第3章 mirror_02 ― 侵入の痕跡 ―
日常の裏側に、見えない“影”が動き出す。
誰かが、彼らの“今”を映している。
朝の光がカーテンの隙間からこぼれて、リビングの床をやわらかく染めていた。
いつも通りの朝。
柊は(しゅう)コーヒーを淹れ、環はその香りに目を細めながらパンをトーストに乗せる。
「凪くん、もう起きた?」
「……んー……おはようございます……」
寝ぼけ眼で出てきた凪は、いつものようにメガネを探して手を伸ばす。
環が笑いながら差し出すと、柊が静かに言った。
「今日は出社組は俺と環。凪は在宅だな。」
「了解です。昨日のデータ、もう少し整理しておきます。」
凪がリビングの隅に置いたノートPCの電源を入れる。
……が、すでにランプが点滅していた。
「……あれ、昨日シャットダウンしたはずなのに。」
環が顔を寄せてのぞき込む。
画面には見覚えのない起動画面が映っていた。
黒い背景に、淡く浮かぶ文字列。
> mirror_02 — initializing...
凪の指が止まる。
「……昨日、mirror_01を触ったときは、こんなプログラムなかったのに……」
柊が凪の背後に立ち、静かに画面を見つめる。
「凪、ログを採取しろ。ネットワークは切断。」
「はい。」
短い指示に、空気が一瞬で変わる。
環は胸の奥がざわりと波立つのを感じた。
何かが、家の中に“入り込んでいる”――そんな直感。
◇◇◇
午後、アークシステムズのオフィス。
凪が送ったログを解析する柊の指先が止まる。
「……このコード、どこかで見た覚えがある。」
柊の視線がわずかに鋭くなる。
環がそっと問いかける。
「どこで?」
「火事のとき、凪のマンションで見たパソコンの残留ログ。
あの中にも似た署名があった。」
環の背筋に、冷たいものが走る。
◇◇◇
夜。
ぽかぽか邸のリビング。
穏やかな空気の中、凪は1人で作業をしていた。
モニターに反射した自分の顔を見つめる。
ふと、画面の中の自分が“笑った”ように見えた。
ほんの一瞬。
気のせいだと自分に言い聞かせて、マグカップを手に取る。
……だが、背後のモニターが勝手に明るくなった。
> mirror_02 — data sync complete.
「……同期? してないのに……」
凪の指先が震える。
遠くで、時計の秒針だけが規則的に音を刻んでいた。
◇◇◇
外はすっかり夜。
リビングの照明がやわらかく揺れて、
柊と環の影を壁に映していた。
キーボードを打つ音だけが、静かな空間に響いている。
凪が目を細めながら言った。
「……やっぱり変です。mirror_02の中、僕が書いたコードじゃないです。」
柊は画面をのぞき込み、低くつぶやいた。
「この命令文、第三者が内部アクセスした痕跡がある。
でも……普通のハッキングじゃない。
誰かが“俺たちの作業そのもの”を鏡写しにしてる。」
環が眉を寄せた。
「鏡写し……?」
柊はマウスを動かし、二つのログを並べて見せた。
一方は、アークシステムズ社内の動作ログ。
もう一方は、凪の旧マンションで見つかったバックアップデータ。
タイムスタンプは、まったく同じ。
「つまり、誰かが“もうひとつのシステム”を作って、
俺たちの動きをリアルタイムで“映してる”。」
環の胸がぎゅっと締めつけられた。
見えない誰かが、自分たちの“日常”を覗いている。
笑って、食事をして、冗談を言っているこの空間さえも――。
柊は静かに手を止めた。
「人もシステムも、侵入されることはある。
でも守る方法も、必ずある。」
その声に、環と凪は同時に顔を上げた。
柊の瞳の奥には、冷静さと、確かな決意が宿っていた。
「mirror_02は、まだ序章だ。
本命は、もっと深いところにある。」
◇◇◇
その夜、環はなかなか眠れなかった。
カーテンの隙間から、月の光が差し込む。
静かすぎる部屋の中で、彼女は小さくつぶやいた。
「……ねぇ、mirrorって、
私たちの心も映してたりして……。」
誰も答えない。
けれど、部屋の奥で――
小さな電子音が一度だけ鳴った。
その音は、まるで誰かが“応えた”ように、やさしく響いた。
「鏡写しのコード」
その言葉の意味を、まだ誰も理解していなかった。




