0-6 静かに始まるプロローグ
夜の闇に、エメラルドグリーンに光る泡が消えていく。舗装されていないばかりか、飛び散るゴミに集る虫……そんなものが散らばる気味の悪い道を、青年は静かに歩いていた。
何回か角を曲がり、先程ミシュアルを拾った裏路地に繋がる表通りへと戻る。死体のように転がって寝る酔っ払いが並ぶ道の片隅には、この地区では珍しい黒塗りの高級車が一台、静かに停車していた。
青年は迷いなくその車へと近付き、扉を開けると、後部座席へと乗り込んだ。
バン! と扉が音を立てて閉まったのを合図に、運転手はアクセルを踏む。
車内に落ち着いたオペラ楽曲が流れる中、溌剌とした声が運転席から発せられたのは、車が動き出してすぐの事だった。
「お疲れ様です、親方! いやあ焦りましたよ、どこに行ったのかと――!」
「サーラブ。この身はフッサムの拠点支部に用ができた。明日の午前十時に着くように車を出せ」
「へ……? それまた、何故です?」
「『例の有名人』を拾ってきた。今は拠点支部の一室を貸し与えている」
「ええーっ!?」
車内のサーラブの叫び声と、女性オペラ歌手のハイトーンボイスが同時に炸裂した。驚いて微かに跳ね上がった青年の体はぐらりと揺れ、ゴツン! とドアに頭をぶつける。
じんじんと痛む頭をさすりながら、青年は「黙れ」と口だけを動かした。キッとバックミラー越しにサーラブを睨み付けて、大口を閉じるように無言で命ずる。カーラジオから流れる音楽が盛大な拍手に変わる頃、青年の耳は漸く平穏を取り戻した。
「この身の鼓膜をぶち破る気かよ」
「だって、だってあんた、突然誕生日の祝宴を抜けたかと思ったら……自分で自分の誕生日プレゼント、用意せんでくだせぇよぉ〜」
「別にいいだろ、おかげでいい酔い醒ましになった。バーで呑んでる奴らはどうした?」
「もう本拠点に帰らせやした! しっかしまあ、たまたまにしちゃあ出来すぎだぜ、奇跡としか言いようがねえ!」
「全くだ」
喉を鳴らして笑う青年に、サーラブは「あっ」と大きすぎず、小さすぎない声を上げる。
「そうだ親方、報道って見やした?」
「夜のには目を通していねえ」
青年が言うと直ぐに、品のいい音楽が流れていた車内に、女性キャスターの落ち着いた声が流れ出す。大きな音でダメージを受けた鼓膜を、優しく擽る女性の声は、青年のあくびを緩やかに誘発する。
『先日、国際警察レディガーにより逮捕されました、バラカート・カルカテルラを首領とする闇組織、『カルカテルラ・ファミリア』の拠点における家宅捜索が行われています……』
女性キャスターの声が止まると共に、青年はふんと鼻を鳴らした。
「まぁだやってんのかよ、『砂海の雄獅子』摘発事件は。しかも家宅捜索だぁ? 世界最大の裏組織を舐めてかかってるだろ」
「朝とほぼ変わらねえ内容なのに、進展してますって雰囲気醸し出しているのが、こりゃまた面白いんだわ! この砂漠大陸どころか、世界中にあいつらの拠点があるってのに、呑気なもんで羨ましい限りだぜ!」
「そうだな。ノロノロ捜査をしているうちに、残党共はどこか無事な拠点にでも集まって、復興計画でも立てているだろうよ」
上っ面だけの軽い笑い声が溢れる中、カーラジオのニュースは、女性キャスターの声以外の音を拾い始めた。
響き渡る中年男性の怒声、レディガーと思わしき警察官も負けじと怒鳴り返す、敵意の応酬。これが背後に流れる中、原稿を読み上げる淡々とした語調が、二人の意識に緊張感を生んだ。
『既に三百人以上の逮捕者を出している今回の事件について、国際警察レディガーは次のように声明を出しています』
『えー、良きヒトの皆様。裏組織というものはですね、多くがナムゥを従えたヒト、もしくはヒトを操るナムゥが主体となっています。怪しい人物を見掛けた際は、深追いせず各地方の警察に通報してください。また、彼らが放つ甘い言葉にもお気をつけ下さい。狙われているのは、貴方です――』
「ヒュ〜、かっけえ! 『狙われているのは、貴方です』、ビシッ!」
「効果音まで言うなよ」
「あはは! とまあこんな感じで、どの放送局もこんな話で持ち切り、と。親方〜、今日捕まえたナムゥについて話しちゃくれやせん?」
楽しそうににまにま笑いながら、サーラブはトントンと指の腹でハンドルを叩いた。
反対車線からやってきた車……明らかに飲酒運転と思わしき、蛇行を繰り返すそれを避けながら、サーラブは上機嫌に青年の言葉を待つ。
小首を傾げながら、「そうだな」と話し始めた青年に、サーラブはわくわくと目を輝かせていた。
「あいつなあ……中々根性はあるやつだ。事故とはいえ、襲ってきた奴隷商人を返り討ちにして殺したからな」
「はぁっ!? それはまた、気性の荒いことで」
「固有魔術の暴発だろうが、殺しは殺し。それにしたって、ナムゥの成り立てが固有魔術を使うなんざ……鍛えれば相当の使い手に育つだろうよ」
「へえ。暴発とはいえ、成り立てで魔術を使うって、滅多に聞きやせんもんねえ」
「それに……あいつはこの身に貸しがある。せいぜい上手く導いてやるとするさ」
なんでもない事のように言い放つ青年に、おっかねえ、とサーラブが言葉を吐き出す。バックミラー越しに映るサーラブの顔は、「おっかねえ」と思っている顔には見えない。目と口角を歪めて、悪巧みでもしていそうな雰囲気を醸し出している。
人気のない道に差し掛かり、いよいよ通りを走る車は無くなった。お喋りなサーラブの口は、果たしてどんな言葉を紡げばいいのか……と言わんばかりに、金魚の口の開閉を思わせるような動作を見せる。
「さっきのニュースの通り、世界最大の裏組織が、ほぼ壊滅に近しい状態になったわけだ。これから激化するだろうぜ、都合よく使えるナムゥの確保と、カルカテルラの元縄張りの争奪戦は!」
「ですねえ。あっしらは今いる二十人の幹部と、抱えているヒト達で、一体どれだけ戦えるか……少数精鋭と言えば聞こえはいいけど、あっしらって、発足してちょっとしか経ってねえヒヨっ子ですからねえ……」
「だからこそ、あいつを使える構成員に育てるのを急ぐ。そのためには、人殺しで塞ぎ込んでいる、あいつの意識改革が必要だ。お前も力を貸せよ、サーラブ。お前の人あたりの良さで、あいつの心の壁をぶち壊してやれ」
「まぁかせてくだせぇ、我らが親方、我らが首領! いつかは『親方様、バシャル様の下で働けて嬉しいです』って言わせてやらぁ!」
「頼もしい返事で何より。期待しているぞ」
先程の緊張感とは打って変わって、車内には明るい笑い声が飛ぶ。法定速度をギリギリ超えた車のタイヤが、剥がれて車道にまで飛んできた犯罪抑止のポスターを轢いて、人気のない砂漠地帯へと走り去っていった。
「……ナムゥの理想郷を、裏社会に築く。それがこの身の、この身共の悲願だ」
砂嵐の音が響く中、青年の呟きは誰の耳に届くこともなく、砂に吸い込まれていく――
序章までの閲覧、誠にありがとうございます。
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