ぼくと、夏の日
「ねえお母さん、どうしてぼくは“さとこ”なの?」
ぼくがそう尋ねると、お母さんは優しい声で答えてくれる。「さとこの“聡”という字にはかしこいという意味があって……」けれども、それはぼくが欲しい答えではないような気がして、「ちがう、そうじゃないよ」とぼくは言った。そういうことを聞いているのではなかった。どうしてぼくの名前は「けんじ」や「りょうた」、「ようへい」などではないのかと、聞きたかった。
ぼくは「さとこ」という名前が、どうしても好きになれないのだ。さとこちゃん、と呼ばれるたびに、かわいい名前ね、と褒められるたびに、居心地の悪さにうつむいてしまう。「けんじ」や「りょうた」ならそうならないのではないかと思って、けれども、それを言うとお母さんが困った顔をするような気がしていた。ぼくが、お母さんが買ってきた花柄のワンピースや、ピンクのカチューシャを着たくないと言ったときみたいに。だから、ぼくは結局、「ううん、なんでもない」と口をつぐんでしまった。
小学三年生になって、休み時間にグラウンドでサッカーをする女の子は、ぼくだけになった。いつものようにサッカーをするつもりで椅子から立ち上がったところを、友だちのゆかりちゃんが声をかけてきて、教室でおしゃべりをすることになった。あっという間に女の子たちがぼくたちのまわりを取り囲んだ。ぼくの短い髪とはちがう、レースのリボンで結んだ長い髪から、シャンプーの甘い匂いがして、なんだかそわそわしてしまう。
ゆかりちゃんの友だちのあやこちゃんが、ぼくに問いかけた。
「さとちゃんは、どうして自分のことを“ぼく”っていうの?」
「えっと、変かな」
「うん、変だよ。男の子みたい」
「そっか……」
ぼくは小さな声でそう言うのがやっとだった。変だよ、というさくらちゃんの言葉が、ぼくの心に突き刺さった。ゆかりちゃんが「そんなことないよ」と言ってくれても、ぼくは聞こうとしなかった。なんとなく自分でも、感じていたから。男の子と女の子の間には見えない境界線が引かれるようになって、ぼくはたぶんその真ん中に取り残されている。
その日の夜に、ぼくはお母さんにあの疑問を投げかけたのだ。――「どうしてぼくは“さとこ”なの?」それでも答えを見つけられなくて、ぼくはベッドにもぐりこんで、少し泣いてしまった。悲しいのか、悔しいのか、寂しいのか、どうして泣いているのかも、わからないまま。
少しして、夏休みになった。ぼくはお母さんと電車に乗って、遠くのおばあちゃんの家に来ていた。真っ青な空が心地よくて、ぼくはさっそく虫取り網と虫かごを持って外に飛び出した。すぐそこに公園があったはずだと、走る、走る。公園にはすぐについた。ブランコとすべりだい、ジャングルジム、それとベンチがある。そこで、男の子がひとり、サッカーボールを蹴っていた。
「ねえ」
ぼくはその男の子に近づいて、声をかけた。
「一緒に遊ぼう」
彼は驚いたようで、ボールを蹴りそこねた。ボールは一度跳ねて、転がって、ぼくの足に当たって止まった。ぼくは、足元にあるボールを拾って言った。
「サッカーしよう」
うん、と彼は頷いて、笑った。
彼とぼくはサッカーをした。真っ青な空の下で駆け回って、砂まみれになってもやめなかった。かけっこも、木登りも、虫取りも、ザリガニ釣りもした。たくさん話をして、彼の夢がサッカー選手であることも知った。けれど、ぼくたちは、名前を教えあったりはしなかった。それを必要としなかった。だから、彼の前では、ぼくは「さとこ」という名前の女の子ではなかった。それでも、どんなことをしたって、ぼくであることに変わりはなかった。ぼくはそれがうれしくて、楽しくて、楽しくて、家へ帰るときになって彼とお別れをしても、夏休みが終わっても、あの日はきらきらとして忘れることはなかった。
それから数十年たって、ぼくは少しずつ“わたし”になった。今では、薄く化粧をして、スカートをはいている。風になびく髪は、長かった。そして、わたしは、あの日以来、一度も来ることのなかった公園にいる。ブランコと、すべりだい、ジャングルジム、それとベンチがあって、そのベンチには、男の人がひとり、座っていた。その人を見て、わたしは息をのんだ。彼も、わたしを見て、息をのんだようだった。わたしは彼を覚えていて、彼もわたしを覚えていた。
「こんにちは」
「久しぶり」
「変わらないね」
「きみも」
「そうかな」
「うん、変わらないよ」
彼は懐かしさに目を細めながら言った。幼い彼の面影が重なる。あの遠い夏の日が、わたしの心を撫で、優しく包んだ。
「そういえば、名前を知らなかったな」
「聡子」
「さとこさん」
「うん」
「サッカーしよう」
彼はそう言って、公園の隅に転がっていたボールを思い切り蹴った。わたしは、くるぶしまであるスカートをたくし上げて、ボールを追いかけた。笑い声がもれる。真っ青な空が、心地よかった。