4-3 ひとまず落ち着いて
迫り来る冷気の元。それは敵のナイフでも、弾丸でもなく、ドールの小さな手であった。
「ぴょ〜ん」
首がぎゅっと締まる感覚と共に、ぐんっ! と体が引っ張られる。項に風を受けてようやく、カルーフは自分が今、割れた窓を通り抜け、大広間の外へと飛び出している事に気が付いた。
(ドールちゃん、浮遊の魔術も使え――違う。これは飛んでいるんじゃない!)
彼女はカルーフとフォーネの服を掴んで、窓の外へと跳んでみせたのだ。それに気付いた途端、カルーフの体は急な落下を始める。この速度で地面に体が着けば、軽い怪我では済まないだろう。最悪腕や足から着地した場合、折れてもおかしくはない。
なんとかしないと! と思うより早く、魔術を発動できたのは、ベルナルデッタ戦での経験の賜物だ。タンジェリンオレンジの防壁が、カルーフの両手の前へと現れる。これを緩衝材として、なんとか衝撃を和らげようとしたのだ。だが出来かけの魔術は、傍から見れば卵の殻のように薄く不完全な円形で、底面以外の成形が甘い。そんな防壁は案の定強度がなく、風圧でカシャンッ! と音を立てて割れてしまった。
悲鳴としてこぼれそうな声を、カルーフは飲み込めないかと格闘する。だが努力は虚しく、声どころか体もまた、着地の衝撃とともに転げ落ちていった。
「わっ!」
「二人とも〜、もう大丈夫だよぉ」
両足できちんと着地を決めたドールが、地面に倒れ伏すカルーフへと、冷たい手を差し伸べてくる。藍色の瞳に光は無いが、彼女なりの気遣いは、緩く上がった口角からみてとれる。
「ありがとう、俺よりもフォーネさんを――」
そう言いかけた言葉はすんでのところで消えた。視界の隅のフォーネは、服に着いた土を払いながらも、あっという間に立ち上がっていたのだ。擦り傷だらけの自分と違い、彼女の薄卵色の肌は無傷である。
それだけでも経験の差を感じて、カルーフは先程の自分の考えを改めた。大広間の中で、カルーフはフォーネを戦えるかどうか分からないと評価したが、どうやらそれは早計であったようだ。少なくとも彼女の運動神経と魔術の腕は、人並み以上あるように思える。
(何を考えていたんだ、俺は。この子も、ワリフィリンさんも、フォーネさんも皆、俺なんかよりずっと強い。守らないといけないなんて、とんだ思い上がりじゃないか。俺が今することは、自分の強みを最大限生かすこと……!)
そう決めたならば、すべきことは二つ。現在地の把握と、安全そうな場所を見つけることだ。幸いにも、一時的に身を隠せそうな所が無い訳ではない。カルーフはフォーネとドールを連れて、柱の陰へと身を寄せた。
さて、ここは一体どこなのだろうか。廃れた屋敷の中に、当然地図など存在しない。しかしながら、その場にあるものから、ここが中庭だと推測することは出来た。
庭を囲むように並び立つのは、少なくとも二発分の弾痕が刻み込まれた飾り柱達。その空間の中央には、ひび割れ、枯れた噴水が鎮座している。花壇の間に置かれたガーデンベンチには赤錆が浮き、どこもかしこも黄色い雑草が生え放題。酷く荒れ果てた光景だが、あの大広間に比べれば遥かにマシであった。
(しかし中庭か、まずい所に出た! 今は身を隠せているけど、その内、上から見つかるかも。それに、こういう豪邸の中庭って、建物のどこからでも全貌が見えるように作られている……って聞いた。長居すれば、確実に見つかる!!)
目下の課題は安全な場所の確保だが、確実に安全と言えそうな場所は見当たらない。庭なだけあって、身を隠す障害物があまりに乏しすぎるのだ。
当然だが、先程居た大広間には戻れない。足音の主であろう構成員達の話し声は今も尚、カルーフの鼓膜を微かに震わせている。
じりじりと焦る気持ちを堪えて、カルーフはぐるりと辺りを見回した。自然と狭められていく逃亡の選択肢に、新たな選択肢を作ろうと藻掻くように。
そしてカルーフは見つけたのだ。唯一扉が半開きになっている部屋と、そこへ至る、黒い影で作られた道を。
中庭を挟んで大広間と反対側にあるその部屋は、どうやらキッチンのようだ。食べ物由来の、鼻につく臭いがする。周りに散らかる食品トレーや食材のゴミが、部屋の中の凄惨さを物語っている。躊躇うカルーフの視界の中で、袋から顔を覗かせているエビの殻が、入れば? とでも言いたげに、悪臭を放つ足を風に揺らしている。そんな汚らしい光景も、今のカルーフにとっては幸運としか言いようがなかった。
「ドールちゃん、フォーネさん」
短くかけられた声に反応し、二人の視線がカルーフの方へと向けられる。その目線に急かされるように、彼は声を上げた。
「あそこなんですけど……」
「あら、よく見つけてくれました。なら、影に沿って進んでいきましょうね〜」
「はぁい」
流石は統括官と言うべきだろうか、フォーネはすぐに彼の意図を察したらしい。カルーフを先頭にして忍び込んだ部屋――予想通りキッチンだったそこは、大広間よりずっと綺麗にされていた。それでもシンクの中には洗われていない皿が山と積まれ、床の隅には埃が溜まり、テーブルにも拭き切れていない汚れが目立っていたが。
「まだマシ?」
「うん、確かにね」
「二人とも、しーっ、よ?」
「ごめんなさぁい」
小声でフォーネに注意され、カルーフとドールは慌てて声を落とした。こんなことで侵入がバレる訳にはいかない。
暫しの後、カルーフは部屋の中にある全ての扉を施錠した。人間の出入りできる扉は勿論、割れている窓に至るまで、全てを。簡易的ではあれ、これで一先ずの安全確保は出来るだろう。
「わたし達、運良かったね」
「だね。内側から鍵を閉めてしまえば、外からの侵入なんて、割れた窓をさらに割らないと無理だからさ」
「二人とも、ワリフィリンちゃんに居場所を共有したわ。暫くしたら来るでしょう」
「ありがとうございます」
「それと、ちょっと見てちょうだい」
差し出されたフォーネのタンマツの中央には、くっきりと五時三十二分の時計が表示されていた。侵入してから情報収集に入るまで、想像以上に時間が経ってしまっている事実に、カルーフの心に焦りが滲む。
「少し悠長に動きすぎたわね。ワリフィリンちゃんを待つ間、私達も作戦の確認をしましょう」
フォーネは目を細めて、体を強ばらせているカルーフへ、そしてぼうっとしているドールへと穏やかな笑みを見せる。その様子からは、焦りなど微塵も感じられない。あまりにも心穏やかな雰囲気に、カルーフはごくりと唾を飲む。彼女のその余裕が、今の彼には頼もしく思えた。
それに比べて自分はただ、周りの状況に流されてばかりではないのか? カルーフが失意に沈みそうな頃合を見計らったかのように、全員のタンマツがブブッ、と震える。自動で電源が入った画面に表示される名は、先んじて建物の中を偵察していた彼、ワリフィリンのものだ。
《偵察を終えた。現在この屋敷にいる敵は二十人前後。全員モントリア系のヒトで、ガイディ・ヨンゼロと思われる拳銃を所持。他に目ぼしい武器はない。これより合流に向かう》
どうしたことだろうか。使える情報を前にしていると言うのに、カルーフは胸の内を針でつつかれるような痛みを感じる。ぴりぴりとしたそれを抱えながらも、安堵の息を漏らす面々に混じって、彼もまたゆるりと口角を上げて見せた。




