吐き気がした。
「でも、大丈夫だよ」
少年の声が、少しだけ柔らかくなった。
「君はちゃんとここまで来た」
「ここまで……?」
「思い出すところまで」
彼は、窓の外を指差した。
そこには、ぼんやりと元の街の輪郭が戻り始めていた。
「戻るのか」
「うん」
「全部……?」
「全部は無理かな」
彼は少し考えてから言った。
「でも、十分だよ」
電車が減速する。
見えない駅に、到着しようとしている。
「じゃあ、そろそろ時間だ」
ドアが開く音がした。
「待て」
私は思わず声を上げた。
「お前は何なんだ」
彼は振り返った。
そして、少しだけ困ったように笑った。
「君だよ」
その答えは、最初と同じだった。
だが今度は、理解できた。
彼は、私が捨てきれなかった部分。
忘れきれなかった記憶。
あるいは——後悔。
「大丈夫。明日の朝には世界は元通りさ。少なくとも、君の記憶の中での話だけどね。」




