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第7回 覆面お題小説  作者: 読メオフ会 小説班
16/22

ただ歩く、ということ

冬のある晴れた日。

僕は空を見上げる。昼間から夕方へと移り変わろうとしているこの時間帯、空の青色はだんだん柔らかくなっている気がする。

目線を落とすと、そこにはまっすぐ続くアスファルトの道がある。広い田んぼの中にまっすぐ引かれた一本道。夏であれば生い茂る葉の圧倒的な緑が目に飛び込んでくるし、秋であれば風に揺れている稲穂の黄金色に目を奪われるが、冬の今は茶色の土が見えるだけ。むしろ押しつけがましさがなくて好きなくらいだ。

そんな所を、僕はただ歩いている。



およそ2年前、中学生になった頃からだろうか。両親が共働きになり夕方まで自由な時間ができると、僕はよく散歩に出かけるようになった。

部活には入らなかった。昔から人込みが苦手で、人がたくさんいる所にずっといると疲れてしまう。学校でも授業ごとに少しずつ気力が削られていき、放課後には疲れ果ててしまう。これでは当然部活動に参加する元気はない。部活動に入るのが強制ではなかったのがせめてもの救いだ。必然的に友達付き合いも少なかったが、いじめを受けることもなかったので運は良いのだろう。

僕の家は町の外れの方にあるので、学校から離れるほど田畑や木々が増えてくる。その辺りまで帰ってくると、息苦しい学校とは違って誰の目にもさらされない。ようやく人心地つけた。

毎日の通学路がこういう感じだったからか、家にいるより自然に囲まれている方が落ち着いた。それが散歩を始めたきっかけだったのだろうと思う。そんなこんなで、僕は今のこの状態を案外気に入っていた。



今日は珍しく風が穏やかで、ふと川の向こうまで行ってみようと思い立った。ここはさらに町の外れで、川沿いに水田が広がっている。川の向こうは隣町で、そこには森に囲まれた小さな公園がある。公園で何かするわけでもなかったが、ひとまずそこを目的地に歩き始めることにした。

小さな橋を渡って川を越えた。隣町の中心部も川から離れているので、すれ違う人もいない。

少し歩いてとりあえずの目的地である公園にたどり着いた。常緑植物が多い公園なので、冬に来ても木々の緑が目に入る。どうしようかと改めて考えてみたものの特に浮かばない。森の中をぐるっと回って帰ろうかと思ったところで、前方に人がいるのに気づいた。

人付き合いが面倒に感じる僕は、人影が見えるとその視界からスッと隠れる習性が身についている。たいてい僕の方が先に気づくので、ほとんどの場合はそれでやり過ごせる。今回も半ば反射的に木陰に隠れようとしたが、その人影の様子が何かおかしい。

身を隠しながら人影に近づいていく。見たところ、僕と同じくらいの背格好の見知らぬ女の子のようだ。黒髪は長く、コートにマフラー、耳当てとしっかり防寒をしている。違和感の正体はその子の行動だった。目の前に茂みがあり、枝葉が髪やコートにつくのも構わず茂みの中へ手を伸ばしていたのだ。

普段だったら気づかないふりをしたかもしれないが、周囲に僕以外の人はいない。意を決して木陰から出て、彼女に近づこうとしたときだった。

僕の気配に気づいたのか、顔を向けてきたのだ。ぱっちりとした目にメガネをかけている。それなりの距離はあると思って油断していた。ここで気づかれるのが予想外だった僕は、思わず小走りで彼女の元まで駆けつけた。

「……あ、あの」

駆けつけた僕に、女の子がおずおずと話しかけてきたところで我に返った。何と言えばいいのか。学校でもほとんど女子と会話をしないというのに。

とっさに茂みの方に目を凝らすと、彼女の手の少し先に銀色の携帯電話があるのが見えた。茂みに手を突っ込み、引っかかっていた携帯電話をつかんで強引に引っ張る。小さな葉が舞い、枝がバキバキと音を立てた。

「携帯を探していたんでしょ。これ」

どう言えばいいのかわからなくて、そっけない態度で押しつけるように携帯電話を彼女に渡した。

「……はい。目がそこまで良くなくて、どこにあるか見えなかったんです。ありがとうございました」

女の子は小さな声で言う。久々に女子と話した上にお礼を言われてしまい、助けた方なのに頭が真っ白になってしまう。

「あ、いや…」

何も言えない間に彼女はポケットへ携帯電話をしまい、コートについた草葉を払った。

「……では、わたしは帰ります。本当に助かりました」

ペコッと頭を下げ、女の子は立ち去ってしまった。何も言えず突っ立っている僕を置いて。



その後は天気が悪かったり用事があったりで、次に散歩に行ったのは数日後。何となくあの日のことが頭に残っていて、僕はまた川の向こうの小さな公園に行ってみた。

だが、あの子どころか人の姿すらなかった。僕は森の中をぶらぶら歩きながら思い返す。あの日の出会いはあっという間の出来事すぎて、数日経った今は夢だったのかもしれないと思うほどだった。

結局、その日は誰も現れることはなかった。



次の晴れた日にまた公園へ行ってみたが、その日も誰にも出会うことはなかった。今度何もなかったらもう行くのはやめよう。次に予定の空いた日、僕はもう一度だけ公園へ足を運んだ。三度目の正直。あの日と同じく風は穏やかで、日向の温もりが心地よい。

公園の入口に着いた。深呼吸を1回。歩いているときは俯き気味だった顔を上げると。

「……いた」

森の中にあの子がいた。顔を空に向けて目を閉じ、両腕を後ろに伸ばしている。柔らかい風が彼女の黒髪を揺らすと、彼女の表情が緩んだ。


初めての感覚を経験したのはそのときだった。


僕にも彼女の穏やかな気持ちが伝わってきて、心の中が今日の日差しのようにじんわりと温かくなった。その心地よさに、僕はしばらく彼女のことをじっと見つめていた。

風が止んだところではっとした。僕が一歩近づくと彼女は目を開け、その大きな瞳で僕の顔をとらえた。

「……あ」

彼女は秘密がバレたような表情で俯いた。その元へと向かう。

「また、会いましたね」

前回はまともに会話ができなかった僕だったが、今回は話すことができた。

「……はい」

「ここに来たら会える気がして。何回か来たんですけど、誰もいなくて。今日いなかったら、もう来るのはやめようと思ってました」

たどたどしくはあったが、今なら自分の気持ちを伝えてもいいんだと不思議と思えた。

「……実は、わたしもです。ここでまた会えたらな、と少しだけ期待しちゃって」

彼女も顔を上げ、前回より少しはっきりした声で言ってくれた。

だが、それっきり僕も彼女も黙ってしまう。こういうときに会話の糸口がつかめない。落ち着いていたはずの僕の心が焦り始めた。何か言わなくては。どうしよう。

そして、咄嗟に出てきた言葉は。


「ちょっと、歩きませんか?」


何だそれは。彼女も驚いたように見える。

「いや、その…。僕が歩きたいと思って、か、勝手にここまで来ただけで。歩きたいのは僕だけです。すみません、忘れてください」

何を言っているか自分でも意味がわからなくなってくる。冬なのに変な汗が出てきた。

「いいですよ」

「……うそ」

今度は僕が困惑する番だった。

「わたしもちょっと散歩したいな、と思ってここまで来たんです。そこまで遠くに行かないなら」

自分が提案してしまった以上、ここで撤回するわけにもいかない。

「じゃあ、ちょっとだけ」



一緒に歩くとは言ったものの、会話はまだぎこちない。でも互いに定型的な質問をして、彼女のことは少しわかった。

名前は鳥井(とりい)紗都香(さとか)。隣町の中学校に通う、僕と同じ中学2年生。帰宅部。

川を渡って僕の住む町の方に来ても彼女はついてきた。会話のない時間の方が長いくらいだったが、悪い気持ちにはならない。むしろ、緊張が徐々にほぐれるような感覚が心地よいくらいだった。

「……あ、そうだ」

僕はとある建物の前で立ち止まった。そこは小さな駄菓子屋なのだ。町外れで経営が成り立つのか疑問だが、僕は散歩がてら時々立ち寄っている。入ってみようかと言うと、彼女も頷いた。

土間の左右にある細長いテーブルの上と正面にある上がり(かまち)に駄菓子を置いている、昔ながらの小さな駄菓子屋だ。彼女は駄菓子屋に来るのも久しぶりとのこと。それぞれ小さなカゴを持っていくつか駄菓子を選んだところで、あっと彼女が小さな声をあげた。

「……そういえば、今日って2月14日ですよね」

「2月14日…バレンタインデー、か」

言われてみればそうだ。学校でも女子が本命やら義理チョコやら言っていた気がする。友達がほとんどいない僕にとっては関係ない話だったが。

村川(むらかわ)くんは、チョコは好きですか?」

「うん、まあ」

「なら…」

と店内を見回して、彼女は何かをそれぞれのカゴに入れた。

「お金はまとめて払います。……この前助けてもらったお礼も兼ねて」

カゴを見ると、入っていたのはいくつかのチロルチョコ。

「チロルチョコ、色々な味があって楽しいよね」

「よかった。わたしも好きなんです」

会計を済ませ駄菓子屋を出る。彼女の表情も明るくなってきたように見えた。

「じゃあ、今日はそろそろ…」

彼女が言う。空を見上げると茜色に染まり始めていた。

「うん。今日はありがとう」

「こちらこそありがとうございました。では」

互いに会釈をするようにして別れた。少し歩いて振り返ると、彼女の姿が角を曲がって見えなくなるところだった。しばしその角を見つめる。別れを名残惜しいと思ったのはいつぶりだろう。

駄菓子の入ったポリ袋からチロルチョコを1つ取り出す。包装紙を開いて口に入れると、懐かしい甘さがじんわりと広がった。



それから散歩に行くときはあの公園に立ち寄るのが習慣になった。2~3回に1回くらいは森の中に彼女がいて、そうするとしばらく一緒に歩くようになった。

季節は冬から春に。学年が上がってクラス替えもあったが、僕のポジションは変わらずヒエラルキーの外だ。

そんなある日、僕は学校で普段にも増して疲れてしまった。このまま家で昼寝をするか迷ったが、外の陽気に誘われて家を出た。公園には彼女がいたので、どちらから言うでもなく一緒に歩き出した。

いつもより足取りが重かったが、彼女は何も言わず横を歩いてくれる。ふと、答えてくれなくてもいいから今日のことを話す気になった。

「なんか今日の学校、いつもより疲れちゃった。僕のクラス、男子に2つのグループがあっていがみ合ってるんだけど、今日の体育の授業がバスケで。僕はどっちのグループにも入ってないんだけど」

ひとり呟くように話し続ける。チラッと彼女の方を見たが、表情は窺えなかった。

「練習試合の1つが結局そのグループ代表の対決みたいになって、ある男子のミスがきっかけでそのチームが負けちゃって。そのときにも責められていたし、その後の昼休みでもそのグループの人たちに色々パシられてるのが見えて…。バスケって動きが速いから、見てるだけでも疲れるのに。それを見ちゃったら余計につらくなって…」

彼女は何も言わず歩き続けている。空気を悪くしてしまったように感じて、足取りがさらに重くなった。

「いや、こんな話、聞きたくなかったよね。……ごめん」

思わずそう言ったときだった。彼女が僕の方を向いた。

「……村川くんは、人の気持ちを感じすぎてしまうんじゃないかな」

「え?」

「わたしもそう。教室で喧嘩をしてたり必要以上に誰かが責められたりしていると、それだけで心がギュッとなってつらくなってきちゃうの」

初めてだった。自分だけだと思っていた感覚を他の人が言い当ててくれたのは。

「……うん、わかる気がする。それだけで教室にいたくなくなっちゃう、っていうか」

「ね。そんなにきつく言う必要ある?って思っちゃう」

心の重荷がちょっと軽くなり、自分の足取りにも力が戻ってきた。その言葉だけでもよかったのに、彼女は歩きながらまだ何かを考えているようだ。

「……あと、これは違ってたら申し訳ないんだけど」

無言でしばらく歩いたところで彼女が切り出した。

「村川くんは、視覚、つまり目が敏感なんじゃないかな」

「目が、敏感…?」

「うん。さっき、動きが激しいバスケを見ているだけでも疲れちゃうって言ってたし。あとは、初めて会ったときすぐにわたしの携帯電話を見つけてくれたから」

「……ああ」

確かにそうかもしれない。ひとつ思い当たることがあったので聞いてみた。

「何年か前、町の中心部に○ンキができて僕も一度行ってみたんだけど、入ってしばらくしたら気持ち悪くなって。目に入ってくる情報量が多すぎて、脳が追いつかない感じ。それも目が敏感だから、なのかな?」

「そうだと思う。あのお店、ポップが派手だしね」

自分の中で腑に落ちた。よく落とし物を見つけるし、相手よりも先に知り合いだと気づく方が多いのもそういうことなのだろう。

「鳥井さんも、目が敏感だなって思ってるの?」

「ううん。わたしは目じゃなくて耳、聴覚の方が敏感かな。教室の男子はいつも騒がしいし、聞いてるだけで疲れちゃう」

冬の頃を思い出した。少し離れていても、彼女の方へ歩き出した途端に僕の方を向いてきた彼女。

「だから休み時間はよく図書室に行ってる。絶対静かだし。目や耳とか、感覚が敏感な人がいるっていうのも、図書室で読んだ本に載ってたんだ」

弱い風がふたりの間を通り抜け、さらさらと木々を揺らす。彼女は気持ちよさそうに目を閉じた。

「こういう木々の音とか川のせせらぎとか、自然の音はうるさく感じないの。むしろホッとして癒される。だからあの公園、よく行くんだ」

「僕も空とか森とか、自然を見ていると心が落ち着く。ふたりとも、散歩がリフレッシュになってるんだね」



季節は少しずつ進んでいく。

目が敏感ではないかと言われた僕は、休み時間はなるべく机に突っ伏し、視覚情報をシャットアウトするようにしてみた。そうすると疲れが少しましになったのが自分でもわかった。

ふたりで散歩をしているのは人通りの少ない町外れだが、まれにどちらかの知り合いが近くまでやってくることもあった。ふたりでいる所を見られたら面倒なことになる。だが、彼女が人の足音に気づき、僕がその方向を見て姿を確かめて隠れればバレることはなかった。

「僕の目と鳥井さんの耳があれば、他の人に気づかれないようにするのは無敵だね」

「敏感なのも、悪いことばかりじゃないね」

物陰に隠れながらひそひそ話をして、くすくす笑い合った。


歩きながらこんな話をしたこともある。

「わたしたちの祖先って、森の奥の方とかで暮らしてたんじゃないかな」

「なんでそう思うの?」

「敵と戦って勝つんじゃなくて、ひたすら逃げるっていう戦略。目とか耳とかが敏感なのも、敵を遠くで察知して逃げるため」

「なんかしっくりくる」

「でしょ。図書室で読んだ本に書いてあって」

「じゃあ、この前ふたりで隠れたのもその名残ってことか」

「かもね。そういう想像をしながらのんびり歩くのも楽しいんだよね」


そんな僕たちふたりだったが、「約束」はしなかった。

後から思えば、相手のことを必要以上に気遣ってしまい、約束をして相手を無理に縛りつけたくなかったのだろう。

ふらっと気が向いたときに出かけ、あの公園で会えたら一緒に散歩をする。そんな距離感が、ふたりにとってちょうどよかった。



さらに季節はめぐり、また冬を迎える。さすがに中学3年生の僕らは受験勉強が佳境を迎え、散歩に出る日は少なくなっていた。

それでも、どうしても散歩に出たい日があった。2月14日、バレンタインデー。初めてふたりで一緒に歩いた日。

今年はどんよりとした曇り空で寒い日だ。それでもしっかり防寒をしていつもの公園に行くと、そこには彼女がいた。久しぶりのふたりの散歩だ。

「あれから1年経ったんだね」

「……うん」

「受験勉強はどう?」

「……まあまあ、かな」

いつにも増して彼女は言葉少なだった。心なしか表情も硬いように見える。受験勉強でストレスがたまっているのかもしれない。

やがてふたりの足は自然とあの駄菓子屋に向かった。僕が駄菓子を選んでいると、カゴの中に()()を入れられた。

「チロルチョコ、今年も買おう。お金はわたしが払うから」

「これくらい自分で払うよ」

「いいよ、バレンタインデーなんだから。……また、しばらく会えないだろうし」

彼女に押し切られた。ホワイトデーの頃に会ったら、今年こそは何かお返しのお菓子をプレゼントしよう。

駄菓子屋を出ると外は暗くなりつつある。思っていたより遅くなってしまった。そろそろ帰ろうかなと思っていると、彼女が立ち止まった。僕の方に大きな瞳を向け、何か言いたそうにしている。

「……村川くん」

「ん?」

続きの言葉を待つが、彼女の口は小さく動くだけで何も聞き取れなかった。

普段の僕なら彼女の言葉をもう少し待ったはずだった。だがこのときは寒さと受験勉強をしなければという焦りから、思わず言ってしまった。

「じゃあ、そろそろ帰らないと。受験頑張ろうね」

「……うん」

彼女に背を向けて、家路を急いだ。






姿が見えなくなるまで、彼女が僕のことをじっと見つめていたことなど、知る由もなかった。






そして、受験が終わっても、合格発表が終わっても、彼女が公園に現れることは二度となかった。






僕が合格したのは住む町にある一番メジャーな高校だ。毎年学年全体の7割くらいが進学するし、中学校の近くにあるので通学ルートもほぼ変わらない。彼女は高校受験をするものの志望校はまだ決まってないと言っていて、会う頻度が減って聞きそびれてしまっていた。隣町にも同じような高校があるのは知っていたから、彼女もそこを受験すると思い込んでいた。

数少ない中学校の知り合いがたまたま隣町の高校に進学したので、メールで鳥井さんという人が同じ学年にいるか聞いてみた。「いない」という答えだった。親切にも隣町の中学校から進学した人に確認してくれたらしい。卒業と同時にどこかに引っ越した、だけど引っ越し先がどこかまでは知らない、とのことだった。


あの公園まで走った。

今日も彼女はいない。入口の前にも。森の中にも。


思い出すのは最後に会ったあの日のこと。

どうして、何か言いたげだった彼女の言葉を遮ってしまったのだろう。

僕の「感じやすさ」を、初めて理解してくれた鳥井さん。

僕の悩みをきちんと聞いてくれたのに、彼女の悩みをきちんと聞いてあげていただろうか。

彼女ほど耳は敏感じゃないけれど、僕だって人の話をきちんと聞くことくらいはできたのに。

せめて、彼女と次に会う約束をすればよかったのだろうか。

だが、後悔してももう遅い。

彼女はどこに行ったか、もうわからない。

「……うっ」

誰もいない森の中で、ひとり涙が止まらなかった。



それから僕は、本を読むようになった。

休み時間は図書室で。放課後は町の図書館にも通った。

一緒に歩いていたとき、彼女は自分や僕の「感じやすさ」について参考になった本を教えてくれた。それを足がかりにして、僕も「感じやすさ」について勉強してみようと思ったのだ。

それは彼女と一緒に歩いた日々を思い出すことでもあって、心がギュッと締めつけられることもあった。

だが、その痛みは必要なものだった。

別れの日の後悔を忘れないために。

そして、いつかもし彼女と会えたとき、今度こそ彼女のことをしっかりと受け止めるために。


心が疲れたときの癒しになるものは、それでも「歩くこと」だった。

どうしても最初にあの公園に寄って彼女がいないことは確認してしまうし、一緒に歩いた思い出がフラッシュバックすることもある。でも、高く青い空を見て、生い茂る木々を見て、一面に広がる水田を見ていると、心の中の小さな切り傷が癒えていくようだった。



高校の3年間はそのようにして過ぎていった。

僕は少し離れた郊外の大学を受験することにした。「感じやすさ」、つまり感覚過敏を研究している先生がいて、そこでさらに勉強してみたいと思ったからだ。彼女が教えてくれた本の中にもその先生の著書があった。

勉強したいと思った理由はもうひとつ。彼女が教えてくれた本は学術系のものが多かったけど、僕は小説も読むようになった。読んでいて気づいたのは、はっきりとは書かれていなくても、感覚過敏なのではないかと思える人の描写を時々見かけること。そして彼らは往々にして生きづらさを抱えていること。小説の外、日常の世界の中にもそういう人は多いのかもしれない。彼女のこともそうだが、感覚過敏の人たちの助けになることは何かできないかと考えるようになっていた。



そして迎えた大学受験。僕は無事に合格した。

大学は自宅から通えなくもなかったが、大学の近くで一人暮らしを始めることにした。郊外の大学なので周辺は自然が残っており、歩きたい場所が多そうだったのも理由だ。仕送り額を超える分は自分でアルバイトをして賄うという条件で両親は許してくれた。


引っ越しを終え、新居から通う大学生活が始まる。

初日はオリエンテーションだ。郊外ということもあって朝は冷え込むが、空は清々しいまでの晴天。自分で決めた道の第一歩。今までとは違うワクワク感があった。

大学に着いて、オリエンテーションが行われる教室に入る。階段状に奥までずらっと座席が並んでいるのがまさに大学の講義室という感じだった。






そのとき、僕はそのひとに目が留まった。

教室の後ろの方に座って、資料に目を落としている。

「うそ…」

一歩近づいたところで、そのひとが顔を上げた。

黒髪でメガネをかけていた。そして、遠くからでも足音で気配がわかるその女性は。

その大きな瞳と目が合うと、彼女の口が小さく開いた。

「え…」

急に心臓が早鐘を打ち始めた。早足で階段を駆け上がり、彼女の前へ。






「……鳥井、さん?」

「……村川、くん?」






3年ぶりの再会だった。






彼女の隣の席に座ったところで担当の先生が入ってきたので、まともに会話も交わせないままオリエンテーションは始まってしまった。落ち着かない気持ちで何とか受け終えると、講堂の外はサークル勧誘の声で騒がしい。彼女が顔をしかめる。心なしか顔色が悪い。上級生と新入生が入り混じってガヤガヤしている様子を見ていると、僕も頭が痛くなってきた。

「ひとまず、キャンパスを出よう」

彼女の手を取り、強引にチラシを渡そうとしてくる上級生たちを振り切ってキャンパスの外へ出た。隣は公園になっている。そこでようやく足を緩めた。しばらくゆっくり歩くと彼女の顔色もだいぶ良くなってきた。


そこでようやく、ゆっくり話せる機会は訪れた。僕がどうしても伝えたかった言葉は。

「あのとき、鳥井さんが何か言おうとしていたのに…。勝手に遮って、本当にごめん」

彼女がかぶりを振る。

「ううん、言えなかったわたしが悪いの。親の仕事の都合で遠くの町に引っ越すことになっちゃって。最後の最後で、このまま別れちゃった方が、わたしのことなんて忘れて楽しい高校生活を送ってくれるかな、って思って…」

彼女の目に涙が浮かぶ。

「あっちの町はこっちと全然違って、高校でもなじめなかったの。でも自然の多い町だったから、放課後はよく歩いたよ」

「……そうだったんだ」

「そうすると村川くんとふたりで歩いたことを思い出しちゃって、淋しくなっちゃって…。でも泣くとすっきりして、ちょっと元気も出た」

彼女は目元をハンカチで拭って、心からの笑顔を向けてくれた。


「もしまた会えたら、どうしても言いたかった。村川くんが歩く楽しさを教えてくれたから、あっちの町での暮らしも悪くなかったよ、って」


彼女の悩みもきちんと聞けなかった僕だけど、少しは助けになれていたと知って。

「……よかった」


離れ離れになったことでようやくわかった。お互いにどうしようもなく惹かれていたことが。

あのときの自分が少し救われたと思えたこのとき。

伝えたいと思っていたことが言えたこのとき。

ふたりの歩いてきた道は、ついにひとつにつながった。






離れていた時間の埋め合わせをするように、僕たちは色々な所を一緒に歩いた。

休みの日には、地図を見て行ってみたいと思った場所に出かけた。観光地ではない、人の少なさそうな場所。

鳥が鳴く青空。心地よいせせらぎの音が感じられる清流。爽やかな風が吹き抜ける森の中。ゆっくりと波が寄せては返す穏やかな海。

何も話すことはなくても。一緒に自然が織りなす景色を見て、自然が生み出す音を聞いているだけで、心は満たされた。

世間一般のデートからは外れているだろう。それでも僕たちふたりにとっては、最高に幸せな、とびきりのデートだった。



バレンタインデーには、僕が住んでいた町へ久しぶりにふたりで行った。ふたりが出会った公園もあの駄菓子屋も、以前と変わらないまま残っていた。今年も駄菓子は彼女のおごり。中学生の頃よりはお金もあったから、チロルチョコも他の駄菓子も多めに買ってくれた。

そしてホワイトデーには、僕から初めてお返しをした。一緒に歩いたときに彼女が気になっていた、町外れの手作りのお菓子屋さん。買うときと渡すときは緊張したけれど、渡せなかった中学3年生の頃から数えて4年分の思いを込めたプレゼントを、彼女は嬉しそうに受け取ってくれた。






そして時は流れ、僕たちふたりは大学を卒業した。

学業の傍らカウンセラーの資格を取り、研究室の先生の知り合いが勤めているカウンセリングルームで働き始めた。

数年が経ち仕事に慣れてきたところで、彼女と婚姻届を提出した。プロポーズは休日に一緒に歩いている途中、景色のきれいな丘の上で。彼女のご両親の元へ挨拶に行ったときは、中学の時に知り合って大学でたまたま再会したという話をすると驚かれたが、彼女との結婚を快く許してくれた。

結婚を機に独立し、ふたりでカウンセリングの事務所を立ち上げた。お互いに重視したのは学校でのカウンセリング。かつての僕たちのように、感じやすさに苦しんでいる子どもたちの力になろうと思ったからだ。



そんなある日、僕はある中学生の男の子のカウンセリングを担当することになった。最近ふさぎ込みがちで、学校にもあまり行けていないという。

「今日は歩きに行こう」

「……うん」

しぶしぶという様子で僕の後をついてくる。彼の家がある住宅地から離れて田畑の広がる区域を歩いていると、彼の表情が少し変わってきた。

「こんな所でいいんですか?てっきり、映画館とかショッピングモールとかに行くのかと思ってました」

「そういう場所は苦手なんじゃないかな、って気がしたんだ。なんなら、ここからは佑次(ゆうじ)くんの好きに歩いていいよ」

そう言って彼を前に促した。彼は時々立ち止まって空を眺めたりしながら、田畑の中にある道をゆっくりと歩いていく。

「……ねぇ、先生」

「ん?」

「僕って、変なのかな」

彼は歩きながらぽつぽつと話してくれた。

「休み時間とかに教室にいると、人の声がすごくうるさく感じるんです。授業で先生ひとりが話してるならまだいいんですけど、休み時間に何人も話してると頭がガンガンしてきて…。こんなにうるさいのに、何でみんなは大丈夫なの?って思うくらい」

僕はゆっくり歩きながら、彼の言葉に耳を傾けていた。この耳の感じやすさは、まるであの頃の彼女――紗都香のようだ。

「……こんな話、聞きたくありませんよね。ごめんなさい」

黙っている僕に不安を感じたのか、彼が後ろを振り返った。

「いいや、違うよ。僕に気遣いはいらない。自分が苦しいときは、素直な気持ちをぶつけてくれればいいんだ」

あの頃、一緒に歩いて僕の苦しさを受け止めてくれる人に出会えたからこそ、今の僕はある。

「……はい」

「佑次くんは耳が敏感なんだと思う。君のクラスには他にいないのかもしれないけど、僕は同じような人を何人も知ってる。僕の奥さんもそうだよ」

「……そうなんですね」

「ちょっとずつでいいから、歩きながら話してくれると嬉しいな。ここなら僕以外は誰も聞いていないし」


家に帰って紗都香に佑次くんの話をすると、彼女の方も自分が受け持っている中学生の女の子、美帆(みほ)ちゃんの話をしてくれた。どうやら視覚が敏感なのでは、とのこと。

「まるで昔のわたしたちみたいだね」

そんな話をしていたとき、僕はひとつのアイデアを思いついた。

「今度、佑次くんと美帆ちゃんと4人で歩いてみるのはどう?……お節介かもしれないけど」



4人で歩くことになった休日。晴れて穏やかな陽気だ。

一緒に歩く場所は、中学生の頃の僕たちふたりが歩いたあの町外れ。

初めは緊張していた佑次くんと美帆ちゃんだったが、佑次くんは紗都香と、美帆ちゃんは僕と感覚が似ているということで話が合い、やがてふたり同士でも少しずつ話をするようになっていった。

「僕、先生と一緒に歩いてわかったんです。ただ歩くだけでいいんだ、って」

「景色を見て、自然の音を聞いて。こういう所に来るとなんだか心がホッとして、頑張ろうかなってちょっと前向きになれるんです」

ふたりの言葉が嬉しかった。僕たちのこれまでの積み重ねはこの日のためにあったのだと思えるくらいに。


最後に寄ったのはあの駄菓子屋さん。そう、今日はバレンタインデーなのだ。

駄菓子を選ぶ佑次くんと美帆ちゃんのカゴに、横から紗都香がチロルチョコを何個ずつか入れる。驚いたように彼女の方を見るふたり。

「これは、わたしからのプレゼント。わたしのおごりだから、好きなだけ買っていいよー」



買い物を終え駄菓子屋さんを出たところで、僕は言う。

「せっかくなら、最後に1個ずつ食べようか」

4人で一緒にチロルチョコを食べるなんてめったにないね、とみんなで笑い合って食べた。



敏感すぎて、不安になりやすい僕たちだけど。

普通の人の何倍も幸せを感じられる力もあるはずだ。それが小さな幸せでも。



そして、空を見上げると。

「……きれい」

青から橙へのグラデーションは、今までに見たどの夕焼けよりも美しかった。



明日は、きっと晴れだ。


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