表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
罪果てのアルカ  作者: ミケイラ
序 最悪な誕生日
3/70

0-3 生存の壁

 彼の生存意欲に火がついたのは、風がいっそう冷たくなった頃のこと。ガラスに映る瞳は相変わらずの光量であったが、飛び散る光の勢いは衰えていた。あと数時間で、日付が変わる。それだけがミシュアルの心の支えであった。


(何諦めてんだよ、俺! やってしまったことは取り返しのつかない事だ。今やることは悔やむことじゃなくて、日付が変わった後の行先だ! 幸い、ここら一体なら、誰の目に付くことなくヤラナン地区から別の地区へ行ける!)


 パン! と自らの両頬を叩き、ミシュアルは徐に立ち上がる。伸びた膝の裏と己の頭が、すうっと冷えていく感覚が心地いい。今日初めて作った笑顔には、仄かな自信が宿っていた。


(それにしても、裏路地ってこんなに静かなんだな。また目がこんな風になったら、ここに逃げ込めば……人の目をやり過ごせそうだ)


 彼の不幸中の幸いは、逃走劇を繰り広げたのが、自らの出身地だったことだろう。彼の出身地であるフッサムは、信仰をしている暇があるなら金稼ぎに勤しむほど貧しく、トゥラーゾ神への信仰心が薄い。ましてやフッサムのあるヤラナン地区は、教会が少ないが故に、信仰心に個人差のある地区だ。他の地区ならば、今頃死んでいたかもしれない、とミシュアルは想像して、外気とは別の寒気に身体を震わせる。ナムゥにとって、出身地は死活問題に直結するのだから、これは幸運としか言いようがない。


 もしも彼の生まれた所がここでなければ、早速『彼は死んだ』の言葉で、この話が終わっていた恐れもあったのだから。


 ――だからといって、完全に死の危険から逃れた訳では無かった。他殺の危機からは逃れたが、厄介事は容赦なく襲ってくるものである。


 次にミシュアルを襲ったのは、ぐう、と鳴る腹の虫であった。腹に力を込めてひっこめてみても、摩ってみても、これがどうにも鳴り止まない。ここに来て初めて、ミシュアルは己の飢えを、腹の痛みを以て知った。


(そういや今日、何も食べてないや。水は……どんな仕組みなのかはわからないけど、飲みたければ指から水鉄砲みたいに出るから、威力以外はそんなに困ってないけど。食糧(これ)、どうしたもんかな)


 最終手段はカフェの裏口から不法侵入、そして強奪……まで、鬱々と考え込むミシュアルは気付かない。背後から近付く人物、その存在に。

 カチャ、と不意に鳴った金属音で、ミシュアルはその場から飛び退いた。他人の接近を許したことに、今日一日で嫌という程叩き込まれた『人間不信』が、続けざまに体を固く緊張させる。


 ――そして、その人物が持つ拳銃に、ミシュアルの目は見開かれた。


「その光る瞳……やっぱりナムゥだ。へへ、こういう時間にこんな所にいる奴ってのは、ナムゥに決まってんのよ。おっと動くな、腹にへそ以外の窪みが出来るぞ。痛えのがずーっと続くのは嫌だろう? こっちは殺す気なんざねえんだ、大人しくしてくれよ?」


 黒い布を纏っているせいで、詳しい外見は分からない。しかし発せられた声は明らかに、怒鳴り慣れて(しゃが)れた、中年の男のそれであった。

 そんな男の持つ拳銃は、僅かな街灯の灯りを受けて、金属質に照り輝いている。銃口はと言えば、ミシュアルの心臓よりもはるか下、丁度へその辺りに向けられていた。


 急所を外れているとはいえ、銃口がこちらに向いているのだ、恐怖ですくみ上がるのも無理はない。何せここは裏路地の深部な上に、後ろは壁で行き止まりだ。


 ミシュアルの浅くて荒い息遣いが、臭い裏路地に広がる中、別の喘鳴が聞こえてくる。ぜえ、ぜえと駆け込んで来たのも、同様の黒い布を纏った長駆の男であった。


「まっ、待ってくださいよ、って……お〜! 流石先輩! 例のナムゥ、追い詰めたんスね!?」

「バァカ! いいから早く縄かけろ、縄! 多少荒くてもいい。魔術(シーガ)なんざ、成り立てはろくに使えねえだろうしな!」

「了解っス!」


 近付いてくる長駆の男に抵抗しようにも、拳銃がミシュアルの動きを制する。そんな彼が出来ることと言えば、声の限り相手を拒絶するくらいであった。


「止めろ、来るな! 来るなってば!」

「チッ、うるせえなこいつ! おい何やってんだ、手だけじゃなくて口も塞げよ! 早く!!」


 長駆の男の返事すら聞こえない程、ミシュアルは叫ぶ。来るな、と拒絶する声は、やがてただの絶叫へと変わっていた。


 手首を縛られ、いよいよ男のカサついた手が、ミシュアルの開いた口へと伸びる。


「来るなって、言ってんだろッ!!」


 より一層の大声とともに、ミシュアルの瞳はバチバチと光を散らす。タンジェリンオレンジの瞳から飛び散る光は、火をつけたばかりの線香花火のように、繊細ながらも苛烈なものであった。自分が発した光の眩しさに、ミシュアルは思わず目を瞑る。


「このっ、大人しく、うおっ!?」

「ぐおあっ!!」


 パァン! と頬を盛大に平手打ちしたような音がした。同時に、自分の周囲から、あの忌々しい男二人は消えていた。いや、消えているのではない。どういう原理かは不明だが、地面に大の字になって伸びているのだ。

 向けられていた拳銃は男の手を離れ、遥か先の街灯の下に放られていた。これならば、動いても撃たれる心配はない……男から直接暴力を振るわれる心配も、ない。だが、ミシュアルはガクガクと体を震わせていた。


「へ、え……? なんで、倒れて」


 恐る恐る男達を足先でつついてみれば、男達からの反応はない。屈んで耳を近づければ、息すらもしていない。特に中年の男は、打ちどころが悪かったらしく、口から血混じりの泡を吹いていた。


「ど、どうしよう。どうしたら……」


 困惑するミシュアルの鼻腔に、寒風に乗ったレザーの香りが、ふわりと微かにやってきた。どこか退廃的に香るそれは、明らかに男性物の香水の匂いである。

 途端にミシュアルは焦り出した。新手の接近に、一切気が付かなかったのだ。動転していたからと言えど、足音も気配もなく、近付かれたら……それは驚くに決まっている。


 ひっ、と息を詰めて、ミシュアルは伸びた中年の男から飛び退いた。この男達の仲間だろうか、それとも、騒音が気になってやってきた、街の住民だろうか……なんて不安は彼の体を強ばらせ、膝だけが大袈裟な程笑っていた。


 恐る恐る、ぎこちなく。ミシュアルは、香りのした方へと顔を向ける。そこに足を肩幅ほどに広げて立っているのは、目元から弾ける『光』を携えた、エメラルドグリーンの瞳を持つ男であった。ミシュアルが声を発するより早く、男の低い声が、静かに鼓膜を震わせる。


「うるせえと思ったら……何だ、これは」


 歩み寄る男が、やがて該当の明かりに照らされる。その姿は、まるで彫刻が生きているかのような、暗褐色の肌の美青年だ。そんな彼が見据えるのは、ミシュアルの向こうに倒れる男達であった。


 こんな状況下においても、彼は冷静である。青年は倒れた男達の観察を始める。彼の纏う、シャツワンピースに似た民族衣装の裾が、臭い風に揺らされてはためく様は、否応なしにミシュアルの目を惹きつけた。


(良かった。このヒトは、あいつらの仲間じゃない。全身を覆う黒い布なんか、持っていない)


 内心ほっとしたミシュアルの目は次に、同じような光を散らす、青年の瞳へと向けられた。


(このヒト、右目が見えないけど、左からは光が散ってる。ナムゥ? 俺と同じ?)


 放心しているミシュアルを気にもせず、青年はミシュアルを無視しながら、男二人の黒い布を剥ぎ始めた。バサッ、ベチャッ! と剥がれた布が、汚水に浸る音がする。その音にようやく正気を取り戻したミシュアルは、青年の挙動を邪魔しないように、そっと路地の隅へと避けた。


「ああ、こいつら、例の(・・)奴隷商人か。しかし撲殺とは……お前、中々やるな」

「ぼくさ……え?」

「とぼけるなよ、よく見てみろ」


 こいつら、もう死んでいるぞ。


 その気はなかったと言えど、他人の命を奪ったという直視したくない現実が、容赦なくミシュアルに襲いかかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ