4.始まりの日
二階ではアルマが静かな寝息を立てていた。エクトルはその寝顔をみていたが、ランプを消すと、もう一つのベッドへ潜り込んだ。
酒が入っていたにしろ、今日は妙に饒舌だったな、と、エクトルは我ながら可笑しく思えた。
その酒もあり、野宿で済まそうと思っていたのが、宿をとったこともあって、ベッドでぐっすりと眠ることが出来た。
どれほど眠ったのか、エクトルは暗がりの中で夢と現の間にいるような奇妙な状態に居ることに気が付いた。意識はあるが、体は動かない。まだ夢の中にいるような心地でもあった。
『……やれやれ。お主と話をするのも面倒なものだ。目覚めておる間は、儂が話かけてもお主が聞く耳を持たねば会話もままならぬ』
――お前か。何の用だ。
エクトルはそこにいないはずの人物が、ベッドの傍らに立つ姿を見ていた。マントにフードを深くかぶり、顔は判然としない。しかし、これは幻のはずだ。
『酒場で小娘を助けたばかりか、魔物退治を引き受けるなぞ、旅に出たばかりの青二才でもあるまいて。何を考えておる』
”影”はベッドに眠るアルマを指さす。その腕は、骨に皮が張り付いたミイラのようだった。
――ただの気まぐれだ。
実際、エクトルにもそうとしか言えなかった。
『そうであろうな。じゃが、この宿に来て、分かった。これは女神マリソルの御導き。お主の運命じゃ』
――どういう意味だ?
『あの奴隷女じゃ。あれは羅針儀。お主の行く末を指し示すであろう。ノルティアにオリントと旅を続けて、よもや、このような場末の宿で出会おうとは。分からぬものよ』
エクトルは、”影”の言葉に戸惑っていた。羅針儀? ノーラが?
『お主は南を目指しておったが、あの女と共にあらねばならぬ。女神マリソルの”使女”と出会いを望むのならば』
――女神マリソルの”使女”に会いたいのはお前だろう。それに俺は今、北へ向かうことになっているん
だ。
『そうであったな。なに、事が終わればまたこの宿へ戻り、女を連れて南へ行けばよい』
――勝手に決めるな。
『……あがいたところでそうなろう。まずは、北で不肖の弟子の成したことを見届けるのも一興か……』
”影”は、エクトルの言葉に耳をかさず、しわがれた声で低く笑った。
『……お主と儂は一蓮托生、その目と腕と、《《ここ》》に居る儂の力を借りてこの先も生き残って行くがよい……』
”影”は、エクトルの額の宝石を骨ばった指先で突いた。その時、フードの中の、骸骨の様な笑い顔が浮かび上がった。
エクトルはゆっくりと目を開けた。部屋の暗がり。ベッドの脇には誰も居ない。
ベッドを降りて、窓辺へ向かうと、そっと扉を開けた。冷たい空気がすっと入って来た。遠く、東の空がわずかに赤く色づいている。
――朝っぱらから嫌なものを見せてくれる。
うんざりしつつ、静かに扉を閉じてた。アルマはまだ静かに眠っている。エクトルはそっと部屋を出た。
階下では、もうノーラは起きて、朝食の支度をしていた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「おはよう。早いな」
「お早くお発ちになるとのことでしたので」
エクトルは、”影”の言った事をぼんやりと思い出した。
「どうかなさいました?」
だまって顔を見つめるエクトルに、ノーラはそういって小首を傾げた。
「いや、何でもない。俺は、厩へ行ってくる。それまで、あの子を起こしておいてくれるかな」
「はい。お任せください」
ノーラはそう言って微笑んだ。
「支度は済んだか?」
食事を終えて、着替えたアルマにエクトルは言った。酒場で見たときと同じ服装だったが、どこか小綺麗になっている。
「服も靴もいいにおいがするんだよ」
アルマは笑顔でそう言った。ノーラが服は洗い、靴も磨いて香油を染み込ませていた。黒かった帽子は、アルマの髪と同じ色になっていた。アルマは巻き上げて帽子の中に入れていた髪を、今はそのまま背中に流し、リボンで結んでいたので、遠目にも女の子らしく見えた。
「これは、お昼に食べて下さい」
ノーラが包みを渡す。パンと薄切りのハムに干し肉。チーズと小さな林檎、蜂蜜の入った瓶。
「すまんな」
包みを受け取って、エクトルはノーラを見つめた。
「俺はこの子を連れて行って、用事も済んだら、またここに戻ってくる。今度は、南へ、砂漠を超えてノルティアへ行くつもりだ」
「そうなのですか」
「君は、解放奴隷となっても、行く当ては無いと言っていたな」
「……はい」
「では、俺と一緒にノルティアへ行かないか?」
「え?」
見開いた目が、紫色の目を見つめる。
「今返事をしなくてもいい。俺が戻ってきたら聞かせてくれ」
戸惑うノーラにそう言って、外へ出た。後から付いていくアルマは状況を分かっているのかいないのか、妙に嬉しそうな顔をしていた。
「これに乗るの?!」
外に出たアルマが、柱に繋がれているものを見て声を上げた。
「ああ。モアという鳥だ。ノルティアでは良く使われている。車を引くには向かないし、馬ほど早くは無いが、悪路を苦にしないから、一人旅には良い」
アルマは自分の背丈より背の高い鳥を見て目を丸くしている。ボレアスの北の地方では滅多に見かけることもないものだった。
「モアっていうの?」
「モアは鳥の種類だ。こいつはトンブという」
エクトルがひらりと跨ると、アルマを引き上げて後ろに座らせた。
「では、行ってくるよ」
エクトルがノーラに言った。その後ろにアルマがちょこんと座っている。
「おねえちゃん、ありがとう。行ってくるねー」
アルマが手を振る。ノーラもそれに答えて胸の脇で小さく手を振った。そうして、エクトルと目が合うと、気恥ずかし気に、戸惑うように、目を逸らした。
エクトルは何も言わず、トンブを歩かせた。アルマは道の角になってノーラが見えなくなるまで後ろを向いて手を振っていた。
***
「天気も良い。思ったよりも早く着きそうだな」
空には筋状の雲が風にたなびくように流れ、涼しい風は、木々や野の草花の息吹を運んできた。
二人は街道をしばらく進んだ。あまり見慣れない鳥の乗り物に、道行く人が時折振り返ったりする。それをアルマはちょっと照れ臭そうに見ていた。
エクトルがトンブの歩調を少し早めた。アルマは、風になびく髪を少し気にしていたが、そのうちにトンブの歩調にも慣れて周りの様子を眺める余裕もできたようだった。
「あ、峠がみえるよ!」
アルマが指さす先には、白く雪を頂く嶺へと続く尾根が大地から這い伸びて、途中、馬の背のように緩んだあたりだった。そこへ、北西へ向かうにはこの先はこの国の都へ、さらには帝都へと、北東に向かう街道を逸れて脇道に入る必要があった。
今は脇道となっている古い街道は、峠を越えて、ボレアスの北部地方のユノー公国へと向かう街道だった。今は、それよりも南に谷を削って作られた街道があり、これまでエクトル達が進んできた街道と繋がっていた。
帝国の首都、ネーヴェへ続く道の大半は石が敷き詰められているが、主要な行路としての役目を終えて数百年の月日が経った古い街道は、荒れた砂利道のようになっていた。そんな道でも、トンブは気にした様子もなく足を運んでいく。
「あそこから川を渡って行った方が近いんだよ」
道は川沿いに進んでいたが、川を渡る橋は遠くにあると見えて、山すそを曲がる先まで橋のようなものは見えなかった。アルマが指さす方は、なるほど、人の行き来があるらしく、川へ向かう道のようなものがあった。エクトルがそちらへ向かうと、川は中洲で分けられて細く、浅くなっていた。雪解けの水でやや流れは速いが、トンブには無理なく渡れそうだった。水に足を浸けたトンブが、クケェ、と珍しく声を上げた。飛び跳ねるように、そこを渡る。揺れる背の上でアルマはエクトルにしっかりとしがみ付いていた。
「これは、馬で行くには無理な道だな」
川を渡った先には、山の斜面を巻いて這い上がるような細い道が付いている。
「進めないの?」
「こいつなら、大丈夫だろう」
ゆっくりとトンブは道を進む。細い道は、向こうから誰か来たらすれ違うのも難しそうだったが、その気配は無かった。休みを多くしつつ進む。次第に道は高さを増し、やがて登り切ったところで展望が開けた。星降峠も近くに、見上げずとも見えるようになった。振り返ると渡った川が小さく細く流れ、街道の先の谷あいの宿場町は霞の中に見えなかった。
「もう午だ。飯にしようか」
降りて革袋の水を飲むと、エクトルはアルマをトンブから降ろして、アルマにも革袋を渡した。トンブは草の新芽をついばんでいる。二人はちょうど椅子の様にならぶ岩に腰を下ろして、ノーラの渡した昼食を食べた。エクトルは干し肉を幾つかトンブに投げて寄こした。それを面白そうに眺めながら、アルマは薄く切ったチーズとハムをパンに挟んで、エクトルにも渡し、自分も食べ始めた。二人で食事をしていると、山を吹き抜ける風はまだ冷たかった。これから向かう先のことを考えると、物見遊山にでも来たかのような気分になりそうな自分たちを冷ますかのような風だった。
食事の済んだアルマは、トンブの胸の和毛を触ったり両手で抱き着いたりしている。そんなアルマを見ながら、エクトルは林檎を齧っていた。
「エクトルは、いろんなところを旅してきたんでしょ?」
アルマがエクトルの傍に座ると、摘んだ白詰草を弄りながら尋ねた。
「ああ。ノルティアで生まれて、オリントにも行ったな」
「じゃあ、妖精は見たことある?」
「ああ。生まれた村の近くの山に居た」
「ほんと? 妖精って、ちっちゃくて、ほんとうに羽が生えてるの?」
興味津々と言った様子でエクトルを見つめる。
「あいつらは、見た目は羽の生えた小さな子供みたいで、悪戯好きだ。山の中で寝たりすると、顔に落書きしたり、荷物を木の上に掛けたりする」
「ほんと? かわいいな。見てみたいな」
「ノルティアの妖精は、羽が二枚ですばしっこい。今はもう数が少なくなって、滅多に会えないだろうな。オリントにも妖精がいるが、そっちは、羽が四枚で蝶のように飛ぶ。人の言葉も話せる。悪戯はしないが、人に説教したり、ちょっと生意気だ」
アルマは笑い声を上げた。
「いいな。ここにもいればいいのに」
「ボレアスにも昔は居たそうだ。大昔に戦があったときに、月の女神マリソルが月へ連れて行ってしまったので、居なくなったという話だ」
「ふうん」
アルマは少し寂しそうに呟いた。