3-3 Agnus Dei
中央の間に入ったミシュアルが目にしたのは、石壁に背をつけて等間隔に並び、蝋燭を持つ組員の列であった。下に来ている服こそ違えど、全員揃ってミシュアルが纏っているものと同じ、紺色の布を羽織っている。
中にはミシュアルの半分ほどの背丈しかない、子どもの姿も大勢見られた。彼らのくりくりとした目はどこかぼうっと呆けており、殊更強く怪しげな印象を受ける。
「あの」
「進め」
声を掛けようとすれば、遮るように鋭い男の声が飛ぶ。びくっと跳ねた足を落ち着かせながら、ミシュアルは足早に廊下を進んだ。
長い長い廊下に、ずらりと並ぶ人間……時々、人と呼べないようなビジュアルの者もいたが、気にとめてはいられない。
指示通りに進み続ければ、やがてミシュアルの前に開けた空間が現れる。
ドーム型にくり抜かれた空間の中でも、やはり組員達は壁に背をつけ、蝋燭を持っている。唯一廊下の組員達と違うのは、纏う布の色しかない。金色……というよりも、光の加減のせいで黄土色にも見える布を纏う彼らのうち数名に、ミシュアルは見覚えがあった。
初任務で行動を共にしたシエノの傍には、犬の姿のジョンが大人しく座っている。そんな彼らの向かい側には、重傷を負ったはずのヒルバーが、ニタリと笑って立っていた。
(昨日足を潰されたのに、もう治したのか!? いくらなんでも早すぎるだろ!)
驚愕するミシュアルに、ヒルバーの隣に立つネスルが呑気に手を振る。
見知った顔にようやく落ち着きを取り戻したところで、改めて前方へと――存在感を一際放つ、黒々とした大釜へと目を向けた。
まるで異国の魔女が使うような、禍々しさすらも感じる大釜の中には、ラピスラズリ色の炎がゆらめいている。釜を囲むように立つのは、七人の影。老若男女混じる影の中心に立つのは、誰あろうバシャルであった。
「バシャルさ――」
「口を慎め。刻印の儀での私語は認めん」
「すっ! すみませんっ」
注意をしに来た老婆に、ミシュアルは頭を勢いよく下げた。その様子に、老婆は満足そうに笑みを浮かべる。そのまま立ち去るかと思われたが、老婆は依然としてミシュアルの傍に居続けた。そして、老婆はぷるぷると小刻みに腕を震わせながら、長方形のカードのような木板とペンを、ミシュアルへ差し出す。
「ここに名前を書きな。苗字まで全部だよ。念の為聞くけど、字は書けるね?」
「はい」
「終わったらペンを寄越しな」
言われるがままに、渡された木板に名前を記入していく。白っぽい木板に、いつもより雑な文字を並べて、ミシュアルはペンを老婆へ返した。
ヨボヨボと戻る老婆を見送る間もなく、バシャルが厳かに口を開く。
「その板はお前の『これまで』。苦楽を共にした親からの、最初の贈り物であり、お前の人生そのもの。そして既存の価値観とお前を、縛りつける鎖でもある」
バシャルは静かに語りながら、ゆっくりと釜越しにミシュアルの元へ近づいていく。その気迫に後ずさろうとするも、足は動かずにその場に留まっていた。
「お前は『これから』を生きる者。金よりも尊い縁を、この身共と紡いでくれることを切に願う」
「ぅっ……!?」
ふわり、と自分の右手が浮いたのは、その時であった。そのまま右手は自分の意思を離れ、鍋の上へと導かれる。ミシュアルは思わず、感覚の残っている左手で、木札をぎゅっと握った。
(手を焼かれるのか!?)
火傷したらどうしよう、と混乱するミシュアルを放って、バシャルは伸ばされた右手をとり、しっかりと握りしめる。突然の握手に驚いたミシュアルは、熱と力が入ったバシャルの手を無意識で払ったが、怒られるどころか何も反応は無い。まるで人形を相手にしているような、無機質で不気味な感覚に、ミシュアルは薄ら寒さを感じた。
「『これまで』の命を捧げ、『これから』を生きていけ。この日をもって、お前は生まれ変わる。この輝きこそが、お前の命の証だ」
仰々しいバシャルの言葉と共に、大釜の中の火は燃え盛り、熱気が肌に伝わってくる。まるで心臓のように鼓動を繰り返す炎を見つめるうちに、ミシュアルの体の内側からは、焼かれるような熱が生じる。
儀式に緊張しているからではない。先程までの気味悪さからでもない。今はただ熱くて仕方がない。体を苛む熱から逃れようと、無意識のうちに足が一歩、前に出る。
「その名と決別せよ」
促されるままに木板を釜へと放った途端、彼を襲ったのはなんとも形容しがたい喪失感であった。
空虚、と呼ぶにはあまりにも無感情で、虚無と呼ぶにはあまりにも素っ気ない。この感情は、一体なんと形容すべきなのだろうか。
あれまで楽しかった家族との、同僚達との、ナルジスとの思い出が、自意識から遠のいていく。それどころか、ナムゥだなんだと痛めつけられた記憶すら、現実味のない記憶に成り果てていた。まるで街中の喧騒を、自室から遠巻きに見ているかのような、疎外感。それが氷の如く、心と腹の内側を冷やしていく。
ふと彼が大釜の中へ目を向ければ、大釜の中央の木札が、今まさに黒く焼け崩れた。最後の灰が崩れた瞬間、自分が自分ではなくなっていくような、そんな不安が込み上げてくる。助けを求めるようにバシャルを見るも、彼が放ったのは、無感情にも聞こえる儀式の言葉だった。
「さて、まっさらな我が同胞よ。お前に『刻印』を与えよう」
そんなバシャルの声を朧気に聞く、少年の視界の片隅で、鉄製に見える棒状のものが現れた。勢いよく先端が燃え盛る炎に差し込まれ……ものの数秒で火を纏った棒の先が、彼の眼前に向けられる。これでは刻印と言うより焼印ではないのか、などと思いこそすれ、少年に問いかけるだけの精神的余力はない。
棒を拒むように、顔の前で晒した右手の平に、その先端が迫り来る。やがてトン、とまるで判子でも押すかのように、熱された先端が当てられた……が。
(あ、あれ? 熱くない?)
その瞬間、組員達の持っていた明かりも、釜で燃えていた火までもが一斉に消え、辺りに無明の闇が訪れる。その中で、バシャルの叫びがうわんと響いた。
「今ここに、新しき同胞が誕生した事を宣言する!」
暗闇の中、バシャルの高らかな宣言だけが響く。同時に、右手に押し付けられていた物が離れる気配を感じた。
「……これにて刻印の儀を終了する。皆、ご苦労だったな。とっとと本拠点へ戻れ」
その声と同時に、ぱっと視界が明るくなる。電灯が付けられたのだ。思わず目をぎゅっと瞑った彼が再び目を開けると、そこには釜も何もない、ただのドーム状の空間が広がるだけ。周りにいた組員達は、まるで魔術でも使ったかのように、バシャルを残して全員が消えている。
恐る恐る右手を見れば、そこには不思議な痕が残されていた。三日月の中心を細身の剣が貫いている、なんとも特徴的なマークだ。
「さて、ここからが本番だ」
呆然と座り込む彼の前に、バシャルが静かに歩み寄る。先程までの荘厳な雰囲気は何処に行ったのか、いつも通りの近寄り難い威圧感を取り戻したバシャルは、少年の前にしゃがみこんだ。
「今日からお前に『カルーフ』の名を与える」
「……え?」
ぽかんと口を開けた彼に構わず、バシャルは淡々と続ける。
「お前は今日から『ミシュアル』ではない。『カルーフ』だ」
「ミシュ? カル? な、何を言って――」
「これからは、そう名乗れ。前の名はもう捨てただろう?」
ミシュアル……否、カルーフの言葉を遮り、バシャルは立ち上がった。そのまま出口の扉に手をかけると、ふと振り返ってカルーフを見やる。
「お前には期待しているぞ。一日頑張って耐えてみせろ」
「ちょっ、ちょっと待ってください! カルーフ? 耐えるって何を? 一体……」
引き留めようと立ち上がりかけたカルーフだったが、既にバシャルの姿は見えなくなっていた。
「なんなんだよ、あの人は」
悪態をつくカルーフの右手に更なる変化が現れたのは、その時であった。
「うっ……!?」
まるで右手の中心がナイフで刺されたかのように、じくじくと熱く痛み出したのである。
次回より、名前変更のため、主人公の名前表記が
ミシュアル → カルーフ
になります。どうぞよろしくお願いいたします。




