切り刻まれる心
切り刻まれる心
彼女は、女優だ。しかも、類まれなる演技力を持っていて、幸福の絶頂で絶望の表情を浮かべ、悲しみの海の底で悠然と笑うことができる。その演技力で、彼女は高校という小さな舞台で、ヒロインの座に上り詰めたのだ。凡庸なヒロインが人気者の野球部のエースと結ばれる、ありがちなラブストーリーは、退屈を持て余す少女たちの心を掴んでいる。
廊下にたむろする少女の群れとすれ違う。少女たちは窓からグラウンドを見下ろして、きゃらきゃらとお喋りに興じていた。
「Aくん、練習してる!」
「あっ! こっち見たよぅ!」
「すみれちゃん、ほら、手ぇ振ってあげなよ! カノジョなんだからさ」
「きゃあ〜! 照れてる〜可愛い〜」
少女たちに小突かれて、彼女はくすぐったそうにはにかんだ。幸せの一幕。
しかし、私は知っている。少女たちの無邪気な言葉が、小さな刃となって、彼女の心を切り刻んでいることを。
「やっぱりAくんとすみれちゃん、推せるわぁ」ザク。
「ずっと応援してたもんね」ザク。
「くっついた時とか、なんか涙でたし」ザク。
「親かよ」ザク。
「Aくんなら、すみれをまかせられる! みたいな」ザク。
「お似合いだよねぇ」ザク。
「理想のカップル!」ザクザク。
切り刻まれる心が見えるのは、誰も知らない彼女の姿を知っているからだ。
私は知っている。夕暮れに沈んだ美術室で、彼女が、描きかけのキャンバスを愛おしげに、あるいは焦がれるように見つめ、そっと、指先で触れていたこと。
私は知っている。その絵を描く少女のうたた寝に、そっと、唇で触れて、「好きよ」と震える声で囁いたこと。
「唯子!」
少女の一人が私に気づいて、手を振った。
「これから部活?」
「唯子ってなんの部活だっけ?」
「美術部でしょ」
「美術部なんて、この学校にあったんだ」
「部員は唯子だけらしいよ」
だから、私だけが知っているのだ。あの放課後の美術室での出来事を。ひそやかにさらけ出された、彼女の心を。夢うつつで、彼女のくちづけを享受したのは、ほかの誰でもない、私なのだから。
それでも、その想いに見て見ぬふりをするのはーー
血みどろになった心を抱えて微笑む彼女が、あまりにも、美しいからだろうか。