夢恋夜
こんな夢を見た。
N大学山岳部の初心者向け冬登山は、例年大学近くのB山と決まっている。新入生歓迎登山で全員一度は登っているし、そこそこの標高に加えて厳冬期の寒さや積雪量は馬鹿にならない。夏山に慣れて気が緩む初心者に、冬山の厳しさを教える意味でも丁度良い。
それでも山に入ると全員、雪化粧に覆われた景色に目を見張り、澄んだ空気でくっきり見える絶景に感嘆する。上級生は各ルート4、5人を引率して、毎年必ずいるサングラスを忘れた人間に予備を渡し、もはや宇宙の法則か初アイゼンで必ずはしゃく男子に注意する。徐々に口数が少なくなり、夕刻にはゾンビと化した新入生の尻を叩いて雪洞を掘らせるのも毎年の風物詩だ。緊急避難訓練も兼ねて雪洞ビバークが計画に組み込まれている。
夜明けまでしばらくあるが、Xは目が覚めたので起きることにする。
1年生とは別に作った雪洞から、のそのそ這い出る。ライトで周囲に異常がないか確認する。昨晩軽く吹雪いたようだが、もう雪は止んでおり、予報通り今日も天気は良さそうだ。
ガスバーナーで湯を沸かし始めると、一際小さな雪洞から蛍光ピンクのイモムシが顔を覗かせた。
「コーヒーですか?」
イモムシの名はYといい、Xが引率するルート唯一の女性希望者だ。何度か部室で話をした程度だが、適当な部員同士で登る夏山登山にも、先輩の女性部員と一緒に顔を見せていた。Xの同級生が太鼓判を押すだけはある。初心者には若干厳しめのルートだったが、小柄な蛍光ピンクの登山ウェアはなんなくついてきた。
まだ寝ててもいいぞ、と言う間もなく、Yは顔を引っ込め、自前の道具片手に隣に腰かけてくる。
「ちゃんと眠れたか?」
「あ、はい。寝るの早かったんで…」
その返答に、笑いがこみ上げる。さみーつかれたー、とのろのろ動く男子を尻目に、一人雪洞を最小限の大きさで作り上げて、おやすみなさいとさっさと寝てしまったのは見ていて痛快だった。
――確か高校時代、陸上部って言ってたっけな。一番凶悪な走れるゾンビか。
「なに笑ってるんです?」
いや、なんでも、と笑いをかみ殺し、インスタントコーヒーを取り出したYを手で制して、
「一杯ずつしか作れないけど…」
とコーヒーミルを轢き始める。
「おぉ。本格淹れたてコーヒーですか」
それぞれの湯が沸くのを待つ。
徐々に白み始めた東の空を見ながら、Yはぽつりと、
「晴れてよかったです」
「…うん。Yは登山大学からだっけ?」
「…はい。今年、いやもう去年? とにかく1年次での冬山は無理になるかと思いましたよ」
この合宿登山は、通常年末か年始の日程である。しかし誰かが帰省の際にインフルエンザを持ち帰ってしまい、上級生を中心にかなりの部員がダウンした。もちろん経験者は各々好きな山へ行けばいいし、初心者参加も義務ではない。しかし出来れば、初めての雪山は合宿に参加してから、と部では推奨している。
それを忠実に守っていたのなら、喜びをひとしおだろう。
「でもバーナーの使い方も慣れているみたいだし、雪洞も手早く作ってたな」
Yは目を丸くして、
「部一番の強面に褒められた!」
――このガキ
心のメモに記した「有望な新入部員」に傍線を引いて、結構失礼な奴と書き加える。
「いやー、バーナーは毎回持って行って使いますしー、雪洞は色々動画見て……と、先輩」
両手で顔を挟んで体をくねらせていたYが動きを止める。
「なんだよ」
「お湯湧いてますよ」
釈然としないまま、湧いた湯を慎重にドリッパーへ注ぐ。抽出が終わるまでのわずかな間に、ポケットに入れていた行動食を口に放り込む。
「先輩。昨日も道々ポリポリ食べてましたよね。……なんですそれ? あ、ありがとうございます」
答えずに先に出来た1杯を渡し、続いて湧き出したYのコッヘルから湯を拝借して、自分の分を入れ始める。Yはコーヒーを一口すすり、あ、美味し、と感想をもらした後、また問うような視線をこちらに向けてきた。なんとなく落ち着かないので渋々答える。
「右ポケットは小魚。左は甘納豆だ」
「加藤文太郎ですね」
わかるか、と思わず顔がほころぶ。
中学からの愛読書『孤高の人』の加藤文太郎リスペクトを初見で言い当てた人間は、もう卒業した先輩だけだった。他にも山岳小説とか読むか、よければお薦め貸そうか、とXが会話に弾みを持たせようとした矢先、
「でもコーヒーに合います? それ」
そのひと言で、頼まれても貸すものかと固く固く決意する。コーヒーを覗き込むと、見慣れた自分のしかめ面が映りこんでいる。
しばし無言でコーヒーを飲んでいると、目の端でYが深呼吸をしているのが見えた。うし、とひとつ気合を入れ、懐から何かを取り出し、
「はい。どうぞ先輩」
お役人に直訴する村娘のような態勢。
「なんだ。これ?」
差し出されたのは、綺麗にラッピングされた小さな四角い包みだった。
「チョコレートです。食べてください」
よければどうぞ、と言われたのなら遠慮しただろう。しかし食べてください、を断るのは気が引ける。なにより拒否したら一揆を起こしそうな、妙な迫力に呑まれて恐々受け取った。ラッピングをほどいて箱を開けると、一口サイズのチョコが4個。一つつまんで噛み砕く。すぐに濃厚な甘さとカカオの香りで口内が満たされる。美味い。元々甘いものは嫌いではないし、なにやら高そうな味がする、気がする。
Yは恐ろしく真剣な表情で見てくる。食べにくいことこの上ない。
視線から逃れるように背中を向けてもう一個。確かに美味い。これは人としての礼儀から、感謝と感想と気の利いたコメントを言うべく、
「あー、すげー美味いよ。ありがとう。コーヒーにもよく合う、と思う。……確かにチョコレートは行動食として物凄く優秀なんだが、夏場は溶けるのが問題だよな。でも冬は関係ないか。血糖値が上がると体は動ぶぁっ‼」
突如、背中に猛烈な雪しぶきが襲い掛かってきた。振り向くとYが座ったまま片足を宙に挙げて、こちらを睨んでいる。足で雪を蹴りかけられたと理解した瞬間、頭に血が上った。
「何すんだお前いきなり!」
思わず立ち上がって怒鳴りつけるが、Yは怯みも悪びれもしない。ゆっくりと立ち上がり、さして雪もついていない腰のあたりをパンパンとはたく。ふん、と鼻を鳴らしてひと言。
「あたしの行動食は、ドライフルーツと羊羹です」
どうしよう。意味が分からない。
「チョコレートなんて持ってきたのは今回が初めてで、それ一個だけです」
やはり意味がわからない。
頭の中で疑問符が渋滞を起こしている。知らぬ間に山から異界へ足を踏みいれ、日本であって日本でない、言葉が通じない異国に迷い込んだような気さえする。そんなXの様子を察したのか、Yはわざとらしくため息をついて、呆れた口調で問いかける。
「先輩。今日の日付は言えますか?」
「2月14日」
ようやく理解できる言葉に即答するが、同時に痴呆老人に対するような質問に苛立つ。山の計画に天気予報チェック。日付ぐらい当然把握している。大体さっきからこの小娘の失礼な態度はなんだ。今すべきは謝罪と弁明で、2月14日とチョコに何の関
あ、
気づいた。
Xが気づいたことをYも気付いた。
黙りこくった二人は、もう千年もそこに立っている彫像のように動かない。誰にとっても気まずい空気の間を、冬山の冷たい風が吹き抜けていく。彼方の空を薄紫色に染めた太陽が稜線の隙間から顔を出し、木々から舞い上がった雪は照らされてキラキラと光り、斜面の影が彫像の横を大義そうに這っていく。
彫像の一つが口を開く。
「先輩」
「…なんだ」
平静を装えたと思う。しかしYは半眼のまま、容赦なく指摘してくる。
「耳まで赤いです」
「寒いからな。耳の毛細血管は細いから、霜焼けになりやすいんだ」
意地だけで無表情を保つ。
こちらからも指摘してやる。
「お前も顔が赤く見えるんだが…」
「わたしも寒いんです。冬だし乾燥肌なんで」
「そうか。冬だしな…」
「はい。冬です…」
再び会話が途絶え、再び並んで座り、無言のまま冷めてしまったコーヒーをすすり続ける。
Xは雪洞が並ぶ、物音ひとつしない背後に意識を向けた。
ゾンビ共を起こすのは、もうしばらく後でいいだろう。
*
こんな夢を見た。
NMV管理室に所属する政府職員Xは、秘密結社ブルボンに捕らえられてしまう。そこには部下の女性Yが。Yはチョコを恨む何者かの陰謀を話し、仲間に加わるようXを説得する。果たしてXの決断は?
こんな夢を見た。
好きを知らないAIへ、博士は電脳チョコを渡そうと四苦八苦
こんな夢を見た。
特殊弾頭“choc”を搭載して異星人母船へ突貫。作戦決行は2月14日
こんんんんんんんんんんんんn
押しっぱなしにしていたキーから指を離した。
両腕を頭上で組んで、椅子の上で盛大な伸びをする。ばきぼきと関節が鳴り、こわばった体がほぐれる快感と、気が遠くなるほどの脱力感に襲われる。半ば朦朧としたまま肩をまわし首をひねっていると、忘れるよう努めていたカレンダーが視界に入ってきて、佐々木恵一は今度こそ気絶するかと思った。
深く深く息を吸い、疲労とストレスと後悔と焦燥感を混ぜ込んで口から吐き出す。
「書けねーーーー!」
自分でもびっくりするくらいの大声になった。
やばいと思ったときには手遅れで、安アパートの薄壁が隣の住人からの抗議でどん、と揺れる。巻き添えをくらったカレンダーが身じろぎし、描かれた雪だるまで「思い知ったか」とばかりに笑っていた。その真ん中、12月15日には極太の赤マッキーで丸が付けられ、伸びた矢印の先にこう書かれている。
〆切り厳守!
恵一が受けた読切小説締め切りまで、一週間を切っていた。
宙葉は大樹書房が発行する月刊の小説誌であった。会社名を冠した文芸大樹とは違い、月変わりのテーマでSF・ホラー・時代物と節操なく掲載していたが、宙を舞う木の葉が時代の波に抗えるはずもない。一時休刊ののち連載陣はweb媒体へ移行。季刊誌宙葉として辛うじて命脈を保つこととなる。
リニューアル創刊号は2月17日発売。バレンタインの恋愛小説特集と決まっていたようなものだが、あまりに捻りがないと編集者は余計な知恵を働かせる。2月21日は『漱石の日』だと誰も知らない雑学が持ちだされ、喧々諤々の議論の末、夢十夜を意識した10本の読切掲載となる。普通の恋愛特集とどう違い、売上がどう変わるかは議論されなかったらしい。
恋愛小説巧者、旬のベストセラー作家、大御所で誌面を埋めるのは雑誌読者双方の望みだったが、4人に書いてもらえれば上出来で、残りは「気鋭の新人」「新境地」「3年の沈黙を経て」等、雑なラベリングをされた在野の作家が名前を連ねることとなる。
恵一もそんな作家の一人だ。今まで出した単行本は4冊。大学在学中のデビューはSF新人賞で5年前。その後の作品ジャンルはばらばらで、部数の伸びも今ひとつ。しかし、こういう機会には声がかかりやすい。テーマを聞いて躊躇したものの、専業作家を名乗れる境界線を綱渡りしている身にとっては、断るという選択肢はなかった。
しかし書けない。
恵一自身の経験などわすかなもので、どれも長続きせず相手から振られた。切ない恋愛、焦がれる慕情という言葉は知っていても全く共感できない。
参考にならなかった流行りの恋愛小説が、机に積み重なっている。指定された書き出しの後に何本か考えてみたが、見る間に迷走し、最後の案など恋愛はどこ行ったと自分でも思う。
れんあいってなに、そんな疑問まで湧いてくる。
――無理もないよな
キーボードの前で頬杖をついて、恵一は自嘲した。
なにせ異性から面と向かって「お前は人を好きになったことがない」と言われた身である。
相手は大学の先輩で、よく一緒に飲み歩いていた。学部内でも評判の美人で、恵一もなんらかの期待があったことは否めない。しかし恋人への愚痴や不満、留学先や遠距離恋愛へ不安を聞いていたある晩、酔っぱらった彼女から「違ーう! 君は人を好きになったことがないからわからない!」と一喝された。
想い人からこの手の台詞を吐かれる展開は、実はフィクションでは珍しくない。大抵言われた方は逆上して相手を刺し殺したり、絶望して身を投げたりもする。相談で求められるのは理屈よりも共感という事実を抜きにしても、普通は傷つく。
ところが恵一は大いに納得してしまった。彼女には好意を持っていたが、心底惚れぬいていたと言えば明らかに嘘になる。どこか冷めた姿勢を指摘されて、腑に落ちてしまった。
翌日、平謝りする彼女だったが、人を見る目がある人だと尊敬すらした。
今思い返しても、あんなこと言われる奴実際いるんだ、と我ながら笑える。
そして現在、担当曰く、読んだ人全員が砂糖を吐いて独り身が血涙流して壁を殴るような。そんな甘々な作品を書かなければいけない。
そして現在、騒音被害で隣から壁を殴られた。
ため息。
モニターを睨んでいても天啓は下りず、恵一はネタ探し1割現実逃避9割でネットを開いた。お気に入りの書評サイト。アニメ海外の反応。ニュースサイトを渡り歩き、貯金1000万主婦の老後マネー相談を真剣に読みこむ。
不意にモニターの端で、発信者「芹沢柚花」のビデオ通話着信があった。散らかった机からヘッドセットを探し出して、応答をクリック。
「やっほ。恵ちゃん久しぶりー! あれ? 全然映ってないんだけどこれ通じてる? もしもーし?」
webカメラの邪魔をしている空き缶と本の山を除けながら、
「通じてるよ柚姉、ちょっと待ってて」
姉と呼んでいるが、正確には従姉である。旦那の転勤で北海道へ引っ越すまでは、恵一の実家の近所に住んでいた。小さい頃はよく遊んでもらったし、学生時代にはこの安アパートへ、わざわざ差し入れを届けてくれたこともある。モニター越しに目があうと、柚花は軽く手を振ってくる。
「ああ見えた見えた。相変わらずの顔色だけどちゃんと食べてる? 仕事は?」
「食べてるよ。仕事の方もぼちぼち。今度また読切もらった」
よしよし、と満足げに頷いて、柚花は自分の近況を話し始める。いつまでたっても慣れない雪国のつらさ。暖房代が記録更新したこと。近所で飼っている犬と、最近はまってるドラマについて。聞き役にまわることが多いのは、絶対に柚姉の影響だよなぁと恵一は苦笑する。しかし柚花のおしゃべりに付き合うのは嫌いではなかった。物書きという不安定な仕事に、反対する両親を一緒に説得してくれたのも柚花だ。その責任を感じてか、親よりも頻繁に連絡してくる従姉には、一生頭が上がらないと思う。
そうそう、と柚花はまた唐突に話題を変え、
「そういや、もうすぐ陽菜も帰ってくる時間ねー」
「陽菜ちゃんか。大きくなったろうなー。もう中三だっけ?」
恵一は、遠い過去に思いを馳せる老人のような視線を宙にさまよわせる。
「今中二。あんたもう随分長い事会ってないでしょ。――あの子飛行機乗るの嫌がるから、最近じゃ父さん母さんがこっちに来ることの方が多いし、……ってなにあんた」
そこで柚花はにたりと笑い、
「ちょっと寂しいんじゃない? あの子になつかれてたもんねー」
「ちょっとね」
と恵一は肩をすくめる。記憶にあるのは、引越しを嫌がって泣きじゃくる小学生の女の子の姿だ。低学年までは、よく絵本読みをせがまれた。恵一の母と柚花は仲が良く、二人が出かけている間、一緒に留守番をしたこともある。恵一が作家デビューした時は、周囲の誰よりも喜んでくれた。バレンタインにえらく塩辛いチョコレートをくれたこともあった。
バレンタイン。
締め切り。
頭を抱える恵一に何を勘違いしたのか、柚花はいいことを思いついた、と手を叩く。
「よし! 恵ちゃんがなんか大きな賞でも取ったら、陽菜を嫁にあげてもいい!」
何言ってるんだこの人、と呆気にとられる。
「十も離れたおっさんに娘差し出すって、柚姉、戦国時代の武将かよ。陽菜ちゃん怒るぞ。――大体柚姉の息子なんてゴメンだね」
軽口をたたく恵一だが、脳みその一部が仕事モードでゆっくりと回り出した。ペダルの重い自転車で緩い坂道を下っていくように見る間に加速していく。
――戦国武将。歳の差婚。源氏物語にある育てた養女をめとるエピソード。雪の断章。孤児? いやむしろ男女は逆に、いやいやいっそ同性というのも…。
断っておくが恵一に特殊な嗜好はないし、嫁取りを考えているわけではない。しかし若紫の例を挙げるまでもなく、ある種のファンタジーは男女問わず、一定の需要がある。少女漫画とかでも結構見かける。
生意気ねあんたなんて昔からあたしの子分でしょ似たようなもんじゃない。まくしたてる柚花の言葉は、恵一の耳にはもう半分も届いていない。散らばった糸状の断片をより合わせて、なんとか一本の線にならないか一心に集中している。
突如、耳元で爆竹を鳴らされたと思った。
「うわ!」
思わず悲鳴をあげて、恵一は痙攣じみた動きで我にかえる。柚花は怒気もあらわにこちらを睨んでいる。デコピンで弾いたマイクを今度はつつきまわし、そのたびにザリッガガッと不快なノイズが続けざまに走った。
「ごめっ、ちょっ、やめ!」
たまらずヘッドセットを外して、身振り手振りで謝り倒す。つぎはないぞと柚花の口が動いたのを確認して、恐る恐るかけ直した。
柚花は鼻息ひとつで怒りを追いだし、残るのは眉をさげた心配げな顔。
「だいぶ煮詰まってるみたいねー。仕事本当に大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。締め切りは年末なんだけど、早めに終わらせたいからちょい追い込み中なだけ」
早めに終わらせたい、だけが本当だ。
力なく笑う恵一を、柚花は被疑者の供述を吟味する刑事の風情で目を眇める。
「ならいいけど…」
とつぶやき、そもそもの用事を思い出したのか、そのあと一気に、
「忙しいなら電話なんてあんたの方から切りなさい。でも親は別だから。ラインにも返事しないって叔母さんぼやいてたよ。たまにはそっちから連絡しなさい。ついでに、頼まれてた海産物今日送ったって恵ちゃんから伝えといて。カニとかも入ってるから。食べたかったら年末にはちゃんと実家に帰りなさいね。あと叔母さんによろしく。じゃあ今日はもうそろそろ」
切るね、と続くはずだった台詞が唐突に止まる。からんころんと玄関ベルが鳴る音が、恵一にもわずかに聞こえていた。横を向いた柚花が、手のひらを見せて腰を浮かす。
「ちょーっと待ってなさいね。勝手に切ったら駄目。駄目だから」
妙に楽し気に、180度変えた意見を口にして席を離れる。
ドアが一度開き、閉まる音。
話をしている気配。内容ははっきりしないが、上機嫌な方が柚花。ぼそぼそと答えているのは帰宅した陽菜だろうか。締め切りの呪いか、何を聞いても仕事と結びつけてしまう。チョコという単語が聞こえたような気がする。聞こえなかった気もする。ちょこっと、と言ったのかもしれない。旅行と言ったのかもしれない。
やがて相手が語気を強め、どすどすと階段を昇っていく音。
再びドアの開閉音。
柚花の姿がフェードインして、
「あーもー可愛くない。なにプリプリしてんだか。反抗期かな?」
「どうせ柚姉がなんか余計なこと言ったんでしょ?」
柚花は口をとがらせ、
「久しぶりに顔見せてやれって言っただけよ。あの子母親似だから、そこそこ可愛くなったのに」
どっちだよ、と恵一は思う。
通話を切ろうとしたことも忘れたのか、柚花は夜食を食べても片づけをしない旦那への愚痴を始め、恵一は黙って耳を傾ける。
どこかで、雪やこんこんの童謡が聞こえる。
恵一のアパートはボロいが安い。1Kで近所のワンルームとほぼ同じ家賃だ。すりガラスもない引き戸で暖房も明かりも遮られ、電気をつけていない台所は暗く、外気と同化して冷蔵庫よりも寒い。コーヒー用の湯を沸かしている恵一は、暗闇で光るガスの火を見てじっと考え込んでいる。
柚花との通話を終える頃には、年齢差がある二人を主人公にした簡単なプロットはできていた。それを練り上げ、肉付けすれば短い読切くらいにはなるかもしれない。
でもなあ、と恵一は悩む。
玄関先で芹沢母娘がどういうやりとりをしていたのか、恵一は知らない。しかし最後の言葉は、ドアを突き抜け、パソコンのマイクまでたどり着き、およそ1000キロの距離をへだてた恵一の耳にも届いていた。
『別にいいからっ』
記憶にあるより大人びた声の、記憶にはない苛立たし気な口調。特に嫌われる覚えはなかったが、本人にとっては黒歴史なのかもしれない。小さい頃遊んだ近所の兄ちゃんなんてそんなのものだと、頭では理解していたが、やはり一抹の寂しさを覚えた。親戚の子でこれなんだから、娘に疎まれる父親なんて大変だと全国の父に同情する。余計なお世話である。
――ファンタジーが過ぎるなぁ
湯が沸くのと同時に、ボツに決めた。
わからない恋愛話に、幼い頃からの思慕なんて要素を加えて書ける気がしない。プロットの破棄は珍しいことではない。惜しいとも感じない。幾千のプロット幾万のネタをボツにして、屍の山を築くのが今の仕事である。
火を止めた。
換気扇の下の小さな窓から、街灯の光が微かに差しこんでいる。薄明りを頼りに、恵一は慣れた手つきでカップに湯を注いで一口すする。暗く、寒く、雪山のキャンプみたいだとふと思う。
窓に顔をよせて外の様子をうかがった。暖房を全開にした室外機がぶーんとなっている。近所の家が雨戸を閉める音が聞こえる。通りの角で犬が吠え、前の道を誰かが自転車で走り抜け、灯油販売車の流す童謡が溶けるように遠のいていく。
隣から更に2回壁を殴られる大変な難産の末、締め切り一日前に原稿はあがった。
*
部屋の姿見に、帰宅直後の自分が映っている。
吹雪の中歩いていたので、髪はからまり、濡れた髪が貼りついた頬はりんごよりも赤く、おまけに少し鼻水がたれている。見るからに芋っぽい北国の中学生。
こんな姿、恵兄に見せれる訳ないと芹沢陽菜は思う。
陽菜は恵兄のことが小さい頃から好きで、今でも大好きだ。
色んなお話を聞かせてくれた。自転車の練習にも付き合ってくれた。お話を作る作家という仕事を教えてくれたのも恵兄だし、失敗したチョコレートも美味しいと食べてくれた。
しかし、あのまま求愛を続けていても、想いが成就することはないと陽菜も幼心に理解していた。だから寂しさで大泣きしたが、引越しで離れるのはチャンスだとも思った。
今は雌伏の時だ。幼い憧れで終らせるつもりはない。次に会うときは、恵兄がどきりとするほど綺麗になって、真剣に交際を申し込む。そう決めて、ずっと会うのを我慢をしていた。
それなのに意地悪な母は、――母に相談した小学生の自分を絞め殺してやりたい――事あるごとに恵一の話題を出して陽菜の反応を笑ったり、強引に陽菜の顔を恵一に見せようとする。
さっきもそうだ。
本音を言えば久しぶりに顔を見たかったし、声も聞きたかった。忘れられたらという不安もある。マスクで顔を隠したり、間違えたふりをこちらのカメラだけ切ってしまえば。そう迷っていたところに、母は大昔のバレンタインの失敗談を持ちだし、陽菜はキレてしまった。
あれは塩と砂糖を間違えたわけではない。チョコに直接塩を入れてしまっただけだ。
恵兄は甘じょっぱいのが好きだと言っていたから。
しかし母の記憶は「塩と間違えた」で固定されたらしく、何度訂正しても同じ言葉でからかってくる。ボケちゃったじゃないかと陽菜は毒づく。
今ならそんな失敗はしない。塩気のあるビスケットをチョコでコーティングした手作りの友チョコは好評で、ヨッコなんてパティシエにだってなれると太鼓判を押してくれた。
惜しいヨッコ。それを言うならショコラティエだ。陽菜の機嫌が少しだけ直る。
語彙という言葉を教えてくれたのも恵兄だ。「語彙力!」と叫んで床を転がる恵兄を思い出してくすりと笑う。鼻をかみ、髪は手櫛で整え、頬を両手で揉みしだいて鏡の前で笑ってみる。さっきよりはマシだと思う。いい女はイライラを引きずったりしない。
机の上のノートパソコンを持って、しわになるのも構わず制服のままベッドに寝転がる。
パソコンを開くと、書きかけの小説原稿が表示された。
目下、陽菜のなりたい職業はプロの小説家である。好きな人の影響と言われればそれまでだが、恋心と同じくらい本気だ。引越し前から書いていたのは恵兄にも内緒だった。投稿だってしている。今年の夏には1次選考を初めて通過した。まだまだ先は長いと思う。
でも陽菜は焦ってはいない。
物語を考えたり、書いたりするのは楽しいが苦しい。完成させるのは本当に大変だし、読者の反応が悪ければ死にたくなる。それでも苦しさに負けず、何本も何百本も書き上げることができれば、ちょっとした物書きにはなれる。恵兄もそう言っていた。
欲を言えば高校生でデビューしたいが、自分を天才だとは思わない。二十歳までに、どこかで短編読切を載せてもらうのが今の目標だ。そうなれば例え新人でも名実ともにプロの小説家だ。
作家という同じ立場で、本になった自分の小説を持って、うんと綺麗になって恵兄に会いに行く。
最初、恵兄は気付かないはずだと陽菜は思う。
今よりずっと背は伸びてるだろうし、ヒールも履きこなしているだろう。ウッチーから教わって練習中のメイクもばっちり。スーツは賞金か原稿料で買い、ペンネームでの名刺も用意する。
デビューしたばかりの新人作家で、先生の昔からのファン。そう名乗るつもりだった。
――どうしてここが?
恵兄はそう尋ねるだろう。言い訳は考えてある。献本のために、編集者に出版社伝手で住所を調べてもらった。失礼は承知の上だが、一度どうしても先生とお話がしたくて直接持ってきた。当然恵兄は怪しむが、不可解な出来事を面白がるところもある。本だけ受け取って門前払いするほど意地悪でもない。結局は家に入れてくれると思う。引越してるかもしれない。もし今のアパートのままなら陽菜も間取りは覚えている。インスタントコーヒーの瓶はいつも出しっぱなし。砂糖は戸棚の左下。
そこからだ。
徐々に匂わせるつもりだった。昔住んでいた所。恵兄がデビュー作を書くのに苦しんだ部分。恵兄の学生時代のエピソード。ファンなら調べればわかること。周囲にいた人間しか知らない、調べてもわからないはずのこと。
目に浮かぶ。
困惑し、何かおかしいと首をひねる恵兄の姿。献本に書かれたペンネームと、笑いをこらえてすまし顔の陽菜を何度も見比べるだろう。どこで会ったかと記憶を探り、ある可能性に思い至るもすぐそれを否定し、もう一度目の前の女性を凝視するに違いない。記憶にある小学生の面影をようやく見つけるが、成長した陽菜の姿に戸惑いを隠せず、「もしかして…」と恐る恐る正解を口にするのだ。
その瞬間、多分自分は吹きだすと思う。
好きな人と1000キロ離れた北国の、吹雪が舞う12月の夜。中学生の陽菜はしわくちゃの制服でベッドに寝転がり、信じて疑わない未来の自分を夢見ている。
すぐ気付かなかった恵兄へ一瞬咎める視線を向け、でも怒ってないよと表情を和らげる。洒落たバッグから取り出した、ショコラティエ顔負けの自信作を手渡す。
一番可愛く見える角度で小首をかしげて、にっこり笑ってこう言うのだ。
「今度はちゃんとできたよ」
そんな夢を見た。