3.宿の夜
「足が肉刺だらけじゃない。しみるけど我慢してね」
服を脱がされて照れているアルマを湯舟に入れて、ノーラはてきぱきと洗っていった。髪はほどいても首筋に垂れただけで固まっていた。それに湯をかけ、洗っていく。赤毛の長い髪が背中にまで流れた。
「綺麗な髪ね。アルマだったわね?」
ノーラは話しかけながら、それとなくアルマから話を聞き出した。星降峠から来たこと。魔物退治を請け負う者を探していたこと。酒場での出来事。
「親子じゃないのね」
アルマはエクトルのことを疑っていないようだったが、明日の朝に通りを渡ってどこぞの店に出向かないとも限らなかったし、幼い子供に手を出すような男でないとも言えない。
そういった疑いを無くすためにアルマと二人きりにしたのか。あれこれと考えるうち、アルマの体を洗う左手に鉄の輪を見て、ノーラは自分が考えても詮無い事だと、考えるのを止めた。
「手も傷だらけね。足と手には香油を塗っておくから、明日には良くなるわ」
ノーラはアルマには少し大きいが、白いローブを着せて帯を締めた。鏡の前の椅子に座らせて髪を丁寧に拭き、梳かしてリボンで軽く結わえた。
「さあ、これでいいわ。あなたのそばかすなら、大きくなるころには無くなってるわ。あなた、綺麗な娘になるわよ」
ノーラはアルマの後ろから両手で頬を抑えるように前に向かせた。アルマは、鏡に映った姿に驚きと照れくささで赤くなった。
「……ありがとう」
鏡に映るアルマはそう小さくつぶやいた。
食事の用意が出来たとノーラが告げに来て、エクトルが食堂に降りると、白いローブを来たアルマがもう席に着いていた。
「おや、見違えてしまうな」
アルマは照れて視線をそらした。食事はスープとパン。それと鶏肉の燻製もテーブルに乗っていた。
「俺は酒場で食ってきたから、スープだけでいい。その子に食わせてやってくれ」
アルマは最初は遠慮していたが、さすがにお腹が空いていたと見えて、がつがつと言わないまでも勢いよく食べた。エクトルが半分飲まないうちにスープ皿は空にしていた。
「おかわりは?」
ノーラに言われてこっくりと頷く。二皿目は幾分落ち着いてスプーンを動かしている。
「明日は日が昇る前に発とう。星降峠には、夕方には着きたい。良いかな?」
エクトルの言葉に、アルマはスプーンを止めて、真顔で頷いた。
「差し出がましいとは思いますが、乗り物の用意はありますか? 大人の足でも三日はかかると思いますが」
テーブルの横に立つノーラがエクトルを見つめる。
「酒場近くの厩舎に預けてある。馬じゃないがな。そいつの足なら、この子を乗せて行っても日暮れ前には着くだろう」
「あたし、近道知ってるよ」
アルマが自慢げに言う。
「それは心強いな」
と、エクトル。少し不安げなノーラも笑みを浮かべた。
「あら。もう眠った方がよさそうね」
空になった皿を前に、アルマはこっくりこっくりと船を漕いでいる。
「あの」
ノーラが少し緊張した面持ちでエクトルに向かった。
「私が寝かしつけても良いでしょうか?」
「君が良いなら構わんが?」
「ありがとうございます」
ノーラに促されてアルマは目をこすりながら二階の部屋へ向かった。ノーラのするままにベッドに入って、直ぐにアルマは寝息をたてた。その寝顔を見て、アルマが惨い目にあうと決まったわけでも無し、自分が関わる筋合いも無い事だと思いなおした。せめて、一晩だけでもゆっくりと眠れることに違いは無い。
アルマを寝かし付けたノーラは戻ってきて、給仕をするべくゆっくりと果実酒を飲むエクトルの横に立った。
「もう給仕はいい。君も座ったらどうだ」
「いえ。私は……」
「気にするな。俺も昔は奴隷だった」
えっ、と声には出さなかったが口を開けたノーラは思わずエクトルを見つめた。
「もう一杯、もらおうかな。いいから座ってくれ。傍に人をたたせるような貴族でもお大尽でもないんだ」
そう言われて漸くノーラは隣の席に座って、エクトルに酒を注いだ。
「貴方は、この国の方ではないですよね」
「ああ。この大陸の者でもない。南の方の、ノルティアの生まれだ。それもずっと南の、近くには妖精の住む山があって、その麓の村で生まれた。良く晴れた日には精霊の王、ルーメが住むと言う島が見えるような田舎の村だ。
そんな村だったから、若い頃、都からきた隊商に潜り込んで村を抜け出した。使い走りやら雑用をしてあちこち旅して廻った。
船にも乗り込んでいろんな国を廻ったが、嵐に遭って、北のボレアスまで流された。船が座礁して、近くの村に助けられたんだが、気が付いたら、荷馬車に載せられててな。そのまま売り飛ばされた」
その時のことを思い出したのか、エクトルは笑った。
「どうやって、抜け出したんですか?」
「抜け出したわけじゃ無い。農場で働かされたり、剣闘士の真似事をさせられたりして、軍船の漕ぎ手にもなった。漕ぎ手の時に、嵐が来て、船が沈みかけた。鎖に繋がれてたから、そのまま死ぬかと思ったが、運よくオリントの商船に助けられた。そのまま、オリントまで行くことになったんだが、オリントでは奴隷が禁じられていて、晴れて自由の身になった。嵐で奴隷になって、嵐で奴隷から解放されたわけさ」
エクトルは盃を飲み干した。ノーラが注ぐ。エクトルはノーラを見つめて、杯を口に運んだ。
「オリントは、帝国やノルティアの法王よりも古くから教会が治める静かな国だ。ここではよく冗句のネタにされるような、古臭くて堅物ばかりの国みたいに言われるが、王族も貴族もなく、静かに落ち着いて暮らしたいものには天国の様な国だろうな。魔法の才能があれば教会に、才能がなくても読み書き算術はどんな貧乏人でも国の学校にいれて教えてもらえる」
「そこで暮らそうとは思わなかったのですか?」
エクトルは杯を持った手をテーブルに置いて、それを見つめた。
「南の、デシムの砂漠に入ったところに、あまり人に知られていない港がある。そこは、北から逃げてきた奴隷をオリントへ送りとどけることを生業としているものが居る。法外な金を取る者も、誰の元で働いているのか、報酬を受け取らないものもいる。彼らにオリントへ送られて、枷を外して自由の身になっても、殆どの者はまた、ボレアスに戻ってくるか、ノルティアへ行く」
「何故です?」
「オリントは他の大陸の国々と違いすぎるからだろう。盗賊やならず者も居ないが、馴染みのない慣習や法が多くて、余所者には息苦しく感じることが多いのだろう。そこに生まれ育てば、気にならない様なことでも」
ノーラは無意識に腕の枷を触っていた。
「貴方もその国には馴染めなかったのですね」
「馴染めなかったというか。国内を移動することには不自由しなかったから、色々と旅をして回って、剣や魔法に様々な知識も教えてもらった。この世界で一番高いという山や、高すぎてどこから落ちて来るのかわからない様な滝も見た。人の言葉を話す妖精や、虹の様に輝く聖獣もいた。ボレアスの帝都の宮殿ほどもある、世界中の本と知識が集まっていると言う、リドゥの星皇図書館へも入ることを許された。
そうして知識を得れば得るだけ、もっとこの世界を見て廻りたくなった、のだろうな」
そのために面倒なことになったのだが、とは口に出さず、顔を上げて、エクトルはノーラを見つめた。
「君はどうやって魔術を覚えたんだ? 旅券を確認できるようなことは、見様見真似では無理だろう」
自分の話はもうよかろう、とでも言うように、ノーラへ話を振った。その紫色の瞳を受けて、少しうつむき加減で、ノーラは話し始めた。
「私は奴隷の子で、子守として買われて、その内に裕福な家のお嬢様の傍使いとして奉公することになりました。そのお嬢様は、家庭教師に勉強を見てもらっていたのですが、何度も繰り返して教えるので、その内容を傍にいて私も覚えてしまいました。
ある時、つい、お嬢様の本を読んでいるところを見つかって怒られましたが、家庭教師の先生が面白がって私を引き取ってくれたのです。ほんの戯れだったのでしょうが、読み書きだけでなく、簡単な魔術も教えていただきました。私に素養があるといって。
若い先生だったのですが、結婚することになりました。お相手の方は、私の様な小間使いは間に合っているし、要らないと仰って。先生も強いては反対はなさらず、暇を出されました。
それからは色々な方々のお屋敷で働らいたりしていましたが、宿の手伝いを探していたここの旦那様に拾われました。でも、先頃、持病がもとで亡くなられて。奥様は妹さんを頼って、この宿は人手に渡すつもりのようですが、私にはそのままここで働くか、旦那様の遺言どおりに開放奴隷となって出ていくか決める様にと」
家庭教師に、この家の主の妻。家庭教師は、結婚するまではノーラを娘のように優しく扱っていた。主人が亡くなるまでは、その妻も娘のように接しているようにみえた。それが仮初めのものだと、分かってはいたはずだったが。
「どうするか決めたのか?」
「いいえ。まだ」
そう言って俯いて淋し気に笑った。
「奴隷の私には行く当も、蓄えもありませんし」
自分の事をこんなことを話したことは無かった。しかも、初対面の相手に。何か、魔法を掛けられたような気持がした。
「そうか。さて。明日は早い。もう寝るとしよう」
エクトルは杯を飲み干してテーブルに置いた。
「おやすみなさいませ」
ノーラの声を背に、二階へ向かう。階段を登りしな、下を見ると、髪をかき上げながら店の入り口のランプを吹き消すノーラの後ろ姿が艶めかしく見えた。