2-14 静かなる脅威
目的地であるフッサム支部の建物には、何の妨害もなく辿り着くことが出来た。周囲に点在する廃墟にも怪しい影はなく、それどころか、普段よりも人の気配が感じられないほど静まり返っている。
(まあ、当然か。さっきの戦闘で、ここらのヒトは逃げただろうし)
建物の中から聞こえてくる音と言えば、風で砂が転がる、パラパラとした音だけ。まるで「早く立ち去れ」と警告するかのように聞こえたのは、ミシュアルだけではなかった。
「親方の言う通り……不自然な感じ」
「上手く説明できねーけどな」
ネスルもライカも、ようやく人の姿になれる程回復したジョンですらも、辺りの空気の不穏さに冷や汗をかく。両手にじんわりと汗が滲むのを、ミシュアルもまた感じていた。
今から、戦闘員がい人かけた状態でありながら、敵が占拠した拠点の偵察を行うのだ。
いくら安全が確保されたルートを知っていても、ミシュアルからすれば、初めての反社会的な任務だ。緊張するのには十分すぎるだろう。辺りをしきりに見回し、落ち着きのない彼を横目で見たライカが、ミシュアルの背をバシン! と強く叩いた。
「落ち着け。オレ達がここに来た目的は何だ? 偵察だろ。交戦を命令された訳じゃねー。ヤベーと思ったら逃げればいい」
「いっ……! そ、そうだけど!」
確実にアザになっただろうな、と感じるほど強い一撃であったが、お陰で意識は容易に切り替わる。荒々しいが、ライカなりの励ましであることを察して、ミシュアルの口元は緩んだ。
(そうだ、目的を忘れるな。偵察任務をしっかりやり遂げないと、あの人達は家に帰れないんだから!)
誰が指示するまでもなく、ミシュアルを先頭に、ネスルとライカが建物内へと足を踏み入れる。
残されたシエノとジョンはというと、拠点支部の入口付近にある、大きな樽の中にそっと隠れていた。侵入した彼らに何かあれば、本拠点にいるバシャルと連絡を取るつもりらしい。無言で見送る二人に、ライカは軽く手を振って応えた。
「しっかし、本当に誰もいないんだな」
ライカはボソリと呟きながらも、建物内部をぐるりと見渡す。そこはまるで十年以上経過したかのような、散々な有様であった。遮光性の弱いペラペラのカーテンで閉ざされた窓から、細々と差し込む光を頼りに進んでいく。
以前にも増して砂埃で汚れた廊下が、薄暗さの増した奥へと続いている。所々吹き飛んだドアの向こうに見える、これまた埃っぽい室内は、目も当てられない程ぐちゃぐちゃだ。だからこそ、窓ガラスが割れていないのは不幸中の幸いであった。お陰で進む足は止まらずに済むのだから。
血痕や弾痕が残る部屋から、ミシュアルは勢いよく目を逸らす。
いかにも「出そう」な雰囲気だが、ヒトやナムゥ、入り込んだ虫以外に、動きそうなものの気配はない。ミシュアルは慎重に歩みを進めながらも、時折痛みに耐えるかのように、拳を握りこんでいた。
(あいつら……こんなにめちゃくちゃにしたんだ。あの人達の大切な家を、こんなに!)
怒りを露わにするミシュアルとは対照的に、ライカとネスルの二人はいたって冷静だ。ライカは警戒しつつも、周囲を見渡している。ネスルはいつものように、ぼんやりとした表情を浮かべていたが、その瞳からは黄緑の光が宿っていた。
建物の奥に進めば進むほど、ミシュアルが歩く音と呼吸する音が、嫌に響いて仕方がない。
無言で彼らが進むこと数秒、明らかに速度が落ちたミシュアルを見て、ライカの眉がぎゅっと寄った。
「おーい、考え事はいいが、気を抜くなよ。オレ達は偵察に来たんだからな。警戒を怠るな」
「あ、ああ、ごめ……んっ!?」
ミシュアルはライカからの忠告に、ハッと顔を上げる。そして次の瞬間には、腹の底から「わっ」と大声を炸裂させることになる。
思わず口を塞いだミシュアルが凝視するのは、ライカの鼻から滴る血であった。いや、滴るなんて程度では片付けられない。鼻のどこをどう切ったのかは知らないが、栓の壊れた水道のように、ちょろちょろと流れ落ちているのだ。
「ライカ、それ、大丈夫!?」
「ん? オレはなんとも。ただちょっと鼻がズビズビするんだよなー」
「そりゃそうだろ!? 鼻血出てんだから!」
それも、ただの赤っぽい血ではない。真っ黒な血液が、彼の下顎を徐々に染めつつある現状に、ミシュアルの顔は青ざめていったのだった。
ここはもう、自分の知るフッサムの建物ではない。敵拠点と化した建物の内部なのだから、いつ何時、どこから攻撃されてもおかしくない。
分かっていたのに、こうして二人への過信が、敵の攻撃を許す隙を与えてしまった。己の迂闊さを、ミシュアルは深く反省する。
(こんなに黒い血なんて初めて見た。くそっ、こんなことなら、もっと早く気付いていれば!)
後悔先に立たずとは、まさにこの事。ミシュアルはぎりりと歯を食いしばりながら、後方のネスルへと振り返った。
「ネスルさん! 体に異常はありませんか!?」
「僕は平気」
「そんな気にするなよ、オレは大丈夫だって!」
「どう見てもライカが一番重傷なんだけど!?」
ライカは右手をぷらぷら振りながら、平然とした顔で答えてはいるが、彼の鼻血は止まらない。更には平気と言ったネスルまで、けほっと軽い咳をし始める始末である。
明らかに大丈夫ではない二人の様子を前に、ミシュアルは思わず、ヒビの入った窓へと目を向けた。
「仕方ねえ。とにかくい階まで退避するぞ! 一旦治してから、また中に戻ろうぜ!」
今度はライカを先頭に据えて、元きた廊下を引き返し、素早く階段を下って行く。この間にも毒が回らないようにと、ミシュアルはライカとネスルを覆うように、しかしコンパクトに魔術の壁を張った。
やっとの思いで、あのボロボロとした正面玄関に到着する頃、ライカの鼻血はようやく止まった。しかし二人の症状は全快とは言い難い。コンクリートがむき出しの床に座る二人に向かって、ミシュアルは恐る恐る口を開いた。
「提案なんですけど……もうこの際ですから、撤退しませんか?」
「冗談だろ? オレはまだ戦えるぜ」
「仕事内容は偵察、そうだよね? 戦うことじゃないよ」
「ミシュアルの言う通り。僕達、死んだら、終わり」
「そうだ、そうだったよな……よし、シエノとジョンと合流だ!」
任務内容が『奪還しろ』ではなくてよかったと、ミシュアルはホッと胸を撫で下ろす。どこかふらついた足取りながらも、正面玄関から出ようと、古びた大扉のノブに触れた――その時。
バチン!
「へ?」
突如目の前で弾けた火花のような光に、ミシュアルの意識は急速に現実に引き戻される。その音の発生源は、紛れもなくこの扉であった。ミシュアルは慌てて扉から離れ、恐る恐るノブに手を伸ばす。だが、またしても。
バチィッ!
今度は先程よりも強い衝撃音が、ミシュアルの手を襲った。強く叩かれたような痛みに、ミシュアルはいよいよ伸ばした右手を引っ込め、胸へと抱え込んだ。
「なんだこれ、攻撃か!?」
「ミシュアル、待って。魔術で封、されちゃってる」
「封? ですか?」
ネスルは扉をまじまじと見つめて、時折頷くような素振りを見せる。
「多分、外からはいるのは、いい。でも、中からは出られない。そういう魔術が、かかってる」
「それなら、外にいる二人に開けさせたらどうだ!? タンマツで連絡を――」
「それも、ダメっぽい」
ネスルはふるりと首を横に振ると、徐にタンマツを取り出してみせる。その画面の右上に、小さな字が残酷に映し出されていた。
『通信圏外』




