5-11 月影
通話を終えたクティータは、文庫本一冊程の厚みしかない、小さなバッグへと通信機を押し込んで、バックヤードの影から颯爽と姿を現した。
ここは、十四番街の中でも比較的綺麗な建物が並ぶ繁華街。安っぽい酒場の中に混じって建つのが、クティータが働き始めた、バーが併設されている娼館『月影』。辺り一面に漂う、酒の香りのする店内の最奥のカウンター席に、彼女は一人で静かに腰を下ろす。
足首まで黒のレースに包まれた足を組み、クティータはグラスに入った酒に口を付ける。ただそれだけで、女へ金を渡す男の手が続々と止まるのだから、この店の程度も知れるというものだ。
(ほんっと、張合いがなくて困っちゃう。でもその分、楽して上に登れそうだから、いいって事にしましょ)
目立たない席で、黒を基調とする地味なドレスを着ていながらも、彼女は非常に目立っていた。持ち前の美貌もそうだが、一番の理由はその服装だろう。周囲の女性が、胸も脚も大いに出したドレスを纏う中、彼女だけが上品な黒いレースのあしらわれた、ロング丈のワンピースなのだ。ボディラインは強調されてはいるものの、露出はほっそりとした白い腕と首が見えるだけ。
娼婦にしては禁欲的にも見える姿に、男だけではなく女も、果ては店員ですら、チラチラと視線を投げかけてくる。やがて彼女が身動ぎする度に香る、バラとザクロの香りに惹かれてか、無意識に彼女へ歩み寄る踏み男すら現れ出した。その様を横目で追いながら、彼女は仄暗い優越感に浸る。
(イルヴァーシュの傘下だから、輩系が多いかと思ったんだけど……こうしてみれば結構、大人しそうな客もいるじゃない。こんな男すら、手元に留めておけないの?)
ちらりと桃色の瞳を辺りへ向けてみれば、同僚である他の娼婦達は、慣れない素振りで客を取ろうとしている。皆、客が途切れないよう必死なのだが、それでも何人かは、物珍しげに見つめる客の視線に怯えているようだ。
(あーあ、無理やり連れてこられました、って態度丸出し。これじゃあ客が逃げるじゃない。もっと自然に振る舞えないの? お金が手に入るのはいいけど、わたしだけ、一日何十人……は無理だからね? そっちも頑張ってくれないと、狙った客じゃない奴が来ちゃうじゃない)
クティータがため息をつくと同時に、目の前にショットグラスが静かに置かれる。バーテンダーが彼女に新しい酒を勧めてきた。
「クティータさん、あちらのお客様からです」
「え〜! 嬉しいっ……!」
バーテンダーの手が指す方を見れば、クティータより少し年上であろう男が、微笑みながら手を僅かに振っていた。彼女は待ってましたと言わんばかりに席を立ち、彼のもとへと近づく。それが筋肉質のどっしりとした大柄な男で、シャツから覗く素肌にはびっしりと刺青が彫られていても、臆することなく。悠然と歩く姿を網膜に焼きつけるかのように、男から注がれる視線をものともせずに。
(そうよそう、これこれ。こういうのがわたしの客よ。わざわざここまで来てやった甲斐があったわ)
本来、娼館アドンミンの稼ぎ頭である彼女が、わざわざ内部工作員として理由は、正にこれである。
クティータが得意とする客は、多くがいわゆる『輩系』とも呼べる、反社会的勢力に身を置く男であった。彼らは女を選ぶ時ですら、ありふれたものを避ける傾向がある。それさえ分かっていれば、彼らが好む女の姿になりきる事は、そこまで難しいことではない。
懐に入り込めさえすれば……否、声さえかけられれば、こっちのもの。どんなに厳つい男でも、一度甘い言葉を囁けば、何もかもを貢ぎ出す働き蟻に大変身。どんなに秘密主義な男でも、一晩を共に過ごせば、簡単に全てをさらけ出してくれるのだ。
この男も、美味い情報を吐いてくれるに違いない。
内心で舌なめずりをしながら、クティータは笑顔を返した。
「こんばんは、お兄さん。お酒、奢ってくれてありがとう! これすっごく好きなの!」
「気に入ってくれたなら良かったよ。隣、いいかな」
「どうぞ。うふふ、もしかして、他の子にもこんなことしてるの?」
「見ない顔だし、可愛いから、つい。ああ、そんな寂しそうにしないでくれよ。もしかして新人さん?」
「そうなの〜、おかげで分からないことばっかりよ。お兄さんが良ければ、色々教えてね?」
小首を傾げて、クティータが微笑みかけると、男は既に赤い顔を喜びで色濃くして、「もちろん」と頷く。その間にも、クティータは彼の首筋に彫られた『184』の数字を見逃さない。イルヴァーシュのメンバーの誰かだ、と彼女は悟る……
だが、彼はクティータの求める『イルヴァーシュの幹部』ではなかった。というのもこの男、肝心の情報を何一つ持っていないのだ。彼の口から放たれるのは、殴り合いの喧嘩に勝った程度の下らない武勇伝か、取り巻きたちがいかに自分を賞賛しているか、という話ばかり。それでも、クティータはニコニコと笑顔で相槌を打ちながら聞き続ける。
「それでそれで!?」
「え〜っ、すご〜い! 強いんだあ!」
こんな見え透いたおだて文句にも、男は心の底から嬉しそうに笑う。段々と饒舌になっていく彼は、本来の『女を抱く』目的を忘れて、クティータとのお喋りに夢中になっていた。
このまま酒で酔い潰れられてはたまらない。潰れたらその瞬間に、バーテンダーに男の連れを呼ばれてしまうのは目に見えている。これではイルヴァーシュへの取っ掛りどころか、今日の売上金すら危うい。評価はゼロどころか、客の状態管理すら出来ない女として、マイナスになるだろう。それだけは、避けなくてはならない。
(ああもう、面倒くさい! ちゃっちゃとその気にさせちゃえ!)
クティータは男へ、静かに身を寄せる。カーネーションの花びらのように色付いた唇を、複数のピアスが空いた耳へと優しく押し付ければ……男の体は、面白いほど跳ねた。
「ねえ、お兄さん。わたしもう、お酒に飽きちゃった。お兄さんともっと『仲良く』したいなぁ?」
クティータが蠱惑的な笑みと共に、男の太腿を指先でなぞる。それだけで男は鼻の下を伸ばしたまま立ち上がり、酒の残ったグラスに目もくれず、クティータの細い腰を抱く。
「お客様、お代を――」
「うるせえなあ。女の金ごと、まとめて払うからいいだろ」
「は、はぁ。かしこまりました」
「ごめんよ、乱暴に女、なんて言って。この挽回は後でたっぷりするからさ」
バーテンダーが戸惑いながらも、カウンターに残ったグラスを回収する。そのまま店の奥に消えていく二人を見つめるものは、もう誰一人としていなかった。
■
やがて月が西へと傾き、徐々に建物の影が濃くなってきた頃。幾度の延長を重ねた男は、こともあろうに、クティータの部屋の中で眠りこけていた。その男の傍らで、彼女は一糸纏わぬまま、ベッドから立ち上がる。
彼女の手には、いつの間にやら男の通信端末が握られていた。男が寝落ちたその瞬間から、バッグの中に手を突っ込んで、難なく確保していたのである。
部屋に入る前に盗み見た、男の指の動き通りに、クティータは数字盤を押す。ロック画面を難なく解除し、通信機のアドレスの一覧を開けば、そこにはイルヴァーシュのメンバーとの、通話履歴がずらりと並んでいた。特段面白みもない情報の中、彼女の手がある一点で止まる。
(この番号だけ、やけに古いわね? 今時、505から始まるなんて、かなり珍しい)
クティータの勘が囁く。この番号は何かある、と。
自分の持っている通信端末にメモをとり、何事も無かったかのように、男の通信機をバッグへと戻す。後は自分の通信機を、ベッドのマットレスの内へ放り込んでしまえば、隠蔽作業は終わりだ。
「とりあえず、これで今日はお終いね。さて、早く店に電話して、お客さんの回収をしてもらわないと!」
勝手に延長して、トラブルになるくらいであれば、目先の利益よりも安全性をとる。慎重な姿勢を見せながらも、クティータの桃色の瞳は、新たなる情報を求めて光っていた。




