異世界・イルファス
「う…」微かな頭の痛みで目が覚めた。レーミアは右手を持ち上げ、手のひらを額に置いた。
「…どうやら、無事に〈イルファス〉とやらに着いたようだな…」
寝かされているのは簡素なベッドだった。ゆっくりと上半身を起こす。
さしもの吸血鬼・レーミアといえど、〈異世界転移〉は初めての経験で、衝撃で気を失ってしまったらしい。
どうしたものか?と思っていると、控えめなノックの音がした。
「はい」とやや大きめな声で返事をした。
「失礼致します…お目覚めでございますか…〈聖女様〉」
その呼び方に、思わず吹き出しそうになったが堪えた。
そうだ、そういう〈設定〉だった…。
入って来たのは、いかにも神官でござい、という仰々しい格好をした男とお付きと思しきメイドがひとり。
メイドの手には盆があり、温かそうなスープとパン、というごくごく軽い食事が載っているのが見えた。
「もし、召し上がられそうでしたら、こちらを食してください」と神官が手で盆を示す。
レーミアはわざと声を出さずに頷いた。
ベッドと同じ簡素なテーブルと椅子に食事が載せられた。
ゆっくりと降りる。
―うむ、身体に異常はないな…。
魔力にも問題なし。
レーミアは「ありがとう」とメイドに礼を言った。
メイドがその声にハッとしたようになり、何故か顔を赤くして俯いてしまった。
―よし、言語にも問題なし。
食事を摂りながら、神官(彼はムル、といい、今回の召喚の儀を行ったそうだ。最高位神官との事)に話を聞いた。
―大体、事前に聞いていた話と大差ない。
「魔王はこの国のみならず、世界を破滅させようとしております。〈聖女様〉、貴女様の尊い魔力で持って、彼の者を葬り去って欲しいのです」と、地に頭を着けんばかりの勢いでさげる。
レーミアは温かいスープを味わった。普段は血液を摂取している彼女だが、人間の食事も好きだった。
胃が温まるのを感じながら、
「わかった。ぐずぐずしてても仕方ないから、早く行く」と告げた。
その言葉に神官はガバ、と顔を上げた。
「なりません!まずは国王陛下に謁見して頂き、勅令を受け取って…」
という神官の言を、手のひらを振って、遮った。
「まどろっこしいな。さっさとしないと〈世界〉が破滅するんだろ?」
レーミアの言葉に、うぐっ、となる神官。
メイドがスっと現れ、空の食器をさげる。
レーミアは立ち上がった。
「いま、何時だ?」
はい?と神官が間の抜けた声を上げた。メイドが「午後の三時少し前です」と答えてくれた。
―ちょうどいい…闇の領分ならば、引けは取らぬぞ…。
「ムルよ、そなたにも〈立場〉がある。それはわかるつもりだ。だが」レーミアはしっかと神官を見据えた。
「私は〈一刻〉も早く、魔王を倒し、民心に安堵と希望を与えたいのだ」
レーミアのその言葉に、神官は、ははっ、と再び頭をさげた。
「わかりました!〈聖女様〉!このムル、貴女様のご意向に従います!」
「発つ。広い場所…外の開けた場所に案内してくれ」
神官とメイドに案内され、王城の庭に出た。
身体をぐるぐるとあちこち動かす。
よし。
レーミアは自らの左腕を携帯していた小刀で斬りつけた。血が滴る。
「〈聖女様〉!?」
「騒ぐな」滴る血がプクッと膨らみ、生物へ姿を変える。現れたのは…蝙蝠だ。
蝙蝠はどんどん増え、まるで竜巻のようにレーミアの身体を持ち上げた。キィキィ、と彼らの鳴き声が空に響く。
「では、行く」
レーミアは滴る血を舐め取った。
ついで、という感じで尋ねた。
「ところで、メイド…そなたの名は?」
メイドは呆気にとられているような顔をしていたが、叫ぶように
「わたくしはロエ、と申します」と言った。
レーミアはひとつ頷いた。
「ロエ、スープとパン、美味しかった。ありがとう」
礼の言葉を残して、レーミアの姿は彼方へ消えていった。
神官とロエは、そちらの空を黙って、眺め続けていた。