4-8 その頃の避役
悲痛な沈黙が支配する泡の中で、カルーフが自らの手を見下ろす中。彼の視界の外では、夜闇に劣らぬ黒が動き出していた。
「オヤオヤ、これはどうした事でしょう。こういう任務というのはもっと……静かに行うものでは? それに、気付かれたにしても、相手に魔術を使わせたのは失態ですねェ。我々の存在に気づかれるではありませんか」
目の前に広がる泡の地獄絵図に、堂々と歩み寄る男が一人。そう、今の今まで別行動をしていたヒルバーである。瞳から極僅かな光を散らしながら、完全な人型に化けた彼は、ぼんやりと輝く赤い泡に溜息を吐いた。
ここまで大規模に魔術を使われてしまえば、敵の注意を引くばかりか、『この屋敷にナムゥがいる』と外部に知らせてしまう。いくらルグルがゴーストタウンと化していても、この有様では一般人や、裏社会の暗黒に染まり切れない犯罪者に気付かれてしまう。最悪、トゥラーゾ教会に告発した、善良な人間により愛育の師が呼ばれるかもしれない。そうなれば、殺害計画は間違いなく破綻する。
――だが、まだ間に合う。寧ろ時間短縮に繋がると、ヒルバーは確信していた。
彼が辿り着いたのは、外庭の折れたパキラの根元。泡の発生源である中庭から少し離れたそこには、座るユスリーを囲むように、緋色の比翼の構成員達が立っていた。最低限の武装しかしていないのを見るに、大広間で燻っていた者達なのは間違いない。
「こんばんはァ。皆さんも屋敷の崩壊を見届けに?」
「ンな訳ねーだろ、アホかコイツ」
「そうに決まってら。侵入者なのに堂々と出て来てんだからよ」
「お頭ー! コイツ、どうします?」
緋色の比翼の構成員達に囲まれながらも、ヒルバーは微動だにしない。不利な状況下だと言うのに、自身が死ぬなど思ってもみないかのような態度――それが、ただでさえ短気な構成員達の怒りの導火線に、あっさりと火をつけた。
「殺せ」
「なんと物騒な」
「ここに入り込んだ時点で、俺達の敵だ。クソムカつく笑顔が作れねえくらい、グッチャグチャにしてやれ」
「了解! 俺、顔面いくわ!」
「足から行こうぜ、足!」
刹那、ダダダッ! と何十もの銃弾がばらまかれる。二メートル程しか離れていない、至近距離での発砲では、一秒も経たないうちに銃弾が体にめり込むだろう。構成員達が血飛沫を脳裏に思い描いた、その時だった。
突如、煙幕のように立ち上る土煙の中で、ガチンガチン! と、金属同士がぶつかり合う音と火花が散る。予想だにしない事態に、突撃の機会を伺っていた構成員達は足を止めた。
「弾かれた!? 盾なんて持ってねえ筈だろ、う、が……」
そう。彼は盾どころか防具すら手にしていない。では何が銃弾を弾いたのか――その答えは、ヒルバー自身が教えてくれた。
黒い結膜の中央に収まった、金色の瞳が妖しく瞬く。やがて煙の中から現れた彼は、五本の黒い角と、鱗がびっしり揃った尻尾を彼らの眼前に晒した。緩く振られる尻尾こそが、先程の弾幕を弾いた『盾』なのだと、彼らは揃って理解した。
――そして、完全に舐められている事も、薄らと理解した。土煙が完全に晴れたその場所で、ニタリと歯を見せるヒルバーを直視して、構成員達は怒りのボルテージを上げていく。
「お頭! アイツ、銃弾が効かねえ!」
「やべえもう弾がねえ」
「クソが。あれの拘束具でも付け――」
「拘束具! 何とも恐ろしい! ……ですが小生に嵌められるんですかァ? 今だってナイフを振るった空気すら当てられていないのに!?」
「黙れ!」
嫌味を振り払うかの如き怒号と共に、彼の手からナイフが放たれる。弾丸ですら易易と叩き落とされたと言うのに、それより速度も遅く面も広いナイフなど、当然通用する筈もなく。キンッ! と甲高い金属音を響かせて、ヒルバーの尻尾に弾かれたナイフは、屋敷の塀へと、ナイフは呆気なく弾かれてしまったのだ。
「オヤオヤ、なんと愚かしい。せっかくの武器を投擲だなんて。ま、この程度なら、鱗一枚すら剥がせはしないでしょうね。安心あん、オット」
飛んできたナイフをせせら笑う間に、構成員達は手に手に武器を持ち、こちらへと突っ込んでくる。ヒルバーは尻尾の先だけを小刻みに動かして見せた。さながら挑発のような挙動に、いよいよ我慢出来なくなったのだろう。構成員達の中でも特に怒りっぽい者達が、ヒルバーに襲いかかろうと先陣を切った。目を血走らせる彼らにはもう、仲間の静止を聞く余裕は無いらしい。雄叫びをあげる男達を歓迎するように、ヒルバーは両腕を広げた。
「結構、結構。そういう無鉄砲なのは、だァい好きですよォ」
先んじてヒルバーに肉薄した短気者の、ナイフが振り上げられた刹那。彼の肉厚の尻尾はブォンと鈍い音を纏い、ガラ空きの胴に深々と叩き込まれた。ベキベキと木の枝を踏みつけたような音と共に、口から臭く赤黒い血を吹く彼らは、方々に吹っ飛んで行く。皆一様に内臓や骨を砕かれて、絶叫もできず倒れ伏す惨状に、周囲はたじろいだ。
あれは、シャムアやその前にいたナムゥとは、比べ物にならないほど強い。勝算がない戦いに、自分達は愚かにも顔を突っ込んでしまったのだ。目前に迫る死の気配に、自然と息は早く浅くなり、ヒルバーの言動から目が離せなくなる。
「ですが、そろそろお役目を果たさなくては」
独り言を終える間もなく、ヒルバーの姿は忽然と消えた。彼のいた場所に、金色の火花だけを残して。
しかし構成員達もただ狼狽えてばかりではない。堕落してこそいるものの、彼らは総じて軍人崩れや元傭兵等、命懸けのやり取りを幾度も潜り抜けてきた男達だ。先程まで恐怖に支配されていたのが嘘のように、各々己の獲物に手を伸ばす。
「し、尻尾に気ぃつけろ! 持ってかれるぞ!」
「なるべく固まって動けよ! 防ぎきれねえくらいの物量でゴリ押せ!」
構成員達は誰が言うでもなく、前に低姿勢の三人、後ろに中腰の三人の六人組を作り出す。いくら固い物が通用しないとは言え、重量には耐えきれまい。最悪でも一組分のダメージは入るだろう……そう見ての布陣だ。加えてヒルバーの前方であれば、『尻尾』である以上、防御できる範囲は限られる。
「構え!」
元軍人の一人の号令を合図に、構成員達はナイフを水平に構えた。無言で示し合わせて、的確に戦闘態勢を整えられる強さこそ、緋色の比翼の最たる強み。勝利の微かな希望が見えた構成員達の顔には、いやらしい笑みが浮かんでいた。
彼らが一歩を踏み出した瞬間、ビュッと突風が吹き付ける。それと共に、ヒルバーが姿を消した。辺りを見回す最中、一人の男――仲間に介抱されていた、あの酔っ払いの首が、呆気なくぽろりと落ちる。とぼけたその目は、構成員達の背後に立つヒルバーを無機質に映していた。
「ぎゃ、ぎゃああああっ!!」
「肉まで切れ……っ、後ろ、後ろぉ!!」
「こんどは三層にしてスタミナ切れを……オイ、聞いてんのか!!」
自分達も、あいつのように死ぬかもしれない。そう思い立った者から、六人組は瓦解した。半狂乱で単身攻め込んでくる者、逃げ出そうとする者……その全ての命を、ヒルバーの尾は刈り取っていく。それも、以前潰された脚を軸に繰り出す、尻尾の技だけで。
(ふむ、本調子に近くなっては来ていますが……もう少しだけ、簡単な任務をこなした方が良さそうですねェ。ここのだけではどうも感覚が取り戻せません)
ヒルバーは内心で独りごちると、最後の一人となった死体を左足で蹴り飛ばした。そして次に、血肉で散らかった混沌の中を、必死に逃げるユスリーに狙いをつける。流石に逃げ足は速いが、所詮は人間。人外――幻想種であるヒルバーであれば、余裕で追いつける。
ヒュン! と空気を裂いて、音速で繰り出される尻尾が、ユスリーの背中を襲う。しかしユスリーは咄嵯に一歩を殊更強く踏み出し、勢いのまま地面に転がった。立て膝をつき、尚も逃げようとする彼に、ヒルバーはフン、と小馬鹿にしたような息を零す。
また逃げられるか……と思われたが、ユスリーは立ち上がることすら出来ず、再度地面に倒れ伏した。彼の逃亡を阻害したのは、頭上に現れたオレンジ色の天井。それに頭を強かに打ち付けたのだ。こんなものを作れるナムゥなど、ヒルバーの知る中では一人だけ。
「……オヤ、これはこれは。見事な成長ぶりですねぇ」
感心したように目を細め、ぷちぷちと弾ける泡の塊の方へと、ヒルバーは声を掛ける。やがて彼の視線の先から現れたのは、のっぺりとした無表情を晒すカルーフであった。
「ばっ、馬鹿な! どうやって出やがった!? シャムアの泡は何もかもを溶かす――」
「溶けたらまた直せばどうって事ないだろ」
動揺を隠せないユスリーに、カルーフは淡々と言葉を返す。涙声で目元を擦る彼の瞳からは、赤みを帯びた魔力の光が迸っていた。




