転変天目山 〜まほろばの鬼媛·外伝〜
※今回の話は、短編と言いつつその文字数が65000(改行、空白込み)あまりのため、ちょっとした中編規模になっています。
また、荒削りなところもあるかと思いますが、そのあたりは軽く流し読みする感じで見て頂けると幸いです。
――時は天正年間、天下布武を掲げた"織田信長"は、西は山陽山陰、北は北陸に軍を進めていた。
そして東にも軍を進める。そこはかつて信長すら恐れていた"武田信玄"が治めし甲信地方。しかしその信玄は既に亡く、その衣鉢を継いだ"武田勝頼"が治めていた。
しかし、長篠の戦いで無理をした為、信玄以来の実力の有った重臣達が尽く討死。その後も信長の同盟者である"徳川家康"と遠江・駿河を巡って争うのであるが、時と共に劣勢になっていく……
そして、天正十年三月十一日の朝。
織田信長、徳川家康らの侵攻により、武田方の諸城は続々と陥落し、更に度重なる裏切りの果て、武田勝頼一行は甲斐国初鹿野の地にある"天目山"の麓に追い詰められ、家臣達は勝頼親子らの自害までの時間を稼ぐべく最後の戦いに臨もうとしていた。
―― だが、この世界では、勝頼一行の運命が大きく変わろうとしていた。
彼らからすれば、思いもよらない"異なる世"からの闖入者の出現によって ――
家臣達が山麓の"鳥居坂"に布陣し、目と鼻の先に布陣する織田方の兵と対峙していた頃。
武田勝頼(諏訪四郎勝頼とも、諏訪氏の元の姓から神四郎勝頼とも)は、嫡子である武田信勝を呼び寄せ、祖先である"源義光"以来の甲冑を着させていた。
これはせめて武田の当主として最期を向かえさせてやろうという、勝頼なりの親心もあったのだろう。
元々、武田の家督に関して、父である武田信玄は、この信勝を後継として指名していたという。
だが、まだ幼かった事から、諏訪氏を継いでいた勝頼が、信勝元服までの期間限定という形で家督を継承していたという。
長篠で討死にした重臣達も、信勝の成長を楽しみにしていた節があった。この事があってか、勝頼の側近達との軋轢が長篠の結果にも影響を与えていたのではないか?という話もある。
さて、信勝に祖先伝来の甲冑を着せ、武田氏最期の日だけとはいえ、武田氏当主という扱いを受ける事となった信勝は当時十六歳。
まさに祖父信玄が望んだ元服の歳でもあった……
「父上、今日という日だけとはいえ、私を武田の当主にして頂きありがとうございます。これで思い残すことなく信玄公の下に往けるという物です。」
「信勝……すまぬ。本来なら、この様な時に家督を譲るなどというのは無責任の極みである。全て儂の力の無さが原因だ。せめて黄泉の地の父上や武田氏歴代の当主達に詫びを入れよう。」
信勝と会話を交えたあと、今度は側にいた若い娘に話を掛ける。
それは、かつて甲斐と相模の間で結ばれていた同盟の証として、勝頼の後妻となっていた女性であった。勝頼は追い詰められる前、彼女に相模に帰るように何度か勧めたという。
だが、同盟が破綻し、相模北條氏が徳川家康経由で織田に通じている事を知ってか知らずか、彼女は勝頼と運命を共にする事を選択したという。
第三者視点で見た場合、実家の北條氏に害が及ばない様に気を使ったとも言えるのであるが。
「そなたにもすまぬと思う。儂などの妻となったばかりに、幸せを与える事が出来なかった。許せ。」
「殿、わたくしは勝頼様の妻となった事に後悔はしていません。僅か十九年の命ではありましたが、貴方様の妻となれた事は生涯の誉れです。決して後悔はしていません。今世では叶わなかった幸せ、せめて来世で一緒に……」
この言葉を聞き、周りにいた女官達が皆してすすり泣く事となる。
この女官達も、勝頼親子が自害を遂げたのを見届けたなら、各々後を追うつもりでいたという。
織田方に捕まれば、間違いなく辱めを受けるのは目に見えていたからである。
かくして、覚悟を決めた勝頼が、自らの死に場所と定めた近くの岩の上に登るべく脚を向け、歩みだした……まさにその時。
突如として、暗雲が垂れ込み出し、程なく雷鳴が轟き、遂に一筋の雷が勝頼が登ろうとしていた岩に直撃する。
その衝撃と砕けた岩礫に、勝頼は吹き飛ばされてしまう。慌てた信勝や北條夫人が勝頼の側に近寄り、身体を起こし上げる……
『儂が見定めた自害の場所に雷が落ちるとは……。これも武田家を守れなかった儂への天罰なのやも知れんな。』
そのように悲嘆する勝頼だったが、程なく"異変"に気づく事となる。
初めにそれに気づいたのは嫡子の信勝であった……
『ん!? お下がりください父上、何かが雷が落ちた場所に居ます!』
……息子からのその一言を聞き、勝頼は夫人達を下がらせ、腰の太刀に手を掛ける。信勝もまた、同じように太刀を抜こうと構えていた。
だが、程なく聞こえてきたのは、明らかに"場違い感あり過ぎる"複数人の会話であった……
「ゴホッ、ゴホッ……おい東雲っ!! 貴様、またしても失敗しただろ!」
「うっ、うるせぇな鹿野郎。こういう事が起きるのは初めてじゃなかっただろうが!」
「ちょ、ちょっと東雲さん、鈴鹿さん、二人とも落ち着いて。まずはどこに飛び出したのか確認するのが先じゃない?」
「諸岡さんの申す通りですわよ。言い争いなら、落ち着いた時に幾らでも出来るでしょう?」
何やら聞き慣れない女性の声が複数、勝頼や信勝達の耳には聞こえていた。
そんな彼らの気配を察したかのように、別の女性の声が聞こえてきた。
『おい東雲、そして水の。あと諸岡に北畠。あまりお喋りしている場合じゃないみたいだぞ? 周りをよく見てみろ。』
その、少し落ち着いた雰囲気を纏う声の主の発言と共に、土煙が流れていき、勝頼達はその闖入者達の姿を見知る事となるのであるが……
「ち、父上、こ奴等は何者なのでしょうか? 見知らぬ格好をしている者ばかりです。」
「信勝……この様な時に言うのもアレだが、儂も全く同じ意見だ。恐らく妻や他の者達も知らぬであろう。」
勝頼が述べた通り、後ろに控えていた北條夫人も、その他の女官達も、明らかに見たことが無いと言わんばかりの表情を見せていた。
そして、信勝を制する形で前に出た勝頼は『そこの娘たち、貴様らはどこから来た!』と、そこは武田の当主としての威厳を示すように一喝気味に問い質してきたのである。
その勝頼の声に気づいたいづる。『は?』と言いたげな表情を見せつつ、勝頼の方を見て『……甲冑姿? 時代劇の撮影現場にでも紛れ込んだか?』と、明らかにスッとボケた事を口走ったのである。
この反応に、感情の火が着いたのは、勝頼の側に居た信勝であった。即座に抜刀すると『そこの女、さては織田方の間者だな!? 理由のわからぬ事を抜かしても無駄だぞ。せめて貴様を斬って、信玄公への手土産にしてくれる!』と語り、一直線にいづる目掛けて斬り込んできたのである。
突如として意味不明な事を口走りながら、自分目掛けて斬り込んでくる……見た目同世代な甲冑姿の男子を見て『はぁ? 織田? コイツは何言ってるんだ? これがホントの理由若布って奴か?』と述べつつ、斬りつけてきた攻撃を避けるでも無く、毎度の事ながら"何もない場所"から金棒を突き出して、斬撃を容易く防いでみせたのであった。
だが、防がれた側の信勝は激しく驚く。そしてそれは後ろに控えていた勝頼達もまた同じであった……
「なっ!? 何もないところから金棒だと!? い、一体どんなまやかしの術を……」
「信勝、下がれ! その者はただの娘ではない。迂闊に近付くのは危険だ!」
「わ、解りました父上。」
勝頼の声を聞き、信勝は素早く身を引いている。その動きはとても甲冑を纏っている者の動きでは無かったという。
その動きを見て、一人の人物が呟いている。
『ほう、あの若さで甲冑込みとはいえ、あの様に動くとは、人間にしてはよく鍛えているじゃないか。少しは東雲も見習った方が良いぞ?』
その人物、初めに周りを見るようにいづる達に告げた女性であった。
そして、その意見に同調するように『火の言う通りだ東雲。お前はすぐにその手の方法で防ごうとするが、余りにもそれに頼りすぎるのは感心しないな。』と、語る別の女性。
その二つの意見を連続して突きつけられたいづるは『ちょっと待て。"火倉"さんはともかく、鹿野郎にまで言われたくねぇぞ!』と文句を垂れるのだが、その意見は更に今まで黙っていた別の人物の発言によって掣肘を加えられる事となる……
『全くいづるは……。確かに火と水の王の申し分ももっともじゃぞ? 少しは違った防ぎ方を考えるべきじゃ。そうでなければ今回"我"が一緒に来た意味が無い。』
その一言と共に現れた人物を見て、勝頼と信勝。そして他の者達は仰天する。
なぜなら、そこに居たのは、彼らが生まれて今まで見たこともない"髪の毛の色"と、"瞳の色"をした幼子であったからである。
だが、その幼子と視線が交差した瞬間、勝頼、信勝、北條夫人の三人は心の底から湧き出る言い知れぬ不思議な感覚を感じる事となる。
そして、それは自らを"我"と呼称する金髪碧眼の幼子――"サーナ"と呼ばれる――も、全く同じであったという。
そんな状況を見ていて、黙っていた"諸岡かずさ"が、相方の"北畠ともの"にさらっとこんな事を語る……
『なあ、北畠さん。いづるんの"世渡り能力"で、あたし達……戦国時代に来てしまったんじゃないか? しかも、あの甲冑姿の人達を見てたんだけど、あの紋様って"武田菱"じゃないのか?』
かずさからそのように言われた北畠ともの。改めてまじまじと甲冑姿の二人を見て『確かにアレは武田菱に間違いありませんわね。……という事は、あの二人、まさかとは思いますが"武田勝頼"と、その息子さんなのではありませんか!?』と、口走ったのである。
突如として、見知らぬ女子から勝頼だと見抜かれてしまった男は『何!? そこな娘、なぜ儂が武田勝頼であると知った!! うぬぬ、怪しい娘め、名を名乗れ!』と叫ぶ。
その問いに、彼女は即座に『わたくし、北畠とものと申しますの。そうですね……かつての"伊勢国司"だった北畠氏の傍系の者とでも申しておきましょうか?』と答えたのである。
その発言に、いづるが『あれ? お花畠って、そんな御大層な家柄だったっけ?』と異論を唱えたものの、即座に鹿野郎こと"水梨鈴鹿"が『空気を読め愚か者。もし、あの男が武田勝頼という人物であるならば、私の知る限りここは"天正十年三月"の甲斐国の天目山のはずだ。』と語りつつ、いづるの口を塞ぐように動いたのである。
とものから聞かされた"北畠の傍系"という言葉を聞き、勝頼は『北畠!? 確か、信長が息子を送り込み、最終的に乗っ取っられ、当主の具教殿が暗殺された、あの北畠か? 他の北畠系の分家は尽く信長に屈したと聞くが、まさか抗って逃れた姫君が居たとは……。しかし、今になって何故ここに? ここはもうすぐ織田方が来るというのに。』と、どこか身の上を心配する様な発言をしている。
するととものは『確かに普通なら、これから地獄となる場所に来る事は無かったでしょうね。ですが、そんなわたくし達がここに来たという事が何を意味するか? 勝頼様ならば、少しは分かるかと思いますが? 先ほども見たでしょう? ここには、そっとやちょっとでは殺せないような者達が一緒に来ているのです。』と畳み掛けるように話を進めている。
この間、いづるは不満だったが、耳元で鈴鹿が『この場は北畠に任せておけ。名字の繋がりとはいえ、上手くいけばあの親子の矛を引かせる事ができる。そうすれば、あとは話の流れを優位に持ち込む事も出来るだろう。』と呟かれては、渋々承知するしか無かったという。
だが、程なくいづるは一つの事に気付いてしまう。
『なあ鹿野郎、そういえば"つっちー"はどうしたんだっけ? 一緒に来てるはずなんだが……』
その一言を聞き、鈴鹿の顔色が明らかに変わっていた。
そして即座に念話で火倉にその事を聞くと『何? そういえば土の、奴の気配が近くに無い。どこに行っている?』という答えが返ってきたのだった。
表面上平静を装うとする鈴鹿ではあったが、その内心のざわつきに気づいた者が、あたかもその内心を知った上でこう語る……
『つっちーとやら、どうやら我達とはぐれて"アッチの方"に落ちたようじゃの。』
そう言い終えると同時に、サーナはある方向を指さしている。
だが、その指さした先を勝頼は知っていた……
『一体なんの事を言っているかは分からぬが、あの黄金色の髪の小娘が指差しているのは、明らかに"鳥居坂"の方ではないか。』
そう思うと、勝頼は改めて『そこな者達、お前達の仲間の一人は鳥居坂の方にいる。あそこはもうすぐ織田方の追討軍と、儂らの自害までの時間を稼ごうと覚悟して死地に赴いた我が家臣達の最期の戦いの場になる場所だ。』と述べたのである。
それを聞いて、普通ならば騒ぎそうなものなのだが、よりにもよって勝頼や信勝らの前に居るのがある意味"常識の通じない"連中だった事が、このあと起こることになる"鳥居坂合戦(及び四郎作合戦)"の結果すら大きく……
いや、あまりにも巨大に変えてしまうとは、この時、勝頼達は予想出来なかったのである。
一方、いづる達は……特にいづる本人は『まあ、つっちーが居るんなら、何とかなるだろ。問題は、武田の残党がつっちーを敵と認識してしまわないかだけだが。』と考えていたのだった……
一方その頃、鳥居坂に集った武田軍……いや、もはや"軍"とは呼べない程の小勢が、今まさに最期の戦いに臨もうとしていた。
そんな中、勝頼が居る場所に落雷が落ちた事に気付いた何人かの家臣達は激しく動揺してしまう。その中に、勝頼の近臣の一人であった"秋山紀伊守光継"という男が居た。
彼は、勝頼の身を案じて、慌てて赴こうとしたのであるが、彼を引き止める男が居た。
それは、この日の前日、主家の大事に駆けつけられなければ武士の恥として、以前勝頼から蟄居謹慎を命じられた身の上ながら、弟と共に馳せ参じていた"小宮山主膳正友信"であった。
(なお、小宮山の弟は勝頼の命で離脱するように指示を受け、小宮山一族を守る為に泣く泣く天目山を離れている。)
「紀州殿、一体どこへ参る? 我らは今から織田方と合戦に及ぼうとしておるのだぞ?」
「小宮山氏、勝頼様の居る場所にあの様な落雷が落ちたのであれば、勝頼様の御身に何事か起きたやも知れん。」
「貴殿の勝頼様を想う気持ちは分かるが、今は一人でもここを守る者が必要なのだ。貴殿が抜けては、それだけで周りの者にも影響があろう。」
「し、しかしだな……」
この様に言い争う両者。元々小宮山が謹慎蟄居を命じられたのは、勝頼近臣との意見対立が原因であった。
秋山も近臣の一人として、小宮山と対立していた側ではあった。だが、近臣の中で影響力を持っていた"長坂長閑斎"や"跡部大炊助"が天目山に至るまでに逃走するという有り様をみて呆れ果てていた。
だからこそ、小宮山が死に場所を求めて勝頼の下に馳せ参じた事に感服し、共に戦う事を誓ったのではある。
そんな二人を一喝して正気に戻した男が居た。
それは、数日前、近くを流れる"日川"の上流側に迂回してきていた織田方の手勢(裏切った"小山田信茂"方の手勢か?)を相手取って、地形を利用して散々に斬りまくった結果、"片手千人斬り"と恐れられる事となった"土屋惣蔵昌恒"であった……
『これより織田方に討ち入ると言うに、なんたる言い争いよ。確かに落雷があったのは気掛かりではあるが、我らが今行うべきことを見失ってはならぬ。我らは織田方を一人でも多く黄泉路への道連れとし、以て勝頼様最期の時を稼がねばならぬ。』
今、この場に居る武田の兵の中で、もっとも人を斬ってきた男の一言である。小宮山も秋山も、その迫力にただ沈黙するしか無かった。
ところがその時、彼らの仲間でもある"阿部加賀守"が斥候から戻ってきて思わぬ話をしてきたのである。
『皆、織田方の様子がおかしい。何やら騒いでいる様なのだが詳しくは分からぬ。当初の予定通り、四郎作の地まで前進し、織田方を視界に入れようと思うのだが。』
どういう事かよくわからないという表情を浮かべる三人に対し、阿部は『織田方の兵の先鋒が居る場所の側に落雷があったらしい。その後、何やら騒ぎが起きている様なのだ。』と、重ねて述べるに至り、三人は四郎作に進出する事を決意する。
元々、先手を打って四郎作で迎撃するつもりだった武田の手勢凡そ四十三人。各々が今日を自らの命日と心に決めこの地に踏み込んでいた者達であった。面構えが違っており、まさに最期の精鋭と呼ぶに足る男達であった。
その時、織田方の先鋒隊の陣屋前に落雷があった。
驚く足軽達は、その落雷があった場所に人の姿を確認する。しかも、その人影はその時代の人間と比して極めて巨大に見えたという。
比較対象としては、この頃はまだ知名度が無かった"藤堂高虎"が巨漢だったというが、その高虎に比するくらいには大きな人物の影が土煙の中に見えていたのである。
足軽達の中で少し地位が高い"足軽組頭"の男が『そこにいるのは誰だ! 我々は織田信長様の率いる軍の者である。我らはこれより武田勝頼一党を討ち取りに行く。そこのお前が何者かは知らぬが、邪魔をしなければよし。もし、邪魔立てをするならば、他の者達と同じ運命を辿ってもらうぞ!』と叫んだ。
すると、土煙の中に居る存在の方から『織田信長? 武田勝頼? 何を言っているかわからない。それより他の者達とは誰だ?』と逆質問をしてきた。
その声を聞き、足軽組頭は『ん? 女の声か? 我らが大殿、信長様を知らないとは変な奴だ。そして、武田勝頼も知らぬのか? 地元の民ならば知っているだろうに。まあ、それはそうと、新たな支配者たる信長様に逆らう者達の事だ。元武田の武士、そして反抗的な農民町人達など、奴らは未だに武田信玄を慕っているみたいだが、新たな統治者の秩序にそぐわぬ者などいらぬのだ。』と語り、最後に……
『信長様の天下布武とは、まさにはやり歌にある"泣かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス"を体現なされておられる。我らに逆らうという事は、つまり信長様に逆らう事と同じなのだ。そこの……声を聞く限り娘であるなら、我らに従う事が身のためということだぞ?』
……と述べるのだが、その物言いが実に傲慢さを含んだ物であった事が、土煙の中の存在の心に強い違和感を抱かせる事となった。
『泣かなければ殺す? 何を言っている? つまり、逆らうなら消す……か。』
こう小声で呟いた、次の瞬間。立ち篭る土煙が突如として吹き飛び、足軽組頭が吹き飛ばされそうになった。
その代わり、背後の詰所の天幕が空高く吹き飛ぶこととなったが。
そして、足軽組頭を始めとするその場に居た者達は、土煙が消えたあとに立っている人物を見て、複雑な思いを持つ。
そこにはあまりにも見慣れない衣服を身に纏う身の丈何尺か分からない巨女が立っていたのであるが、 その瞳の色はよくある黒目ではなく、また、髪の毛の色も異なっており、何より特徴的なのは、頭頂部に角を思わせる髪の毛の変化した部分が鎮座をしていた事であった。
コレを見て、誰彼と無く『ま、まさか、天目山の山姥か? もしくは鬼だとでもいうのか!?』という声が聞こえてきたのである。
そう、言われる側となった巨女――つっちーこと紬花――は、騒ぎを知って集まってきた織田方の者達と、逆の方向から現れた少数の男達の存在を認識する。
そして『お前達織田と言うのは、大人数で一握りの人数を殺すことなのか? だとすれば、私は"土の鬼の王"として、お前達織田を蹴散らす必要がある。向こうから来る者達が対等に戦えるくらいまで、潰させて貰う。』と、普段の口調からは考えられない言葉を連発したあと、おもむろに何処から持ち出したか解らない土色の金棒を右手に握ると、そのまま織田方へと一歩、また一歩と近づいて行く……
四郎作の地まで到達した武田側の面々は、自分達の数倍は居るであろう織田方ににじり寄る一人の巨女の存在を確認する。
初めに見つけた阿部加賀守が『あの娘、斥候として見た時とは雰囲気がまるで違う。一体何があったんだ?』と述べている。
それはそうと、その巨女が一歩一歩と織田方に近づくのに合わせて、織田方の足軽達が一歩一歩下がるという意味不明な事態に、阿部加賀守は『土屋殿、小宮山殿、秋山殿、今なら不意を突いて織田方に手傷を負わせることができるやも知れませぬぞ? あの者を押し立てて、乱戦に持ち込めば、時は稼げます。』と述べ、攻撃を仕掛けることを進言したのである。
確かに織田方の足軽達は、底知れぬ威圧感を受けて下がり続けている。
とはいえ、いずれは他の場所にいる織田方の者達が駆けつける事は明らかであり、何もしないで見物するという選択肢は無かったと言える。
そこで面々は人数を二手に分け、巨女の両脇から廻り込む形で、織田方の先鋒を斬り倒す事を決める。
土屋、小宮山の隊と、秋山、阿部の隊に分かれ、素早く動く事を決めると、土屋の口から『皆、これが甲州武田の武士の最期の戦じゃ。だが、無駄死にはするな。死ぬならば、織田方に恐怖を刻み付けて前のめりで倒れるのだ。かつて、信玄公存命の時の三方ヶ原の戦いでの徳川方の者達が前のめりに死んだように、敵に背を向けて死ぬは恥ぞ。改めて、甲州武士の意地を見せようぞ!』という発言がなされ、一同無言ながら一度だけ頷き、それぞれ別れて動き出す。
一方、巨女の威圧感に圧されていた織田方の足軽達だったが、突如として鬨の声が聞こえたと思った瞬間、巨女の両脇側から武田の決死隊が躍り出るように現れ斬り込んできたのである。
紬花は自分の両脇を通り抜け、織田方の足軽達に襲い掛かる男達の眼差しを間近で見た。その瞳はこれから死ぬかも知れないのに、何処か迷いのない物だったと、後日語っている。
武田方の奇襲を受けて、その場を守っていた織田方の足軽達は混乱しながらも迎撃を行う。
かつて、甲州兵一人で尾張兵三人分の強さがあると言われた頃ならいざ知らず、この頃の織田方の兵も、信長が"兵農分離"を行った成果として、専業兵士としてそれなりに強くなっていた。
そのため、始めこそ奇襲に混乱気味だった織田方も次第に体勢を立て直していく。その上、騒ぎに気づいた他の場所の兵たちも駆け付けて、数的優位を確立しつつあった。
そんな中、次々と集まる織田方の兵たちを前に、一人、また一人、武田の男達が倒されていく。そんな光景を目の当たりにして、紬花が遂に動く事となる……
『言葉で、止められない。いづるなら、力を示して、止める。なら、土の鬼の王として、今、やれる事を、する。』
そう思うと同時に、紬花は動く。真っ先に狙ったのは互いを守る様に戦っていた秋山と阿部に襲いかかろうとしていた複数の織田方の兵たちだった。
突然動き出した巨女が間合いを詰めた次の瞬間、織田方の兵たちが空高く吹き飛ばされていた。
これを見た秋山と阿部は一瞬自分達が戦場にいる事を忘れたくらいであった。だが、驚くのはまだ早かったのかも知れない。
彼ら二人の前を走り抜け、その巨女は次々と織田方の兵たちに襲い掛かる。得物は土色の金棒一本。だが、その巨女はそれをまるで柳の枝の如く軽々と振り回し、織田方を蹴散らしていく。
巨女の行動と攻撃に、織田方は半恐慌状態となる。なぜなら、単なる横薙ぎだけで数十人の兵が一度に吹き飛ばされるという事が連続して起きていたからである。
そして更に恐るべき事は、金棒で地面を叩いた時であった。何と、叩いた部分より先が直線的に地割れを起こしたのである。当然ながら、その場にいた織田方の兵たちは、その地割れに飲み込まれた。
その文字通りの鬼神の如き暴れぶりに、秋山は『天目山の鬼の化身なのか? あの者は。まるで織田方の兵が赤子扱いではないか。』と感嘆の一言を述べ、阿部加賀守も『よもやこの地に斯様な者が居たとは。もし早く知っておれば、何とか説得して味方に付けられたものを……』と、こちらは少し無念さを滲ませた一言を口に出していた。
一方、土屋と小宮山の隊も、織田方の次々と現れる兵を前に、一人、また一人、と倒れていた。
しかし、かつての徳川の兵の如く、織田方の本陣の方に頭を向けて倒れており、彼らが決して逃げようとか考えていた訳では無い事を物語っていた。
そんな二人の隊も乱戦に近い状態となり、土屋と小宮山は互いの位置も分からなくなっていたという。
もっとも、土屋の方は片っ端から織田方の兵を斬りまくっていたらしく、そこは片手千人斬りの異名の通りの猛将ぶりを見せていた。
一方、小宮山の方は少ない味方の兵と共に織田方に取り囲まれそうになっていた……が、そんな彼らに天は味方した。
同じように暴れ回っていた紬花が丁度通り掛かり、小宮山の隊を取り囲もうとしていた織田方を吹き飛ばしていったのである。
その際、紬花は一度足を止めて、自分を見る小宮山に問い掛けた。
『この戦いは、どうすれば終わらせる事ができる?』
この問いを受けて、小宮山はちょっとだけ考えると『織田方の討伐軍の本陣を叩くしかない。少なくとも、本陣と、指揮を執る者を排除できれば、あとは雑兵と言えなくもないのだ。』と返している。
それを聞いて、小宮山の目の前の巨女は本陣は何処か?と訊ねる。彼は『恐らく大将を示す旗指物があるはず。ここに来るまでの状況から、討伐軍の指揮は織田方の将である"滝川一益"が務めているだろう。』と答えると、巨女は『分かった。その滝川、倒せばいい。それで良いか?』と述べたので、小宮山も『そうだ。少なくとも滝川を討ち取るなり何なりすれば、この織田方の軍は退かざるを得なくなる。』と述べる。
その話を聞き、巨女は滝川の陣へと向かうべく動こうとしたのであるが、その時小宮山から『娘……でよいのか? 何者かは知らぬが、名を聞きたい。拙者は小宮山内膳正友信と申す。』と、自己紹介をすると、彼女は『つむは、漢字で記すと紬の花と書いて紬花。』とだけ答え、そのまま織田方がわんさかいる方へと向かって行った……
一方、勝頼達が居る場所では、近くの高い木の上にいづるが登り、戦場の方を見ていた。
望遠鏡のようなものが無かった時代ではあるが、いづるが鬼力を視力強化に回したため、鳥居坂から四郎作辺りの状況が見えていたようであった……
「少人数側が斬り込んで行ってるなぁ〜。あれが武田側って事か? だけど、あれじゃ周りから織田側の奴等が殺到してきて潰されてしまうかも知れねぇ……」
「東雲さん、貴女一人が知っても、こちらが分からなければ意味がありませんことよ? もう少し解りやすく説明して下さいまし。」
「北畠さん、東雲さんがあの状態じゃ、まともに説明なんて無理だと思う。通訳とは言わないまでも、だいたい理解してそうな人に聞かないと……」
視力強化されたいづると異なり、とものやかずさはその点では一般人である。二人がいづるの話を聞いて理解に苦しむ中、後ろに控えていた勝頼と信勝の両者は、その話を理解していた……
「父上、いよいよ始まってしまいました。土屋や小宮山、秋山、阿部殿達は無事なのでしょうか?」
「信勝、我が方が数的不利なのは木の上に登ったあの娘の言っておる通りだろう。機先を制して仕掛けたのは土屋達の判断だろう。とはいえ、いずれは数で勝る織田方にすり潰されるやも知れん。」
「父上、では我々は……」
信勝がそこまで口に出した瞬間、木の上に登っていたいづるが『安心しろ、つっちーの奴が動き出している。数の少なさは覆せないが、鬼の王が動き出した以上、状況をひっくり返せるかも知れないぜ。』と語る。
唐突に鬼の王という単語が出てきた事に、目を白黒させる信勝であったが、勝頼からすればたとえ鬼の王と呼ばれる者でも助けてくれるなら、助けてもらいたいと思っていたのである。
この時、勝頼にせよ、北條夫人にせよその場に居る武田家の関係者の中で、僅かであるが奇跡や希望が芽生えつつあった。
しばらく木の上で状況を見ていたいづるだったが、その内彼女の中のやんちゃ坊主的な物が我慢する事を拒否しだしたのか?
遂に『よ~し、折角だからアタシもあのドタバタに参加してくるか!』と叫ぶなり、その木の上から飛び降りてきたのである。
この時、勝頼や信勝達は我が目を疑っていた。明らかに人が飛び降りるには高すぎる木の上から飛び降りたいづるが、全くの無傷である事に。
これには流石に信勝が『待て、一体どういうからくりだ!? 飛び降りてなんともないのか!?』と叫び気味に問いただすと、いづるは一言……
『あ、え~と、その、何だ……要するに"良い子のみんなは真似をしちゃだめだぞ"って事で良いか? 多分、そこの若様が同じ事をしたら全身複雑骨折で死ぬかも知れないからな。』
……と、こんな事を宣い、続けて周りの知り合い連中に『ちょっとつっちーのトコに行ってくるから、此処の守りは鹿野郎と火倉さんに任せるわ。あと、ポンコツ神はお花畠ともろもろの事を頼むわ。』と述べると同時に、鳥居坂・四郎作の方へと向けて曲線を描く様に飛び立って行ったのである。
その、あまりの早業に、モノを言う暇もない面々であったが、唯一サーナだけが『やれやれ、あやつは幾つになっても変わらなさそうではあるな。そして、何気にポンコツ神言うでないわっ!』と、最後は語気を強めにしつつ呟き、ふらっと勝頼達の側に移動してきていた。
そして、ここでサーナは『さて、勝頼と申したか? お主……"ニニギ"の末裔じゃな? しかもそれだけではあるまい。そっちの娘(北條夫人)も、同じモノを感じ取れる。』と、明らかに分かる者にしか分からない事を口走ったのである。
その一言を聞いて、驚かない勝頼ではなかった。
即座に『ニニギとは"ニニギのミコト"を指しているな? 古の"神武帝"の祖と言えるお方であり、天孫でもあられる。そして、我ら甲斐武田家は"清和帝"の皇子を祖とする一族でもある。更に亡き我が母は、諏訪大社を護りし"大祝"の一族の出身でもあるのだ。』と答えている。
それを聞き、サーナは無言で頷いていた。あたかも始めから知っていたかのようであったが、当事者から直接聞かねばならないと思っていたため、ワザと勝頼の口から説明するように誘導したとも言える。
そして、北條夫人もまた、その祖は"桓武帝"を祖とする"平氏"の流れを汲む"伊勢平氏"の傍系である"伊勢宗瑞(北條早雲)"の曾孫でもあり、実父氏康の母方の祖は、かつての鎌倉幕府を指導していた"北條得宗家"の流れを汲む一族でもあった。
この血縁的な関係が、サーナを見た時に感じた不思議な感覚と強く絡んでいる事を知るのは、この時よりしばらく後の話である。
さて、いづるが飛び出して行ったのを見て、信勝もまた武士としての意地から、自ら戦場に向かおうと思っていた。
折角、先祖伝来の甲冑を身に纏う以上、武士として戦場に出るのは本懐と言えた。
そして何より、自身とそんなに歳が違わない娘がまるで嬉々として戦場に赴いて行ったという事実が、信勝の心に対抗意識的な物を生じさせたともいえたのである。
もっとも、そんな血気に逸る信勝を止めた者がいた。
それは、恐らくこの場にいる者達の中で一番弱いと思われる"北畠ともの"であった……
「信勝様? 僭越ながら、戦地に行くのはお止めになられた方がよろしいかと思いますわ。」
「なっ!? 北畠の姫君、貴女が止めるのは分かる。だが、それがしとて武田の武士、武田家の男として何もせずしてのうのうと生き長らえては……」
「恥ではありませんわ。もしそれを恥と呼ぶのであれば、敢えて呼ばせれば良いのです。戦とは、最後まで生き残った者が勝利者ですのよ?」
「ぬっ、しっ、しかしだな……」
「案ずるには及びませんわ。今、天をも落とす勢いの織田信長。すでに、その近くには彼を天から落とす意思を抱く者がいますのよ?」
……とものの口から出た、その一言に信勝も、近くにいた勝頼も驚かない訳には行かなかった。
信長の命を奪う意思を持つものが信長の近くに居る。その一言だけで、武田親子、そして北條夫人を始めとする女官達はにわかにざわつき出す事となる。
そんなとものの側に急いで移動してきたのは、彼女の幼馴染でもあるかずさであった。彼女は『おい、流石にそれはネタバレじゃないのか?』と、暗に勇み足である事を述べる。
しかし、とものは『あら? わたくし、確かに信長の近くにそういう存在が居ることは述べても、それが誰であるかはまだ話していませんことよ?』とサラッと返している。
とはいえ、聞かされた側の信勝や勝頼としては、信長の命を狙う者が織田家中に居るという情報は、絶望的ともいえた現状に於いて、唯一の希望といえた。
現に、過去信長に反旗を翻した者は多数に及ぶ。それらは結局討伐されたものの、裏を返せば信長の支配が"人心掌握"まで完璧ではない事を示していた。
信勝は即座に『一体誰が信長の命を狙っているのだ!?』と訊ねている。これは勝頼も聞きたい事であったが、息子に先を越されたと言える。
訊ねられた側のとものは、確かに答えを知っては居るが、それをすぐに教えるべきではないとも思っていた。当然だが、それを教えたなら、いかなる変化が生じるか分からなかったからである。
そんなとものに助け舟を出したのはサーナであった。彼女は逸る信勝を制しつつ、こう述べている。
『落ち着け、甲斐源氏の棟梁予定者よ。答えをすぐに知ったのでは面白みが無かろう。まずは、この場を生き延び、その結果を待つのも一つの手よ。それに言うではないか。"動かざる事、山の如し"とな。好機を待つのも大将たるものの器量と我は思うが?』
……まさか、亡き信玄の言葉を以て説得されるとは思ってなかった信勝。『うぬぬ……』と唸りつつ、冷静に考えていた。
そして、程なく『分かった。誰が信長の命を奪う行動を起こすかは知らぬが、お主らの事をみておれば、いずれ信長は落ちるのだろう。ならば、父上達と共に生き延びて見せよう。そして、甲府に再び旗を立てて見せよう。』と、最後は力強く答えたのであった。
そんな決意を表明した信勝を見て、勝頼は『今日が最期と思い、家督を譲ることをしたが、信勝ならば武田の旗を再び甲州に立てる事が出来るやも知れん。』と、仄かな期待を向けるのであった……
一方、討伐軍の本陣にて、大将の滝川一益は、次から次へと来る報告にいかなる対応をすればよいのか、迷いが生じていた。
なにせ『天目山の山姥が武田側に与力し、味方の陣営を次々と襲い、それらを破壊し、手勢を蹴散らしながら移動している。』という、意味不明な報告に、どう指示を出せばよいのか分からなかったのである。
また、別の陣営にも別の山姥が現れて暴れ出して、やはり同様に蹴散らされているという報告も入ってきていた。
この報告の津波に、歴戦の勇士でもある一益はそこ知れぬ危機感を感じ取っていた。
そこへ討伐軍の副将を務める"河尻鎮吉"が飛び込んできて一益に『滝川殿、既に本陣近くの陣営が山姥に破られたぞ! このままではここに来るのも時間の問題じゃ。急いでここを退かねば……』と言いかけた所で、一益は『山姥一人のために武田家を討ち滅ぼせないなどと言われては、この滝川左近将監の名折れというものだ。山姥ごとき、儂の鉄砲で撃ち殺してくれようぞ!』と述べ、直ちに鉄砲衆を集める様に指示を出したのだった。
少し時は遡り、土屋惣蔵昌恒は、織田方の兵を相当数斬り捨てていた。
だが、沢山斬り捨て過ぎて、手に持つ得物の刃は刃毀れを起こし、まるで鋸のような状態となっていた。
そんな中、近くの草むらがにわかに動いた事から、新手の織田方が来たかと得物を構え直す昌恒。
だが、姿を現したのははぐれる形で別行動を取っていた小宮山内膳正友信と、彼に従う数名の兵達であった……
「おお、小宮山殿。貴殿、無事であったか。」
「そういう貴殿もよく無事であるな。流石は片手千人斬りと言われるだけのことはある。」
「ふふっ、よせよせ。最近付いた二つ名で呼ばれても、ここでくたばったならば大して意味はあるまい。それより、使える武器は持っているか?」
「武器? 貴殿、まだ斬り足りないとか思っておるのか? そろそろ予定通りに鳥居坂まで下がる時だと思っておる。すでに秋山殿や阿部殿らが鳥居坂に下がるのを目撃した。我らも一度下がるべきと思うが?」
「下がるべき……か。だが、あの娘は今も織田方の陣営を襲い続けておる。その証拠か、織田方の兵の動きが本陣方面へ向いておるようじゃ。上手く忍び込む事が出来れば……」
「ん? 土屋殿、まさかとは思うが、もしや敵将の御首を狙っておるのか? いやいやいや、危険過ぎる。」
「危険は承知の上よ。それに本来なら今日が我らの命日のつもりだったのだ。それが、あの娘の行動により、少し命数が伸びておる。ならば、そんな伸びた命数を有効的に使わねばな。」
そう語る昌恒の表情たるや、まさに獲物を狙う狩人の如き物であったとか。
こう言い出しては、彼は退かないだろうと思った小宮山、自身が持つ武具の内、まだ十分に戦闘に耐えられる刀を一振昌恒に渡している。
更に、織田方から奪った長槍の柄を半分切り落として取り回しを良くすると、昌恒は『よぉ〜し、これより土屋昌恒、敵陣に忍び込む。あわよくば滝川一益の御首を頂戴するとしよう。小宮山殿、後の事は任せたぞ。』と述べると、サッサと織田方の本陣方向へと走り去って行った。
部下の兵から止めなくてよいのですか?と言われた小宮山だったが、昌恒の性格などを考えれば止めても無駄だろうと説明している。
そして、自分達は鳥居坂まで下がり、生き残りと合流する事を告げ、早速そっちへと移動を始めるのであった……
一方、織田方の本陣では、目と鼻の先の陣営が吹き飛ぶのを確認した滝川一益が、直ちに鉄砲隊を集めていた。
そして、その土煙の中から自分達へと向かって歩いてくる"山姥"の姿を目視で確認していた……
『なんという身の丈をしているのだ? まさに人の姿をした怪物と言うべきか。しかし、コチラには鉄砲隊がある。武田の者達を長篠の露に変えた代物だ。幾ら山姥と言えども、それを受ければ倒せぬ事はあるまい……』
そう一益が語ると、彼はすぐに鉄砲隊を前に出し射撃可能な構えを採るように指示を出した。
鉄砲足軽達は、かつて武田の武士達を葬った武器を手にしている事もあり、心的余裕があった。
この鉄砲ある限り、織田軍に負けはない……という自負が、織田軍の兵達の自信となっていたのであった。
だが、その自信も余裕も、一益が射撃命令を発して、一斉射を行って程なく、一気に崩されることになろうとは、この時まだ誰も思っていなかったのである……
その時、周辺を引き裂くような火薬の破裂音が無数に聞こえた。
それを聞き、鳥居坂に下がっていた秋山紀伊守光継らは音の聞こえた方角から、織田方の本陣で何事かが起きた事を察していた。
そこへ小宮山内膳正友信が、生き残りの兵と共に合流してきた。もっとも、合流後第一声は『あの鉄砲の音は何だ? どうも織田方の本陣方向から聞こえたようだが……』というものだった。
その問いに秋山は『それは、小宮山殿も知っているのではないか? あの鉄砲の音の大きさを考えれば、少なくとも数十丁の鉄砲が一度に放たれたものであろう。』と答えている。
秋山の言葉を聞き、小宮山は『土屋殿が織田方の本陣に紛れ込むために単身向かったが、仮に彼が撃たれたとしてもあまりにも多すぎる音ではある。となれば……』と述べた所で、その場に居た秋山、小宮山、阿部の三人の脳裏には織田方に向かって行った一人の娘の姿が過る事となる。
しかし、いくらあの娘一人を殺すために数十丁もの鉄砲を用いるものだろうか?という考えもあった。
なぜなら、織田方の将である滝川一益は個人としても鉄砲の使い手としてそれなりに有名であった。
その力量を考えれば、彼が直接狙撃したとしてもおかしくはないのである。だが、先ほどの鉄砲の射撃音は明らかに数が多い。
考えても答えが出てこない三人。そんな時、鳥居坂に思いもよらぬ人物達が現れる。
そして、その中には、彼らが守らねばならない存在も含まれていたのであった……
「小宮山、秋山、阿部、そして他の者達よ。よく、生きて戻ってきてくれた。」
「なっ!? か、勝頼様。それに信勝様まで。なぜ、こちらに? ここはまだ危険な場所です。」
「秋山、落ち着け。我ら甲斐武田にはどうやら天佑が与えられたようだ。そうだな、お客人達。」
心配する秋山に対し、その心配を制しつつ、勝頼は一緒に来た"闖入者"達を紹介し始めた。
だが、その話はその場に居た家臣達にもちんぷんかんぷんな内容であった。唯一分かったのは、北畠の姫君が来たということだけであった。
『奥の方で待っていては、状況が分からぬでな。そこで皆を連れてここまで出て来た。危険な事は承知しているが、少なくとも"客人達"が一緒にいる限りは我らは無事だと言えよう。』
そう語る勝頼の声色は、前日までの"明日が最期"という事を感じさせるものではなく、まるで勝ち戦を確信した時のような力強い声色であった。
そして、改めて勝頼は周りを見て『四十三人居たが、既に半数以上が旅立ったか。本来なら、我らも彼らの後を追うはずであった。しかし、状況は変わった。旅立った者達には悪いが、もうしばらく現世に留まろうと思う。皆もそのつもりで居てくれ。』と述べると、その場に居た武田の武士達は片膝を付きつつ一斉に『御意!』と答えたのであった。
―― 時は再び進む。
数十丁の鉄砲の轟音が聞こえた時、土屋昌恒は手短に居た織田方の兵を斬り捨てていた。
『……ん? 何だ! 織田方の本陣から多数の鉄砲の轟音が聞こえるとは。まさかとは思うが、あの娘の身に何かあったのか?』
そう思った昌恒は、急ぎ織田方の本陣を目指そうとしたのであるが、運悪く同じ方向に進んでいた織田方の部隊と顔合わせしてしまう。
流石に百人単位の部隊であったため、昌恒も『ここまで来て、これほどの数の兵と鉢合わせとは。どうやらここが儂の死に場所か。まあ、ならば、一人でも多く道連れにするのみ!!』と覚悟を決めると……
『我こそは武田勝頼が臣、土屋惣蔵昌恒なり!! 我が首を獲って手柄とするが良い。だが、ただではくれてやらんぞ。覚悟あるものから掛かってくるが良い!!』
……こう名乗りを上げて、彼らの動きを止めたのである。
当然の事だが、織田方の兵らも相手がそれなりに名のしれた武士である事を知っていた事から、誰と無く『あの者を討ち取って手柄といたせ!』という声が出たのであった。
そして、昌恒を取り囲もうと、動いた……まさにその時だった。
『ちょっと待ったぁ〜。そこのオッサンを倒したければ、まずはアタシを相手にしてからにしやがれスットコドッコイ共ぉ〜。』
……あまりにもその場に不似合いな台詞と共に、何と空から降りてきた。いや、落ちてきて、周囲に衝撃波を撒き散らした人物がいたのである。
それは誰あろう、東雲いづるその人であった……
『うぬっ!? 空から落ちてきただと? お主、一体何者だ?』
衝撃波によって生じた土煙をものともせず、昌恒はその人物に話し掛けている。
すると、その娘はこう答え、そのまま会話の流れに持っていった。
「おいおい、そう目鯨立てなくても良いだろオッサン。アンタの事は、武田の本陣から見えてたからだいたい解ってる。それより、随分と沢山のお客様だな、こりゃ。」
「お客様ではなくて織田方の者達だ。って、なぜ、儂が説明せねばならんのだ? 全く調子が狂わされる。それより、武田の本陣という事は、勝頼様達と同じ場所に居たという事か?」
「おう、その通りだぜ。そして……ああ、自己紹介してなかったな。アタシは東雲いづる。見ての通りの"闖入者"ってところだ。ところでオッサン」
「オッサンではない。土屋惣蔵昌恒だ。」
「そーぞー? よく解らんが、今から織田とか言う奴らの本陣とかいう所に行くんだろ? 丁度アタシもそこに用事があって向かっていたところだぜ。」
「何っ? お主も織田方の本陣に?」
……いづると昌恒の会話の間、半ば傍観していた織田方の兵達だったが、本陣に向かっていたという話を聞き、すかさず臨戦態勢を整え、二人を包囲してしまう。
この状況に昌恒は『ちっ、こうなったら血路を開いてでも織田方の本陣に行かねば。あの娘も既に行っているハズ。』と語ると、いづるの方から『あの娘? ああ、つっちーの事だな。アンタやアンタの仲間に加勢しているところまでは確認済みだ。まあ、だからこそアタシも出て来たわけだが。』と言葉を返している。
その一言を聞いて『東雲と申したな。お主、あの娘の知り合いか?』と尋ね、いづるは『そうだぜ。』と即答している。
その上で更にいづるは『とりあえず細かい話は織田の本陣とかに行く過程で話せば良いや。とりあえずその前に、この包囲して勝ったと思い込んでいる連中に少し退場して貰うとしますか。』と述べ、おもむろに右手を突き出して、軽く横に振る。
次の瞬間、織田方の兵の一部が突然姿を消したのである。これには昌恒も驚いたし、包囲していたはずの織田方も驚く事になる。
だが、その驚いていた他の織田方の兵も、いづるが軽く腕を振るい続けた結果、全て消えてしまったのであった。そして、その場にはいづると昌恒だけが残されたのだった……
『一体全体どうなっている? 少なくとも百人単位の兵が、ただ腕を振るっただけで、何の予兆も無く消滅するとは。この東雲という者、あの娘の仲間らしいが、だとすれば此奴も"天目山の山姥"か何かか?』
このあまりの出来事に、昌恒は内心恐怖を覚えたという。
そんな昌恒の内心など知る由もないいづるは『とりあえずこんなものかな? "無明限穴"の中に入れておけば、こちらの意思で出さない限りは出る事自体不可能だし。これで織田の本陣とかに行けるってもんだ。』と、ケロッとした感じで軽く述べている。
その発言に、昌恒は『無明限穴だと? まさかこの娘、神隠しが使えるとでもいうのか!?』と内心更に驚くのでもあるが、そんな暇はなく、いづるが『ほれオッサン、サッサと本陣とかに行くんだろ? つっちーも行ってるだろうし、何か酷い音も聞こえたから、早く行くに越したこと無い。』と述べ、本陣の方へと急ぎ足で向かい始める。
そのいづるの姿を追うように昌恒も急ぎ足で後を追う。この過程で、昌恒はいづるが既に織田方の手勢を幾らか潰してきたという事を知る。
そして、勝頼達は自分の仲間が守っているから、天変地異が起きても大丈夫だとサラッと言ってのけたのだった……
『勝頼様達は無事。そしてそれを守るは東雲と名乗る小娘の仲間。つまり、あの娘の仲間でもある。という事が。少なくとも"超常"の力の使い手達が守っているなら、こちらも心置きなく織田方本陣に向かえるというものだ。』
昌恒はこの様に思い、何時死んでも構わないという覚悟を新たにしていた。
もっとも、先を行くいづるは昌恒を基本的に死なせるつもりは無かったようであるが……
その時、滝川一益は勝ちを確信していた。
部下の鉄砲足軽達による一斉射撃で、目と鼻の先に居た"天目山の山姥"を蜂の巣にした。
そう、蜂の巣にしたハズだった……
『これが、この時代の武器。だけど、土の鬼の王には効かない。前に"ジャンヌ"を助けた時もそうだったけど、人間、愚か過ぎる。……お前達、使う物、大地より掘り出した物を加工したもの。つまり大地より生まれた物。土の鬼の王は"土より生まれし物を司り、統べる"。お前達の行いは、無意味だ。』
……そう語りつつ、さらに一歩、また一歩進む娘の足元には、火縄銃の玉が無数に転がっていた。
それが意味するのは、紬花の皮膚を火縄銃の玉が穿つ事が出来なかった事を示していたのである。
この事実を前に、鉄砲足軽達の表情が驚愕から恐怖の色へと変わるのに時間は掛からなかった。
そして、その限界を超えた足軽の一人が『ば、化け物だぁ!! に、逃げろぉ!!』という一言を発したのを皮切りに、一気に鉄砲足軽達が、その場から逃げ出し始めたのである。
これには一益も『狼狽えるな! 一回効かないからといって、それで逃げ出すとは何事だ!!』と激を飛ばしたものの、既に足軽達の混乱を収めることができなくなっていた。
それを示すように河尻鎮吉も『滝川殿、アレはやはり天目山の山姥。いや、鬼に違いない。すぐに逃げねば我らも食われてしまうぞ!!』と、恐怖から言葉を発したのであるが、一益はそんな河尻に拳骨一発を見舞い、合わせてこう指示を出す。
『河尻っ! すぐに残存兵を集めて甲府寄りの場所に再度布陣しろ! その上で甲府におられる信忠様の指示を仰ぐのだ。急げ!!』
そう述べると、一益はまだ未使用の火縄銃一丁を持ち出して山姥の目と鼻の先に向かう。
彼の狙いはただ一つ。普通に射撃して傷すらつけられないなら、限りなく至近まで迫って、相手の頭部を直接撃ち抜く。
厳密には、眉間を狙う事を目指したのである。
紬花は、自分に向かって走り込んで来る一人の武士の姿をの目にする。
しかし、その男……滝川一益は、言葉を交わす考えはなく、兎に角間合いを詰めて眉間を狙撃する事だけを考えていた。
その無防備にして無謀な突進に、紬花は反応が遅れてしまう。
よもや人間の身で、鬼の王に正面から突っ込んでくる者など基本いないと思っていた節があったからである。
皮肉なことに、その認識が一益には都合が良かったと言える。もっとも、一益自身は狙ってそういう動きをしたわけではなかったのだが。
そして、間合いを詰めた次の瞬間『この間合い、絶対に外さん!』という言葉を発した直後、再び火縄銃の発射音が響いたのであった……
いづると昌恒がその場に到着したと同時に、火縄銃の発射音が轟いていた。
二人が見た光景。それは、火縄銃を持った武士が、敵とした巨女の眉間の間近に火縄銃の発射口を近づけていた物であった。
その火縄銃の発射口からは、発砲による硝煙が出ており、既に火縄銃が放たれた後であることが解る。
その光景を見た昌恒は『しまった、遅かったか……』と語り、火縄銃を放った人物の方を強く睨み付ける。
だが、いづるは全く異なる反応を示していた……
『落ち着けオッサン。良く見てみな、確かに火縄銃は放たれたみたいだが、つっちーは小揺るぎもしてないぜ?』
隣の小娘がそんな事を言ったため、昌恒は改めて紬花の方を見た。すると、紬花の頭部は撃ち抜かれたようには見えておらず、むしろ仁王立ちの状態であった。
そして何より、その額から何かが紬花と一益の間の地面に落ちるのが見えた。それは火縄銃から放たれた鉛の球だったのである。
『なっ、何だと!? この距離まで迫っての射撃だと言うに。皮膚すら抜けぬとは……』
至近まで接近しての射撃を行った人物……滝川一益は、己の目で見た事実に愕然としつつ、急いで身を翻している。
その引き下がる姿を見て、紬花は特に感慨にも耽ることは無かった。ただ、額の辺りを手で擦りつつ『うん、ちょっと痛いかな? けど、そこまでも無いかな?』と呟いていた。
そんな紬花へと駆け寄る二人組の人物が居た。いづると昌恒である。
彼らはすぐに彼女の側に達すると『お~い、つっちー無事かぁ〜……って、無事みたいだな。善き哉な善き哉なって奴だな。』と、軽口を叩く。
一方、昌恒は『あの至近で銃撃を受けて、手傷が殆ど無いとは……。その前の大量の銃撃音もお主を狙ったものなのだろうが、その様子だと大したことは無かったのであろうな。』と語る。
それを聞いて、いづるは『オッサンも解ってきてるじゃねぇか。このつっちーにせよ、アタシや他の仲間にせよ、そうそう簡単にはブッ殺せないぜ?』と、我が事のように話すが、直後『いづる、今日はなにかした?』と、紬花から突っ込まれ、慌てたいづるは今日の自身の出来事を軽く話した。
その内容は聞いていた昌恒も呆れるモノだった。織田方の兵を千人位は撃破済みという話は、自身の片手千人斬りに比する代物と認識していた。
しかも呆れていたのは、それを僅かな時間で行ったと思われる事であった。彼自身は数日間戦い続けた結果としての千人斬りだったので、その時点でいづるが異常な存在だと認識するしか無かった。
そして、紬花はいづるに『なら、今日は、私の勝ちだよ。数は数えてないけど、ここに来る迄にその数の倍は潰した。』とボソッと語る。
その答えに『マジですか。今日のつっちーは絶好調過ぎる。』と、一言だけ述べるいづるだった。
一方、身を翻して後退していた一益の耳にも彼女らの会話内容は聞こえていた。
その上で彼は戦慄する……
『あの巨女が少なくとも二千、もう一人の女が千人!? ま、まずい、信忠様から預かった四千の兵の内、最低でも三千は失ったと言うのか!?』
絶句しつつ、一益は周囲を素早く見回した。
既に河尻に撤退しつつ、兵を纏めるように命じていた関係から、本陣に詰めていた兵も逃げ出していた。
だが、本陣以外の無事な詰所の兵すら居なくなっていたのである。当然、無事ではない詰所の兵達の運命は語るまでもなかった。
ここに至り、一益は進退をどうするか考える事となる。
だが、そんな一益に考える暇を与えない人物がいたのであった……
「貴殿が滝川一益殿だな? 我は武田勝頼様が臣、土屋惣蔵昌恒。ご貴殿の御首を頂きに参った。お覚悟召されよ。」
「勝頼の家臣がここまで来るとは……。織田信長公が臣、滝川左近将監一益。逃げも隠れもせぬ。かくなる上は、貴殿だけでも討って、武人の本懐を遂げん。」
「潔い覚悟であるな。流石は信長家臣の中でも名のしれた男よ。では、尋常に……」
昌恒が『尋常に勝負』と発するより前に『ちょっと待った! 流石にこれ以上の流血沙汰は如何なモノかと思うぜ?』と、止めに入った者がいた。
それは、誰でもない。東雲いづるであった……
「東雲殿!? なぜ止める? これより某は滝川殿と……」
「命のやり取りをするんだろ? んな事は解ってるさ。だけど、必ず勝てるとは限らないだろ? なにせ、アタシらは手出しはしないから。」
「んんっ!? 加勢しないと言うのか! なぜだ?」
「そりゃ、答えは簡単。アタシにせよ、つっちーにせよ、手出ししたらすぐに終わるからだよ。そんなのは武士の誇りとかいうやつ的に納得いかねぇだろ?」
いづるからの"不介入宣言"を聞き、昌恒は少し考える。
確かに彼女らの加勢を得れば、一益を倒すのは容易い。しかし、それではいづるが言った様に、自身の武士の誇りにも関わる物であった。
そして、それは一益も同じであった。あれだけ猛威を振るった存在が武士の誇りを重んじて手出ししないと宣言した事は、一益の武士としての誇りを尊重するという意味だったからである。
本陣の自分が座っていた席の側に置いていた一振りの鉞を持ち出すと、一益は再び三人の近くに立ち戻って来ていた。
その姿を見て、殺る気がある事を確認した昌恒は『ふふっ、どうやら中々な業物を持っておる様だな。まさに相手にとって不足無し。』と発すると、一益の近くへと駆け寄り、互いに間合いを詰め始める。
だが、そんな二人の間に再度割り込むいづる。突然の事に驚く二人を差し置いて、彼女はこう告げた……
『言っただろ、流血沙汰は如何なモノかとって。だが、それだとアンタ達が納得しないだろうから、それに見合う場所を今から用意してやるぜ。』
このセリフの意味するところを、昌恒も一益も理解出来なかった。そして、実は紬花も理解していなかったのである。
なぜなら、この後いづるが見せることになる行動は、この時点でやっと完成されたばかりの"結界術"だったからである……
『それじゃ〜、初お披露目と参りますかっ! これが"特装封鎖結界、"神隠・極式"だぜぇっ!!』
いづるの前方空間に突如として穴が出現。
そこに彼女が腕を突っ込み、次に腕を引き抜いた時、その手には"五角五面の金棒"が握られていた。
目の前の出来事に唖然とする昌恒と一益を横目に、いづるは持ち出した金棒の柄を逆手に持ち替えると、金棒の尖端にあたる部分を勢いよく地面に突き刺した。
次の瞬間、昌恒と一益、そして紬花の目に見える空間がまるで色を失う様に変化していく。
それは、全てが琥珀色に染まるとでも言うべき変化であった……
『な、何だと!? これは某の目の錯覚か? それとも幻術のようなものなのか!?』
……思わず先に口に出した昌恒だったが、それは一益も全く意見を同じくしていた。
そして紬花は『ん? これは……。周りから命の気配、消えている。いづる、何をした?』と訊ねるほどであった。
三者三様に驚くサマを見て、満足するようにいづるは語る。
『神隠・極式。あのポンコツ連中が使ってる"阿頼耶識"とか言う結界術をアタシなりに改良した代物さ。甲式から始まり、乙、丙、丁、あと戊己庚辛壬癸と来て、遂に完成させた。ゆえに極めたって意味で極式なのさ。』
その後、いづるはこの結界の内側ならいかほど死んでも、結界解除で死亡という事実が無効化する。しかし、死んだ記憶だけは強く残るなどの特性を説明している。
その話を聞き、紬花は『そういえば昔、いづる、サレナ姫助けた時、まだ丁式までしか使えなかった。けど、その時とそんなに違わない様に思う。何が違う?』と思っていた。
だが、そんな紬花の考えを読んだかの様に『この極式、これまでの代物とは汎用性が桁違いだぜ? なぜなら、これまでの代物は範囲が限定されていたけど、この極式に範囲はねぇ! つまり、アタシがその気になれば"世界丸ごと写し取れる"んだからな。まあ、別の言い方をすると"即席天地開闢"らしいけど。』と告げている。
即席天地開闢という単語に、昌恒、一益、紬花は各々驚きを露わにする。
紬花はまだ驚きを抑えていたが、残りの武士二名は、神話の話のような行為を目と鼻の先に立つ金棒持ちの少女が行った事に戦慄してしまったのだった。
そして、そんな二人の武士にいづるは『さて、そろそろ武士の誇りとかを賭けて勝負してもらおうか。勝敗はどちらかが死ぬまで。ただし、命が無くなるというより、心が死ぬまでだけどなっ!』と、煽るように告げたのである。
その少女の挑発的発言に、昌恒は『心が死ぬまで、か。……ふふっ、面白くなって来たっ!』と、殺意を露わにした瞳で一益を見た。
一益もまた『この娘が納得する決着の付け方をせねば話が進まぬという事か! こうなれば、どこまでも付き合ってやる!』と心の中で吠えると、手に持つ長柄の鉞を二三度振るい、先手必勝とばかりに昌恒へと斬り掛かったのであった……
一方、鳥居坂では、小宮山達武田家の生き残りの者達と、勝頼、信勝、北條夫人と女官達が得体の知れない気配を感じていた。
実は彼ら、神隠・極式の展張時の空気の変化に気づいていたらしい。特に勝頼は強く感じていたのか?『何だ?、この周りに纏わりつく空気の質は。まるで何かが皮膚に貼り付いているような、そんな感じだ。』と述べるほどであった。
それを聞いて、サーナが『流石はニニギの末裔にして、諏訪の者の末裔よ。汝がこの場の者でもっとも"いづるが展張した結界術"に反応しておるな。』と、何やら満足するかのような発言を放っていた。
それとは別に、当代の水の鬼の王たる"水梨鈴鹿"は『東雲の奴め、どうやら最近完成させたと豪語していた結界術を早速使用したようだな。使う機会を探していてウズウズしていたなアイツ……』と愚痴気味に語るのだが、この場に、いたもう一人の鬼の王、火を司る者である火倉さん ―― "火倉丁火" ―― は『落ち着け水の。こういう時でも無ければ使う機会が中々無いという事なのだろう。それにこの事は彼処に居るサーナ殿も承知していると思う。』と述べ、特に気にするまでもないと言わんばかりであった。
他方、北畠ともの、諸岡かずさの両名は、この変化にやはり気づいており……
「かずささん、貴女ならわたくしよりもハッキリと解るんじゃなくて?」
「う~ん、まあ確かに。さっきから、東雲さんの気配が現れたり消えたりを繰り返しているね。」
「消えたり現れたりの繰り返し。なるほど、それが東雲さんが創作した結界術なのですね。そして、消えたり現れたりの繰り返しという事は……」
「前に聞いた通りなら、その度に"誰かが死んでいる"。そしてすぐに死んだ事が無かった事にされている。だけど、死んだ事だけは覚えている……だっけ?」
「ですわね。中々えげつない術を生み出したものですわね。しかも、今使っている術の最大範囲……わたくし達が居る世界丸ごとなのでしょう?」
……そう語りつつ、とものは少し呆れた表情を浮かべていた。友人関係を築いて既に3年余りを過ぎており、いづるという人物の事は一通り把握しているつもりではあるものの、今回のように秘密裏に新たな術を編み出していた場合、予測ができないというのが現状だったようである。
しかし、もう一人の友人であるかずさはと言うと、とものよりは"非常識"の側に近い人物であったため、この事態に対して内心はともかく、表向きは特に驚いている感じは見せなかった。
……既に一騎討ちが始まって一刻近くが経過しようとしていた。
昌恒と一益の戦いは殺し殺されるの応酬となっており、その都度、神隠・極式を解除、間を置いて再展張を繰り返していた。
その度に疲弊する二人であったが、この時代の武士の誇り……いや、並外れた精神力が、互いを殺している、殺されているという状態。そして、それを記憶として刻み込まれている状態に陥りながら、なお戦い続けていたのである。
だが、そんな状態も永久的に続くものではない。いづる本人や鬼の王ほどの存在ならばともかく、単なる人間がそんな状態を続けていれば、いずれ精神が擦り切れてしまうのは自明の理だった。
そして、八度に渡る殺し合いの末、先に精神が擦り切れて廃人になりかかったのは……
「くっ、ハァ、ハァ……こ、これ以上は保たぬか……」
「勝負ありだな滝川殿。」
「し、しかし、何故だ? なぜ貴殿は保てるのだ? 条件は同じ、あの娘は介入しないで何度も貴殿を殺しているのに……」
「滝川殿、それは覚悟の違いでござろう。我らは今日が最期と思い戦っている。しかし、貴殿にはその覚悟が希薄なように思える。」
「っ!? 覚悟の違い……か。確かに我らは四千の兵でお主らを擦り潰すつもりでここに来た。だが、蓋を開ければこのザマよ。」
言葉の端々に悔しさを滲ませつつ、一益は更に『天目山の山姥だか鬼だかが武田に加勢したとあっては、四千どころか四万の兵を持ってきても勝ちを得られるか解らぬ。どうやら、我らは傲慢になっていたのだろう。』と語り、続けて『もはや勝負は付いた。儂の首を取るが良い。このまま信忠様や大殿の前に出ても許される事はあるまい……』と述べると、その場で腰を下ろしつつ身を翻し、後ろから首を斬れと言わんばかりの姿勢を見せた。
その一益の姿勢を見て、潔しと見た昌恒は、手に持つ刀を持って一益の背後に立つ。そして、まさに一益に刀を振り下ろそうとした時……
『おいおい、ちょっと待った! 首まで刎ねる必要はねぇだろ。このオッサンの始末は上司がやるだろうし、ここで刎ねても何か褒美が出る訳でもねぇ。』
突如として、いづるが割って入るとその様な事を語り、昌恒が一益の首を斬る事を止めたのである。
これには昌恒も『娘、武士が負けを認めて死ぬ覚悟を示した以上、御首を頂戴しなければこの滝川殿の面目が立つまい。これは、武士の……』と言うのであるが、食い気味にいづるが『ンなもん知るか。確かにアタシもつっちーもこのオッサンの手下をボコボコにしたが、それはあくまでアンタ達が少なすぎて手助けしないと気がすまなかったからだ。だが、今は状況が少し変わった。四千の兵は散り散りのバラバラで、もはや軍とは言えない。この戦いはアンタ達の勝ちだ。それでも首を斬るってなら……代わりの物を頂戴すればいい。』と述べて、斬首を止めようとした。
代わりの物?と言われ、考え込む昌恒を見て、紬花が『昔、読んだ物、そこだと髪の毛、代わりにした。』と述べると、昌恒も何かに気づいたらしく、改めて一益にこう告げた……
『滝川殿、貴殿を斬るのは簡単だが、それでは無味乾燥というもの。某も今回かなり斬っておるからな、今更一人増やした所で大した意味はあるまい。ゆえに、貴殿に勝ったという証として、貴殿の髪の毛を頂くと致そう。』
……そう語ると、昌恒は素早く太刀を振り抜いた。
次の瞬間、一益の髪の毛の一部……いわゆる丁髷が地面にボトリと落ち、一益の髪がざんばらというべきものになってしまっていた。
その一益の姿を見て、いづるは思わず笑いが噴き出しそうになったのだが、昌恒と紬花に睨まれて、必死に口元を手で抑える事となる。
そうして、ざんばら髪となった一益に向けて、この場を去るように昌恒は告げた。
その際『もし、貴殿が命長らえる事が出来たならば、今度は一度きりの真剣勝負をしたいものだな。今回は色々と異常過ぎたゆえ。』と述べると、一益は特に何かを語らず、立ち上がって先に河尻達が退いた方向へと立ち去って行った。
その背中を見ながら、昌恒は『今回は色々あってこちらが勝ちを拾ったが、次は無いだろうな。』と呟いていたが、その直後いづるが『確かに次は無いだろうな。なぜなら、アンタ達はすぐにこの場所から離れるからだ。』と述べる。
昌恒が不思議がる表情を見せると、今度は紬花が『武田、脱出。みんな、生き残る。わたしたち、助ける。』と告げるに至り、昌恒も言わんとする所を理解したらしく、『ハッハッハ、生き残るか。しかもお主らが助けるのならば、助かるかも知れんな。』と語りつつ、自分達の運命を目の前の娘達に託そうと思うのであった……
鳥居坂の武田家の仮本陣に昌恒と二人の闖入者が戻ってきたのは、それから半刻ほどが経過した時であった。
勝頼は昌恒の顔を見るなり『おお、惣蔵。よくぞ生きて戻ってきた! 儂は嬉しく思うぞ。』と述べ、幾度と無く血路を開き続けた家臣の労を労った。
また、一緒に来た二人の人物にも礼を述べるのだが、ここで勝頼達と紬花は初顔合わせだった事から、改めて紬花は自己紹介をしたのであるが……
『紬花と言ったな。家名が無い様であるが、何か理由があるのか?』
勝頼からその様な質問がなされ、紬花は少し困った表情を浮かべる。
その様子を見て、火倉さんが『土の奴は、まだ名字を考えてないまま、数年が経過している。困った事だが、コレはあまり気にもしないのだ。』と語るのだが、それに横槍を入れたのは北畠とものであった。
『紬花さんに家名……つまり名字が無いのは、周りの者。例えば東雲さんが"つっちー"としか呼ばなかったり、単に"土の"としか言わなかったりしたためですわよ。皆で真剣に考えなかったために、ずるずると後回しになってしまった結果ですわよ。』
……その、とものの言葉に、いづるも鈴鹿も丁火も返す言葉が無かったという。完全な図星であった。
コレにはサーナも『やれやれ、愛称呼びだの、役の名のみだの、土の王も難儀よな。ま、我もある意味他者の事を言えた義理ではないがの。』と思うのであった。
そんな時であった。少し考え込みながら黙っていた昌恒の口が開く……
『勝頼様、お客人の方々。それに他の皆、少し考えておりましたが、もし、不都合でなければ、我が家名"土屋"の姓をこの者に与えたいと思うのですが、どうでしょうか? この者、今回の織田方との合戦で少なくとも二千の兵を単騎で打ち破った模様。ましてや火縄銃すら効かぬ程の剛の者ならば、土屋の姓を与えるに足るかと存じます。』
……突然の土屋姓の贈与提案に、紬花は驚き、勝頼は眼を瞑り考え込む。
また、他の面々も大なり小なり驚いたのは言うまでもない。
そして、特に小宮山と秋山の両人も『それほどの女傑ならば、むしろ我が家名こそ相応しい。』と名乗りを挙げて土屋と争う構えを見せる。
これには阿部加賀守も呆れていたし、信勝もまた似た感じであった。北條夫人はただ苦笑いを見せるしか無かった。
しかし、論争はすぐに決着する。眼を閉じていた勝頼が眼を見開くと一言『小宮山、秋山、此度は控えよ。惣蔵がここまで語るからには、よほど気に入ったものがあるのであろう。ここは惣蔵に任す。』と述べると、さすがの小宮山と秋山は残念無念の表情を見せるのだった。
そして今度は紬花に向かって『紬花とやら。お主の活躍で我が武田家の命数が伸びた。その事に対して何か褒美を取らせたいが、今の儂では何もやれぬ。しかし、姓を与える事はできる。これは儂からの頼みも込めてある。どうか惣蔵の申し出を受けてもらいたい。』述べると、何と頭を下げたのである。
家督を信勝に譲ったとは言え、武田の棟梁と言える人物が頭を下げた事に、周りの家臣達が驚かない訳もなく、何人かは『勝頼様、頭を上げて下さい。武田の当主と言えるお方が頭を下げては示しがつきませぬ。』と述べたのであるが、勝頼はその意見を退けている。
それを見たサーナは『武田家の棟梁としての勝頼では無く、単なる一人の人間として頭を下げたか。これは自然と出た感情であろう。誰も止めることはできぬ。』と思っていたとか。
この周りの動きに、紬花は頭を掻きつつ困った表情を見せながらいづるの方を見る。
自分を見ている事に気付いたいづるは『良いんじゃないのか? 土屋紬花……うん、どっちに転んでも"つっちー"である事に変わりは無さそうだし。』と、アッサリと答えたという。
結局、周りの反応も概ね好意的だった事もあり、遂に『ううっ、解った。土屋、つむは、名乗る。惣蔵、喜ぶ。』と語り、土屋姓を称する事を承知するのであった。
その上で、今度は紬花が『惣蔵、強い。千人、斬った。なら、別名、名乗る。……そう、千人斬った、千斬斎。』と、お返しとばかりに昌恒に別名を贈呈したのである。
これには昌恒も『おいおい、千斬斎とか引退した時に名乗る様な別名を贈呈されてもなぁ〜。』と告げるのだが、紬花の方から『だめ?』と言わんばかりの視線が向けられる。
その、どこか捨てられた子犬みたいな視線を向けられては、流石の片手千人斬りの男も陥落するしか無かったようで、『解った解った 名乗るから、名乗るから千人斬りの千斬斎。もう、今すぐ引退したい……。』と口走ると、勝頼や信勝たち武田家側の面々から笑い声が出てきたのは言うまでもなかったという。
その夜、武田家の生き残った者達は、この日討死した同胞達を弔っていた。
いづるや紬花の介入の結果、勝ったとは言え、武田方の残存兵は既に十数人にまで減っており、ここに女官達も含めても四十人にも届かない数となっていた。
弔いをしつつ、勝頼は明日以降の行動をどうするか考えていた。いかにいづる達が強いとは言え、織田方が本気を出せば立処に潰されるのは明白。
そこで彼は、残った重臣。つまり、土屋、小宮山、秋山、阿部の四人を呼び寄せ、今後取るべき行動を決めるべく会議を開く。
小山田信茂の裏切りを予想出来なかった事を詫びた勝頼は、改めて以前"真田安房守(真田昌幸)"から『我が岩櫃城に参られたし。』という密書が届けられた事から、改めて岩櫃を目指す事を提案したという。
土屋と小宮山は、勝頼の意見に賛同した。しかし、秋山と阿部は慎重な意見を述べる。特に秋山紀伊守は『その密書からかなりの日数が経過しております。織田方は北信濃にも軍を進めている模様。安房守殿が心替わりして小山田と同じ様な事を画策していたとしてもおかしくはないかと存じます。』と、具体的な意見を語る。
その意見に、小宮山は『亡き信玄公から"我が耳目"と評され目を掛けられた安房守殿が我らを、いや勝頼様や信勝様を裏切るとは俄には信じられん。ましてや真田は亡き弾正幸隆(幸綱とも。昌幸父)殿や信綱殿、昌輝殿など長らく武田家に尽力してきた。ましてや安房守殿は"高坂弾正"殿が亡くなってからは、亡き典厩信繁様の御子息の信豊様と共に、北信濃方面を預かって来た身。その方が裏切るなど……』と述べ、旧恩を仇で返す御仁ではないと主張したという。
この後も土屋小宮山組と、秋山阿部組の間で論争になったものの、この日は結論が出ることは無かった。
最後は勝頼の口から『まずは明日を生きる事を考えよう。再び日川を遡り、峠道を越えて信濃へ向かう。いつまた織田方や裏切り者の小山田の兵が来るか分からぬからな。』と述べて、会談はお開きとなった。
それから少し後、多くの者がひとまずの安息の中で眠りに付いた頃、東雲いづるは何かを思い出したのか、一人宿営地を離れようとしていた。
そんないづるの動きに気づいたサーナが『汝、どこに行く? こんな夜更けに動くなどらしくもない。』と述べたところ、彼女は『ああ、気にしなくて良いぜ。なぁ〜に、ちょいと織田方に"届け物"がある事を思い出したから、今から織田方の陣に遊びに行ってくる。』と、あっさり語ると、次の瞬間スッと姿を消した。
この動きに『やれやれ、やんちゃにも程があるだろうに。しかし、届け物とは何じゃ? 考えられる物があるとすれば……あ、なるほど、そういう事か。』と何やら納得した表情を見せるのだった……
武田家の宿営地から西に数里ほど離れたところに、河尻鎮吉が拵えた討伐軍の仮本陣があった。
そこには、主戦場から命からがら逃げおおせた者達が集まってきており、そこには髷を切られた滝川一益の姿もあった……
「しかし、滝川殿のそのお姿、信忠様が見たら何と言われる事か。いや、それ以上に……」
「河尻殿、言わずとも解っておる。大殿の勘気を被るのは明らかじゃ。仮に死罪を命じられても、儂はそれに従うつもりじゃ。それくらいの失態を犯したのだからな。」
「ううむ、しかし滝川殿、今回の件は予想すらしてなかった事。天目山の山姥だか鬼だかが降りてきて、武田に加担するなど誰も言い当てる事は出来ぬ。ましてや預かった手勢が散々に討ち破られて千もいないとなれば、大殿はともかく、信忠様ならば理解なされるのではあるまいか?」
「果たしてそうであろうか? 信忠様が大殿に口添えをしても、許されるとは思えん。過日の佐久間、林の両人のように放逐されるだけならまだ良い方であろう。やはり、責は負わねばなるまい……」
そう、生きる活力が削り取られたとしか思えない姿を曝け出す一益を見て、河尻は初め驚いたという。
その後、一益の口から語られた山姥だか鬼の力で、不思議な空間の中で何度も武田の武士と殺し合いを繰り返したなどと言う意味不明な事を述べる一益を見て、河尻は理解が全く追いつかなかった。
そんな重い空気が、突如として切り裂かれる。
仮本陣の周囲から兵達の煩い声が聞こえてきたのである。
河尻は『何事だ? 誰かある。すぐに騒がしくなった理由を見てくるのだ!』と指示を出す。
すると程なく『ここが織田方の仮本陣ってやつか? ここの大将に会わせな。届け物があって、わざわざ来てやったんだからな。』という女性というには少し若すぎる位の小娘の声が聞こえてきたのである。
その時、生気を半分削られていた一益の表情が一変する。なぜなら、その声は先の戦場にて心底聞いた声だったからである……
『て、天目山の山姥か鬼か、あの娘が来たのかっ!?』
……そう発した時の一益の声は、どこか怯えを含む物であった。
そうこうしている内に『おっ、ここの幕は比較的真新しいな。この向こうに居るな。確か……滝川さんますだか、四コマだか、そんな名前の奴が。』というトンチキ発言の直後、隔てていた幕が一陣の風と共に吹き飛ばされる。
そして、河尻と一益の視界に、一人の娘の姿が入ってきた。河尻は『おのれ何奴!』と吼えつつ、腰の太刀に手を添えようとしたのだが、即座に一益が『やめよ河尻殿。その娘に勝てる見込みは限りなく無に等しい。』と制している。
不満を露わにする河尻だったが、一益が『その娘と仲間の山姥の二人で、討伐軍四千の内、三千余りがこの地の肥やしと化してしまったのだぞ。河尻殿もその列に加わりたいのか!?』と、最後は精一杯の語気で河尻を止めている。
その必死さ迫る語気に、河尻は黙るしか無かった。そして、一益は『昼間以来か。何をしに来た山姥、または鬼の娘よ。』と問い掛ける。
すると、山姥・鬼の娘と評されたいづるは『敗軍の将って奴にしては元気じゃねぇか。まあいいや。それより、アンタ達に届け物があって顔を出しに来たぜ。』と告げる。
何を届けに来た?と言わんばかりの一益達。なぜなら、いづるは明らかに何も持っている様には全く見えなかったからである。
しかし、ここからいづるの説明が始まる……
『ああ、実は昼間の戦場で、百人ばかりの兵を"無明限穴"の中に入れたままなんだよな。それを返しに来た。』
その説明は、一益達にはとても説明と呼べるものではなかった。しかし、いづるはそんな二人を無視するかのように、軽く右手を振るってみせる。
すると、一益達の周囲の空間に穴が開いたかと思ったら、突然織田方の兵達がその穴からドバっと出てきたのである。
唖然とする一益達を一瞥したその兵達の長と思われる足軽大将が『滝川様、河尻様、ご無事でしたか! それより武田の者達は……』と口に出した所で突然驚く。
『なっ!? なぜ夜になっているのだ? 先ほどまで昼間だったはずなのに、これはまさに天魔の所業か!?』
そう述べると、他の足軽達もろとも底知れぬ恐怖から、震え上がり始める。
彼らの語ることが何を意味しているのか分からない河尻に比べ、一益の方は何かに気づいていたようであった。
『山姥か鬼の娘よ。貴殿、まさかとは思うが、この足軽達の"時を止めた"、または"凍らせた"か!?』
そう語る一益に、いづるは『おお、そこの"ますます"、中々良い読みっぷりだな。まあ……強ち外れてはいないぜ。厳密に言うと"経年劣化の停止"だな。アタシが使う無明限穴の中に入った物は、生き物だろうが、植物だろうが、なんだろうが、入った瞬間"経年による劣化"が停止する。つまり、何年も前の食べ物も、コイツに入れて、出さない限り腐れることはないって事だ。』と告げ、事実上正解を出した一益を褒め称えている。
その上で『とりあえず、ここに出した足軽達もそういうわけで昼間入れていたから、そんな反応を見せているのさ。』と、言い締めている。
そんないづるを見て、足軽大将を含む百人余りの者達は、一度はいづるを取り囲もうと考えたのだが、その思惑を知ってか知らずか、彼女は『ああ、また無明限穴に入れて、次は諏訪湖のど真ん中で開いてやろうか? 諏訪大社まで泳げるか、試してみたくなったぜ?』などと口走ったので、足軽大将を含む百人余りの者達は、心の底に言い知れぬ恐怖を感じる。
そして、そんな事が出来る証拠と言わんばかりに、いづるは静かに宙に浮き始めた。この出来事に、一益を始めとした一度は愕然となる。
彼らの視線を一身に浴びつつ、更に高度を上げたいづるは最後に『ああ、とりあえずあの勝頼ってオッサン達は、アタシとその仲間が預かるぜ。下手に追撃しようとしたら……次は三千じゃ済まないとだけオダノブにでも伝えておくんだな。ほな。』と、言い終えつつ軽く敬礼風のポースを取ると、スッと姿を消したのであった。
いづるが去り、残された一益達は、ただただ呆然としていた。
そして、一益は鎮吉に『河尻殿、すまぬが儂の鼻をつまんでくれ。儂は夢でも見ておるのか? 確認したい』と語る。すると、鎮吉もまた同じ事を思っており、一益に自身の鼻をつまむように頼むのだった。
結果、互いに鼻での呼気ができなくなるわ、単に痛いわの状態となり、今まで見てきたことが夢ではない事を完璧に把握することになる。
その翌日、二人は生き残りの兵達を率いて一度甲府に下がり、信忠や後詰で来ていた信長の判断を仰ぐこととなる。
無論、自分達が最悪死を賜る事も覚悟しながら……
滝川一益らの軍が甲府方面へ引き退いていった事を確認した勝頼一行。
昨晩の話し合いの結果に従い、信濃方面へと逃れるべく山道を歩き出していた。
しかし、男衆はともかく、北條夫人や女官達の衣装はとてもそういう行動に適した格好ではなかった。
また、いづる達の側でも、特に北畠とものはお嬢様系統の服装を纏っていたため、山道を行くには不都合この上無かった。
この過程で勝頼達は、改めていづる達の服装が、彼らの常識に照らし合わせても奇抜極まりない物である事を確認していた。
特にとものの服装はあまりにも見たこと無い服装だったので、信勝あたりが『その衣装は、一体どこで手に入れたものなのだ? 北畠の姫とは言え、奇抜というか、婆娑羅というか、そんな感じがしないでもないのだが……』と、困惑気味であったという。
そして、しばらく日川沿いに山の方へ移動した所で、勝頼は一旦小休止を取る。そこは一度勝頼が来て、進退を考えていた場所でもあった。
結局、その時は信濃方面に抜ける事を諦め、引き返して鳥居坂の近くに死地を求めたのであった。なお、この時、土屋昌恒らにこの地で回り込んてきた織田方の軍……恐らく裏切り者の小山田勢と思われるが、その手勢を迎撃するように命じており、この時"片手千人斬り"の伝説を生むこととなる。
しかし、今回はその小山田勢も来てはいない。土屋の活躍で被害を被り、怯えて岩殿に逃げ帰っていたので、すんなりと通過ができる事となった。
その足で勝頼一行は"大菩薩峠"の方へと向かって歩き続けていた。この間、とものが『全く、獣道しかないだなんて、疲れてしまいますわ。』と愚痴を言い出したのであるが、即座に紬花が背中に彼女をおんぶして歩き続けた。
流石に恥ずかしさから、降ろしてくれと懇願するとものだったが、紬花は『ダメ、またすぐに疲れる。なら、あたしが背負う。信勝の鎧入りの箱も持てる。重くない。』と述べて、その懇願を拒否している。
この時、武田家伝来の鎧兜などを収納した箱も紬花は持っており、その怪力ぶりに昌恒は『女丈夫というか、壮士というか、大したものだ。』と感嘆していた。
結局、その日は大菩薩峠には到達出来なかったが、明日の内には到達出来るだろうという事で、夜営の準備をする勝頼一行だった。
しかし、この時、勝頼はこのまま家臣達。特に身分の低い者達を連れ続ける事に心の葛藤を抱えていた。彼らにも帰りを待つ家族が居るだろう。現に、小宮山が弟と共に馳せ参じた時には、小宮山一族を守らせる為に弟を離脱させていた。
その事もあり、勝頼は夜営の準備ができた所で、生き残りの兵達や女官達を集めて大事な話を始めた……
『皆、先ずは今日という日までよく武田の旗の下で働いてきてくれた。改めて礼を言わせてもらいたい。家督は既に信勝に譲ったが、先代として大事な話をしたい。明日、お主達は我らの下を離れ、家族の下へ帰るのだ。今、儂が望むのは、そなたらが無事に生き延びる事だけである。そして、暫し野に伏せるのだ。何れ信勝が武田の旗を掲げる時が来るであろう。その時に備えて家族の下で英気を養ってくれ。』
……この勝頼の発言に、兵達の何人かは『そんな! 勝頼様、我らも最後まで付き従いたく存じます。その様な事を言わないで下され!』という感じの事を述べている。
しかし勝頼は『これは今日一日、歩きながら考え続けた結果なのだ。このまま儂らに付き従っても、食糧の事もある。儂は食べ物を食わぬでも耐えられる。しかし、そなた達が飢えるのは見ていて心苦しい。平時は民を慈しんだ亡き父上に申し訳が立たない。そして、決して今生の別れという訳では無い。必ず戻ってみせる。例え儂が命尽きても、この信勝がある限り、武田は滅びぬ。皆は武田の民だ。領主として、民を見捨てはしない。如何なる艱難を越えてでも必ず戻る。今は儂の顔を立てて、堪えてくれ……』と、最後は心苦しさが滲む声で述べるのだった。
その様子を離れた所から見ていたいづる達は、そろそろ次の動きを行うべきだろうと考えていた……
「心に弱さを抱える者は、あの言葉を免罪符にして離れるであろうな。人間は元来心弱き生き物じゃからのぅ。」
「ポンコツに言われちゃおしまいだが、今回は同感だぜ。ああ言わないと離れたいけど離れられない雰囲気に縛られてる奴が動けないからな。」
「でもよろしいのかしら? あの兵達が心変わりして、勝頼さん達の首を手土産にしようと考えても不思議では無くて? ましてや戦国時代とはそういうものなのでしょう?」
「とものが言いたい事は解るな。なんだかんだで勝頼さん達の首の価値はそれなりにあるだろうし。それよりいづるん、そろそろ動いて良いんじゃないか? 少なくとも"力"は見せた訳だから納得してもらえるだろうし。」
「ふむ、諸岡がそう言うとはな。確かに東雲と紬花が力を振るった事は、彼らも知る所。そろそろ動いて構うまい。丁火もそう思わぬか?」
「水の……。そうだな、そろそろ潮時だろう。東雲には何か考えがあるようだし、ここは任せるのも悪くは無かろう。」
サーナ、いづる、ともの、かずさ、鈴鹿に火倉丁火が各々発言した後、紬花が『いづる、助ける。方法、幾つもある。何とかなる。』と述べた所で、行動を起こす事を決めたのだった。
翌日の朝、勝頼一行から離脱する事になった兵達について、水梨鈴鹿と火倉丁火の二人が安全に家族の下へ連れ出す為に彼らと行動を共にする事となった。
不安がる者もいたが、彼女ら二人も紬花やいづると同格の強さであり、織田方の残党狩りと遭遇しても余裕で返り討ちにできると土屋昌恒から説明される(事前に話を昌恒にはしていた模様)と、兵達もとりあえず安心したらしく、二人に連れられる形で甲府盆地の方へと、山を下っていく。
その立ち去る姿を見送りながら、勝頼は信勝に向けて『良いか信勝、今日彼らと別れる事となったが、決して見捨てる意味で別れるのではない。必ずや、この地に戻り、彼らの信頼を勝ち取り直す。それまではそなたは何があろうと武田の当主として生き残らねばならない。』と、かなり強めに、念入りに、語り掛けている。
その、勝頼からの重い言葉に、信勝は身が引き締まる思いであった。
そして、この時、勝頼と共にしている男衆は、信勝を除けば名のしれた家臣達だけだった。即ち土屋、小宮山、秋山、阿部の四人である。
そして、北條夫人と、彼女に従う女官達だけであった。総勢でも二十人以上が残る形となった事に、いづるは『男連中はともかく、女性陣は勝頼の嫁さんを見捨てられないのだろうな。本当はこのねーちゃん、おばちゃん連中も離脱してくれると少し手間が楽になるのだが……まあ、何とかなるか。』と心の中で呟くと、早速勝頼に近寄って話を始める……
「さて、早速なんだけど、勝頼のオッサンと同行組には"無明限穴"の中に入って貰う。」
「無明……なんだそれは? それに入ると何かあるのか?」
「特に何かあるって訳じゃないが、強いて言うなら"安全圏"に潜めるってところかな?」
「安全圏? それは、一体……」
「それは……とりあえず"こういう事"だぜっ!!」
勝頼からの問いに、いづるは軽く腕を振るう事で答えた。
彼女が腕を振るった途端、まずは女官達の姿が突如として消えたのである。
これには北條夫人や信勝などは驚きをあらわにし、とものからは『東雲さん、何の脈絡も無くそれを行われては驚く方が出るのは明らかですわよ! 思う存分、ドン引きしておられるじゃありませんか!』というツッコミを受ける事になる。
男衆も驚くが、唯一土屋昌恒のみは驚かなかった。それに気づいた他の者が訊ねると『儂は一度コレを目の当たりにしておる。あの時は織田方の兵達を百人程消していたが……東雲殿、この怪しげな術は大丈夫なのか?』と更に質問を投げ掛ける。
それに対して『大丈夫だぜ。あの時はとりあえずオダノブの兵達が邪魔だったからああしたけど、元々この無明限穴は敵を倒す術じゃない。それに、あの時の兵達は前夜に織田方の陣に乗り込んで返した。』とサラッと答えたのだった。
その返事に『えっ!? 倒してないの?』と言わんばかりの表情を見せる昌恒であったが、そこに横から一言述べた者がいた。それはいづるの友人である諸岡かずさであった……
『土屋さん、いづるんのこの技は、目に見えない袋みたいな代物なんですよ。どちらかと言うと物を持っていく時に使う技なんです。私達もこれのおかげで"こちら"に来ている様なものなので。』
……こう述べるかずさに、昌恒は少し頭を捻り考え込む事となる。
無論、小宮山、秋山、阿部らも全く同じ様な反応を示していた。その姿を見て、何やらため息を吐くいづるは『論ずるより証拠って奴だ。とりあえずオッサン達も入っておけ!』と言うなり、やはり軽く腕を振るう。
すると、今度は土屋ら四人の姿がスッと消えてしまった。これには勝頼も目を丸くするしか無く、すぐに『彼らをどこへやったのだ!?』と吠えたものの、すぐにサーナが割り込み『案ずるな。お主の家来は死んではおらぬ。ただ、ちょいと説明が難しい所に居るという事かの。とりあえずお主と信勝、夫人の三人には、我の力を少し見せてしんぜよう。』と述べる。
力を少し見せる?と言う言葉に、何か言い知れぬ物を感じた勝頼は、信勝や夫人に『状況がよく掴めぬ事態となっておるが、こうなっては行き着くところまで行って、真相を見極めるしかあるまい。儂は最後まで見極める。二人はどうするか?』と訊ねる。
信勝は『父上。私は正直、今起きている事について理解の範疇を超えていると思っています。土屋達や女官達が突然消えるというのはまさに神隠し。本来なら警戒すべきでしょうが、あの者達のお陰で今があるならば、私も父上と共に最後まで見極めたく存じます。』と答え、北條夫人も基本的には信勝の意見に同意している。
二人の意見を聞き、勝頼は再度サーナの方を向き直すと『儂も二人とも既に覚悟はできておる。ここは全てを委ねる。何をなされるか、見せてもらおう。』と述べ、サーナの返事を待った。
その勝頼の真っ直ぐな視線に偽りなしを感じ取ったサーナは『では早速我が力を少し見せるとしよう。』と述べると同時に、誰もいない空間の方を見ると、軽く腕を上げ、ゆっくりと腕を下ろしていく。
すると、その線に沿う形で空間に"切れ目"が生じ、その切れ目が伸びつつ左右に拡大していく。するとその切れ目の中に別の風景が見えていたのである。そして、その切れ目の向こう側の風景に、勝頼は見覚えがあった……
『んんっ!? あれは"海津城"か? という事は川中島の近くという事になるな。しかし、どうやら海津城は織田方の手に落ちている様に見える。……となると、真田安房守も織田方に降ったと見るべきか?』
そう述べつつ、少し残念そうな表情を見せる勝頼を見て、サーナは『確かにそう見えなくもないのぅ。しかし、真田安房守とやらが何の意味もなく織田に従うと思うか?』と告げると、勝頼は少し考え込む。
そんな勝頼を見て、いづるが『裏切るかどうかは本人と直接あって確認するしかねぇ。もし、裏切るってんなら、アタシとつっちーの二人で一暴れしてやるだけだが?』と述べると、即座にとものが『東雲さん、貴女はアホですか? 暴れて済むなら貴女が天下を取っているようなモノですわよ。』と窘め、返す刀で『勝頼様、安房守の真意を確かめる。それからでも遅くは無いと思いますわ。』と語り、勝頼の決断を促した。
そこまで言われて、何もしない訳にはいかないのが武田勝頼という人物であった。
彼は『北畠の姫、そう言うなら敢えて火中の栗を拾うとしよう。安房守の真意、我が目で確かめてくれよう。』と告げた。
それを聞いたサーナが『案するな、汝らは死なせぬ。なぜなら、我が側にいるからの。』と述べ、即座にいづるから色々とチャチャを入れられる事となる。
だが、いづるは知らない。サーナのこの言葉の裏にある『かつての帝の命が失われ掛かった時の反省』がある事を。サーナは『此度は離れはせぬ。あの時の様な油断、此度はせぬ。我が"神号"に賭けて……な。』と強く想っていたのだという……
―― 天正十年三月。織田信長は甲斐武田氏を滅ぼした。……と、表向きには公表していた。
だが、その実、滝川一益らの討伐軍が"天目山の山姥。もしくは鬼"によって散々に撃ち破られた事を把握。
本来なら、滝川一益と河尻鎮吉らに死罪を与えるべき事案であったが、息子の信忠や明智光秀らが必死に説得。
この際、光秀は信長から折檻を受ける程であったが、それでもなお二人を許すように説得し続けた事から、信長は『ふん、そこまで光秀が言うなら、許す。その代わり一益、鎮吉、そなたらに武田家残党の討滅を命ずる。信濃に向かっている"森長可"らと協力し、必ず討滅するのだ。良いな?』と命を受けた事で、とりあえず両名は一命を保つ事となる。
(この過程で、小山田信茂は不義を糾弾され、ついでに勝頼親子を討ち果せなかった責任を押し付けられ、切腹を命じられる事となる。)
さて、北信濃は川中島。海津城は既に織田方の森長可が入り、合わせてこの地の支配を信長から託される事となった。
後世、森蘭丸の兄としても有名な猛将ではあるが、そんな猛将のいる海津城から少し離れた山の中に武田勝頼、信勝親子らの姿があった。
『海津城に織田の旗印が翻っておる。どうやらここはもうダメだな。この辺りも真田安房守に任せていたが、織田の圧に屈して引き渡したと見るべきか。』
勝頼が悔しさを口にする中、サーナは再度空間に切れ目を入れていた。
どうやら更に別の場所へと向かう事を勧めているようであった。
改めて、勝頼親子らは、サーナの力に驚いていた。切れ目の向こう側に海津城があるので、その切れ目を通った途端、海津城が見える山の頂に来ていたのである。
先ほどまで、甲斐の山中に居たはずが、次の瞬間信濃に居る。この事実は勝頼にとっては予想を越える物であった。
もし、この能力を用いる者が、例えば長篠の戦に味方としていたなら、一部の精鋭を織田方の背後に送り込んで撹乱する事も不可能ではなかった。
そんな事を思いつつ、もはやあの時は戻ってこないと気分を切り替え、新たに現れた切れ目の向こう側を見る。
『ん? あれは"砥石城"か? 見た所、織田の旗印は無い様だが……。もし、まだ織田方の影響力が及んでいないならば、何とかなるかも知れんな。』
そう呟くと、勝頼は信勝らと共に切れ目の向こう側へと踏み込んて行く……
砥石城の近く。真田氏館にも近い山中に飛び出していた勝頼一行といづる達。
この辺りが真田氏の本拠地である事を説明されたいづる達は、この地が織田方の影響下に入っているかどうかを確かめようとした。
具体的には、いづる達が麓に下り、情報収集を行うというものだったが、いづるが行くと情報を集めるどころではないと、とものから突っ込まれた事から、かずさが赴く事となる。
しかし、かずさ一人だけという訳にもいかないと判断した勝頼が、いづるに対して『そろそろ無明限穴とか申したか? そのよく解らぬ袋だか穴から家臣達や女官達を出して欲しい。』と述べた事から、いづるは『あ、そう言えばそうだった。あのオッサン他多数を出さないと、アタシが忘れてしまうところだったぜ。』と、いささか悪びれもない一言を発した後、スッと今度は左腕を軽く振るった。
すると、何もない空間に突然穴状の歪みが出現し、そこから女官達と土屋達家来衆が一度に飛び出してしまった。傍目から見れば団子状態で出たため、いささか混乱していたのは言うまでもない。
だが、更に驚かされたのは、彼らが穴から出た後の発言が尽く"時差ボケ"に近い物であった事だろうか?
なぜなら、彼らは無明限穴に入った直後から出てくるまでの記憶が"飛んでいた"のである。
そのため、今居る場所が砥石城の近くと説明されても俄には信じられなさそうな表情を各々見せていた訳であるが、実際に砥石城と真田氏の所領地を見て嫌でも納得するしか無かったという。
彼らの気持ちが落ち着くのを待って、勝頼はかずさと共に情報収集に赴く者を募る。すると、阿部加賀守が名乗りを上げ、また、女官達の中からも一人募り、その三人で麓に降りて情報を集めるという事になった。
それから数刻。日も西の山々に沈みそうな時間に阿部加賀守と諸岡かずさと女官の三人が戻ってきた。
そして阿部の口から語られたのは『真田安房守殿は、一応織田方に従う姿勢を見せているようです。ただ、まだ武田家が滅んだという事を確認できてない為、様子見をしているように思われます。』という報告がなされ、またかずさと女官も『領民達の話を聞く限り、まだ武田家が滅ぼされたという話は届いていない。』という話がなされる。
この話を聞いていたサーナが『勝頼よ、動くなら早い方が良かろう。恐らく織田信長とやらは、汝らの亡骸を見つけられない事を伏せて"武田家は滅ぼした"などと吹聴すると思う。その前に汝らが生きておる事を心ある者に知らしめる事で、変化をもたらす事もできよう。』と述べ、勝頼に行動を促した。
その話を聞いて『ふむ……』と唸った勝頼は少し考えた末、こう決意を語る……
『相解った。秋山、阿部、そなたら今から真田氏館に赴き、真田安房守と面会し、我らが健在である事を伝えるのだ。安房守がどう動くかの見極めはそれでできよう。』
その勝頼の指示を受け、秋山、阿部の両名は『御意に御座います。直ちに真田氏館に赴き、安房守殿と面会致します。』と述べ、直ちに麓の真田氏館へと向かった。
一方で勝頼は土屋と小宮山の二人を呼び寄せ『万が一に備えて我らも山を降りて真田氏館の近くに参る。あの二人をすぐに殺す様な安房守では無いだろうが、身柄の拘束を行わないとは限らぬ。それとサーナ殿、例の切れ目を作る術で真田氏館の内側に入れるようにはできるか?』と語る。
話を振られたサーナは『問題無いぞ。その程度の事など朝飯前というモノじゃ。』と自信満々に答えた。
これらの話から、いづるは紬花とかずさを呼んで『アタシらも多少は暴れて良いかも知れないぜ。つっちーはともかく、もろもろは大丈夫か?』と訊ねる。
実家が剣術道場でもあるかずさは『いづるん程実戦経験があるわけじゃ無いけど、どうやらこの土地でも"燿氣"は使えるみたいだから、遅れを取ることは無いよ。』と答えている。
かくして、勝頼の使者として秋山紀伊守と阿部加賀守の二人が真田氏館へ向かう一方、勝頼達も山を降りて真田氏館の近くに潜む。
この間、北條夫人と女官達は少し離れた林の中で北畠とものと共に結果待ちのために待機する。
そして、この移動途中で、甲斐の方で兵達を逃がしてきた"水梨鈴鹿"と"火倉丁火"の両人がやって来る。彼女らは、いづる達の気配が点々と移動した事でどうするかを見極める為に、一度八ヶ岳に移動して様子見をしており、小県郡の辺りで気配の移動が止まった事を確認して合流してきたのだった。
その過程で、予想された通り織田信長が武田家を滅ぼしたという話を流布している事と、滝川、河尻両人に残党狩りを命じた事。
そして、小山田信茂が責任を取らさせて処断された事を合わせて語る。
その話を聞き、土屋昌恒は『ふん、不義理を働いた者に相応しい最期よ。あの世で御館様(信玄)達に責められるがよかろう。』と、吐き捨てるように述べており、勝頼や他の者が特に言及しなかった事から、彼らも昌恒と同じ想いなのだろうといづるやサーナは推察するのだった。
その日、真田氏館の書斎で、真田安房守昌幸と、実弟でもある"真田信尹"の二人は、進出して来る織田方に対してどう対応するか話し合っていた。
海津城が開城した所で、使者を立てて織田方の森武蔵守長可には信長へのとりなしを依頼していた事から、そう遠くない内に、織田方の軍が小県にも来るのは間違いなかった。
この時、二人はその織田方を如何に歓待するかを話し合っていたのである。ところが、そんな兄弟の話を中断させる事が起きる。
それは、昌幸の騒がしい息子でもある真田信幸が書斎に突っ込んできた事から始まる……
「ち、父上、叔父上、一大事ですぞ!」
「何じゃ信幸、相変わらず騒がしい奴じゃな。その慌てぶりからして、武田の殿が討ち取られたとか言う話か?」
「それどころではありません! 只今、館の正門前に勝頼様の名代として、秋山紀伊守殿と阿部加賀守殿の御二方が参られたのですぞ!」
「なっ、何じゃとぉ〜!? ……兄上、秋山殿も阿部殿も勝頼様の側近。その御二方がこちらに来ているという事は……」
あわあわする信幸を横目に、信尹が昌幸の方を見る。その時の昌幸の表情は『ああ、やっと重荷が背中から下りたと思っていたが、世の中そんなに甘くは無かったか。』と言わんばかりの物であったという。
事実、武田家が滅んでいたなら、昌幸は織田方に臣従しつつ、様子見を決め込む算段だったと言われる。ところが、勝頼側近の二人が揃って来たという事は、既に勝頼らも近くに来ているという事に他ならなかったからである。
『以前、我が岩櫃城の方に退避するべし……そう密書をしたためて送ったが、勝頼様達は近い小山田の岩殿城を目指した。そう、草の者から報告を得ていた。ゆえに、勝頼様らは途中で進退極まって自害なされると思っていた。しかし、側近の秋山と阿部が来たとなれば話が違ってくる。』
この様に考えていた昌幸は、あわあわし続ける息子に対し、『とりあえず秋山殿と阿部殿を広間前の庭先に通せ。儂が直接話を聞く。』と若干怒鳴り気味に告げ、怒られると思った信幸は慌てて『しょ、承知しましたぁ〜。』と述べつつ、書斎から走り去って行った。
このやり取りを見ていた信尹は『やれやれ、真田の跡取りがああも慌てん坊では、兄上も気苦労が絶えんじゃのう。』と一言述べると、昌幸は『はぁ、信幸はアレで、もう一人の信繁はわりかし無口寄りだし、なぜ儂の子は揃いも揃って癖が強すぎるのだ? 亡き兄上達はああでは無かったのに……』と、思わず愚痴を吐くのであった……
それから少し後、昌幸は秋山と阿部の両人と対面を果たす。
まずは昌幸の方から『ご両人ともよくぞご無事で。この安房守、心配しておりましたぞ。』と、ありきたりな対応で答えることにした。とりあえず、そうしておかないと、後々何を言われたり、噂が広がるか解らなかったからである。
そんな昌幸の内心を知らない秋山が『安房守殿こそ、よく領地を保っておられる。聞くに既に海津城は織田方に落ちたとか。そうなると、自ずと小県に目が向くと勝頼様が仰られたのだ。』と、ここで勝頼の名を出して、昌幸の様子を窺う事になる。
昌幸は少し驚いた様な表情を一瞬だけ見せる。なぜなら、今の秋山の話を聞く限り、勝頼が海津城の陥落を知っている事に、意外さを感じていたからであった。
甲斐から信濃に逃れる場合、既に諏訪方面が織田方に抑えられている以上、武蔵国に近い山岳地帯を突き抜けなければならないからである。
仮にその道程を辿った場合、決して海津城が落ちたという事を知る事などあり得ないハズなのである。仮に知っていたとすれば、武田家に使える草の者が知らせたという場合だけだろう。
そこで昌幸は改めて勝頼の生存を訊ねる。この二人は生き延びても、実は既に勝頼は死んでおり、二人が死んだ勝頼の名前を利用して何かを行おうとしている。
例えば、この真田家の領地の乗っ取りなどである。そうすれば、勝頼は居なくても、越後に逃れた勝頼異母弟の"武田信清"を奉じて武田氏として、抵抗を続ける事はできる。そう昌幸は見ていた。
仮にそうであれば、真田家を守るためにこの二人を捕らえて、織田方の森武蔵守に突き出して、それこそ織田に本気で臣従しなければならなくなる。そう昌幸は考えたのである。
しかし、そんな昌幸の思惑を無視するかのように、阿部加賀守が『勝頼様は御健在だ。そして、信勝様や奥方様も。安房守殿、よもや二心をお持ちではありますまいな?』と、今度は語気を強めに、睨みつける様に昌幸を見る。
それには昌幸も流石に強く否定するしか無かったが、しかし腑に落ちない事が幾つかある事から『ご両人が先触れとして参られたなら、近くまで勝頼様達が来ているのは間違いないのでありましょう? ならば早めに我が館に入られるようにお伝え下され。織田方の間者も小県に入り込んでいるやも知れませぬゆえ。』と語り、早急な来訪を求めた。
これは昌幸にとっては賭けに近い物であった。もし、本物の勝頼が来たならば、織田方の間者も察知する可能性が高い。その状況で勝頼を招くというのは、海津を抑える森武蔵守の気性を考えれば、攻められる口実を作ることになるからであった。
秋山と阿部の両人が、昌幸の要請に応じる形で真田氏館を出た後、昌幸は弟の信尹と善後策を練る事となる。
まずは小県に織田方の間者がいかほど侵入しているかを真田側の草の者の総力を挙げて調べる必要があった事。
仮に勝頼らが入った事を知られた場合、勝頼達を守って織田方と一戦交えるか、それとも身柄を押さえて織田方に引き渡すのと引き換えに臣従するか?
その二択を選ばねばならなかったからである。なお、この時点で小山田信茂が処断された事を昌幸らはまだ知らない。
その日の夜、麓に降り、潜んでいた勝頼一行が遂に真田氏館の正門前に到着する。
昌幸は正門を開き、主君の顔を見て、改めて勝頼達が健在である事を確認し『どうやら天は真田にまだ重荷を背負うことを求めているか……』と心の中で思いながら、勝頼の前に進み出て片膝を付いて拝謁する。
『臣、真田安房守昌幸。ここに御主君をお迎え致せし事誠に恐悦至極に存じます。そして、よくぞ御無事で御座いました。甲斐の様子が伝わらなくなったゆえ、半ば諦めていた所で御座いましたが、秋山殿らが参った事で勝頼様御健在と知り、この安房守、改めて……』
……と、ここまで昌幸が語った時『話が長いんだよオッサン。とりあえず中に入れるなり何なりしてくれ。話はそれからでも、出来るだろうが!』と、昌幸を詰る一言を投げかけた人物がいた。
それはもはや説明するまでもなく東雲いづる、その人であった。
渋々勝頼一行を館内の大広間に移して、改めて無事を祝す発言をしていた昌幸だったが、そんな彼も流石に警戒しない訳にはいかない人物達が何人か勝頼達と行動を共にしている事に、言い知れぬ圧を感じていたという。
特に、初めに啖呵を切った東雲という小娘もだが、それ以外の何人かも明らかに常人ならざる圧を感じさせていたのである。
そんな中、勝頼は昌幸に『安房守、既に武田の当主は信勝となっておる。今の儂は武田勝頼であるが、同時に諏訪勝頼でもあると言っても良い。亡き父上が残した遺言、今まさに果たしておる。ゆえに、今後は信勝の言を武田家としての命と思ってもらいたい。』と述べた事から、ここで昌幸は武田の当主が信勝になっている事を知る。
だが、驚いたのはそれだけではなかった。既に小県に潜り込んだ織田方の間者は全て目星を付けてあり、程なく討ち果たされるだろうと説明されたのである。これには昌幸も目を丸くするしかなかった。
もっとも、結論から述べると水、火、土の三人の鬼の王が居るわけで、彼らが勝頼が真田氏館に向かう前にサーナの助言などを得ながら、織田方の間者を片っ端から潰していった結果であった。ただ、この時点でこの事を昌幸はまだ詳しくは知らない。
ここで上座に座った武田信勝は、当主として昌幸に状況確認を求めた。
昌幸は最近の小県周辺の状況を説明する。高遠城が陥落後、織田方の軍は甲斐方面と北信濃方面に軍を分けて進軍。
甲斐方面は信勝も知るところだったので割愛し、北信濃方面の話を簡潔に行うのだが、主要な城は尽く陥落。真田氏が押さえる小県や上州の岩櫃・沼田はまだ無事だが、既に小諸方面にも織田方が向かい、亡き典厩信繁の息子である"武田信豊"が降参し、織田方に城から連れ出された事などを説明した。
それを聞き、信勝は『では後典厩殿は既にこの世には居ないと見て良いか?』と訊ねると、昌幸は『はっ、恐らくは。信豊様だけでなく、多くの武田家の親族が織田方に捕らえられて処断されたと聞き及んでいます。上手く逃げ切れた者は少数。例えば勝頼様異母弟の信清様は越後に逃れた模様です。』と答えた。
それを側で聞いていた勝頼は『うむむ、信廉叔父の一門も他の父上の兄弟の何人かも既に討たれていよう。この様な無様な武田家にしてしまったのは儂の失態。』と思い、昌幸に対し『安房守、今日という日を迎えたのは全て儂の責任である。本来、儂は初鹿野の天目山で死ぬはずであった。しかし、色々な奇跡が我らを助け、ここに導いたのだ。かくなる上は信勝を主君として、武田家再興の策を立ててくれ。かつて、亡き父上から見込まれたその才能、武田家を助ける為に見せてくれ。』と述べつつ頭を下げたのであった。
あの誇り高い勝頼が、ここまで頭を下げるとは昌幸からすれば予想外だったようで、すぐに『頭をお上げ下さい。そこまで勝頼様に頼まれたとあっては、この真田安房守、持てる力の限りを尽くして信勝様を盛り立てて参りましょう。』と述べる事となる。
もっとも、直後に内心『あ、しまった。勢いで承知してしまった。こういう時は少し慎重さを見せつつ、確り考えるべきであった物を。迂闊が過ぎたか……』と、後悔することとなる。
大広間でそんな会話を行なっていた時、庭先ではいづる達が今後どう動くべきかを話し合っていた。
既によく知る天目山の歴史は破綻しており、勝頼一行が真田を頼る段階に入ってしまった。そうなると、これより先に予想されるのは、織田信長が勝頼を匿っていると見做して、小県を攻める可能性であった。
それは何としても防ぐ必要があった……
「東雲さん、まだ本能寺まで3ヶ月時間がありますのよ? おそらく今頃は明智光秀が時代劇さながらに信長から折檻を受けて、フラグが一つ立っている状態でしょうね。」
「お花畠、横文字言われてもサッパリなんだが。その"ふらぐ"ってのは何だ?」
「いづるん、ふらぐってのは、平たく言うと"事件が起こるまでに通過する地点"の事という感じで覚えれば良いと思うよ?」
「おおっ、さっすがもろもろ。お花畠のちんぷんかんぷんな話を良く翻訳してくれた。流石は幼馴染ってやつか?」
「まあ、そう言う訳じゃないけど、付き合いの長さで何となく理解できるだけだよ。」
「ちょっと諸岡さん、それだとわたくしが一人ハイカラだと言っているような物ではありませんこと? 全く……最近、帝(碧月帝)の方針で、海外で使えそうな単語などを積極的に取り入れようとしているのを知らない訳では無いでしょう?」
……この頃のいづる達の時代では、戦時期に禁止されていた"海外由来の言葉"の利用を解禁するか否かで、国論が二分されていた時期であった。
いづる達の周りでも、ハイカラ色に染まる者とまだそうでない者とに分かれていたという。
いづるはこの時点では、まだ否定寄りであり、とものは比較的肯定的であった。かずさはおおよそ中間派と言うべき姿勢であった。
そんな最中、庭先に空から飛び込んできた大きな影があった。その影は地面に着地すると、多少の土煙を撒き散らす。
土煙を吸うわけには行かず、とにかく咳き込みつつ飛び込んできた影の方を見ると、そこには見慣れた巨女が何かを片手で鷲掴みして立っていた。
「ゲボっ……おいつっちー、着地する時くらい、大人しめにはできねぇのかよ!」
「ん、いづる、いつも出かける時、割りと派手。私、真似てみた。」
「おいおい、そんな事までアタシの真似をしなくても良いっての! ……それより、お前が持ってるそれは何だ?」
「水や火と一緒に、この辺りに忍び込んでた織田の手下、捕まえたから連れてきた。」
「なっ、何ぃ〜。オダノブの手下だとぅ!?」
いづるの大きな声が響いた事から、真田氏館の屋内から、武士達が数人飛び出してきた。
その中には土屋惣蔵昌恒の姿もあった。彼は紬花を見て、ついでに彼女が捕らえた織田方の間者を見て『おお、織田方の者を捕らえたのか。流石は"天目山の山鬼"の娘。土屋の姓を与えた甲斐があったと言うものだ。』と言いつつ、妙に嬉しそうな素振りを見せる。
他の者は真田氏の家来衆だったが、織田方の間者を捕らえてきたと言う話を聞き、少しばかり動揺が走ったという。何せ彼らの主君である真田昌幸が織田方に対して如何なる対応をするかまだ知らされていなかったからである。
その騒ぎを知り、屋内の方から昌幸や勝頼らが姿を現し、如何なる事が起きたかの報告を求めたのである。
この後、いづる達が紬花が織田方の間者を捕らえてきたと説明したところ、勝頼は『流石だな。』と思ったのか、満足したような表情を見せる。
一方、昌幸は『何ということだ、これで我が真田と織田が対立する事が避けられなくなってしまった。仮に勝頼様の身柄を差し出してもタダでは済まない。これは、腹を括るしかないか。』と、織田方との対決が避けられないことを嘆いていた。
その日の夕刻までに、水梨鈴鹿と火倉丁火の二人が戻ってきて、双方とも小県に入り込んでいた織田方の間者を尽く潰し尽くしたと報告する。
その早業に昌幸は目が丸くなっており、勝頼は『安房守、これが儂らが天目山から生還出来た主要因なのだ。彼らの協力がなければ、既に儂も信勝達もこの世にはいまいて。』と述べ、改めて自分達を助けてここまで連れてきたいづる達を紹介し直していた。
勝頼の話を一通り聞き、昌幸は『天魔の所業が、武田家を救ったとは何という皮肉。織田信長も自らを"第六天魔王"と称しているが、もはや単なるハッタリの類でしかない。彼らのほうがよっぽど天魔王と称するに相応しい。』と、認識を改める事となる。
そして、紬花が唯一生きて捕らえた間者を如何にするかを話し合う事になるのであったが、そこでいづるが唐突に『コイツを利用とかできねぇか?』と、脈絡もなく意見を述べた。
その唐突な意見に、とものが『東雲さん? 今、貴女、大して何も考えずに仰っしゃりましたわよね?』と、突っ込みを入れる。
当然の話だが、いづるに知恵者としての資質はない。勢いで話を進めるタイプなので、大して考えない所が欠点とも言えた。
しかし、ここで意見を述べたのが、席の端にいたサーナであった。昌幸たちも、この世のものとは思えぬ容姿をした少女に違和感を覚えるのであるが、勝頼達からは『不思議と頼っても良い雰囲気を纏っている者だ。案ずるには及ばぬ。』という言葉が出た事から、昌幸たちはサーナの話を聞く事となるのだが、その内容は驚くべき物だった……
『まずは、勝頼達が死んだことにせねばならぬ。でなければ信長とやらは本国には戻るまい。そこで一計を案じたい。そのために、この間者を利用させてもらおう。まあ、そのあたりは我に任せよ。』
その、妙に自信満々な発言に、謀将としても知る人ぞ知る昌幸は『如何なる策を用意しているかは知らぬが、この様な者の策が信長に通じるとは思えぬ。だが、何だ? この違和感の様な感覚は。この者の言ならば、何かを起こすのでは? という気にさせてしまう。なぜだ?』と思う事となる。
そして、縄でぐるぐるの簀巻き状態で転がされていた織田方の間者に何やら手振り身振りを見せている。すると、まるで自分が織田方の間者だった事を忘れたかのように『サーナ様のご指示の通りに……』と、感情の無い人形の如き発言を成したのだった。
その翌日から暫く先の動きは早い物であった。そして、その動きは"本来の歴史"を知るとものやかずさからすれば驚きの連続であった。
まず、甲府にいた織田信長と信忠親子が少数の軍を率いて、本国である安土へと急ぎ向かう動きを見せた。その直前、信長は勝頼の御首と称する物を見せられ、それを本物と信じ込まされたのである。
どうやらサーナが用いた幻術の様な物の結果であり、まんまと信長らは騙されたと言える。しかもそれだけではなく、信長の下に一通の書状が届けられていた。
それは山陽方面で毛利氏と交戦状態にあった"羽柴筑前守"からの物であり、毛利氏の強い抵抗に遭って、信長の直接指揮を仰ぎたいと記されていた。
これを読んで『禿鼠の奴が余の指揮を求めるとはな。良かろう、武田家との戦はつまらなかったからな。余直々に毛利を討つとしよう。』と述べたらしく、そそくさと甲斐を離れる様に動いたのであった。
この際、率いていた軍をそのまま滝川一益に預け『一益、名誉回復の機会を与える。この軍勢を用いて、関東に攻め込め。相手は北條だ。』と述べた。
一益もこの指示には従う事を表明したが、信長に一言『北條は徳川殿経由で上様に臣従を求めてきていると聞いております。その北條を攻めるのですか?』と訊ねている。
すると信長は『北條は勝頼の奴に妹を嫁がせていた。今回、勝頼の御首を得たが、息子と夫人の御首が無い。つまり、密かに北條が匿っている可能性がある。仮に匿って無くても、その可能性があれば攻め込む名分は立つというものだ。一益、切り取り次第である。北條を滅ぼしたら、お主が関東管領ぞ。』と語り、一益のやる気を引き出したのだった。
信長と信忠親子は小勢で徳川領を横断して安土を目指した。それとは別に、明智光秀も自身の軍を本拠地の丹波亀山、及び近江坂本へと向けていたが、その強行軍に明智の家来衆はクタクタになってしまう。
『光秀! 付いてこれない者など放おっておけ。今は急ぎ西へ向かうのだ。』
この信長の指示に、光秀の家来の中から不満の声が出たのは言うまでもない。
しかし、逆らうわけにもいかない光秀は『とりあえず上様についてこれる者は付いてこい。その者達は丹波亀山へ向かう。遅れた者は近江坂本を目指すのだ。良いな。』と、指示を出して信長親子の後を追って行ったという。
この間、勝頼達は密かに上州岩櫃へと移動していた。小県に留まっては、勝頼が生きている事が知られる恐れがあったからである。
しかし、真田安房守が驚いたのは、信長すら欺く策を用いたサーナとか言う金髪碧眼の娘の底の知れなさであった。
聞くところでは、織田方の間者を洗脳して、精神支配を施して織田方に戻し、しかるのち勝頼の御首と称した合戦で死んだ兵の首を清めて、特殊な術を以て勝頼の首としたのである。
とものやかずさは流石に現代人なので、これにはついていけないのだったが、いづるは他の鬼の王らと共に御首を見つめていた。
勝頼は自分と瓜二つの御首を見て、一歩間違えていれば、こうなっていたのは儂であろうと述べる程であった。
この、御首を件の洗脳済間者に持たせて、織田の下へと向かわせたのだった。勝頼はサーナに感謝の念を向けつつ、この存在が敵に回ってしまえば武田家は即滅ぶと感じていたのだった。
それより暫くの間、武田家は新当主信勝を中心に、真田家に匿われる形で岩櫃城に拠る。
その間、勝頼らはいづるから種明かしをされていた。つまり、いづる達が勝頼から見て"未来"にあたる世界からやって来た事である。
無論、それは時間軸で繋がっている訳ではなく、いわゆる並行世界の一つから来たという事である。そのため、いづる達の世界では武田家は天目山で滅んでいるという事を説明していた。
当然だが、いづるにそんな細かい説明ができる訳もなく、ほとんどサーナが行ったのであるが、勝頼は聞いていて何となく納得していた。
『別の世界の儂は、色々と諦めていたのであるな。そして、死んだあと晒し者にされるとはな。儂や信勝の御首はともかく、妻のそれも晒すとは、やはり信長はどこでも恐ろしいことを平気で行う。そして、この事は北條氏を討つ宣言を兼ねていたと言えるか。小山田の件も含めてな……』
そう考えていた勝頼は、生き延びたこちらの世界では、武田家がどうなるか決まっていない事から、敢えて手出しをしないという選択をする。
既に家督を信勝に譲った事から、事実上の隠居様状態である。信勝に迷惑を掛けない程度に自由に動けるなら動きたいと思うのに時間は掛からなかったようであった……
「へっ? アタシらの世界に行きたいってか!? しょ、正気……か?」
「正気も正気だ。既に武田家は信勝の時代。隠居の儂が口出しをするなど、後々揉め事の元になりかねん。それは、他の似た傾向を経た大名領主の末路を思えば尚更だ。」
「うわぁ……目が本気過ぎる。け、けどさ、そうしたら信勝はどうするんだよ? 幾ら武田家当主って言っても、まだ十六歳だろ? まだ親父としての勝頼のオッサンが側に居たほうが……」
「十六歳なら、十分に大人と言える。東雲殿の世界ではともかく、この世界では大人なのだ。いつまでも母親の後ろに隠れる幼子ではあるまい。それに、これは亡き父上との約定でもある。」
「また、亡き親父……武田信玄の遺言ってやつか? そんなにソレ、大事か?」
いづるのその言葉に、勝頼が反応するよりも早く、小宮山内膳正友信が『当たり前だ。亡き御館様の遺された言葉なのだ。守らねばならぬ。』と、力強く発言していた。
もっとも、その後『しかし、亡き山縣殿が聞いた約定は果たせなかったな。"明日は瀬田に旗を立てよ"。今の武田家は真田家に守られている状態。これでは旗を立てるどころではあるまい。』と内心思っていた。
少し呆れ気味の表情を浮かべていたいづるを横目に、北畠とものが『表向き勝頼様は亡くなった扱いならば、わたくし達の世界に連れ出しても、こちらの世界の歴史が変化しているとは言え、大きく変わるものでもなくて? 既にわたくし達が学んだ、又は知る流れから外れている訳ですから。』と述べている。
彼女が語るように、織田家による甲州征伐後の展開は、明らかに違っていた。
信長親子は徳川領経由で安土、岐阜へと戻って行っていた。それに付き従った明智光秀の軍勢は、強行軍だった事もあり、疲弊しながら領地である丹波亀山や近江坂本を目指していた。
その一方、勝頼夫人と信勝が生きて北條氏の下に逃れたと見做した信長は、北條氏に対する圧力を加えるべく、遠征軍をそのまま滝川一益と河尻鎮吉(秀隆か?)に託しており、河尻はそのまま甲斐を預けられ、北條への圧力を掛けるべく岩殿城に詰めていた。
一方、一益も軍勢を率いて信濃佐久郡に侵入。小諸城を接収し、城下の外れの寺に監禁していた武田信玄の甥である後典厩信豊を血祭りに上げていた。そして、小諸を中継地とし、そのまま上州へと進出していく。
この結果、北條氏は、いづる達が知る歴史より強力な織田軍の圧力を受ける事になる。
また、彼ら二名は同時に武田家残党の討滅を行っており、かつての有力家臣の血縁の者達が逃走を続ける事態を引き起こしていた。
何とか逃げ切れた者達は、真田家に匿われる。また、徳川領に逃れ、家康が穴山信君らを迎え入れていた関係から、そのまま徳川家臣となる者も少なからず存在した。
そんな中、いづるは勝頼夫妻を先に自分達の世界に連れ出す。とは言え、信勝だけ残すのも心配だった事から、なぜかサーナが火倉丁火や水梨鈴鹿を伴ってこちらに暫く留まる事となった。
そして勝頼に従って一緒に行くと言い出した土屋、小宮山、秋山の三人。阿部加賀守も付いて行きたいと願ったが、信勝の補佐役が必要であるという勝頼の頼みもあり、彼はこちらに留まる事となる。
心配な表情を見せた信勝だったが、いづるから『そのちっこいの(サーナ)と火倉さんだけでも戦力として見るなら強力無比だぜ若様。』と語ると、サーナが『ちっこいのとは何じゃ、ちっこいのとは。ポンコツとか言われるだけでなく、そこまで言うか?』と憤慨するが、丁火や紬花、鈴鹿らが何とか宥めている。
その際、二人だけでなく紬花も留まる事を願い出たので、サーナはそれを許し、いづるに許可を求めた。まあ、求めたというより圧力を加えて許可させたようなものなのだが。
そして、いづるは一緒に行く者を"無明限穴"にスッと入れる。信勝らは突然両親や家臣が数名消えたように見えた事から動揺したが『案じるな、別に永遠の別れではない。それだけは約束できるでな。』というサーナの言葉で我を取り戻すと、いづるに向けて『東雲、父上達の身柄を一時預ける。しかし、こちらが落ち着いたら返してもらうぞ?』と、年齢に不似合いなくらいの威を込めた言葉を投げ掛けている。
その言葉に対し『解ってらぁ。……まあ、あっちでの暮らしに慣れたら、こっちに帰らなくても良いとか言い出すかもよ? その時には、信勝にも来てもらうかも知れねぇぜ?』と述べると、次の瞬間煙と共に今度はいづるの姿が消える。
後に残されたのは、単なる紙の形代であった。それを見て、信勝や阿部加賀守らは目を丸くしていたが、残ったサーナ達は見慣れたと言わんばかりの表情をしつつ、信勝らを見て代表してサーナが『武田家の、いや、ニニギや諏訪の血を引く者よ、汝は死なせぬ。我が側にある限り、そして、汝の身柄の安全が保たれるまではな。』と語るのだった……
それから"こちらの戦国時代"で三ヶ月あまりが経過した頃、都で大異変が起きたという知らせが信勝の耳に届く。
そう、本能寺の変が起きたのである。信長親子が明智光秀に討たれたという一報に、岩櫃城は上に下にドタバタしだしていた。この時、密かに信勝生存を知らされ、越後から岩櫃に来た叔父の武田信清や越後脱出組の武田家臣達は、いよいよその時が来たと思い、信勝の前に集まる。
この時、信勝は先祖伝来の甲冑を身に纏い、今にも出陣する勢いであったという。それを見て、サーナは『血が滾るというやつかのぅ。本来なら、勝頼達もこの場に居たかったであろうが、暫くは伏せて貰わねばの。』と思いつつ、信勝と家臣達のやり取りを見届けていた。
信長横死の報に、この方面の織田方は動揺が激しく、統治者としての対応が拙かった森武蔵守は、早々に占領地を放棄し、本拠地の美濃へと引き上げだしていた。
また、甲斐では、同じように統治が拙かった河尻が武田残党に討たれるという事態が起き、統治者不在という事態となる。
そして、滝川一益も、いづる達が知る歴史よりは強力な軍を率いていたものの、北條氏との決戦で敗北する。しかし、敗北し、上州から撤退する滝川勢はある程度の戦力を維持しながらの撤退だった。
この様子を小県で見ていた真田安房守は『もし、ここで滝川勢を信勝様を奉じて撃ち破れば、武田家健在を証明できよう。我が真田の勇名も天下に轟くかも知れぬ。』と思い、岩櫃の信勝に小県に来てもらうように手紙を書こうとした……のだが、そこに慌てん坊の信幸がやって来て、こう述べたのだった……
『父上、岩櫃の若君の軍が滝川方の背後を強襲し、散々に撃ち破ったという報せがっ!』
その慌てん坊を抑え込みつつ、安房守……昌幸は『どういう事だ? 今ならまだ若君は岩櫃にいるハズ。どう急いでも滝川勢に追いつくには数日は掛かる。儂が知る限り、岩櫃から佐久に至るまでに近道など無かったはず。』と語るのだが、程なく今度は弟の信尹がやって来て、更に信じられない話を始めた……
『兄上、大変じゃ。草の者の報告で、小諸城に武田の旗が翻っておるという報せが届いた。どうやら滝川殿はこの地での拠点を喪失したようじゃ。』
既に小諸城も陥落した。この信じられない報せの連続に昌幸は頭がこんがらがりそうになった。
あまりにも僅かな期間で滝川勢が強襲で敗退。更に小諸城まで落ちたとなると、あまりにも手際が良すぎるのである。
だが、昌幸に考える時間は無かった。信尹が『滝川勢の残党が小県を通る。打ち掛かるなら今ではないか?』と述べ、信幸も『そ、そうですよ。叔父上のおっしゃるとおりです。今こそ真田の旗を、いや武田家臣としての真田の力を見せる時でしょう!』と語った事から、昌幸は『相解った。二人とも、集められるだけの兵をすぐに集めよ。信長亡き織田方など恐れるには足りぬ事を示すのだ。』と述べると、二人はすぐに行動を始めた。
二人が去り、一人となった昌幸は『しかし、信勝様の動きが全く読めん。撤退途上とは言え、滝川勢を強襲して撃ち破り、更に小諸城をも陥落させるとは……ん、まさか、勝頼様達を助けた者らが助勢しておるのか? だとしたら、あり得ぬ話でもないか。』と思うのだった。
小諸城を再起した武田勢に陥落させられた滝川勢は、昌幸の予想通りに小県を通るルートを選択した。この時点で、佐久経由で、甲斐を経て逃れるルートが河尻の討死という報せを受けた事で使えないと一益は判断した。
そして案の定、小県通過時に真田勢の夜襲や奇襲を受け、滝川勢は散々に撃ち破られ、一益自身は逃げ切れたものの、ここで多くの兵を失い、一益の武将としての勇名は失墜する事となった。
それと同時に、一益は武田家が雲隠れしていた信勝を擁して再起した事を知り、とにかくそれを中央に報せる必要があると判断したようである。もっとも誰に報せるべきかまではこの時点では考えてはいなかった。
一方、小諸城を陥落させた信勝勢は、真田の草の者の力を借りて、佐久方面から甲斐に掛けて武田家は健在。信勝が武田の当主として再起した事を喧伝するように手配している。
無論、これはサーナの提案であったが、急ぐ必要があった。それは河尻討死後の甲斐を北條や徳川が奪いに来る可能性が高く、その動きに心理的釘を刺す必要があったのである。
その一方、穴山信君らが本能寺の変に巻き込まれる形で殺されたという事実を信勝らはサーナから聞かされた。どういう方法でそれを知ったかは解らないでも、この頃には色々慣れてしまった阿部加賀守などは『信玄公の娘婿でありながら裏切った報いよ。』と、吐き捨て気味に語った程であった。
この武田家再起に驚いたのは、三河に帰還して信長の仇を討とうと兵を集めていた徳川家康であった。明智の動きなど、上方の状況が解らなかった時に、駿河からその様な情報が届けられたのであるから、"どうする"べきか困る事となる。
現に、一度は受け入れた武田旧臣の中に、甲斐へと向かう者達が現れており、未だに武田家の威が衰えていない事を示していた。
ましてや、今の武田勢を率いるのが信玄が生前指名していた信勝であるとなれば『今こそ亡き御館様の遺志に沿うべき。』と彼らが斯様に考えても不思議ではなかった。
同時にこの動きが示し、意味していたのは、彼ら武田旧臣にとっては、勝頼はあくまで"当主代理"でしかなかった事であり、正統な武田の当主が旗を立てるならば、それに従うのは武田家臣として当然の事、という事実であった。
一方、いづる達の世界にやって来た武田勝頼一行は、"ヤマト国"の発展振りに毎日目を丸くしてばかりであった。
彼らの認識から見れば、魔法とか呪術とか、それと変わらないレベルの道具を使い生活を営む民草の姿に只々感嘆するしか無かったのである。
正式にどこで過ごすか決まるまでの間、勝頼一行は"水梨伊鈴"の邸宅に寝泊りする。この時の伊鈴宅はまだ電気を使っていなかったため、勝頼一行も慣れた営みと近い生活を営める事から、ここを拠点とする!と言わんばかりに住まう事となる。
もっとも、伊鈴は『また、いづるが珍妙な面々を連れてきたねぇ〜。この前の"ジャンヌ"さんだけでは飽き足らず……か。』と、ぼやいていたが。
(なお、来た場所が、自分達の時代での"肥前国"の西の端と聞いて、秋山紀伊守光継なんぞは『流れ流れてまさか肥前の田舎に辿り着くとは。これには亡き御館様も驚かれるだろうな。』と感嘆する程であった。)
そんなさなか、いづるがまた誰かを連れて来た事に、頭を抱える伊鈴。ところが、その連れてきた人物の名を聞いて、同居人の勝頼達が臨戦態勢を取ってしまう。なぜなら、いづるが連れてきたのが……
『よもや武田勝頼殿らが生きていたとはな。改めて名乗らせて貰う。元織田家臣、惟任日向守。まあ、明智十兵衛光秀と言えばお解りになるかと存じるが。』
光秀の名を聞いた途端、土屋昌恒は『東雲殿! なぜ、信長の家臣の中でも大物の輩を連れてきたのだ!』と激昂する程であった。
他の面々も農作業道具を手に持って何時打ち掛かっても不思議でない状態となっていた。端から見れば、単なる農民一揆の参加者のようにも見えるだろう。
そんなピリピリする空気の場に、遊びに来た北畠とものと諸岡かずさの二人。何事かと聞いて事情を察したとものは、改めてネタ明かし気味に説明を始めた……
『こちらの方が噂の金柑頭の明智様ならば、東雲さんと一緒にいる時点で織田信長に反旗を翻して本能寺で骨も残らない様にした後なのですね。そして、羽柴筑前……つまり、わたくし達が学ぶ歴史では豊臣秀吉と名乗る事になる方の軍と戦って敗北し、逃げる途中で落武者狩りに遭遇し、殺され掛けたところで東雲さんに助けられて、問答無用で連れて来られた……というところかしら?』
とものが語る説明に、勝頼一行は驚きの表情になっていた。信長が信頼していると聞いていた光秀が謀反を起こし、信長を倒したという事に。
そして、その後の戦で敗北して落武者狩りに遭遇し、殺され掛けた事も。その間、光秀は沈黙していたが、頭脳明晰な彼は、とものの話から引っ掛かりを得ており、すぐにその引っ掛かりに関して質問をしている。
『君の話からすると、まるで私は山崎の戦いで敗北し、落武者狩りに遭遇して"本来なら"殺されていた……と読めるのだが、それで間違いないか?』
……と。
すると、とものはそれをあっさり肯定している。また、いづるの干渉で勝頼達が生き延びた事も合わせて説明しており、それを聞いた光秀は『左様か……。では、あの時の首実検で見た勝頼殿の首は偽物だったという事か。本物と偽物の違いにすら気づかぬ信長や私では、天下を獲るなど夢物語という訳だ。』と、どこか達観したような事を述べていた。
光秀も加わり、更に狭くなった伊鈴宅。そんな中、いづるは友人達や伊鈴に不思議な事を述べている。それはいづるが光秀を助けた際に現れた"果心居士"と名乗る人物が、なぜか自分の事を知っていたという事についてだった。
自分は初めて見る顔の老人が、自分の事を知っていて、かつ光秀救出に手を貸した事に、正直不気味さを感じたと述べている。まるで腹の中を見透かされたような、そんな感じだったと。
果心居士という老人が、なぜいづるの事を知っているのか?それはこの時点では全く謎であった。しかし、後にいづるは"とある人物"に関わった時にその繋がりを知る事となる。
だが、それはまた別の話である……
―― 再び天正十年六月。
信長の死を切っ掛けに、武田信勝らの軍は甲斐へと侵入。織田方の残党は散り散りとなっており、この時の甲斐は領主不在という"無主の国"となっていた。
上方の状況は、サーナが何かしらの術なり方法なりで得ることができていた。と信勝らは思っていたのであるが、この時サーナの前にとある珍客が来ており、その者の力で天下の情勢を完全に把握できていたのである。その人物とは……
「しかし、良い時に来たものじゃな"鏡"よ。お陰で我の負担が軽くなりすぎて空気のようじゃ。」
「妾とて、好きで来たわけではないぞぇ? 以前、いづるから連絡が来た時、汝と妾は留守伝状態であったろう? ゆえに"劔"の奴が代わりに動いた。その事もあったゆえ、今度は妾の出番だと劔から釘を刺された。」
「ふふ、そうであったか。なるほどのぅ、それなら仕方あるまい。では鏡よ、武田信勝という若者を少し助けてやってはくれぬか? ニニギの末裔でもある若者ゆえ、我らにとっても他人ではない。」
「そうか。ニニギの末裔とはのぅ……。なら、少しは骨を折っても良さそうじゃの。……あ、言わずとも良いぞ、妾には、"この世界"でのヤマト国の様子を見調べ、信勝とやらに伝えればよいのであろう? 容易いことじゃ。」
後に"御鏡様"と呼ばれる事になる、サーナと"どことなく似た"存在が信勝の後ろ盾となった事で、信勝は誰がどこで何を考え、画策しているかを事前に知る事ができたのである。
そこから得た情報で、信勝は従兄弟でもある北條氏直が岩殿方面に進出する準備をしている事を知る。小山田や河尻亡き後、岩殿の国人衆は北條を頼る事を決めていた。
これは岩殿の国人衆の小山田家統治時代からの特殊性ゆえの判断であり、この事に関して彼らを非難するのは筋違いと言えた。
この頃、既に信長を倒した光秀が秀吉に倒され、行方知れずとなった(いづるが関与している)事を知っていたサーナ達は、すぐに甲信地域に中央からの干渉が無い事を信勝に告げ、これを聞いた信勝は一気に動く。
父勝頼が作りかけ、そして破却した新府城跡を抜け、一気に甲府に到達。そこで、信玄以来の軍旗"風林火山"を掲げると、真田から借りた草の者に『甲斐は武田家が得た。本来の主が帰還した。』と言い触れ回る様に指示を出す。
あとは時間との勝負。信勝の下にどれだけの旧臣が集まるか?織田方によって焼かれた"躑躅ヶ崎館"に代わり、かつての本拠地だった"石和城"に入城した信勝は、時を待つ。
初めに馳せ参じたのは、かつて大菩薩峠の手前で離脱した天目山の生き残り組であった。彼らは必ず武田が戻ると信じており、勝頼の御首(偽物)が晒されても、まだ信勝がいる。信勝が戻ってくれば、すぐにでも参じる準備をしていたのだった。
その後、潜伏していた旧臣やら、徳川に仕えていた者やらが、次々と帰参して来た。その中には、本来の歴史で"大久保長安"と名乗る事になる筈の人物の姿もあった。
また、身延山の日蓮宗の高僧達も信勝帰還に伴い、協力を申し入れてきた。これを受け入れて、甲斐の西部は武田の支配下となった。このため、駿河方面の徳川勢は、甲斐への進出を当面見合わせる事となる。
もっとも、徳川勢は信濃の伊那谷方面には進出を始めており、信玄以来の有力家臣だった保科家を取り込んでいる。また、諏訪地方も、旧主である諏訪氏の生き残りが旗を掲げ、徳川方に属する事を鮮明とした。
木曽は半独立(後日、秀吉に属する)、北信濃は武田家に属した真田家を別とするなら、位置関係から上杉氏に属する者も居たりと混沌としていた。
この時の信勝がすべきことは、甲斐東部、岩殿の領有をどうするかを北條氏直と話し合う必要性。そして、徳川勢と何とか不可侵の約定を結べないかという可能性を探る事であった。
もっとも、仮に合戦に及ぶ事態が起きても『私と土の、いや土屋つむは(紬花)の二人が居る。例え十万の軍でも返り討ちにしてみせよう。』と、火倉丁火が宣言していた事もあり、信勝は冷静でいることができたのだった。
なお、ちなみに小諸城を陥落させた張本人は火倉丁火その人だったとか。彼女の"火の鬼の王"としての力は凄まじく、単騎で城内に突入すると、織田方の兵が勝手に自然発火して炭になるという"異能"を示したという。
これには信勝も阿部加賀守も、越後から馳せ参じた叔父の武田信清らもドン引きする程だったという。そんな状態で信勝はサーナに一体どういうからくりなのだ?と訊ねている。
するとサーナは『火の鬼の王、この世の全ての火に関係する物を統べ、司る。例えば熱、光。今回は小諸城内の"熱"を支配下に置いたに過ぎん。』とだけ答えたという。
その言葉に信勝も理解しない訳にはいかなかった。つまり"小諸城に詰めていた織田方の兵一人一人の体温を操り、自然発火に至らしめた"という事を意味していたからである。
紬花も後日『純粋に強さだけなら、火と水が強い。その次が風。私は一番弱い。』と信勝に述べており、天目山で織田方二千を蹴散らした者ですら、自身を一番弱いと語る姿に、信勝は改めて戦慄を覚える事になる。
とは言え、彼らが自分達に取って代わるとか言う考えを持たない事は、信勝には幸いに働いたと言えるだろう。
この後、北條氏直との間で因縁の地、天目山の麓で会談を持ち、岩殿領の(信玄の外孫としての)氏直の領有を認めた上での同盟の再締結(氏直からすれば叔母である勝頼夫人が無事である事をこの時、氏直は知らされる)を行い、東部勢力圏の安定を果たすと、今度は身延山の高僧達を仲介として徳川家康とも会談に及ぶ。
もっとも、この時家康は光秀を滅ぼし勢力拡大をする羽柴秀吉に対する備えから北條との同盟を結んでおり、その北條が武田との同盟を復活させた事で武田と争う場合ではないと判断。
ウルトラC的な武田徳川の不戦同盟の締結に持ち込む事となる。この後、家康は麾下に入っていた保科や諏訪氏に武田と争うなという指示を出している。
これらの動きの結果、甲信地域での勢力範囲がほぼ確定する。武田家は婚姻関係で北條、上杉と同盟を回復。更に徳川と不戦同盟(実は穴山信君が死に、未亡人となった見性院を家康の後添にと勧めた者が居たため、図らずも家康は信玄の娘婿になってしまった。なお、穴山信君の息子も既に亡くなっている。)が結ばれた事で、領地経営に暫く専念出来る状態となった。
この段階まで持ち込めた事で、暫く武田家を脅かす者がいない事を見極めたところでサーナ達も元の世界に帰還する事となる。いづるとは異なる方法で世界移動ができるサーナであったが、帰るにあたり信勝にとある道具を渡している。
「ん? この筒のような物は一体……」
「うむ、これは他の者には内緒じゃが、心を込めてこの筒を上から下へと振り降ろせば、ちょっとした門を作り出せる。それは勝頼達が居る世界直通の門じゃ。」
「何と!? それでは何時でも父上や母上らと会えるということですか!?」
「まあ、そう言う事よな。いづるの奴は自分の他にも違う方法ながら世界間移動が、更に時間軸間移動ができる者がいる事をもっと重視すべきなのじゃが……やれ、ポンコツだの何だの言い腐りよる。」
「あの娘、天上天下唯我独尊を体現しているところがあるみたいですね。正直不快に思わなくもありませんが、命の恩人なので今は我慢しておきましょう。」
「信勝、そなたは正直じゃのぅ。今は若いゆえにそれでも良いが、この時代を生き残るには知恵を用いる必要もあろう。あの真田とやらを上手く用いるが良かろう。癖のある男じゃが、役には立つハズ。」
「真田安房守ですね。最近、息子の一人を私の近くに仕えさせると記された手紙を受け取りました。おそらく次男の信繁殿でしょう。亡き大伯父の典厩様と同じ諱を持つ男です。」
そう語る信勝を見て、サーナは「ほ〜ん、真田信繁とな? ……ふむふむ、多くの世界で"真田幸村"と呼ばれておる者か。ならば、大丈夫であろう。』と、心の中で呟く。
そして、サーナは鏡と呼ぶ者や火倉や紬花。そして、珍しく草の者的な働きをしていた水梨鈴鹿らを周囲に集めると、信勝視点で見た時、彼らの周りの空間が歪み始める。
そして、去り際に『信勝よ、次に合う時は立派な領主となっているのだぞ。勝頼達が様子を見に来るかも知れぬからのぅ〜。』と述べ、次の瞬間、フッと姿を消すのであった。
彼らが去り、虚空を見て物思いに耽る信勝……だったが、次の瞬間、目の前に突然雷が落ちてきた!
何事かと城中騒ぎとなる中、阿部加賀守が真っ先に信勝の居た場所に馳せ参じる。
すると、そこには思わず尻もちを付く主君と、前にも見たような光景の中で何やら言い合う二人の人物が居たのであった……
「東雲殿、貴殿が私を連れ出した時もだが、帰って来る時もこんな調子では、身体がいくつあっても足りぬ。」
「うっせぇぞ金柑頭! 髪の毛バッサリ無くなって益々金柑になったんだから、文句言うなよ! やっぱり金柑坊なんたら〜って名乗るべきだぜ。」
「やめろ、そんなへんてこ法名なんぞ此方からお断りだ。」
この様なやり取りを目の当たりにして、尻もち付いたまま唖然とする信勝。その彼の側に寄り、言い争う二名の人物に『武田家当主たる信勝様の前で詰まらぬ喧嘩をするのは控えよ! 特に東雲殿は口が悪いのだから尚更だっ!』と叫ぶ阿部加賀守。
その叫びに気づいたのか?東雲いづるは『お、阿部加賀守じゃ〜ん。おひさ~って、こっちの時間軸だと、アタシらが勝頼のオッサンを連れ出してから、そんなに時間が経過してなかったんだっけか。』と、反省する気ゼロのいづると、見慣れぬ一人の僧侶の姿があった。
いづるが語る意味がよくわからない信勝と阿部加賀守の二人。程なく騒ぎに気づいた家臣が何人も集ってくるのだが、その中には天目山でいづるを見知っていた者も居て、思わず『うわぁ!? 天目山の山姥だか鬼だか、とにかく信勝様達を助けた奴だ!』と叫ぶ始末であった。
石和城の広間、上座に座る信勝に、いづるは改めて一人の僧と対面させた。
その僧……自らを"南光坊天海"と名乗り、勝頼から預かった手紙を信勝に渡した。
その手紙を読み進めながら、信勝は『なるほど、天海殿を我が武田家の菩提寺の住職とするようにと、父上が勧めているようだな。あと、何か困ったら知恵を借りるようにとも記してある。』と述べる。
阿部加賀守が『勝頼様……いや、ご隠居様がわざわざ手紙を記して紹介するとなると、只者ではありますまい。失礼だが、御坊はどちらの生まれで?』と訊ねると、天海は『美濃です。私の一族は私が若い頃に斎藤親子の争いに巻き込まれて、多くが死にました。何とか生き延びて、諸国を巡って色々あって僧となった次第。』と答えている。
その間、何やらいづるが言いたげな表情をしていたが、何とか口に出さないようにしていた。しかし、信勝はいづるがそんな態度を示している理由を理解していた。なぜなら、手紙には天海に関する情報が記されていたからである。
それと、信勝が気にしていたのは、いづる本人の纏う雰囲気が以前会ったときより少し落ち着いているように思えた為であった。それだけでなく、少し身体が大きくなったようにも見えていた。
面会を終え、いづるはすぐに帰ると述べる。阿部加賀守が少しはゆっくりしても良いのでは?と述べたが、いづるは『いや、今回はその金柑頭を信勝の下に置くためなんだよ。だから、すぐに帰らないと。』と語るなり、身体から妙な煙が噴き出し始め『そんじゃアタシ帰るわ。とりあえずその坊さんの事よろしく頼むわ。』と述べた直後、ポンッと軽い破裂音と共にいづるの姿は消えており、その場には紙製の人依代だけが残されていた。
唖然とする阿部加賀守を横目に、信勝は天海の側に寄り『とりあえず父上の指示に従い、我が武田家の菩提寺の住職になって頂きます。今はまだ、表に出る時ではないでしょうから。南光坊天海、いや明智光秀殿。』と小声で語り掛けると、彼は『その名は捨てましたので、天海とお呼び頂けると助かります。』とだけ答えたのであった……
いづるの世界で数年が過ぎ、武田勝頼は"武田神四郎"と名乗り、土屋、小宮山、秋山らを使用人として、"小躑躅館"という屋敷を構えていた。
そんな中、北條夫人が懐妊し、いよいよ臨月を迎えていた……
『奥方様……あ、此方では奥様か。いまいち慣れぬが、それにしても東雲殿は一体どこの空の下に居るのやら。紬花は諏訪に居るから動けないと聞くし。何度か水梨殿らが見舞いに来てくれた事が幸いというべきか。』
土屋惣蔵昌恒は、この様な愚痴を吐きつつ、分娩室の前でうろうろしていた。
その姿に、小宮山や秋山が呆れた表情を見せており、神四郎も『戦場では無類の豪傑も、こういう状況では何ともならんな。』と、どことなくからかい気味に語る。
それを聞き、昌恒は『大殿、それはあんまりな言い草ですぞ。それがし、今でも武田家のためなら命投げ出す覚悟はできてござる。』と述べたが、即座に小宮山や秋山らからも『それは自分達も同じだぞ!』と言われ、突っ込まれる有り様であった。
まさにそんな時、分娩室から強い命の声が聞こえた。
それは新たな、そして本来なら産まれ出る事が無かったハズの命の声であった。
程なく、助産士が現れ『おめでとうございます。とても元気な女の子ですよ。』と述べると、神四郎は『おお、姫が産まれたか。男子でないのは残念だが、これも天の采配というものだ。』と語ると、土屋、小宮山、秋山らが恭しく片膝を付きながら次々と『おめでとうございます。』と言い、助産士さんを困らせるのであった。
その後、神四郎は横になっていた夫人と、産まれたばかりの赤子に関して話し合っていた。
それは勿論名前をどうするか?であった。この世界では元服という概念が形骸化しており、初めに付けた名前が一生の物と聞かされていたからである。
男子であれば武田家の通し字たる"信"の字、または嫡子信勝の"勝"の字を入れた名前とするつもりだったが、女子という事もあり、どうするか考えていた。
そんな中、北條夫人は小躑躅館の近くに桜の木が茂っている水源公園がある事を思い出し、桜の字を付ける事を勧めた。
神四郎は『桜姫……か。う~む、悪くは無いのだが、もう一押し欲しいところだな。ここでは女子でも二文字以上の文字数の名前の女性が数多居る。そうなると……』と語るなり、少し前までの土屋同様うろうろし始める。
その様子を黙って見つめる夫人は、言葉には出さなかったが、子供の名前を真剣に考えるその姿に『この方の妻となって良かった。愚直なところがあるけど、根はとても真っ直ぐな方なのですから……』と改めて惚れ直していたようであった。
そして、ピタッと止まった神四郎は夫人と赤子を見て『決めた。この姫の名は"光る桜"で"光桜"姫だ。我ら甲斐源氏の祖、新羅三郎義光公に肖り、一字を拝領する。これなら、亡き父上達にも顔向けができよう。』と告げると、夫人もそれに賛意を示すのだった。
―― この日から十七年を過ぎた頃、美しく成長した"武田光桜"は、老齢となった土屋達三人や両親に見守られて"山の上の学校の生徒会長"という地位を得ていた。
この間、たびたび腹違いの兄でもある信勝がサーナから得た道具を用いて顔を見に来るという事が何度となく起きていたり、友人と言える者達を何人も得たり、都の"碧月帝"に拝謁する機会を得たりと、騒がしくも楽しい時を過ごしていた。
そして……
「千斬のオッサンだけでなく、他の奴らもまだ生きてるのかよ。」
「いづる、簡単に、死なない人間。それがあの人たち。」
邸宅内の自室で、生徒会のメンバーでもある"馬場野舞歩"と宿題をしていた光桜は、外から聞こえたこの会話を聞き、以前より周りの者達から、更に碧月帝から聞かされていた"みんなの恩人"が来た事を確信する。
その時、野舞歩の不快な表情に気づかぬくらい、自室から彼女は玄関へと向かうのだった。心の中が浮かれている事を隠しながら……
天目山での会合と、運命の転変により、一人の少女は、護国の鬼姫と呼ばれた破天荒な女性と出会う。
それは、その少女 ―― 武田光桜 ―― が、碧月帝より聞かされた白銀の髪、鬼灯を宿した瞳を持つ"御媛"と後々関わりを持つ第一歩となるモノだった。
―― 運命の歯車、ここに動き始める ――
ー おしまい(つづく) ー
この後書きを見ているという事は、65000文字の山を越えてきた勇者だという事になります。
貴重な時間を割いて読んで頂き、誠にありがとうございます。
書き始めた時、まさかここまで長くなるとは思いにもよらず、戦国時代恐るべしと思ったものです。
※なお、最後になりますが、史実の人名などについては、天目山の麓にある関連史跡などをグーグルマップで確認し、更にクチコミの内容なども参考にしました。改めて、そういう方々の知識や、記録などを残した地元の人々に敬意を表したいと思います。ありがとうございました。