2.不思議ね
生徒である、子ども達の話し声が騒がしい教室。担任教師の女は、いつもの様にゆっくりと引き戸を開けた。静まる様子に自分の威厳を感じ、密かにほくそ笑むのが日課であるためワザとゆっくりなのだ。
教室へ入るなり黒板の方を向き、神経質そうに大きさの揃った字を、チョークで書き連ねていく。いつもの担任はすぐに教壇の前に立ち、朝の挨拶をするのだが、今日は転校生を教室の外に待たせているので自己紹介の場を与えなくてはいけないのだ。
生徒たちも、少しだけいつもとは違う様子に首をかしげ、書かれる文字を見て納得しザワめく。
白井麻里依(しらい まりい)。
そう名前を書き、チョークを静かに置いた。季節は春。ちょうど転校生が来る時期であると言っても良い。
「白井さん、入ってきなさい」
担任が声を上げるなり、ゆっくりと戸を引く音。こちらは緊張からだ。歩みも遅く俯いた顔は熱を持って真っ赤である。担任の横に立ち顔を上げて背筋を伸ばした。
「初めまして、白井麻里衣です。よろしくお願いします!」
麻里衣は精一杯の愛らしい笑顔を振りまき、お辞儀をした。少し白い肌の色に肩まで伸ばし真っ直ぐな黒髪、小柄で痩せ型、笑顔は少女らしい可愛さを持ち合わせていたから、すぐに教室は拍手に包まれる。可愛らしい転校生は好印象だった。
「今日から四年三組の仲間になりますので、皆さん仲良くしてあげてね」
担任は生徒達に"お決まり"を呼びかけ、麻里衣に座席の指示をした。温かく迎え入れられたことに麻里衣は一安心で、窓側の後ろから二番めの席に着きくなり、近くの子達と軽い挨拶を交わす。
「よろしくね」
最後に一番後ろの席の、前髪を真ん中で分けて、ピンクのヘアピンで留めている額を出した女の子に挨拶をするが、無視されてしまった。
麻里衣はあからさまに、その様な態度をとられたことが今まで無かったのと、転校生である不安から、少なからずショックを受けるも仕方がないと受け流す。
女の子の態度はとある理由があった。麻里衣も後に知ることになるが今はまだ知らない。
授業が始まる前の休み時間。麻里衣の席の周りには沢山の生徒達が集まり、質問攻めであった。新しい家を建てたので、住むために引っ越してきたというように、初めての転校であった麻里衣にとっては、中心人物になること自体も初めてのことで、目まぐるしく慣れないでいたが、悪いことでもないと感じていたので、その日の休み時間は質問に答え続けるのであった。
「マリイちゃんよろしくね。あたし牧井香織」
興味本位で皆集まるのだが、その中で初めに友達になろうと手を差し出し伸べたのは、日に焼けた肌に、少しこげ茶色の髪を二つ結びにした元気の良さそうな女の子だった。
「よろしくねカオリちゃん!」
麻里衣はやっと安心できたよう気がし、すぐに香織と仲良くなった。その頃には殆どの生徒達の興味は別なものに移っていて、席に集まっていた人だかりは無くなっていたからだ。
「カオリでいいよ」
「じゃあわたしのことは、マリーって気軽に呼んで!」
麻里衣の名前は"マリー"という名前の響きが好きだった彼女のお父さんが、そう読めて違和感が無い名前であるようにと付けたので、自身もお洒落で気に入っており、前の学校の友達も"まりい"と区切るよりも、読みやすく可愛いマリーと呼んでいたのだ。
だがその瞬間、香織の表情に陰りができた。麻里衣にはその訳が分からず不安そうに小首をかしげる。
「マリイちゃん、あのね……マリーとは呼べない」
香織は人目を気にするようにしながら、小さな声で訳を話始めた。それは不安そうであった麻里衣を、そのどん底に落とすようなもので、どうしたら良いか分からず泣かせたのであった。
麻里衣のためを思ってのことであったが、泣かせてしまって戸惑った香織は慰める言葉をかけるも通用しなかった。
生徒たちは転校生が泣き出したことに取りあえず慰めの言葉をかけた。
マリー・ヴェルニー。
その日は体調を崩していて、学校へ来ていなかったがクラスの中心人物であり、フランス人とのハーフで西洋人形みたいに可愛いというも……ただし、いじめっ子なのだ。
今はいじめられたことにより学校を休んでいる、"まり"という名前の子は、マリーと名前が似ているという、それだけを理由に酷いことをされていたらしい。
麻里衣が挨拶した時に無視をした子は、マリーととても仲が良い子であった。まりよりも名前が似ている麻里衣は勿論ターゲットになってしまったみたいだ。
香織はそれを良く思っていないと言い、助けてくれると言った。心強くは感じるも、いきなりの難題である。
次の日はとにかく憂鬱であった。お母さんにまだ慣れない道だからと、早めに家を出されてしまったので、わざとゆっくりと歩く。
空は青く澄み渡り、春の暖かい風が心地よく吹いていたが、麻里衣の心を慰めるにはささやかで響かない。
ため息を漏らしながら重い足取りを進め、何気なく空を見上げた。
「何を見ているの?」
後ろから声をかけられた麻里衣は、思わず後ろに仰け反りそうになりながらも振り向いた。そこにはくすくす笑いをする女の子が居た。
その姿に初めは息を呑む、その子はたとえるならフランス人形で、金色に輝くウエーブのかかった髪を腰まで伸ばし、透き通るような白い肌、空の色をそのまま映した青い瞳を持っている。白いブラウスに合わせ、上品そうな紺色のヒラヒラが多いスカートを履いていた。
麻里衣はまじまじと見つめてしまう、こんなに綺麗な子は見たことが無いというように。
「もしかして、貴女がマリイちゃん?」
目をパチクリさせていると「ごめんなさい、違ったかしら」とまたクスクス笑い。
麻里衣もはっと我に返る。どうして自分の名前を……? など野暮なことを聞く必要もない。
「……うん」
昨日のことが思い出されながらも頷いてしまった。彼女がマリー・ヴェルニーであるとすぐに分かり視線を逸らし俯く。彼女みたいな容姿の子は身近に何人もいないだろうから。
それに自分のことは友達から聞き、からかいに来たのかと思い至り、その場を離れようとした。
だがマリーの反応は、そんな麻里衣の考えを覆すようなものであった。
「本当に? 逢いたかった、マリイちゃん!!」
マリーはそんな様子には気づいていない様で、感激の声を上げるなり麻里衣に抱き、強く抱き締めたのだ。それから、身体を小刻みに震えさせているかと思えば、瞳には大粒の涙が溜まり、次から次へと溢れ出す。
麻里衣の中で大きな戸惑いが生じていた。マリーはいじめっ子で、麻里衣はターゲットになるはずだと考えて、身構えていたからだ。いくらそうで無かったとしても、この反応にはどう対処すればいいのか麻里衣は必死に考え、恐る恐る言葉を発する。
「えっと、あなたはマリー・ヴェルニーちゃん?」
自分の思い描いていた人物像と全く異なってしまったので、やっぱりマリーとは別人であり、自分を誰かと勘違いしているという答えを出してみたのだ。はっきりマリイちゃんと言われたが、白井麻里衣とは言われていないから。
「そうよ……私のこと、ちゃんと覚えてくれてたのね」
喜びに満ちた表情で応えるマリー。残念というべきか、良かったのか、間違いはなかった。
麻里衣にとっては初対面のはずだが、マリーにとってはそうではないみたいだ。やっと落ち着いたと見えるマリーは抱き締めるのを止め、麻里衣に向き直る。
「もう、私の前からいなくならないでね?」
泣きはらした顔で笑顔を浮かべる様子に、麻里衣はとりあえず「分かったよ」と言うしかなかなく、意味の分からないマリーの言動は戸惑から混乱に変わり、もしかしたら新手の嫌がらせかもしれないとまで考えるが、いくら考えても初めての出逢いであった。