1-2 溺れて掴んだ藁は
「あまり信じられない、です。奴隷商人が俺を狙うのは、何となくわかるんですよ。ナムゥや魔術が使える生き物を集める、信仰心のない物好きがいるって聞くから。でも、裏社会の全組織が? 俺を狙ってるって? いくらなんでも大袈裟なんじゃ――」
震える声で紡いだ言葉は、無機質な床へと落ちていく。青年の黒い靴が視界に入って間もなく、ミシュアルは自身が俯いている事に気がついた。
「大袈裟じゃねえよ」
重々しく聞こえる声に、項垂れたままのミシュアルからは「ああ」とも「うう」とも取れない声が返ってくる。打ちのめされた様子のミシュアルにため息をつきながら、青年は目の前にあるジンジャー・ブラウンの頭頂部を、何気なく見つめていた。
「確かに俺、ナムゥになって? ナムゥだと分かって? しまいましたけど。そこまで狙われる程、俺に価値があるとは思えないんですが」
「価値ならあるさ。今のお前は、今の裏社会じゃどこの組織も欲しがる『道具』だ」
「は? 道具?」
「ああ。裏社会の天下取りの道具さ」
そう言葉を紡ぐ声は、ここにいない誰かを見下したような、不自然に明るい声色だ。発せられた雰囲気の、あまりの変わりように、ミシュアルはぶるりと体を震わせる。
「ナムゥってのは、元から裏社会じゃあ歓迎されてきた存在なのさ。使う魔術は警察共の捜査に引っかからねえし、もし悪事が露見しても、ナムゥに罪を全部被せちまえばいい。そうすりゃ、闇組織は安心して、悪事を重ねられるって訳だ」
「なっ、んだよそれ。道具って、そういう……!」
「おいおい、見た事がねえとは言わねえだろ? お前みたいに広範囲で働いていた配達員なら、尚更な。思い出してみろ、デカい家には一人くらい居ただろうよ」
そう言われたミシュアルは、ある過去の記憶を引っ張り出す。
フッサムではない、別の町での配達をしていた時だ。とある邸宅へ赴いた際、荷物の受け取りに現れたのは、一人の若い男性であった。服だけは清潔感があったものの、その出で立ちは邸宅の住民とは思えない程痩せこけていたのが、ミシュアルの記憶に違和感として残っていたのである。
「それがこの暗黒の世における、ナムゥの……お前やこの身の存在価値だ。それに、ナムゥの需要は年々高騰し続けている。想像は着くだろ? このまま迂闊に、一人で逃げ回ればどうなるか……」
せせら笑うような言葉に、のしかかるようなプレッシャーが、ミシュアルの体を襲う。彼の脳裏に描かれるのは、記憶の男性のような身なりになった自分自身の姿。どことも分からない邸宅の中に立つ、骨と皮だけになった、老年に見える男性の姿であった。
「遠くない未来で、めでたくお前の知り合いの仲間入りだろうな。あっという間に、どこかの組織に捕まって、都合よく利用されて終わり。最悪バラされ……って、おい」
青年の話が終わるや否や、いよいよ、ミシュアルの体は前へと崩れ落ちた。彼を支えようと、咄嗟に伸ばされた青年の腕に、ミシュアルはがっしりとしがみつく。歯の根が合わなくなり、ガチガチと震える体は力が篭もり、青年の左腕から離れない。
込められる力に「痛え」と呻きながらも、青年はミシュアルを引き剥がそうとはしなかった。
「脅かしすぎたか? だがな、これが現実だ。お前を狙うものもそうだが、この世の中ってのは、そうなっちまってんのさ」
「そんな事分かってます! 分かってますけど、急にそんな、俺は今までそんなんじゃなかったのに!」
「あー……そうか。怖いもんは怖いよな」
はっ、とミシュアルの吸い込んだ息が音を立てる。ミシュアルからすれば、強そうで怖いものなどなさそうな青年から、「怖い」という単語が出てきたのは衝撃的なことであった。
(この人も、怖いって思うんだ)
それはそうだ、青年だって人間だ。自分とは違う世界の住民、生き物のように感じていたミシュアルは、己の価値観に恥ずかしさを覚えた。
人間扱いされない現状を嘆いていながら、助けてくれた恩人を人間として見ていなかったなんて、昨日の街の住民達と同じではないか。内心で猛省するミシュアルの頭上で、青年の穏やかな声がする。
「お前の気持ちはよくわかる。この身もこうして組織を作る前は、お前と同じだったんだ。仲間もいねえ、周りは敵だらけ。誰だって怖いに決まっている。そんな中一人で、こうして生きのびたんだから……お前はよく頑張ったよ」
しがみついた腕から伝わる体温に、ほんのりと安心感を覚えたミシュアルは、自らの腕の力を弛める。力の入りにくい体を、どうにか元の体勢へ戻そうとするも、恐怖に囚われて言うことを聞かない。
そんなミシュアルの背を、青年は優しく撫でる。どこか冷たい態度と言葉が出てきた人間とは思えないほど、背に触れる手は温かい。
「そこでだ。なあ、ミシュアル」
「はい?」
「お前、この身の仲間にならないか?」
背を撫でる手の押しつけが、ほんの少しだけ強くなる。それに反射的に背を反らせたミシュアルが、タンジェリンオレンジの瞳に映したのは、青年の柔く微笑んだ顔だった。
しかし、凪いでいるのは青年の表情と心だけ。こんなことを急に言われては、当のミシュアルは混乱するばかりだ。
「なんで急に、そんな事を?」
「さっき言っただろ、闇組織はナムゥを欲しているって。それはお前だけじゃない。この身も、この身の仲間も絡んでくる話だ。一人よりも大勢で固まっていた方が、安心できると思わないか?」
「それは、そうですね」
青年の言葉に間違いはない。投げかけられた声に、ミシュアルの背はきゅっと丸まった。青年が背を撫でる度、言葉が刷り込まれていくような心地悪さに、ミシュアルは力の入らない体をモゾモゾと動かす。
「でも、貴方達が何をやっているのか、よく分かっていない俺でも、力になれるんですか?」
「なるに決まってるさ、二人の男をぶっ飛ばすだけの魔術が発現できるんだからな」
「あ」
「そうだろう?」
こくん、と頷いたミシュアルは、またしても悪くなった顔色を隠すように俯いた。
「今はこの身共が何をしているかよりも、大事なことがあるはずだぞ? 今置かれている現状打破のことを考えた方が、余程建設的だと思うがな」
「確かに……」
ミシュアルがこうして肯定しか出来なくなるのも、彼の計算の内なのだろう。ミシュアルの体は、徐々に思考力を手放していく。
穏やかな青年の態度から、安心の糸口が見えたと思えば、すぐにやってくる冷たい言葉に、少年の心は不安と恐怖に攫われる。そんな恐ろしい波の中、ミシュアルは尚も縋り付くように握りこんだ、青年の手を離せないままであった。
「それにお前は言ったじゃないか、『死にたくない』ってよ。昨日言ったことは……起こした事は、嘘じゃないよな?」
「それは嘘じゃないです!」
「ならどうすればいいか、分かるよな?」
御為倒しの親切だったとしても、ミシュアルを助けたのは事実である。それを一番分かっているのは、ミシュアルの肉体であった。
与えられた食事に布団、そして今、こうしてすがりついている腕の温かさが、ミシュアルの体の震えを宥めている。しかしその一方で、まるで蜘蛛の糸に絡め取られた羽虫のように、ミシュアルの精神を青年の『善意』が蝕んでいく。
こうなってしまえば、もう逃げられない。
乖離する心と体に吐き気を覚えた頃、ミシュアルはやっと意識的に口を動かした。
「はい。仲間になります。よろしく、お願いします……」
「ああ、よろしくな、ミシュアル。この身はバシャルと言う、闇組織『ヴァーサ・オーリ』の首領だ。まだナムゥの体にも、生活にも慣れないだろう? 落ち着くまで存分に頼ってくれ」
撫でる手がようやく、ミシュアルの背から離れていく。動きを柔く封じていたバシャルの手が離れても、ミシュアルはじっと動けずにいた。
「お前も、お前以外のナムゥも、安心して暮らせる理想の社会を、この身は築く。その為には今の価値観を作っている闇組織の要人を、どうにかしてこちら寄りの奴にすげ替えねえといけねえ……これにはお前の協力が必要なんだ。期待しているぞ」
「は、はい」
視線を逸らした先の小窓には、無意識で見た時と同じ位置から、陽光が差し込んでいる。
(本当に良かったんだろうか……俺、ヒト殺しに加担させられたりするのかな)
陽気な空模様とは裏腹に、ミシュアルの心には暗雲が立ち込めていた。