第1話 臆病者は、村の端に立っていた
この世界では、
多くを救うために、
少数を切り捨てる選択が正しいとされています。
もし、
その選択を拒む者がいたら――
世界は、どうなるのでしょうか。
これは、
勇気がなかったからこそ、
「切らない」ことを選んだ少年の物語です。
その村は、地図の端にすら載らない。
王都から続く街道は、途中で舗装を失い、やがてただの踏み固められた土へと変わる。商人の荷車が通うのは月に一度あるかどうかで、外の世界の噂は、いつも少し古く、少し歪んだ形で伝わってきた。
村人たちはそれを気にしなかった。
いや、気にしないようにしていた。
魔境が近い。
それだけで、この村にとっての説明は足りていた。
魔境――人の理から外れたものが生まれる場所。
夜ごと、森の奥から正体の分からない音が流れてくる。獣の咆哮にも似ているし、風が岩を擦る音にも聞こえる。あるいは、人の声に似ていることもあった。
誰も、確かめに行こうとはしない。
例外は一人だけいた。
村の外れ、森へと続く小道の途中で、少年は足を止めた。
木々の隙間から、石造りの小さな祠が見える。
「……今日も、何もありませんように」
誰に向けたとも分からない願いを呟き、少年は深く息を吸った。心臓の鼓動が、やけに大きく耳に響く。
彼は臆病だった。
自覚はある。
魔物の話を聞けば眠れなくなるし、剣を持たせれば手が震える。村の若者が夜番に立つときも、彼だけはいつも免除されてきた。
村人たちはそれを笑った。
「役に立たないが、害はない」
そんな扱いだ。
だが少年は、その立場を受け入れていた。
恐怖よりも怖いものが、彼にはあったからだ。
――居場所を失うこと。
だから今日も、祠の掃除役を引き受けた。
誰もやりたがらない仕事を断る勇気が、彼にはなかった。
祠は、思っていた以上に古びていた。
積み上げられた石は風雨に削られ、苔が張り付いている。屋根の一部は崩れ、隙間から冷たい風が吹き込んでいた。
中に祀られているのは、一体の石像だ。
剣も、王冠も、翼も持たない。
ただ、人の形をして立っているだけの像。
「……誰なんだろうな」
少年は箒を動かしながら、像を見上げた。
顔は摩耗して判然としないが、不思議と威圧感はない。ただ、じっとこちらを見下ろしているような錯覚を覚える。
像の胸元には、ぽっかりと窪みがあった。
傷のようにも、欠損のようにも見える。
あるいは――鍵穴。
だが、それについて語る者はいない。
村では「昔からそうだった」で済まされる。
掃除を終えかけたころ、背後で小さな咳払いがした。
「……また来ているのか」
振り向くと、老人が立っていた。
この村で最も年老いた男で、背中は弓なりに曲がり、目は濁っている。それでも祠の管理だけは、彼が一手に担っていた。
「言われたので」
少年がそう答えると、老人は鼻を鳴らした。
「若い連中は、怖がって近づかん」
「……僕も、怖いです」
正直に言うと、老人は一瞬だけ目を細めた。
「怖いのは、悪いことじゃない」
老人は像の前に立ち、胸元の窪みを見つめた。
「これはな、守りだ」
「守り?」
「そうだ。世界が、これ以上壊れないためのな」
意味は分からなかった。
問い返そうと口を開きかけたが、言葉は喉で止まる。
老人は続けなかった。
まるで、それ以上語ること自体が禁忌であるかのように。
そのときだった。
遠く、森の奥で低い唸り声が響いた。
少年の体が強張る。
老人の表情も、わずかに険しくなる。
「今日は、早く戻れ」
それは命令に近かった。
少年は頷き、箒を置いて祠を出る。
背中に冷たい視線を感じた気がして、思わず足が速くなる。
振り返らなかった。
振り返る勇気が、なかった。
村へ戻る途中、空を見上げると、雲の流れが不自然に止まっているように見えた。
ただの錯覚だと、自分に言い聞かせる。
臆病者は、いつもそうやって生きてきた。
危険から目を逸らし、見ないふりをし、今日をやり過ごす。
それが、この世界で生き残るための、彼なりの方法だった。
――その選択が、今夜、通じなくなることも知らずに。
その夜、村は炎に包まれる。
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