第1話 追う者は、すでに祈っていた
森を抜ける風は冷たく、湿っていた。
少年は歩きながら、何度も背後を振り返っていた。
足跡が残っていないか。枝が不自然に折れていないか。
昨日まで気にしたこともないことが、今はすべて怖い。
「大丈夫よ」
前を歩くエルディアが、振り返らずに言った。
「まだ、見つかってはいない」
「“まだ”……ですか」
声が、かすれる。
エルディアはそれ以上答えなかった。
答えられないのだと、少年は悟る。
後方では、カイルが黙って周囲を警戒していた。
剣には手をかけていないが、いつでも抜ける位置だ。
――この人たちは、慣れている。
命を狙われることにも、
世界に理不尽があることにも。
自分だけが、場違いだ。
そう思った、そのときだった。
空気が、変わった。
森のざわめきが、一斉に沈む。
鳥の声が止み、風の流れが不自然に歪む。
エルディアが立ち止まった。
「……来たわ」
少年の心臓が跳ねる。
「何が……」
「祈りよ」
エルディアは低く言った。
「神殿の祈祷隊。
《閉界の鍵》が“動いた”ことを、もう掴んでいる」
次の瞬間、木々の間から白い影が現れた。
白い外套。
胸には円環の紋章――大神殿の印。
男は一人だった。
だが、その場の空気を支配するには十分だった。
「止まりなさい」
穏やかな声だった。
命令というより、前提のような口調。
「その鍵は、神殿が管理する」
少年の視線が、無意識に胸元へ落ちる。
鉄の鍵は、いつも通り、何の反応も示さない。
カイルが一歩前に出た。
「断る」
短く、明確な拒絶。
神官は視線をカイルに向け、わずかに眉をひそめた。
「剣でどうにかなる話ではない」
「それでもだ」
張り詰めた空気の中で、エルディアが口を開いた。
「あなたたちは、鍵を“封印”すると言うでしょう」
「当然です」
「その封印は、誰のため?」
神官は即答した。
「世界のためだ」
少年は、その言葉に違和感を覚えた。
――世界。
それは、誰のことだ?
神官の視線が、少年に向く。
「君だ」
少年の喉が鳴る。
「怖がる必要はない。
鍵は、正しく管理される」
「……管理って」
「神殿が、だ」
少年は一歩下がった。
「それは……使う、ってことですよね」
神官は、否定しなかった。
「必要とあらば」
その瞬間、少年の中で何かがはっきりした。
怖いから、ではない。
逃げたいから、でもない。
「嫌です」
自分の声に、自分で驚いた。
神官が、目を細める。
「君に、拒否権は――」
「あります」
少年は、震える手で鍵を握りしめた。
「これは……誰かを救うために、
誰かを切り捨てる力だ」
エルディアが、わずかに目を見開く。
「僕は、それを選びません」
沈黙。
神官は、静かに息を吐いた。
「……残念だ」
彼が杖を地面に突いた瞬間、
見えない圧が森を押し潰した。
「撤退だ!」
カイルの叫びと同時に、
エルディアが結界符を投げる。
光が弾け、視界が歪む。
走る。
少年は、ただ走った。
だが今回は違った。
逃げているのに、
自分で“拒んだ”という感覚が、確かに胸に残っていた。
背後で、神官の声が響く。
「追え。
あれは、世界を閉じる鍵だ」
その言葉を聞いた瞬間、少年は理解した。
――もう、自分は“見逃される存在”ではない。
臆病者は、
世界に追われる側へと踏み込んでしまったのだ。
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