1-3 触れる優しさ
ドンドンドン! と扉が叩かれたのは、ミシュアルに立ち上がるだけの気力が、ゆるやかに復活してからすぐの事であった。飛び上がって驚くミシュアルには目もくれず、バシャルが扉に向かって「入れ」と命ずる。
部屋の主が口を開いて放心している間に、一人の青年が扉を開けて入ってきた。背格好はミシュアルと同じくらいだが、声は大人と同じく低い声である。
「失礼しや〜す、あっ! 例の有名人くんって、この子ですかい?」
(話し方が独特な人が来た!)
それどころか、出で立ちも少しばかり不思議なものだ。この国の民族衣装を纏う人間が多い中、彼だけが西洋風の白シャツに黒いジャケット、スラックスという格好なのだから。そんな西洋的な彼、サーラブは、麻色の髪を掻きながら、バシャルの不機嫌そうな顔に笑顔を返す。
「で、用事なんですけどね――」
「それより、後ろの奴らはどうした」
「後ろ?」
じろり、とバシャルが睨んだ先には、サーラブと呼ばれた青年の他にも、ぞろぞろと人が並んでいた。
ある者は手に治療道具を、ある者はチーズの香りがするパンを皿に乗せて。そんな人の集まりから、ちょこちょこと顔を出す壮年の女性は、モントリアでは安価で知れた服屋の紙袋を、大事そうに抱えている。
「あっ!? ちょ、あんたら、勝手に来ちゃダメって言ったろうが!?」
「ちょっと見に来るだけならいいでしょうよ、そんなの。この子が、親分さんの保護した子ですな?」
「あら〜! 可愛らしい子じゃないの!」
(こんなに大勢……俺の部屋になんの用事があって来たんだ!?)
そんな人達が、突然どやどやと荷物を持って、部屋の中に入ってくるのだ。一体何事だと、ミシュアルはバシャルとサーラブの顔を交互に見やる。だが肝心の二人も、驚いたように目を丸くしていた。
「親分さんってば、『二年ぶりのナムゥ』を保護したんなら早く言ってくれ! ほらこれ、あたしが作ったホブズ。中にチーズも入ってるんだよ! さあ、おあがり!」
「飯屋のおばちゃん、その前に治療しないとダメだよ! 怪我してるって言って――うわ! 中々見た目が酷いね。ほらおじーちゃん、お医者さんでしょ、行ってあげて!」
「おお、おお、この子かね。どれ、ちょっと見せてみなさい」
「えっ」
この言葉に面食らったのは、他ならぬミシュアルである。
街の住民からは「ナムゥだから」と痛めつけられたのに、この拠点支部の人間達は「ナムゥだから」助けの手を差し伸べようとしているように見えて、ミシュアルはブンブンと首を振った。昨日のうちに染み付いた警戒心が、彼らの手を拒んでいるのだ。
感謝されこそすれ、拒否をされると思っていなかった住民達は、困惑で顔を見合せ始めた。そして、ミシュアルの隣に座るバシャルの顔を、そろそろと覗き見る。
「……いいかミシュアル、ここにいるのはお前をぶちのめした奴らじゃねえ。この身共の組織、『ヴァーサ・オーリ』の拠点支部にいる奴らは、全員揃ってトゥラーゾ教の背信者だ。ナムゥだから、ヒトだから、で物を見るようなゴミカスはいねぇよ」
「そうそう。君が困っているから、こうしてお話しているんだよ。ここの支部の合言葉は『困ったときはお互い様』だから!」
「今の君よりも、ワシらの方が物を持っている、そして誰かを気にかける心の余裕がある。不安とは思うが、どうかワシらに……せめて、手当はさせてくれんかね」
医者と名乗る老齢の男性は、ふわふわとした綿毛のような頭を下げ、しわしわの白い手をミシュアルのささくれが目立つ手に重ねて問う。
老人だけでは無い、背後にぞろぞろと立っている人々も、揃って懇願するように眉を下げ、ミシュアルを見つめている。
(お願いするのは、こっちの方なのに)
ゆっくりとではあるが、ミシュアルは確かに頷いた。精神的に揺さぶりをかけて、返事を『はい』しか言わせないようにしたバシャルとは違う、裏表のない善意。それが、ミシュアルの表情を緩く解きほぐしたのである。
「では、処置をしていくでな。ほれほれ、関係者以外は出ておいき。そうまじまじと見るもんじゃあない」
「分かりました! じゃあ余った時間で別のも作っちゃおうかしら!」
「じゃあ私はお茶でも淹れてこよっと。置き場所は、あのテーブルの上でいいよね?」
「あの……服とお靴の換え、椅子の近くに置いておくから、ね」
ぞろぞろと去っていく面々の中には、当然のようにバシャルも含まれていた。彼はいつの間にやら手にした黒い板……この世界では『タンマツ』と呼ばれる携帯通信機を、軽く老人の前で振って見せた。
「レン、処置が終わり次第知らせろ。こいつを『社会科見学』に連れていく」
「承知致しました」
「ほんじゃ、あっしも失礼をば。帰りの支度、してくらぁ」
そんな簡単なやり取りの最中、部屋の片隅には続々と紙袋や箱が積まれていく。積まれに積まれて小山と化した贈り物は、いつぞや配達先として行った小劇場の、人気が出ていた俳優へのそれを彷彿とさせた。
物が置かれる度、そして老人ことレンの手が、自分の怪我の処置をする度に、ミシュアルの表情はふわりと和らいでいく。
(いつか、この優しい人達に何か、恩返しが出来ないかな)
微睡みにも似た、とろりとした笑顔は、ミシュアルがナムゥになって初めて見せた笑顔であった。
こうして、言葉がないまま時間はすぎていく。
耳に入る音は、限られた少ないものだけ。ミシュアルの着る服が捲られるそれと、濡れタオルが滑るすべすべとした音、軟膏が塗布されるベタついた音。時折窓の外でギャアギャアと鳴く、コウノトリにも似た鳥、ラクックの声だけだ。
(ああ、もうラクックが飛んでくる季節か。これからぐんと寒くなるんだろうな)
小窓の遠くを見ているミシュアルは気づかない。足から始まり、気がつけば腕、腹の怪我も、既に処置が終わっていることに。それどころか、余すところなく全身をタオルで拭かれ事にすら、ミシュアルは気づいていなかった。
全身を包む、ツンとした薬草由来の軟膏の匂いを、やっとミシュアルの鼻が感知したのは、「終わったよ」とレンから声をかけられてすぐの事。ラクックに気を取られていたミシュアルは、さっぱりとした心地のまま、思わず苦笑いを漏らした。
(これだけ臭うとか……相当薬を塗られてたんだな、俺。この拠点支部? にいる時は全然痛まなかったから、すっかり忘れてたや)
怪我を自覚するや否や、ミシュアルの体は思い出したかのように痛み出した。ビリビリと微弱な電気が走るようなそれに、ミシュアルは額に汗を滲ませながら、レンの方へと目をやる。
「手当てしてくれて、ありがとうございました。ところで、さっきから体がヒリヒリするんですけど」
「ん? ああ、軟膏を塗ってすぐはこうなるんだよ。それに全身拭きに拭いたからねえ、怪我と擦れてしまったんだろうよ」
「そこまでしてくれて……はっ! すみません、お見苦しいものを見せて」
「そのお見苦しいものを治すのが、ワシの仕事だよ。ああそうそう、そのヒリヒリはあと数分の辛抱だから! それまで着替えとご飯でも済ませてはどうかね。ワシは少し頭領と話をしてくるでな、ゆっくりおし」
その言葉に甘えて、ミシュアルは恐る恐る贈り物の山へと近づいた。
一際大きな袋の中にあったのは、替えのシャツとズボン。更に手触りの良さそうな素材でできた、ミヨゾティ・ブルーの、大判ストールのような羽織ものと、スカーフベルトである。
偶然にもシャツとズボンの色は、今着ているものと全く同じ。しかし、素材は新しいものの方が良い物を使っている。新しい服など半年ぶりの、ミシュアルの口角は僅かに緩んだ。
(わ、裾に刺繍が入ってる。しかも結構細かい! こんなに良い物、本当に貰ってしまっていいんだな? いいんだよな!?)
そうっと上着を纏い、スカーフベルトを巻く。そうしてただ、そこに佇むだけでも、ミシュアルの背筋はしゃんと伸びる。
(これだけ良くしてもらったんだ。いい加減、覚悟を決めないと。過程はどうあれ、俺はバシャルさんの『ヴァー』……なんだっけ? その仲間になったんだから、何をしてでも生き抜くつもりでいないと)
そのためにはまず、腹ごしらえが先だ。パンは少し冷めているが、まだチーズのいい匂いを放っている。
遠慮なく手を伸ばし、かぶりついたパンの塩味が、疲労が残る体に染みていく。どこか母の味を思い起こさせるそれを、ミシュアルはがっつくように食べ始めた。
昨日自分を拒絶した母の記憶を、心の奥へと押し込むように。