胸中に咲く花
こちらも、10年くらい前に書いたもの。800字くらいです。
何かかけがえのないものをなくしたとき、人の胸にはぽっかりと穴が空く。その”穴”を、私は物心ついたときから見ることができた。
けぶったような薄ら日のなか、バス停に佇む人影があった。その女性の胸に咲く花の美しさに惹かれて、私は足を止めた。淡く紫に色づいた、可憐な花だった。その花は、溢れてこぼれ落ちてしまいそうなほどたくさん咲いて、大きく空いた胸の穴を埋めていた。
「きれいなお花ですね」
声をかけてから、あまりに唐突すぎたかと思い至る。案の定、振り返った女性は僅かに瞠目して、しかしその手元に目を落とすと、ああ、と得心のいった様子で微笑んだ。
「『乙女桔梗』という花なのよ」
女性は、花束をそっと持ち上げた。無数に咲く薄紫色の花。胸にあるのと同じ花だった。
「家で育てているの。主人が好きな花だから」
そう言って、女性は慈しむように目を細めた。花を映す女性の瞳が、憂愁を孕んで小さく揺れる。
胸の花がさざ波のように揺れて、さわさわと音をたてた。
「私も、とても好きです」
紫の花を見つめてそう言うと、女性は嬉しそうに顔を綻ばせた。花の束から少し抜き取ると、私に差し出した。
「よかったら、どうぞ」
「え、でも」
私が逡巡していると、女性は朗らかな声で、気にしないで、と言った。
「いいのよ、たくさんあるのだから」
女性が近づき、戸惑う私の手を取って、そっと花を握らせた。温かな手だった。
線香の匂いが鼻腔をくすぐる。
「ありがとうございます」
そのとき、道の向こうからやってくるバスが見えた。
「ああ、バスが来たみたい」
低く唸るような排気音と、甲高いブレーキ音が交ざりあって、バスが止まった。がしゃんと音をたてて入り口が開く。
「さようなら」
私は、女性を乗せて去っていくバスを見送ってから、帰路についた。
紫の花を空にかざした。柔らかな光に包まれて、その優しい色合いが際立つ。日に透けた花びらが瑞々しく艶を帯びた。
「本当に、きれい」