4-6 シャムアの泡の罠
フォーネがそっとドアノブを引くと、目の前には薄汚れたソファと、中庭を一望できる大窓があった。窓枠の外に広がる、濃い紫に染まった空が、帰投時刻まで僅かだと知らせている。
窓の前に置かれたソファから、突き出ている男のボサボサ頭は……間違いない。緋色の比翼の首領、ユスリー・ガミンダだ。嗅ぎなれない匂いはきっと、床に転がる水タバコ……麻薬混じりのシーシャの香りだろう。
後ろからドールが静かに合流し、いよいよヒルバーを除く全員が、中へと踏み込む。だがその刹那、パァン! と乾いた銃声が響いた。音のする方へと反射的に目を向ければ、ソファの背もたれから、剛毛の生い茂る腕が伸びている。毛虫のような指が掛けられた銃の口は、真っ直ぐ天井へと向けられていた。
「……遅かったじゃねえか、ヴァーサ・オーリの」
くぐもった声で呟いたのは、紛れもなくユスリー本人だった。のっそりとこちらを振り返ったその顔は、酒と麻薬で赤黒くなっている。寝癖の着いた黒いダウンバングヘアを掻きむしる度、長い事放置した換気扇のような臭いがするのは、この小汚いソファが原因だろうか。顔を顰めるカルーフ達など気にもせず、ユスリーはニッと黒ずんだ歯を見せた。
「お前らが来なかったら、俺の方から迎えに行ってやろうと思ってたとこだ。だがまさか、襲撃者がこんな女子供ばかりだとはな。ハッハッハ!」
黄色く濁った白目をぐりぐり動かして、ユスリーが見つめるのは、先頭に立つカルーフ……の隣にいるフォーネだ。彼女がリーダーだと気付いたのだろうか、赤黒い顔は嘲笑に歪む。
「読めてねえとでも思ったか? 俺達が襲撃で拠点を留守にする隙に、俺を討ち取る手筈だったんだろう? そりゃあ分かるさ、俺だって逆の立場ならそうする、そうする!」
「だから警備の配置を、自分の部屋の近くに集中させたのか。それもあんな少人数」
「少数精鋭ってやつだよ。そこら辺を適当にしてる構成員だと、お前らの相手しか出来ねえし? 警備ってんなら、俺に実力が近い奴じゃないとなあ」
ユスリーはふらりと立ち上がるや否や、先程まで吸っていたシーシャのボトルを叩きつけた。床からもうもうと立ち込める白い煙は、ハッカの混じった爽やかな香りを立ち登らせる。だが、混じってはならないものが入っていた。重たい甘さを秘めた麻薬の臭いと、人影がひとつ。
「ま、せっかくここまで来たんだ、ゆっくりしていけよ。シャムア! こいつをお前の『部屋』に案内してやれ」
ユスリーが窓を開けると同時に、ふわりとシーシャの煙が晴れた。そこから現れたのは、タイトなワンピースに身を包んだ、色白で豊満な体を持つ一人の女。シャムアと呼ばれた彼女の、オリーブ色に輝く瞳は、虚ろに明後日の方を向いていた。
「なんだ、彼女は……」
異様な佇まいに、既視感のあるそれに、思わずカルーフは息を飲む。纏う布や靴こそ小綺麗なものの、服から覗く手足は痣と切り傷まみれ。アスファルト色の髪は雑に切られており、今の今まで暴行を受けていたことは明白だ。それこそ、まるでフッサム拠点支部で相対した彼女のように。
「おい、ボサっとすんな。早く行け!」
彼女はユスリーの声に震えながら、緩慢な動きで一歩を踏み出す。何が来るのかと身構える中、突如としてブクブクと足元が音を立て始めた。まるで沸騰するかのように泡立つ床は、やがてオリーブ色の泡へと徐々に変貌を遂げ、カルーフ達をぐんぐんと飲み込んでいく。
「きゃあっ!!」
「うわっ!? フォーネさん、落ち着いて!」
沈み行く体に、まずフォーネが悲鳴をあげた。カルーフもまたフォーネにしがみつかれるまま、ずぶずぶと沈んでいく。咄嗟に彼が作り出した魔術の防壁も、オリーブ色の泡の中に飲み込まれ、あっという間に見えなくなってしまった。
「くそっ!」
「やぁ、だ!」
だが、咄嗟に床から飛び上がった、ワリフィリンとドールだけは無事であった。為す術なく飲まれていく二人を気にもせず、ワリフィリンはソファの背もたれを足場にして、ユスリーへナイフを向ける。ドールは氷柱を壁に打ち込み、自らも壁と足を氷らせた後に、ナムゥの女へと針のような氷柱を投擲する。あと一秒で、女の頭に氷柱が刺さるだろう、という時であった。
パン! と女が両手を打ったかと思えば、またしてもぶくぶくと泡の音がし始める。どこから来るのかと警戒する間もなく、二人が足がかりにしていた壁や家具から、大量の泡が噴き出した。こうなってはもう、逃げられない。バランスを崩した体が、あっという間に泡の中へ飲み込まれていった。
「あっ!? オイ、何やってんだ馬鹿ァァアア!!」
――主人であるユスリーを巻き込んで。
こうしてユスリーの部屋にいた全員が、オリーブ色の泡の中に消えた頃。魔術の防壁で四方八方を囲んだだけの中に、カルーフとフォーネはいた。上下左右の区別もつかない空間の中、泡がプチプチと弾ける音が嫌に鼓膜を震わせる。その音の発生源が、姿の見えないワリフィリンやドールだったらどうしよう。カルーフの想像は、次第に悪い方へと傾き出していた。
「カルーフちゃん、カルーフちゃん!」
「フォーネさん? どうし――」
「あそこ!」
指をさされた方へと視線を向ければ、そこにはバタバタと藻掻く二人の姿があった……ワリフィリンとドールだ。ドールの魔力によるものであろう、深い青色の光を放つ二人は、服の所々が溶けていた。それどころか、ワリフィリンが手にしていたナイフは、すっかり刃だけが消えている。
「この泡、物を溶かす能力みたい。二人が溶けちゃう前に、早く!」
「分かりました!」
泡に触れるのも恐ろしいカルーフは、恐る恐る自らの生成した魔術である防壁に触れる。すると防壁はカルーフの手にピッタリと、さながらゴム手袋をはめたかのように張り付いた。そのまま前へ前へと、以前フッサム拠点支部でやったように防壁を伸ばしながら進む。
やがて二人の元に着いたカルーフの、オレンジ色の手の平をワリフィリンが、前腕部をドールの手が掴んだ。それを合図に、カルーフは急いで二人を空間の中に引き入れる。彼が防壁の内側へ手を完全に納めるると、その面は再び元の硬さを取り戻し、カルーフの手の平に吸い付いた。
「二人とも、大丈夫? 拭いてあげるからいらっしゃい」
「問題ない。ドールの魔力が、泡の魔術を食い止めてくれている」
「あの青い光は、そういう――」
「みっ! そんなにゴシゴシしなくて大丈夫だよぉ」
「まあ、そう? なら上に上がる方法を見つけないとね〜」
「それならいい方法、思いつきました! ワリフィリンさん、そのナイフの柄、足元に置いてもらっていいですか?」
ワリフィリンは頷き、静かに柄を底面に置いた。コトンと音を立てた柄は、やがて持ち主である彼の足元を緩やかに離れ、カルーフの方へとやって来る。いくら泡が平衡感覚をおかしくしても、重力だけは誤魔化せないはず――カルーフはそう考えたのだ。
「んにゅ? 上と下がどっちかなって、したの?」
「そうだよ。後はちょっと傾きを直して、壁を縦に伸ばしていけば――」
上へ上へと伸びていく壁に合わせて、床面と天井部が上昇していく。まるでエレベーターのように一定の速度を保ちながら彼らは登っていった。
やがて魔術の防壁に、芯から凍えるような夜風が当たる。同時に、泡の中を先に脱した天井部から、ゆったりとしたスピードで夜空が顔を覗かせた。池のように広がる泡から脱出した安堵から、カルーフは自らの魔術の上に座り込む。
「良かった! ちゃんと出れた!」
「すご〜い! 魔術で昇降機を作るなんて、よく思いついたね!」
「本拠点の中にあったものを、ふと思い出したんだ……ふぅ」
「まだだ。この床をちゃんとした地面のところまで、伸ばしてから休むといい」
「はい!」
箱型から板状になり、ぐんぐん伸びていく床の先が行き着いたのは、すっかり暗くなった中庭だった。
本来ならば、この中庭は屋敷に囲われるように作られている為、外の庭など見えるはずもない。しかし、今はどうだろうか。中庭は外の土地――今は泡だらけの外庭と繋がってしまっている。
(建物の一区画も、そこに繋がる庭も泡で溶けてる!? じゃあ、アイツらは一体どこに!)
カルーフは僅かに湿った髪を振るように、勢いよく辺りを見回す。自分の記憶が正しければ、確かユスリーもまた、彼女の泡に沈められていたはずだ。もしかしたら、自分達の近くからユスリーが出てくるかもしれない。張り詰めた空気の中、カルーフの背後から、ガラガラ声が轟いた。




