虹
【お母さんの食べていた岩が食べたい】
元々は海の中だったという学校を称える校歌が流れる中で、野球部の後片付けを終えたコータのスマートフォンが受信したのはそんなメッセージだった。
「おーいコータ!帰ろうぜ!」
声を掛けてきたソータが目敏く画面上のメッセージを見つける。
「それ、姫からか」
ん、とコータは頷いて「美術室寄って帰る」
手早くユニフォームの上だけを畳んでサブバックの中に突っ込もうとして
飛び出してくる、鮮やかな色彩。
一つの例外もなく甘い匂いを放つ
「それは、何?コータ?中学校最後のバレンタインに一つもチョコを貰えなかった俺に対する嫌味ですか?そして全てを投げ打って姫の所に行くわけですか?そうですか、コータくんは」
ものすごく早口に言われて、コータは困惑してしまう。
「……えっと、ソータはいい奴だよ」
何てな、とソータはにっかり笑ってコータの肩を乱暴に後ろから引き寄せた。
「そうだよな。コータとソータは親友同士だもんな」
ソータとコータは八重崎中鉄板の二遊間コンビだ。
「本当は、高校でも一緒に野球出来たらよかったけどな」
ソータは地元の強豪校に、コータは県外の新勢力に。
それぞれ推薦で進路を決めた。誰よりずっと一緒に練習をしてきた唯一無二の仲間だけど、一緒に野球ができるのもあと少し。
けれど、それよりも何よりも、コータにとって最優先なのは。
コータ先輩、さよなら。歩先輩、奥ですよ。
後輩たちがおまけの様に義理チョコを渡しながら、教えてくれて。
「―――やあ、コータ」
美術室に辿り着いたコータは息をのんだ。
夕闇の中に、虹が浮かび上がる。
暗い色で塗りつぶされた巨大なキャンバスがコラージュで埋め尽くされていた。
一目で見て、現代アートと分かる、それの前。椅子を幾つか横に並べてソファーのようにしたところへ、だらしなく絵筆を持ったままひっくり返っている。
制服がずり上がったせいで見える肌が漫画雑誌のグラビアのようで、何だかドキドキしてしまう。
「これ、ラッピング?」
三年生のお姫様と称されるに値する、信奉者達からの沢山の貢物。
チョコレートの包み紙がコラージュの中心をなしている。
「食べっちゃったら終わりになるからね、形に残してあげたかった。構想が大きすぎて、数足りなかったけど」
カンバスの脇に小山のように積まれたお菓子を横目に見る。悲しげに伏せられた長い睫が白い肌に濃く影を落とす。母親譲りの美貌が甘く微笑めばその表情は天使そのもの。
喋る度に吐息でセンター分けの長い前髪がさらさら揺れる。
「じゃあ、使いなよ」
コータはサブバックをひっくり返し、今日貰ったチョコをみんな渡してしまう。
二人分の義理チョコの中身を、学校の下にあるいつもの待ち合わせ場所―――八重崎中生御用達の崖下公園へソータを呼び出して渡すと。
嬉々として歩がアートを完成させるまで、ひんやりした美術室に付き合ったのだ。
歩と別れたコータはまっすぐ家に帰らずに駅前へ向かう。デパートのショーウィンドウには一人の女性の顔がコータの身長とよりも大きくバーンと張り出されている。半分目を閉じた瞼が桃色と黄緑に塗られていて、何だか雛祭りみたいだとコータは思う。
添えられたキャッチコピーは『不惑、惑ワス』
「あー、晏ちゃんだー」
立ち尽くすコータを押しのけるように、二人連れのお姉さんがショーウィンドウに向けてスマートフォンのカメラを向ける。
「可愛いよねー。この人さーうちらのママと同じ位なんだってー」
「まじかー」
「不惑って四十才って事らしいよー」
「信じられんわ」
「今フランスにいるんだっけ」
「そうそう、旦那さんフランス人のモデルさんでまじイケメン」
賑やかなセリフに、背を向けて走り出す。こんな風に人工物で彩られたところに、歩の欲しい物はない気がした。
バス通りを逆行して、どれ位走ったのだろう。
ふと、見慣れない道に入り込んでしまってコータは足を止める。
住宅街に三日月のようなぼんやりした明かりを見つけて、ふらふらとそちらへ向かう。
優しいたまご色の外壁に、水色で書かれた店名。
「こんばんは。よかった。まだ開いてますよ」
女の人が出てきて、招き入れてくれる。
お菓子屋さんなのだろうか。カウンターに幾つかお菓子の入った硝子瓶が並んでいるだけで、後はショーケースも棚も空っぽだ。
「ご注文は?」
女の人が問うてくる。胸元の名札にヒスイと書いてあった。
「あの」するりと言葉が出た。「食べられる岩ってありますか……?」
何を馬鹿な事を言ってしまったのだろう。後悔しても既に遅い。
ヒスイはほんわりと笑いながら首を傾げて
「これなどは、いかがでしょうか」
そう言って、硝子瓶からお菓子を一つ取り出した。
「ロッククッキー。岩のお菓子です」
お味見をどうぞ、と促されてコータはそれを受け取って口に運ぶ。
ザクザクしたココア味の生地に、ナッツとごろっとしたチョコレートと、マシュマロが入ったごろごろした形のクッキー。いいにおいがして、ぎゅっと甘みが詰まっていて、今しがた走ってきたばかりのコータに染み渡るような、解りやすさで。
おいしいです、と声に出そうとして
「―――?―――?」
喉が詰まったように、声が出なかった。無理に声を出そうとすると、見えない手で首を絞められているみたいに痛みが強くなる。堪らずむせ込むと
「お水、どうぞ」
いつの間にか、もう一人女の人がいて、喉を押さえているコータに、水を渡してくれた。
「ありがとうございます」
あれ、声が出た。コータは目を見張る。
「驚いたでしょう?ここはお呪いがかかった不思議なお店ですから」
少し小柄で、多分少しだけヒスイより若い。レースが付いたお揃いのスミクロのエプロンには翠蓮と名札が付いている。
「お姉さんのレシピは特別なんです。今のあなたにとってそれは満足できる『おいしい』ものではなかったんです。だから声が出なかったんですよ」
えっへん、と胸を張った女の人にすいちゃん、とヒスイが窘めるように声を掛けた。
コータに向き直り、大きなファイルを差し出す。
「お時間は頂きますが、こうしたものもご用意できますよ」
小石に見えるように作られたチョコレートの写真を見せてくれた。
「食べられる岩、ご注文されますか?」
お呪いがかかったお店、と聞いたからだろうか。注文を尋ねる声が、まるで呪文のように聞こえた。ゲームの中の、魔術師たちが唱えるみたいな。
「もう少し、自分で頑張ってみます。それからでも、いいですか?」
「「ええ、勿論です」」
ヒスイと翠蓮が声を揃えて微笑んだ。高さは違うけれど綺麗なハーモニーを奏でていて、なるほど二人は姉妹なんだな、と思う。
クッキーを一枚だけ買って、ファイルの写真を撮らせてもらう。
二つの写真をメッセージアプリで歩に送ってみたけれど、結果は
「違う」
そして
「お母さんの岩が食べられないなら、何も食べない」
それっきり、何度メッセージを送っても音声通話を試しても、応答はなかった。
困ったコータはベッドの中で、こっそりとスマートフォンを使う。
検索エンジンを起動させて
「お菓子 岩 MVアイドル」
それから少し悩んで、深呼吸を一つ。バッターボックスで狙い球を決める時みたいに。
「晏」
検索ボタンを押した。
ボーイフレンドとのお家デートの日。お城のケーキを作った女の子はしかし、失敗して小さくなってしまう。身長と同じ位の大きさのティースプーンを武器にキッチンの中を『不思議の国のアリス』みたいな大冒険。最後にお城に辿り着いた女の子は、お菓子の煉瓦をかじってかじってとうとう貫通させて。
向こう側にはボーイフレンドの笑顔があって。
女の子も微笑んで。スプーンで一さじ、ケーキをボーイフレンドに食べて貰うと魔法が解けて。
楽しいお家デートのはじまりはじまり。
コミカルで安っぽく、そしてどう考えても売れなさそうな楽曲とMVだった。
晏
歩の母親が、まだ売れないアイドルをしていた時代だ。
今は古今東西自分が面白いと思った作品にしか出演しない女優として世界的に活躍する晏が若い頃アイドルだったというのは少し調べればすぐわかってしまう。
「晏ちゃん最高」「ケーキのお城も自分で作ったそうです。この頃から努力家だったんだあ」「この後すぐフランス行っちゃうのかな?もっとアイドルしてるとこ見たかった」
「最後に鼻の頭に生クリームついてるのわざとならあざとい。しかし可愛い」
と比較的好意的に受け止められている。
アイドルは二十歳ぐらいで引退して、その後今の旦那さんとの間に歩を生んで、くっついたり離れたりしながら、売れない女優期間を経て、オーディション経由でフランスへ行きましたよ、と誰へともなく呟いて、コータは目を閉じた。
明日の朝から練習があるのだ。
「まあまあコータさん!よくいらしてくださいました。コータさんがいらっしゃらなくなってから、あーちゃまはすっかり偏食でしてね。今日もたんと食べていってくださいね」
熱烈歓迎してくれたのは歩の家に昔から通ってくれている家政婦さんで、晏がこのマンションに引っ越すときも一緒についてきてくれたそうだ。
「クーちゃんはうるさい」
現在は専ら歩の世話係である。
「あとあーちゃまって呼ぶのいい加減やめて」
お腹が空いているのか、歩は随分機嫌が悪かった。
あら、と家政婦さんは眉を吊り上げて
「あーちゃまがおひとりで自分の事を何でもなされるようになったら喜んで歩様と呼ばせていただきますよ」
この二人のやり取りが喧嘩すれすれなのは昔から変らないけれど、今日はちょっと根が深そうだ。まあまあとコータは二人の間に割って入り
「それで、完成したんですよね」
昔から偏食もなくよく食べてよく飲んだコータは家政婦さんの覚えもめでたい。ポン、と胸を叩いた彼女は
「嬢ちゃまの試作にも散々お付き合いしましたからね。ばっちりですよ」
そう言って、カートに載せて持ってきてくれたのは紛れもないケーキのお城。チョコレート味のスポンジと生クリームで作られた煉瓦はまさしく
「ほら、『お母さんの食べていた岩』だろ?」
晏が食べていたお城のケーキを再現してほしい。
小学校ぶりに連絡を取った歩の家の家政婦さんは、コータのお願いを二つ返事で引き受けてくれた。やはり昨日から全く食事に口をつけた形跡がなく、やきもきしていたという。
「え?あ?」
スマートフォンを片手に、ぼんやりとした返事の歩に家政婦さんは
「お部屋でおやつになさいませ。こちらは片付けがありますから」
当然の様にコータがケーキと紅茶を運んで、久し振りに入った歩の部屋は記憶にある子どもっぽさを完全になくしていた。
壁一面のアートと、美術室みたいな匂い。大きなカンバスが幾つも壁に立てかけられていて。不思議なオブジェと外国の言葉で書かれた本が沢山詰まった本棚。
取り敢えず隅っこにおやつをセットすると、コータはさっきからちっとも顔を上げてくれない歩に近寄る。
「歩、食べよ?」
―――ガンッ!!
持っていたスマートフォンを歩くがカンバスに向かって叩きつけた。
「歩?!」
咄嗟に拾い上げた最新式のスマートフォン。SNSの画面に「~en~」の投稿があった。
『Joyeux annniverisaire CIEL!!』
そう題名が付けられた写真。
パーティ会場で、両親にキスを贈られている幼い頃の歩に瓜二つの男の子。数字の五の形の風船がそこかしこに飾られていてああ、五歳になったんだ。と思う。
公表されている、晏とフランス人モデルの間の子ども。
歩の、弟。
素早く画面を操作してお星さまを送る。「ark」から確かに星が一つ贈られたのを見届けて、画面を閉じる。歩が母親のどんな投稿にも必ず星を送る事。それを親子の繋がりとして大切にしている事を、コータは知っていた。
激情の収まらない歩の手がケーキのお城を握りつぶす。怪獣に襲われたみたいに、お城の塔がぐしゃっと壊れる。続いてスポンジの煉瓦を抉り取ると、それを口元に運んで
「違う、これじゃない」
けれど、それが唇より先に、行く事はない。
カタカタと震え出した歩の肩に、そっと触れた。毎日走り回っているコータとは全然筋肉の付き方の違う、薄くて骨の近い肩。
「お母さんの、お母さんの食べていた、岩が食べたい」
ケーキに塗れた右手が、野球部のユニフォームを着たままのコータの左の胸に叩きつけられる。何度も何度も、叩きつけられる。
やがて、その手が、コータの体を引っ張る様にして力尽きる。
ずるずるとその場に二人でしゃがみ込む。心臓の位置に、チョコレート味を塗り込むように、歩の掌が押し付けられる。
絵筆を握って出来た胼胝がある指先はクリームに塗れている事を差し置いても蒼白で。
なのに、くしゃくしゃになっている顔だけが酷く熱く熟れている。
思いのほか強い力で押され続けて、コータは壁際のカンバスに縫い留められたようになってしまう。このまま押され続けたら、カンバスの中に閉じ込められてしまうかもしれない。
それでもいい、とコータは思う。
このまま歩の作品の一つになってしまっても。けれど、歩は。
「お母さんの、食べていた岩が食べたい」
コータの胸に顔を押し付けて。
そう言って、泣き続けるだけだった。
チョコレートの甘い香りがこびりついて離れないその晩、コータは夢を見た。
女の人の横顔。洋服が、風もないのに大きく膨らんでいる。
田舎の町では異質の美貌が大きなサングラスに隠されている。何でそれをコータが知っているのかと言うと、何度も見ているからで。
ーーー晏。歩の母親の。
片手にコンビニの袋をぶら下げた晏は片手を口元に持ってきている。帰るまで待ちきれなかったのだろう。黄土色で、掌からぽろぽろと零れているそれは。
「お母さん」
甘やかな声が、隣からした。
ーーー歩!
ぼんやりと、晏がこちらを向いて。
目元が見えなくても十分に美しい顔の下半分が、黄土色に汚れている。
それは、まるで本当に土を
そこで唐突に、目が覚めた。
「夢じゃない、本当だったんだ」
同じ場面を、コータも隣で見ていた。
場所も見覚えがある。コータたちがいつも待ち合わせに使っている、中学校の坂道を下ったところにある、通称崖下公園。
あそこへ歩が遊びに来ていたのは十歳になるまで。弟が生まれる直前にそれまで祖父母と住んでいたコータの近所から、駅前の大きなマンションに引っ越しているから。
「でも、一体何を食べ、て?」
土のように見えたそれは、一体何処で買った、何だったのだろう。
寝なきゃ、とコータは思う。眠らないと。明日も、朝練があるんだから。
学校と家が近いのは、こういう時に本当にありがたい。
若干寝不足気味のままで登校したコータは、隣のクラスに歩の姿を認めてほっとする。
クラスの片隅に、他者を寄せ付けない高貴な気配を放ちながら、歩はちゃんと存在していた。
今日は美術の時間が合同だから、話せるといいな、とコータはコータの日常を過ごして
事件は、その美術の時間に起きた。
入試を直前に控えた美術の時間は適当もよいところで。殆どの生徒が校内で写生と言われた途端に、スケッチもそこそこに単語帳やワークブックを捲り始める。まじめに写生に取り組むのはよほど美術が好きな生徒か、あるいはコータの様に進路が決まってしまっている生徒くらいだ。
コータもちょろちょろと適当に校庭の片隅の花を二、三本描くと、歩を探して走り始める。
美術が得意な歩は果たしてどこにいるだろう。
ばさばさっと物の落ちる音がした。二階の渡り廊下からスケッチブックが降ってくる。
偶然開かれた頁に上手すぎる落書き。
「先生、こっちです!」
送れてコータも辿り着くとフェンスに体を押し付けるようにして歩が蹲っていた。
「歩っ、歩っ!!」
肩を揺り動かすと、その手を邪険に払われた。手負いの獣が弱みを見せないようにするのと似ていて、姫の威厳の欠片もない、打ちひしがれた姿だった。
「馬鹿歩!」
こんな状況でも手放さなかったスケッチ用の鉛筆を手からはがす。隙間に指を突っ込むと僅かに開いた隙間からチョコレートの甘い香りと同時に、冷気の様な体温にぞっとする。
「貴方達は教室に戻って」
教師がやっとやってきて動けない歩を抱えて起こす。動けない歩を保健室へと運んでいく。
授業が終わる時間になっても、歩は帰ってこなかったようだ。
昼休みに、心棒者の後輩が、目に涙を浮かべながら
「歩く先輩、お願いですから食べてください」
と差し出したたまごパンをありがとう、と受け取って結局口に運べなかったことを知ってコータは教室を飛び出した。
「コータ!」誰かが大声でコータを呼ぶ。「監督への言い訳は任せとけ!」
誰であろう、ソータだった。
「『コータとソータは親友同士』だろ!」
にかっと笑う鉄壁の二遊間コンビにサンキュ、と返してコータは校庭を駆け抜ける。
崖下公園を突っ切って、普通ならバスを使う道のりを、時間が惜しいから自転車で駆け抜ける。
「『お母さんが食べていた岩』をください!歩が食べられるものを、ください!」
制服姿のまま自転車を止めるのもそこそこに飛び込んできたコータをヒスイと翠蓮は落ち着いて受け止めてくれた。それでも目がまん丸になっていたのは、若干驚いていたのだろう。
「本当なんです!土を食べていたように見えました!だから、それを!」
この間と同じように翠蓮がコップにたっぷりお水を出してくれて、その間にヒスイが椅子を用意して座らせてくれる。
昼間だというのに店内には先日と同じく物が少ない。
「当店はほとんど注文式のブーランジェリー&パティスリー……パン屋兼お菓子屋さんなんです」
周りを見る余裕ができたコータがきょろきょろしていると翠蓮がそっと教えてくれる。
では、暇な訳ではないのではないだろうか。
飛び込みでやってきたコータを構っていて、大丈夫なのだろうか。
「今日はもう大丈夫です。心配してくれてありがとう」
やわらかく朗らかな声に、昨日の午後からの張りつめた気持ちが徐々に緩んでいく。
「それ、八重崎中の制服?おしゃれなんですね」
グレイのブレザーと赤いタータンチェックのボトムスの制服をしげしげと手に取り
「私の所はこんなに可愛くなかったから羨ましい。八重崎と言うのも、珍しい名前ですよね」
「あ、海が昔はこの辺りまで入り込んでたって。七重八重と突き出た岬みたいな地形だったから、この名前だって」
毎日聞いている校歌の内容なので、そのくらいは説明できる。
気が付くとコータはぽろぽろとこれまでのことを喋ってしまっていた。歩の母親が晏であることはさすがに黙っていたけれど、崖下公園の出来事まで、洗いざらい。
よかった、とそれまで黙ってコータと翠蓮のやり取りを聞いていたヒスイが口を開いた。
「コータさんがしっかり覚えていてくださったので、よかったです」
ぱっとそれを聞いて翠蓮の顔に笑みが浮かぶ。
「お姉さんのよかった、が聞こえたらもう大丈夫ですよ。『おいしい』に近付きます」
コータさん、とヒスイがカウンターの向こうからコータを呼ばわる。
「例えばこんな風に」
そう言って差し出されたのは茶色い棒状の何かだった。ナイフでそれをシュルシュルと削っていくと、ころんと小さな塊が出てくる。
それもまた、まぎれもない岩であった。
「珈琲とカカオリキュールの琥珀糖です。こんな風に、私達は貴方の望むものを作り出すことが出来ます。けれど、……本当に、あなたはそれを望みますか?」
いいえ、とコータは即答した。
それもまた、姉妹は分かっていたようだった。
「これは歩に食べて欲しいもので、歩が食べたいものではないから。だから、お願いします。『お母さんの食べていた岩』をください」
「ご注文、承りました」
二人が、丁寧におしとやかに頭を下げる。
その時だった。
普段あまり使わない電話の着信音が、コータのスマートフォンから響いた。
慌てて受けたせいで、スピーカーになってしまう。
電話の向こう側にいるのは、歩の家の家政婦さんで。
「どうしましょう!目を離した隙にあーちゃまがどこにもいらっしゃらないんです!!」
「行きましょう」
ヒスイがカウンターから出てくる。車、とって来るね。と翠蓮がお店を飛び出す。
「崖下公園です」
「ここだったよね、歩のお母さんを見たの」
あの時のように、隣に並び立ってから声を掛けると、うんと小さな声で返事があった。
八重崎中生御用達の公園だけに、ふらふらしていても目立たなかったらしい。
「『お母さんの食べていた岩』ご注文ありがとうございます」
見ず知らずの第三者の出現に歩がびくっと肩を跳ね上げて、コータの後ろに隠れた。
あからさまな警戒を見せる歩に対しても、ヒスイと翠蓮の瞳にあたたかな親愛の情が浮かんでいるのを見て、コータは嬉しくなる。
「食べて頂きたいのは、これです」
ヒスイはまっすぐこちらに向けて歩いてきて、どんどん近付いてきて、―――コータと歩の脇をすり抜けた!
ずんずん歩いて行ったヒスイは、公園の名前の由来にもなっている崖に近付くと
「えいっ」
その一部を削り取った。
掌にぽろっと転がった、黄土色の塊。
「これが、歩さんのお母様が召し上がっていた岩の正体です。本当の岩だったんです―――お母様は、異食症だったんです」
「……異食、症?」
「お母様が岩を食べていたのは、弟さんが生まれる前。つまりは妊娠していた時です。貧血の妊婦さんは赤ちゃんを守るために鉄や亜鉛を求めて氷や、髪の毛や、土を、食べたがることがあるんです」
ヒスイは歩の前に、土の塊の乗った掌を持ってきて
「召し上がりますか」
歩は、固まって動かない。やがてぎこちなく体を動かして、お辞儀をするように頭を下げて、ヒスイの掌に顔を寄せて、そこで再び硬直して動かなくなった。苦し気に何度も体を動かそうとするが、本来食べるべきでは物ではないものを前に、どうしても体が動こうとしない。
ぱたた、ぱたた、と雨の滴の様な涙が、ヒスイの掌で土と交じり合う。
「食べられる訳、ない」
歩がヒスイの手を押して下げる。
「なにも、なんにも手に入らないっ……!」
願ったものはとても皮肉な形で、手に入らない。
姫と呼ぶにはあまりに弱弱しく、情けない幼馴染の姿に堪らなくなって、コータは歩に飛びついた。勢いが余って押し倒してしまう。殆ど仰向けになった歩を強く抱き締める。
「そんなことない!!」
「……コータ」
「あっ、るっく、ある、く。お願いだから、そんなこと言わないで」
歩、歩、とテンポよく何千何万回も呼んできた名前が喉の奥で引っかかる。歩と一緒に自分も泣いているのだと気づいた。
「歩はこれからなんだって手に入るよ。ねえ、望んでよ。願ってよ。今迄みたいに、無茶苦茶なことを言ってよ!そうしたら傍に行けるから。何処へだっていっしょに行けるから。……そうじゃないと、もう一緒に居られないんだよ」
歩がお星様を贈り損ねた晏のSNS。フランス語で書かれたメッセージをコータは後で探してこっそり翻訳したのだ。
Joyeux annniverisaire CIEL!
Depuis ta naissance, ma vie a été(じんせいは) encore plus colorée que l'arc-(に)en-(っ)ciel.
Je ne peux pas attendre que notre famille de quatre soit ensemble !
arc
en
ciel
arc-en-ciel。三人揃って、『虹』―――二児のママ。
どうしたって日本の学校教育に馴染めず義務教育卒業後、フランスにいる家族のもとに渡る事が決まっている歩。
野球留学を決めたコータと、推薦入学で受験をパスしたソータ。
今は、学校のちょっと浮いた存在として、おなじ空気感を味わっているけれど。
渡仏すれば美貌と才能を持ち合わせた歩を世界中の有名人が放っておかないだろう。
そうなれば、遠く離れた土地の幼馴染なんて太刀打ちできなくなってしまう。
だから、幼馴染でも、片想いの相手でもない、確固たるものが欲しい。
「私―――私は」
だから、コータは、小唄は
「歩に必要だって、言って欲しいんだよ!」
震える指で、サブバックの中を探り当てる。バレンタインデーのあの日、歩の為に買い求めたただ一枚のチョコレートのクッキー。半分に割って、大丈夫だよ、と見せつけるように、毒見のように。小さな方を口に含む。
濃くて熱を伴う程の甘みが小唄の中に広がって
「『おいしい』よ。おいしいよ、歩。……だから、食べて」
雛鳥にエサを与えるように、歩の口へクッキーを運ぶ。唇が小さく開いて、それを受け止めた!吐き戻されることのないまま喉がこくり、と動いて食べ物が落ちていくのを、小唄は歩を抱きしめたまま、感じる。
「お母さんの食べていた岩は、もういいかな」
小さな声で歩が呟く。
「ありがとう、コータ」
コツ、と互いの額がぶつかる。鳥の羽の様な長い睫が小唄の頬をくすぐった。そのくすぐったさに思わす小唄は固まって、動いているのは歩だけになった。
「『おいしい』」
唇が離れてから歩が囁く。珍しく目をキラキラさせている。
天使の様でも
姫君の様でもない
幼馴染の、男の子の顔で。