第5話 語られなかった世界
その建物は、街の端にあった。
倉庫のようで、
礼拝堂にも、役所にも見えない。
だが、扉の前に立った瞬間、
少年は確信した。
――ここには、
記録がある。
扉を叩く前に、
内側から声がした。
「開いています」
中は、薄暗かった。
棚という棚に、
紙束、石板、欠けた結晶が詰め込まれている。
中央に立っていたのは、
小柄な老人だった。
背は曲がっているが、
目だけが、異様に澄んでいる。
「……境界研究者の方ですか」
「そう呼ばれています」
老人は、曖昧に笑った。
「正確には、
残された部分を数える者です」
少年は、言葉を選んだ。
「……世界は、
一度だけ閉じられたわけではない」
老人は、頷いた。
「ええ」
あまりにも、あっさりと。
「少なくとも、
三回」
少年の胸が、重くなる。
「三回……」
「記録が残っているのが、です」
老人は、棚から一枚の石板を引き抜いた。
欠けている。
文字の一部が、削り取られている。
「これは、
二回目の閉界の直前までの年代記」
「……削られている」
「ええ」
老人は、指でなぞる。
「閉界の後、
削除されました」
少年は、息を呑んだ。
「なぜ……」
「残すと、
同じ選択を疑うからです」
老人の声は、静かだった。
「人は、
正しかった過去を疑えない」
「……正しかった?」
「ええ」
老人は、少年を見た。
「閉じた判断は、
その時点では、
正しかった」
それが、何より残酷だった。
「でも……」
少年は、言葉を探す。
「沈殿層が、残った」
「ええ」
老人は、今度は否定しなかった。
「閉界は、
世界を救います」
間。
「ただし、
完全には」
棚の奥から、
別の記録を取り出す。
それは、地図だった。
重なり合う線。
一枚ではない。
「世界は、
閉じるたびに薄くなります」
「……薄く」
「選ばれなかった可能性が、
下に沈む」
沈殿層。
「それが、
積み重なる」
老人は、指を止めた。
「ある臨界点を超えると、
沈殿層は、
現世を引きずり始める」
少年の背筋が、凍る。
「それが……」
「崩壊です」
老人は、淡々と言った。
「だから、
神殿は閉じる」
「王権も、
線を引く」
老人は、ゆっくり頷く。
「彼らは、
間違ってはいない」
その言葉に、
少年は顔を上げた。
「……それでも」
「ええ」
老人は、先を続けた。
「それでも、
続ければ必ず限界が来る」
沈黙。
老人は、別の結晶を取り上げる。
それは、小さく、
淡く光っていた。
「これは、
最初期の鍵の試作品です」
少年の視線が、釘付けになる。
「閉界の鍵は、
世界を閉じるために
作られたのではない」
「……では」
「閉じようとする意志を、
縫い止めるためです」
老人は、静かに言った。
「世界が、
自ら切ろうとする瞬間を」
少年の胸が、熱くなる。
「……拒否」
「ええ」
老人は、微笑んだ。
「拒否は、
設計思想の一部です」
初めて、
救われたような気がした。
「だが……」
老人の声が、低くなる。
「拒否は、
完成していない」
少年は、息を呑む。
「なぜなら、
拒否は孤立する」
老人は、棚を見渡す。
「あなたの拒否は、
沈殿層と共鳴している」
「……だから」
「ええ」
老人は、はっきり言った。
「あなた一人では、
世界は支えられない」
残酷だが、
真実だった。
「……では、
どうすれば」
老人は、少し考えた。
「拒否を、
共有する」
少年の目が、見開かれる。
「共有……」
「切らない選択を、
複数で引き受ける」
老人は、指で沈殿層の線をなぞる。
「沈殿層には、
その覚悟を持つ者がいる」
――ミルナ。
名前は、出なかった。
だが、確かにそこにいる。
「だから、
あなたは……」
老人は、少年を見た。
「ここに来た」
少年は、ゆっくり頷いた。
外で、風が鳴る。
境界が、
揺れている。
「長くは、
保たない」
老人は、最後に言った。
「この街は、
次に選ばれる」
少年は、立ち上がった。
「……だから」
答えは、もう決まっていた。
「僕が、
選ばせない」
老人は、静かに目を閉じた。
「それが、
最も困難な選択です」
少年は、外に出た。
夜のノクティルは、
相変わらず穏やかだった。
だが、その穏やかさが、
期限付きであることを、
彼はもう知っている。
語られなかった世界は、
確かに存在した。
そして今――
語られ始めようとしている。
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