7.襲来
日もとっぷりと暮れて、夜半近く。村は静まり返っていた。
「代わろう」
教会の扉の前。見張り番に立つ一人に、中から出てきた村長が声を掛けた。
「村長。あんたは中にいた方が……」
「儂とお前さんじゃたいして変わらんだろう。少し休め。年寄りには夜風が冷たいじゃろう」
「あんたが言うかね」
村人が笑う。
「三時頃にまた代わってもらえばいい。それまで儂が立つ」
「そうか。すまんな」
男は村長に槍を渡して、教会の中へ入って行った。
教会の広間に居る者たちは、緊張と疲れから大半の者は眠りについていた。壁に灯されたわずかなランプの明かりの中には、時折寝苦しそうに寝返りを打つ者以外、動く者は居ない。
シリルは祭壇の前の椅子に杖を手に座って、目を閉じていた。仮眠の状態だったが、杖を通して結界の圧力を感じてはいた。結界を支える、というのは、軽業師が長大な竿を額やあごで支えてバランスをとるようなこととある意味似ていた。精神力、魔力により、結界という構築物のバランスを取ること。
単にこのままの状態でいるだけなら、夜が明けるまで持ちこたえるのは、若い修道士なら、きつかろうともできるはずだった。
***
エクトルは石門の上の見張り台に立って、緩やかに峠を下っていく街道を見ていた。石門には、矢来と、その後ろに大砲を置いて、傍にはリュカが張り付いていた。
村の守りは、魔物の来る、西側に集中させていた。後は、結界頼みと言ってもよかった。
エクトルの視線の向こうには、折り重なった峰々が暗く北へと連なっていた。その果てに白く高い嶺が、雲もなく晴れ渡った星空に、ほの白く浮かんでいる。
振り返ると、教会の鐘楼の上にエルミラが立っているのが見えた。少し首を前にだして、遠くを窺っている。エルミラの目には遥か彼方の魔物の群れを見ることが出来るようだった。
”くるぞ”
エルミラの声が、耳にではなく、エクトルの頭に響いた。結界の中、その頂点にいるエルミラが発した警戒警報は、エクトルのようにはっきりと言葉として受け取るものから、言葉としてとらえられない者たちも一瞬で緊張させる音のようなものとして受け取っていた。
教会の中では、シリルが杖を両手で持ち、座り直し、敏感な者ははっと、眠りから目覚めて顔を上げた。
南の結界の縁にあたる村の広間の一角では横になっていたクリフがさっと立ち上がって剣を構え、ネイサンが弓を、ケントが槍を持って身構えていた。
エクトルも、夜目の効く自分の目で、暗い峰々を見渡した。わずかに、東の峰と空の間に、雲が沸き上がっているように見えた。それは次第に広がりを持ってこちらに近づいてくる。
「確かに、黒雲のようだな」
「え、何か見えたんで?」
傍のカイルがエクトルの視線の先を見る。
「なんか、雲が動いているようにしか……」
「あれが、そうだ」
やがてそれは嵐の黒雲が迫るように、遠くの峰を覆い隠し、星空を半ば覆うほどになった。
その時、エクトルは、鳥のようなものが、空の高みを滑るように峠から飛び去って行くのが見えた。小さな村など、意に介さないような速さだった。
――帝都へ先導しているのか?
『おそらく、そうであろう』
エクトルの心のつぶやきに、”影”が答えた。結界が張られたためか、魔物が近づいたからか、”影”との会話が増えていた。
そうしている間にも黒雲のような群れは峠に迫り、やがては空を覆い隠すほどになった。そこまで近づくと、雨音のような、ザーッという、大小の飛翔する魔物たちの羽音で村は覆われていた。
「うわ!」
思わずカイルが剣を顔の前にかざしたが、羽虫の様な群れは、結界に阻まれて二手に分かれて通り過ぎて行った。大きな鳥か、蝙蝠のようなもの達は、結界にぶつかって落ちたりしつつ、峠を越えて飛び去って行った。振り仰ぐと、空の高いところには飛竜の姿も見えた。蝙蝠のような羽を広げ、飛び去って行く。なだらかとはいえ、峰に連なる一角だけに、飛行能力の高くないものが麓から雲の様に風に乗って沸き上がるように峠を、村を、通り過ぎて行くのだった。ここまで来て弱り、力尽きたものがそこここに落ち、うごめいている。
「街道の正面からくるぞ」
エクトルがカイルに言った。空を飛ぶものたちはまだ尽きなかったが、先ほどよりは数を減らしていた。その代わり、地を走り、這うもの達が峠へと押し寄せて来ていた。峠道を疾走するのは、魔術によって変容させられた狼、魔狼の群れだった。
石門を潜ろうとして、見えない結界によって弾かれて、二手に分かれる形で村の石壁の周囲に沿うように走り去っていった。
足の長い、巨大な犬のようなものや、牛や獅子に似た、何か改造を施されたキメラと言うようなものも現れた。それらは結界や石壁を突き破るかというような勢いでぶつかり、石壁も揺らいだ。中には石壁を駆け上ったり、飛び越えるような跳躍を見せるものも居る。入り込んだそれらは、出口を求めて村の中を走り回り、結界の外の家々にぶつかり、扉や窓を壊し、人のいない家屋や庭を荒らした。結界のない町などをこれが襲ったら、阿鼻叫喚を呼んだことだろう。
「ありゃあ、人か?」
カイルが指をさす。二本足で動くものが軍隊の隊列というにはあまりにも不揃いな歩調で進んでくる。奇妙にぎこちない動きだが、意外に素早く、人の駆け足くらいの速さで近づいてきた。それは木製の武具をまとい、槍のようなものを持った、兵士というには貧弱な武装の集団がぞろぞろと進んできた。それは結界にさえぎられて、寄り集まってうごめいたあと、左右に分かれて移動していった。近づいたものを見ると、すべてが顔には仮面のようなものを付け、棒に金属の穂先を付けただけの粗末な槍を持っている。
エクトルは、これが傀儡兵というものか、と、話に聞いたことはあるものの、初めて目にしたのだった。木偶に獣の血肉を与えて魔術によって生あるもののように動かすという。
『……出来の悪い木偶じゃな……』
”影”がさげすむように言う。普通の剣士でも一度に数体を相手にできそうだったが、恐れも疲れも知らないうえに、とにかく数が多かった。もう数百体は通り過ぎたたかと思われたが、まだ途切れずに峠を登ってくる。これほどの数をどうやって作ったのか。
と、そのとき、どん!と、石門の上の見張り台が揺れるほどの衝撃が襲った。がらがらと石壁が突き崩される音。見れば、大きな黒い影が石壁に伸しかかっている。
「地龍だ!」
どこからか声が聞こえた。人の背丈の倍以上ある石壁に前足を掛けて突き崩して入ろうとしている。結界の南側に近い石壁だった。
「あんなでけえ地龍は初めて見た……」
カイルが呆れたような声を出した。地龍は半分ほど壊したところで村の中に侵入していった。見ると、その後にも地龍は続き、北側の石壁にも取り付いている。侵入した地龍は、石造りの家屋の壁を突き崩して進み、反対側の石壁に取り付くと、これも突き崩して外へと出て行った。後に続くものが、さらにそれを広げる。地龍によって広げられた石壁の割れ目から、傀儡兵や他の魔物も侵入し、村の中は魔物があふれ始めた。
そのうち、一頭の地龍が道をそれて進み、結界と対峙した。手がかりの無い壁に苛立ったのか、体当たりして強引に進もうとする。
「まずいな、結界が……」
エルミラが結界の形を維持しようとしたが、内でささえるシリルは負担に耐えられるかどうか。
***
外の物音に目を覚ましたクレアは、ふと、部屋を誰かが移動する気配に気が付いた。
「……あれ、お母様?」
ベッドに寝ていた母が起きて外へ出ていく。クレアは眠い目をこすりながらベッドの上に起き直った。隣で寝ている兄は母の看病などで気を張っていたのか、今はぐっすりと眠っていた。
そっとベッドを抜け出し、母の後を追った。先を歩く母は白い下着姿でだらりと手を垂らし、暗い廊下をゆらゆらと揺れながら歩いている。
「かあさま?」
普段の母とは異なる様子に、すこし怯えて小声で呼びかけたが、声は届いていないようだった。
母はそのうちに教会の広間へやって来た。真っ直ぐに、祭壇の前のシリルに歩み寄っていく。
シリルは杖を両手で支え、結界のバランスを維持するのに懸命だった。近づく人影に気が付いた時には、目の前に顔があった。
「……シルビア様?」
クレアの母、シルビアは半開きの目でシリルの肩に手をかけるとゆっくりとその手を首に移動させた。シリルはその手の冷たさに怖気を振るった。
「何を、なさい、ま、うっ!」
細くて白い手にこんな力があるのかと思うほど強くシリルの首を締めあげた。シリルは何が起こっているのか、混乱しつつ、かろうじて杖は離さずにいた。しかし、冷たくやわらかな手はその力を強め、次第に意識が遠のき始めた。目の前に触れそうなほど近くにあるのが、美しいシルビアの顔であるというのが、自分が何をされているのか次第に混濁してきた。
「かあさま!」
半泣きになってクレアが叫んだ。その叫び声に、アルマが目を覚ました。
「クレア? どうしたの?」
起き上がったアルマは、クレアの母がシリルの首を絞めているという光景を理解できずにいた。その腰にすがってクレアが泣いて揺さぶっているが、意に介さない様子だった。
「何事です?」
騒ぎにケイシーがやって来た。
「何をなさるんですか!」
シルビアを止めようと手を掛けると、シルビアはケイシーを片手で掴んで投げ飛ばした。長椅子に打ち付けられてケイシーは呻いて横たわった。縋りついていたクレアも転げて呆然と母を見つめている。
アルマは、教会を飛び出した。
「ん? どうした?」
扉の前で張り番をしていた一人が飛び出したアルマに声を掛ける。
「アルマ! どこへ行く!」
村長の声にも立ち止まることなく、アルマは一散に走って行った。