今週末はひま
――自分を好きじゃないひとがいい。
自分を好きなひとが離れていくよりも、最初から自分に興味がないひとのほうが、ずっといい。かなしくならなくていい。期待をしなくていい。傷つかなくていい。
そう思うようになったのはいつからなのか、それとも昔からだったのか、自分でもよく分からない。
わたしの「仕事」は、男のひとと会って、一緒に食事をしたりデートをしたりすることだ。1回2、3時間で、2万円くらい。もっと高い金額設定をしているひともたくさんいるけど、お金に比例して、男のひとの要求するものも高くなる。だから、わたしは原則2万円と決めている。少し遠出の時は、交通費もあわせて貰う。でも、基本的に食事とデート以外はしない。手をつなぐのは、ひとによる。それ以上は、もっとひとによる。
少し前までは、近所のコンビニで働いていたのだけど、この「仕事」をはじめてからは馬鹿らしくなって、やめてしまった。あまり引き止めもうけなかった。最近はほとんどシフトにも入っていなかったし、わたしが別の「仕事」をしている噂は、せまいコンビニバイトコミュニティにすっかり広がっていたのだ。
唯一、わたしの退職を惜しんでくれたのは、ひとつ年下の松内くんだった。松内くんとはよくシフトが一緒になって、話す機会も多かったからかもしれない。彼はわたしの勤務最終日にちいさなプレゼントをくれた。【Thank you】とちいさなカードのついた、チョコレートのつめあわせで、めっちゃ残念です、おれ、と松内くんは渡すときに、ほんとうに残念そうにして言ってくれた。ふだん、わたしは「仕事」で、男のひとから、バッグやアクセサリーや、コスメとかのプレゼントを色々ともらうけど、そのどれよりも松内くんの餞別がうれしかったし、さみしかった。「仕事」のためにコンビニバイトをやめるくせに、自分でもばかだと思う。でも、コンビニよりわりがいいから仕方がない。世間では、わたしの「仕事」を「パパ活」という。
ほんとうのことを言うと、わたしの本来の「仕事」は大学生だ。都内の、ほんの少し勉強をすれば入れるくらいのレベルの私立大学に通っている。専攻は心理学。でも、通いはじめてもう3年になるのに、心理の「し」の字も知らない。もともと、心理学に大して興味もなかった。心理学部に入ったのは、その大学の中で、心理学部の偏差値が一番低くて、入りやすそうだったからだ。ただ、わたし以外の学生も、少しわたしのレベルに毛が生えたくらい、似たようなものだ。時々、大学教授の講義にかぶれて、わたしにご高説をぶってくるひともいるけど、しかし結局は「ほんの少し」くらいのひとたちなのだ。どこかで聞いたことを、正真正銘自分のオリジナルの考えだと勘違いしているひとたち。もちろん、類は友を呼んでいるだけかもしれないけど。わたしにも、それくらいの客観性はある。
パパ活の存在を知ったきっかけは、1年生のときの共通ゼミでいっしょになった、はるちゃんだった。まじめな、おとなしい系のメンバーばかりがそろったゼミの中で、髪が明るくて化粧が濃くて凶器のような爪をしたわたしたちは、自然と互いに対して仲間意識をもった。
はるちゃんは、見た目が一昔前のギャルばりにけばく、中身は「ばか」を凝縮した感じだけど、でも、竹を割ったような性格で、わたしは彼女がすきだった。田舎すぎる実家がいやで東京に出てきたけど、学費がふつうのバイトでは間に合わないので、パパ活をはじめたと言っていた。
「うちってすんごい田舎なの。まわりが田んぼばっかりで、夏なんか、ウシガエルの鳴き声がうるさくて寝れないくらい」
それやばいね、とわたしが言うと、はるちゃんは、そう、めっちゃやばい、とうなずいた。
「コンビニもね、ぜんぜんコンビニエンスじゃないの。チャリとか車じゃないと無理な距離」
「コンビニの意味ないじゃん」
「そう。だから、高校卒業したらぜったい家でるって決めて、そのコンビニエンスじゃないコンビニで必死にバイトしてお金ためた。うち、田舎のうえに貧乏だったから。こっちにきて、一番のカルチャーショックはさ、『コンビニの時給たっか』だよ。でもパパ活は、コンビニの十倍以上稼げる。やばい」
はるちゃんはそう言って、ばちばちにデコった爪をした手を、蛍光灯のほうにかかげて、ながめた。
はるちゃんから、その話をはじめて聞いたとき、ばかだけど、根はまじめなんだな、とわたしはえらそうに思った覚えがある。わたしは、ろくに勉強もしていないのに、大学の学費も生活費も親任せだ。はるちゃんはばかだけど、人間的にはばかではない。ただ、その後、はるちゃんは、わたしにおなじ話を少なくとも3回はしたけど。前にも聞いたけどその話、と言うと、あ、そうだっけ、とはるちゃんはびっくりした顔で言ったものだった。そしてまた、コンビニの時給たっかいよね、都会は、と続けるのだった。
はるちゃんに関する話が、おおむね過去形なのは、はるちゃんは、もう大学を退学してしまったからだ。1年前の冬に、はるちゃんは妊娠して、大学をやめた。子どもの父親は、パパではなく、当時付き合っていた彼氏でもなく、共通ゼミでいっしょだった、はるちゃん言うところの「地味男」だった。
生まれた、という連絡がきたのは、3ヶ月くらい前だ。ひさびさの連絡だった。一緒に送られてきた写真は何枚かあって、1枚めは子どもの寝顔の写真、2枚めは、起きてこちらを見ている写真、3枚めは、子どもを抱いたはるちゃんと地味男の写った家族写真だった。南国のオウムなみにけばかったはるちゃんは、すっかり化粧っ気がなくなって、黒髪になって、しあわせそうな母親の顔になっていた。
当時のはるちゃんに、何人か、彼氏のほかに付き合いの長いセフレがいたことは知っていたけど、そのひとりが地味男だとは知らなかった。それを言った時、うん、でも、地味男だけど、めっちゃいいやつだよ、と少しはにかんではるちゃんが答えたのを覚えている。
「うち、もう結構あそんだと思うし。それに、子どもできて、それでパパともみんなおわったから、いい機会だったかもって思う」
パパ活も、なんかつかれたって思ってたし。そう話すはるちゃんの電話口の後ろでは、赤んぼうの泣く声と、それに重なるように地味男らしいおとこが、一生懸命あやす声が聞こえた。
「で、そっちは、何かいい話ないの?」
はるちゃんが言う。
「ないかも」わたしは答える。「彼氏とは少し前に別れたかな、2ヶ月ちょっとしか付き合わなかったけど」
はるちゃんと違って、わたしはいつも彼氏ともセフレとも長続きしない。
相変わらずか、とはるちゃんが言う。
「なんで、いつも続かないんだろうね」
「さあ、分かんないけど」
答えながら、理由の1つですぐに思いつくのは、1年くらい前に付き合ったおとこから言われた言葉だった。おまえって、つまんないね、と、言われたのだ。そう言われた時、わたし、やっぱりつまんないのか、とわたしは素直に思ったのだけど、でも時間が少し経つと「おまえ」と言ってくるようなやつはきらいだと思って、むかついて、その後わたしから連絡をやめた。
でも、その、名前も忘れたおとこの言うことは、結構、的を射ていたと思う。わたしには自分の意見があまりない。それに、わたしは、そのおとこのことを、全然すきじゃなかった。お酒の勢いで身体の関係になって、なんとなく彼氏彼女みたいなことになって、流されるままに一緒にいて、自分の意志は、だからほとんどなかった。基本的に、おとこの言うとおりにばかりしていた。どこ行きたい、と聞かれても、どこでもいいよ、と答えていた。たしかに逆の立場だったら、つまらなかったな、悪かったな、と少し思う。ただ、たぶん向こうもわたしのことをそこまですきじゃなかったから、やっぱりお互いさまだ。
「なつちゃんってすごくモテそうだね」
パパ活の相手にはよくそう言われる。自分で言うのは図々しいけど、わたしは結構きれいな顔立ちをしているのだ。だから、事実、モテる。最近はだいぶ化粧も落ち着いたものになって、清楚で、行儀のよさそうな、万人向けのものにしているので、わりとふつうっぽいひとからも声をかけられたりする。でも、パパたちの言う「モテそう」にはもっと別の意味が込められている、と思う。
ただ、そう思われるのは、別にいやじゃない。パパたちは、総じてやさしい。わたしに興味がないからこそのやさしさだ。21歳の、都内の大学に通う、勉強はできないししていない女子大生、身長は161cm、体重は48キロで痩せている。顔は悪くない。胸はふつう。そういった、いくらでもほかのひとに代替可能な存在しか、ほんとうのところ、パパたちは求めていない。わたしはパパ活では「なつみ」と名乗っていて、それははるちゃんの本名「はるか」から思いついただけの、なんの思い入れもない仮名なのだけど、パパたちが必要とするのは、あくまで「なつみ」という記号化された「おんな」なのだ。みんな、わたしのことをすきじゃない。それが、わたしは楽だと思う。
いま定期的に会っているパパは、ひとりだけいる。そのひととは珍しく長続きしていて、パパ活で言うところの、大人の関係にもなっている。今度のバレンタインにも会う約束をした。40代、独身バツイチ、薬局とかに売っている薬とかを作っている会社で、営業の部長をしていると言っていた。でも、それ以外はよく知らない。向こうもあまりわたしのことを聞いてこない。すきだよ、かわいいね、きれいだね、と綿あめみたいにすかすかでかるい言葉をかるい気持ちでかるく言ってくれる。だから、長続きしているのかもしれない。でも、だからこそ、そのひとがどうしてパパ活なんかしているのか、わからない。世の中を知らない女子大生の、ふけばとぶような「悩み」と「人生相談」に応じるのが趣味なのか。どれほど考えても、それ以外に、わたしのパパをやっているメリットがない。
わたしは、自己肯定感がきっと低いのだと思う。そういう自己分析が多少出来るようになったのは、一応心理学部の学生だからなのかも、と思うけど、やっぱり関係ないかもしれない。でも、インスタントで、見返りがはっきりしている「すき」は、わたしをいつでも楽な気持ちにさせる。
松内くんからは、コンビニをやめてからも時々連絡がくる。よくコンビニにくる、「チキン」とあだ名のついている客が、珍しくチキンじゃなくコロッケを買った、とか、そんな話だ。
松内くんは、見た目は薄いピンク色の髪をしていて、一見チャラそうな印象だけど、わたしよりずっとあたまのいい大学に通っている。地元は九州で、一人暮らしで、専攻は物理学らしい。ただ、そう聞いても、わたしにはなんのイメージもわかない。物理って、ニュートンとかそういうやつ。わたしが言うと、松内君はそうです、とうなずいてくれる。それ以上、わたしに話を広げることは出来ないけど。
コンビニバイトで同じシフトになった時、ひまな時間ができると、松内くんはよく楽しそうに大学でのことや、その講義の内容を話してくれたけど、わたしにはいつも宇宙人の言葉のようにしか思えなかった。でも、楽しそうな彼の話を聞くのはすきだった。わたしも勉強をがんばったら、松内くんと同じ大学に通う未来もあったのかもしれない。そんな未来がなかったのと、きっとおなじくらいには。
「なつちゃんは、そのマツウチくんがすきなんだよ」
バレンタイン、ホテルで、ひととおり事が終わった後に、いつものパパとの「人生相談」がはじまる。
「そうなのかな」
わたしが言うと、パパはうなずく。
「でも、すきだと認めるのがこわいんだよな」
わかるよ、ぼくにもあった。若いときならではの悩みだよ。もっともらしい、中身のない人生相談の回答を、わたしはベッドのなかで、しおらしく拝聴している。拝聴、という言葉は、この前松内くんが使っていたので覚えた。店長がきょうも色々言ってきて、御高説を拝聴しました。そうだ、高説という言葉も、松内くんから知ったのだった。
「でもわたし、松内くんと付き合いたいとは思わないな」
「そうなの?こういうこともしたくないの?」
パパはそう言って、ふざけてわたしを後ろから抱いてくる。さわさわと、顔に比べて年齢相応の手がわたしの身体を撫でる。
「なつちゃんのいまの言葉はうそだよ。気づいてないだけで、こうしたいと思ってるんだよ」
そう言って、ひからびたいもむしみたいな指に身体に這わせられながら、うそじゃない、やだ、くすぐったい、とわたしはしばらくじゃれていた。
「ねえ、わたしのあげたチョコ食べてよ」
いいかげんそれにも飽きて、わたしが言うと、パパは、ああそうだった、とやっとベッドから起き上がる。
パパは、テーブルの上に置いていた、デザインもおしゃれな紙袋をもってきて、ちいさな、手のひらにおさまるくらいの小箱のリボンをとく。前もってデパートで買って用意していた高級チョコレートは、1粒5000円くらいするものだ。小箱に、たった3粒しか入っていない。プラリネ、ガナッシュ、ビター。自分ではとても買わない。味だって、よくわからない。それらは、あっという間に、目の前で食べられて消えていく。
松内くんからは、昨日の夜、今週末の予定あいてますか、と連絡がきていた。わたしはそのメッセージの感じを思い出す。珍しくスタンプがついていた。企業の、友だち追加をすると、無料でもらえるやつ。松内くんは絵文字もスタンプもあまり使わない。対して、パパたちは、見ているだけで息がつまるくらい弾丸みたいに絵文字を使ってくる。黄色い顔はみんな弾痕、とわたしは思う。久々に昼行きましょうよ、おれ、その日はバイトの給料日なんでおごります、と軽い誘いの言葉がそのあとに続いていたのを、思い出す。
返信は、既読をつけたまま、していない。
1ヶ月後会う、と次の約束をして、パパと別れた後、わたしはその姿が見えなくなるや、すぐにその連絡先を消す。削除しますか、というアラートに、はい、とボタンを押すと、もとからそんなものはなかったように、あっさりとその名前はスマホの画面から消えた。そのあっけなさに、ホワイトデー貰ってからのほうがよかったかな、と少しだけ後悔した。でもやっぱり長過ぎたと思う。パパからもらったピアスは、外して、駅のごみ箱に捨てた。
ホームには、まもなく鈍行電車がきた。それにしばらく乗って、大学の最寄駅で降りて、駅からのびる川沿いの道を歩く。2月も半ばだけど、きょうはずいぶんあたたかい。日は少しずつ落ちてきて、それでもまだ一部は、目の冴えるようなまっさおなそらだ。
5分くらいあるくと、道の角に、緑と白の看板が見える。
コンビニに入ると、いらっしゃいませ、と言う、聞きなじんだ声がして、レジに立っていた松内くんが、入り口のわたしのほうを見た。
「あ、夕貴さん」
松内くんは、驚いた声をあげた。
「どうしたんですか、LINE全然返信ないから、心配しましたよ」
そういう松内くんを無視して、わたしは無言でレジ前のバレンタイン特設コーナーに行くと、棚に申し訳なさげに並んでいたちいさなチョコレートの詰め合わせを手に取る。もうしわけなさそうに、あおいリボンが箱のすみにかかっているやつ。わたしはそれを、松内くんの立つレジに持っていった。
松内くんは何も言わないわたしに少し戸惑っていた様子だったけど、それでも慣れた手付きで、そのチョコレートをレジに通す。たった税込み550円のチョコレートだった。1箱に12粒も入っている。
「あ、袋いりますか。有料ですけど。知ってると思いますけど」
そう言う松内くんに、わたしは首を振り、それから息をつかずに言った。
「これ、松内くんに。バレンタインだから。あと餞別のお礼だから」
そう言って、チョコをレジに置いたまま、言い逃げるように早足でコンビニを出た。
え、ちょっと、夕貴さん、と後ろで松内くんがあげた声が、背中に残っている。その松内くんの声を、わたしはとてもにくいと思う。思いながらかけ足になる。いつのまにか、はしっていた。
どうしてわたしはこうなんだろう。松内くんが、わたしをすきであってほしい。すきになってほしい。でも、それと同じくらい、すきじゃないでいてほしい。すきにならないでほしい。わたしは、自分のことをすきじゃないひとがいい。すきじゃないひとが、すきなのだ。そうじゃないと、すきでいられなくなる。
もうコンビニが後ろにずいぶん遠くなって、ついさっきまで歩いていた川沿い、河川敷まで駆け足でおりると、わたしは急に冷静になって立ちぼうけた。川面はきらきらと日を反射してゆれている。そのとき、手につかんだままだったスマホの画面がちかっとひかって、一瞬松内くんからの連絡かと思ってわたしは息をつめたけど、それはいつもの、パパ活アプリのメッセージ通知だった。今週末会おうよ。それに安心している自分に、わたしは泣きたくなる。ばかみたいだ。わかっている。今週末はひま。だってまだ、返信してないから。決めてないから。そう思いながら、でも、さっきからずっと、わたしは、さっきのことを、反芻している。